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連載

東田直樹の絆創膏日記 vol.37

【連載第37回】東田直樹の絆創膏日記「雲の上の夏休み」

東田直樹の絆創膏日記

自閉症の僕が 跳びはねる理由』の作家・東田直樹さん。人とは違うこだわりや困難を持ちながら過ごす25歳の日常生活で、気づいたことや感じたことを、初の公開日記で綴ります。思いがけない発想に目からウロコ…!?
>>【連載第36回】東田直樹の絆創膏日記「言葉の隅っこに耳を澄ませて」

 僕は、小さい頃から書くことが好きだった。
 文字が目に飛び込んで来ると、なぞらずにはいられない。書こうとしても鉛筆がない時には、空中にまで文字を書いていた。
 目に映った文字を脳が記憶しようとするのである。定着させるためには、書いて覚えなければならないのだ。一回書いたら、すぐに次の単語に移る。そうした方が、たくさんの単語を覚えられるからだ。
 空中に文字を書いている時の気分は、それほど楽しいわけではない。どちらかというと大変である。試験の前日に一夜漬けで英単語を覚えているみたいな気分なのだ。覚えなければいけない単語は、山のようにある。
 文字を書いている間、僕は文字しか見ていない。
「前を見ないと危ないよ」と叱られるけれど止められない。だから、急いで指を動かす。
 町の中には、言葉があふれていた。僕は看板や置いてある商品からも言葉を拾った。難しい漢字も難なく覚えられた。言葉が僕の友達だった。
 僕は喋れなかったので、人といるより文字といる方が気が楽だったのである。
 それではいけないと、みんなは何とかして、人に関心を持つよう僕に働きかけてくれた。でも、僕は変わらなかった。いや、変われなかったのだ。
 そんなこんなでここまで来たが、今は言葉と同じくらい、人に興味を持っている。あきらめず、幼い僕に愛情を注いでくれた人たちのおかげだと感謝している。

 夢をあきらめることと、あきらめないことは同じ心境なのではないだろうか。
 両方とも、開き直らなければ出来ないからだ。
 開き直るということは、自分の欲を捨てることなのだろう。だから、開き直った人は強いのだと思う。
 あきらめることが悪いこととは言い切れない。
 誰でも、自分の望みの全てを叶えられるわけではない。みんなどこかで挫折したり、妥協したりしているはずである。
 夢をあきらめることで、何かが変わる。別の目標を持ったり、自分についての新たな一面を発見したりする。
 あきらめない人も目標を達成するために、犠牲にせざるを得ないことがあるだろう。 
 開き直るという心境は、正面から風を受けながら空を見上げ、雲ひとつない青空に向かい、好き勝手に叫ぶ、誰もいない草原の真ん中にひとりたたずみ胸を張る、まさに、そういった気持ちではないのか。
 もう、怖いものはない、このまま自分らしく生きて行こう。こんな風に思えることが大事なのかもしれない。
 あきらめない人だけが勝者ではないと思う。
 何かをあきらめても、あきらめなくても、歩むべき道は続いていく。
 今いる自分の場所が、狭い道の上ではなく、広い大地の真ん中だとわかれば、どこに進むかの選択肢は無限にあるのだ。
 これからの自分の可能性を信じられる人こそが、真の勝者なのだと思う。

 子どもたちは、いよいよ夏休みである。きっと、うきうきしているに違いない。
 僕が子どもの頃も、夏休みが楽しみだった。学校に行かなくてもいいからである。大人は夏休みになると、生活がくずれるとか、時間を持て余すのではないかと心配するが、そんなに悪いことばかりではないと思う。
 夏休みの毎日は、ゆっくりと時間が流れた。
 セミの声と入道雲、風に揺れるひまわり、そしてプールから聞こえる子どもたちの笑い声。
 夏にしか見ることの出来ない風景に、僕は魅了された。
 どこにも出かけない日は、自由を満喫した。
 部屋の隅に引きこもり、ぶつぶつと意味のない独り言をつぶやく。僕がケタケタと笑い出すと、何が楽しいのだろうと、みんなは心配そうに僕を見た。楽しいというより、これが本当の僕の顔だったのかもしれない。
 誰にも気を使わず、自分らしくいられる時の方が、僕はよく笑っていたのではないだろうか。
 幸せだから笑えるのだ。
 夏休みは、予定がはっきりしていないところが少し不安だったが、別にそれが嫌だとは思わなかった。
 何も予定がない日、僕はふわふわと雲の上にいるみたいな気分だった。けれど、その不安定感を楽しむゆとりを、僕の脳は必要としていたのだと思う。
 だらだらと過ごす夏休みは、僕にとって満たされた時間だったのだ。
 学校に通うことは大変で、僕の瞳が涙でにじむこともあったが、あの頃の僕がいたから、今の僕は存在している。
 子どもたちの夏休みが、楽しいだけではなく、十分な休息の時間となることを願っている。

 自分の年齢を自覚するのは、意外と難しい。
 何歳になったのかは、数字の上ではわかっていても、改めて写真に写った自分の姿を見て、もうこんな年齢になったのかと、がっかりしている人も結構いる。
 25歳の僕もそうである。
 最近の自分の写真を見ても、僕だという自覚はあるものの、どこかのお兄さんが写っている感覚なのだ。
 僕って、こんな風だったかなと、ぼんやり考えてしまう。
 時間の流れとしては遠い過去になるにもかかわらず、数年前に写った写真の方が自分らしく感じる。毎日鏡を見ているのに、どうしてなのか不思議だ。
 年を取ると成熟する。若い頃は、いろいろな意味で未熟なのだ。それでも若さには、何物にも代えがたい魅力がある。
 20歳前後が一番希望に溢れ、輝いている時代なのかもしれない。生きるためのエネルギーが満ち溢れているからだ。そこから離れれば離れるほど、外見は変化していく。年を取るからである。けれど、心はそれほど変わらないのだと思う。
 外見と心の差を埋めようとするせいで、数年前に写った写真の方が、今の自分に近いような錯覚に陥る。
 あるがままの自分の姿を認めるにも、人の心には理想と現実の歩み寄りが必要なのだろう。


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