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連載

綾崎 隼「盤上に君はもういない」 vol.22

【連載小説】アンリの息子と再会した夕妃の真実は――。 棋士の頂を目指す者たちの静かで熱い青春譜‼ 綾崎 隼「盤上に君はもういない」#5-4

綾崎 隼「盤上に君はもういない」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 再会後、アンリはあと何回戦えるか分からないからと言って、私との対局を、すべて棋譜に残し始めました。
 私の名前として登録された『Y』に、ようやく黒星をつけた夜、彼は、本当に嬉しそうでした。負けはいつだって悔しいものです。その対局だけで良いから棋譜を消してと頼んだのに、結局、彼がそれを消してくれることはありませんでした。
 肺と心臓を病む私たちにとって、人生は厳しく、そして、短いものです。
 アンリの容態が再び悪化したのは、結婚して、わずか二ヵ月後のことでした。
 妻を認めなかった母には、もう会わない。以前の病院には戻らない。
 アンリの意志は固く、再度の入院生活は別の病院で始まりました。
 そして、その時は、病室で、何の前触れもなく訪れました。
 結婚して以降、私は彼とフランス語で話すように努めていました。そんなこともあり、日本のニュースサイトにアクセスすることは、少なくなっていました。
 だから、それは本当に偶然だったのです。私が日本のニュースを見ていたから、アンリが気付いたわけではありません。日本で話題になっていた出来事が、フランスでも報じられたせいで、彼が知ることになりました。
 日本の将棋界で起きていた事件、史上初の女性棋士の失踪です。
 妻の名前をニュースの中で見つけても、アンリは当初、半信半疑だったそうです。
 十六年の歳月を経て、再会した女性は、自分よりも遥かに強くなっていた。しかし、妻は一度として、自分が棋士になったなんて話はしていません。
 にわかには信じられなかった。誰かが手の込んだ悪戯いたずらでもしているのではないかとも思った。しかし、何度見直してみても、それはれっきとしたニュースサイトの一記事でした。
『小学生の頃、病院でよく遊んだ千桜夕妃です。あなたに伝えたいことがあります。招待しますので、日本にいらっしゃいませんか?』
 再会のきっかけは、私からのそんな手紙でした。
 私はデビュー戦の日を境に、姿を消しています。その対局の日付は、私が彼の前に現れた日の前日でした。そして、それから五ヵ月という月日が既に流れていました。
 率直に言って、アンリには理解出来なかったようです。
 棋士になることは、少年時代の彼の夢でした。
 家庭の事情でフランスに戻った後も、アンリはその夢を忘れられませんでした。インターネットを使って将棋を指し続けたのも、いつか日本に戻り、棋士を目指すためでした。
 しかし、アンリは身体に問題を抱えていました。冬でも温暖なニースの地を離れ、寒さの厳しい日本に戻ることは出来なかったのです。どうにもならない幾つもの理由で、アンリは夢を断念しています。しかし、幼い日の友人は、夢を叶えていました。
 私が棋士だったことを知ってから、アンリは日本のニュース記事を貪るように読んだそうです。
 女性棋士の誕生は、センセーショナルな出来事でしたから、私についての記事を彼は幾らでも読むことが出来ました。棋士になるまでの経歴も、そこで知ったようです。
 アンリは誰にも相談出来ないまま、三日三晩悩んだそうです。
 それから、彼は見聞きしたニュースを私に告げました。
「夕妃は日本に帰るべきだ。君は僕が目指せなかったものを目指して、夢を叶えた。それなのにその権利を捨てて、ここにやって来た。再会出来たことも、結婚出来たことも、嬉しい。僕は君を愛している。だけど、君がいるべき場所はここじゃない」
 その時、私は結婚して初めて、アンリに怒りを覚えました。怖いくらいに引きつった顔で彼を睨んでしまい、やはり初めてとなる言い争いをしてしまいました。
「私にはあなたという家族がいる」
「なら僕も日本に行く。日本で君を支える」
「分かり切っていることを言わないで。あなたの心臓はフライトに耐えられない」
「それなら僕が死んだ後で……」
「冗談でも死ぬなんて言わないで!」
「君はこのまま僕と一緒にいて、棋士として一番良い時間を無駄にするのか? そんなことをして、本当に僕が喜ぶと思っているのか?」
 正論は痛いです。
 正しいことを、そんな目で口にしないで欲しかった。
 分かっています。アンリが怒る気持ちだって、十二分に理解出来ていました。
 それでも、私は選んだのです。
「そんなに簡単に捨てられるものだったのか? 僕たちが憧れた棋士は、泣きたいくらいになりたかった棋士は、そんなに軽いものだったのか?」
「違う」
「じゃあ、どうして逃げたんだよ」
「逃げてなんていない。二度とそんなことを言わないで」
「君は棋士として生きるより、僕に会うことを選んだんだろ。それは事実だ」
「違う。事実じゃない」
「事実だよ。棋士になることはゴールじゃない。君はまだ何も成し遂げていないじゃないか。夕妃は将棋と愛をてんびんにかけて……」
「私は将棋とアンリを天秤にかけたわけじゃない。お願いだから、誤解しないで。あなたに誤解されるのは耐えられない。私はただ、あなたと将棋が指したかったの。私は将棋を愛している。そして、私が一番、将棋を指したかった相手は、あなただった」
 アンリの指摘は、正しいようで間違っていました。
 渡仏するために、棋士としての人生を諦めたのは事実です。ですが、将棋と愛を天秤にかけたわけではありません。私は対局相手を選んだだけです。それを理解していたから、師匠は快く私を送り出してくれたのです。
「それが私という人間だった。それだけのことよ。後悔はない」
 私が心の奥底で本当は何を考えていたのか、すべてを悟った後で、
「でも、それなら、やっぱり日本に戻るべきだ」
 アンリは再び、そう告げました。
「あなたはここから離れられない。あなたのいる場所が、私のいる場所よ」
「だけど、君は棋士だ。戦いたくないのか?」
 どうして、夫はそんなことを問うんだろう。不思議でした。
 私がうそをつけない人間だと、彼は知っているのです。
「戦いたくないわけないでしょ」
「だったら!」
「それでも選んだのよ! 私はあなたと将棋を指す人生を選んだ!」
「それはもう否定しない。君と結婚出来て、僕は本当に幸せだった。だけど、状況が変わったことも事実だ。幼い頃、僕らは突然、会えなくなった。それからずっと、もう一度、二人で将棋を指す日を夢見てきた。叶っただろ? 僕らが子どもの頃に抱いていた夢はもう叶ったよ」
 再会してから、何百局、指したでしょう。
 再会後、私たちが対局しなかった日はありません。
 私と指すことで、アンリはどんどん上達していきました。しかし、アンリが強くなればなっただけ、私もまた強くなります。二人の実力差は縮まっていません。
「今すぐ日本に帰れなんて言わない。僕には君が必要だし、夕妃の気持ちも分かった。だけど、約束してくれ」
 楽しかった将棋の時間は、幸福だった二人だけの時間は、もうすぐ終わってしまいます。悲しいけれど、それは私にも理解出来ていました。
「僕が死んだら、その時は思い出してくれ」
「だから、あなたが死んだ後のことなんて私は!」
「二人の夢を叶えて欲しい。君には、君にしか選べない、君だからこそ選べる人生がある。僕や棋士を目指した何万人という子どもたちが選べなかった人生がある。竜皇になるんだろ? そう約束したじゃないか!」
 二人の夢を叶えて欲しい。
 そんな風に言われたら、もう嫌だなんて言えませんでした。
 竜皇。それは子どもの頃に描いた、無謀かもしれないけれど最高に素晴らしい夢です。
 アンリは私がそれを目指す姿が見たかった。
 私に夢を追って欲しかった。そういうことだったのだと思います。

 誰にも終わりはやってきます。
 あらがっても、どれだけ知恵を絞っても、人は死に勝てません。
 再入院から三週間後、アンリはその短い生涯を終えることになりました。
 あつなく、まるでそうなることが必然のように、彼は静かに眠りにつきました。
 夫の死を覚悟したタイミングで、私はアンリの母に連絡を入れました。
 病室に現れ、変わり果てた息子を見た義母は、いきなり私の頰を引っぱたきました。
 不思議と痛みは感じませんでした。叩かれた勢いで転び、腰を強打しましたが、痛みよりも、これは自分への報いなのだという気持ちの方が強かったのです。
 ただ、誰かが、誰かを愛しただけなのに。
 どうして命は儚く、人生はこんなにも上手くいかないんでしょう。

 夫の葬儀に参列することを、私は許されませんでした。
 悔しさは感じませんでした。
 夫が死んだことに対する喪失感だけで、胸がいっぱいだったからです。
 怒りも、憤りも、ありません。ただ、空虚な思いに支配されていました。
 たった二ヵ月だけアンリと暮らしたアパートに、哀しみだけが降り積もっていきます。
 僕が死んだら、二人の夢を思い出して欲しい。そう懇願されていたのに、将棋盤を前にしても、頭が働きませんでした。
 咳が止まらない。肺が痛い。
 荷物を整理し、帰国のためのチケットを取ったものの、長時間のフライトに耐えられる気がしませんでした。
 そして、感じたことのない吐き気に不安を覚え、駆け込んだ病院で知りました。
 妊娠していました。身体の中に、アンリの忘れ形見が宿っていたのです。
 何かが変わる予感がしました。
 アンリが死んだその瞬間から、世界は暗闇に覆われてしまったのに。
 沈黙と、失望と、孤独が飽和していた部屋に、小さな希望の火がともった気がしました。
 こんな身体で、妊娠中の身で、長時間のフライトは難しい。
 帰国を諦め、私はニースでの出産を決意しました。

 生と死をかけた出産を経て、誕生した息子に、私は「アンリJr.」の名を与えました。
 アンリの忘れ形見を、同じ名で呼びたかったからです。
 落ち着いたら、体力が回復したら、二人で日本に帰ろう。
 驚かせてしまうことになるだろうけれど、師匠と頼子さんなら、何があっても受け入れてくれるはずです。そういう確信がありました。
 子育てをしながら、私はインターネットで対局を続けていました。
 日本との時差のせいで、強い人間とはなかなかマッチング出来ませんが、研鑽は積んでいました。将棋の腕はなまっていないはずです。

 私の人生に再びの転機が訪れたのは、息子の誕生から三ヵ月後のことでした。
 出産を経て、限界まで消耗した体力も回復しつつあります。
 もう少し体調が落ち着けば、帰国出来るかもしれない。そんなことを考え始めた折、突然、息子と暮らす安普請のアパートに、義母が現れました。
 作ったように殊勝な顔で現れた義母は、結婚に反対したことを謝罪し、孫に会わせて欲しいと懇願してきました。
 妊娠したことも、出産したことも、義母には伝えていませんでした。孫が生まれたと知れば、何をされるか分からないと思っていたからです。
 広いようで狭い街です。私たちを見かけた知り合いにでも聞いたのでしょう。
 既に私は帰国を視野に入れて準備を始めていました。義母は婚約した時や、夫が死んだ時の態度が噓のように穏やかな顔を見せていましたが、私たちが日本に帰ると知れば、態度が激変するかもしれない。
 怒り狂った義母は、話の通じる相手ではありません。
 慎重に物事を運ぶ必要がある。
 最初から警戒していたのに、不安は最悪な形で的中することになりました。
「私がこの子を見ているから、少しお昼寝でもしてきなさい」
 優しさに甘えるべきではなかったのです。
 決して、油断などしてはいけなかったのに……。
 目覚めると、義母は息子と共に姿を消していました。
 義母は私を許していたわけではなかったのです。初めから話し合うつもりも、関係を再構築するつもりもなかった。力尽くで孫を奪うつもりでした。
 義母の家を訪ねても、息子は取り戻せませんでした。
 会うどころか問答無用で警察を呼ばれ、話し合いにすら応じてもらえなかった。
 義母は悪魔のごとき執念深さで、用意周到に準備をしていました。
 息子はしようにたぶらかされて家を飛び出し、野垂れ死んだ。孫は虐待されている。
 創作された話が、近隣住民、親族、警察に流布されていたのです。
 人種差別の目にさらされることは、それまでにもありました。ただ、あれほどまでに話が通じないなんて、想像も出来ませんでした。この地で東洋人であるということが、どういう意味を持つのか、私は今度こそ本当の意味で思い知ったのです。

 愛する子は、自分の命よりも大切な存在です。
 私は戦いました。息子を取り戻すために出来ることはすべてやりましたが、たった一度の再会すら叶いませんでした。義母は息子を自宅以外の場所に隠しており、それを突き止めるすべを、私は持ちませんでした。
 半年にわたる何の手応えもない戦いを経て、弁護士にさじを投げられた時、私は絶望と共に現実を理解しました。
 この地で、日本人の自分が、居場所も分からない息子を取り戻す方法はない。
 心を病めば、身体も病みます。
 肺が悲鳴を上げていました。とっくの昔に体力は限界を通り越していました。
 頼れる人も、すがれる人もいない地で、私は自分が死の淵にいることを悟ったのです。
 アンリの後を追えば、楽になれるんでしょうか。
 息子のいないアパートで、一人、将棋盤を前に、死を考えました。
 しかし、終わりを覚悟したその時、頭の片隅で彼がささやきました。
『僕が死んだら、その時は思い出してくれ。二人の夢を叶えて欲しい。君には、君にしか選べない、君だからこそ選べる人生がある。僕や棋士を目指した何万人という子どもたちが選べなかった人生がある。竜皇になるんだろ? そう約束したじゃないか!』
 二人の夢を叶えて欲しい。
 ああ、そうだ。それが、あの人が私に託した最後の願いでした。
 私には、私にしか選べない、私だからこそ選べる人生があります。
 千桜夕妃は棋士です。
 盤上で戦うことを許された戦士なのです。
 絶望したくらいで死んで良いはずがない。こんなところで終わっていいわけがない。
 愛する者を奪われても、血を吐いてでも、夢を追う。
 それが、私の将棋への忠誠でした。

 日本行きのチケットを取り、部屋の後片付けを終えると、荷物はたった一つのキャリーケースに収まりました。息子を奪われた今、持ち帰りたい物などなかったからです。
 帰国の前に勇気を振り絞り、再度、義母を訪ねました。
「日本に帰るので、最後に一度だけ話を聞いて欲しい」
 そう伝えると、私が諦めたと知ったのか、義母は数ヵ月振りに姿を現しました。
 憎しみと侮蔑の入り交じった瞳が突き刺さり、心が芯から冷えました。
 もしもこの人と上手くやれていたら、どうなっていたんだろう。考えても仕方のないことを思ってしまうのは、人の弱さゆえなのでしょうか。
 私と義母の道は、初めから一度として交わることがありませんでした。それでも、彼女はアンリの母で、息子の祖母です。
 あの子が大きくなったら、これを渡して欲しい。そう言って、持ってきたノートパソコンを差し出しました。
「あんたの物なんて全部燃やしてやるわ。汚らわしい」
 取り付く島もありませんでしたが、それが夫の形見であると告げると、義母の態度は軟化しました。
 アンリは十代の頃から将棋ノートをつけていました。そのノートパソコンの中に、すべての記録を残していたのです。
 将棋は思考のゲームですから、記録を読めば、父がどんな人間だったか、知ることが出来ます。帰国する私が、子どものために出来ることは、もう何もありません。だけど、せめて父親のことくらいは伝えたかった。
 物心がついたら息子にこれを渡して欲しい。最後に、義母にそう頼みました。

 選ぶということは、捨てるということなのでしょうか。
 棋士として生きるために、息子を諦めたわけではありません。
 ですが、結果として、そういうことになってしまいました。日本に帰れば、もう永遠に息子とは会えないでしょう。
 それでも、夫との約束を果たすため、新しい人生を歩き始めることにしました。
 帰国後、目立たない地方都市で病院を探し、手術を受けました。
 慣れない異国での生活と、精神的な疲労で、身体はボロボロになっています。
 もう一度戦うなら、心だけでなく肉体も整えなければなりませんでした。
 二年半にわたるフランスでの生活を終えた後、私が帰国の一報を入れたのは、師匠と、ニースの住所を教えてくれた観戦記者の藤島さんだけです。
 手術を受ける旨を伝えたからか、藤島さんはすぐに四国まで訪ねて来てくれました。
 見た目も口調も変わらず、いつものように軽やかに笑いかけてくれる彼に、一つの質問をしました。
「私が失踪した理由を、どうして記事にしなかったんですか?」
 奨励会時代から応援してくれていた唯一の記者が藤島さんです。しかし、私はそんな彼の期待を裏切り、日本を飛び出してしまいました。
 棋士について書くことが記者の仕事ですから、彼になら何を書かれても仕方ないと思っていました。しかし、失踪以降も核心に触れる記事は一度として出ませんでした。
「戦うためには、止まらなきゃいけないこともある。あんたは病気で何度も後退を余儀なくされた棋士だ。それでも、めげずに立ち向かい続けた。今回も同じだと思ったのさ。あんたは戦うことを誓った女だ。絶対に帰って来る。そう信じていた。俺はもうすぐ引退だが、余生はあんたの将棋を見ながら過ごすって決めている。お帰り。ずっと待っていたよ。これからのあんたの活躍を信じている」
 自分が不運な女なのか、幸運な女なのか、私は今でも分かりません。
 こんな身体に生まれなければ、千桜家に生まれなければ、自分が日本人でなければ、そんなことを思った夜は数え切れないほどあります。
 だけど、やっぱり出会いにだけは恵まれていました。
 今も、昔も、私はずっと、信頼出来る人たちに支えられています。

 子どもの頃、将棋に興味を覚えたきっかけはアンリでした。彼と指すことが楽しかったし、毎晩、一人で勉強していたのも彼を負かすためでした。
 離れ離れになり、棋士を目指し始めた時も、動機は半ばアンリだったように思います。彼と再会するために、自分を見つけてもらうために、プロを目指しました。
 しかし、いつの間にか、すべてが変わっていました。
 結婚し、出産も経験した今なら、断言出来ます。
 将棋が好きです。私は将棋を指さずには生きられないのです。

 私は将棋を愛の戦いだと思っています。
 この世で最も相手を想い合うゲームだからです。
 極限の戦いで勝つには、誰よりも相手を深く理解しなければなりません。
 相手を理解し、相手が一番嫌がる手を指さなければなりません。
 相手を想い、想うが故に追い詰める。矛盾するような心の戦いに私は囚われました。
 だから、その覚醒も必然だったのかもしれません。
 棋士として再出発してから数ヵ月後、ある日の対局中、不意に、アンリの囁きが聞こえました。
『3四飛車の不成』
 それは、私の思考の中にまったくなかった手でした。
 ずっと、将棋とは二人きりの遊戯なのだと思っていました。ですが、それは正しいようで、間違っていた。
 二十九年の人生で、私が誰よりも想った相手がアンリです。
 いつしか彼が、頭の片隅に住み着いていました。
 棋士としての彼が、私の中で呼吸していたのです。
 彼が、夫が、指す手なら分かります。
 望めば、いつでもアンリのように指すことが出来る。
 将棋盤を前にした時だけは、一人じゃない。
 目を閉じれば、いつでもそこにアンリがいました。
 それから、私は時々、彼に頼るようになりました。
 難解な局面、追い込まれた局面で、無意識の内に、アンリならどう指すか、彼ならどう戦うかを考えるようになったのです。

 三年間の欠場でC級2組からフリークラスに転落していましたが、幸運にも一年で、復帰の条件を満たすことが出来ました。
 昇級を果たした後、幼い頃からの夢、竜皇戦のことばかり考えるようになりました。
 竜皇戦はある種、独特な棋戦です。女流棋士やアマチュアのトップも参戦出来るため、間口が広く、その一年だけ世界で一番強ければ、棋士でなくても戴冠出来るからです。だからといって、番狂わせが起きやすいかと言えば、それもまた違います。
 竜皇戦の『予選』は1組から6組まで分かれたトーナメントになっていて、強い棋士であればあるほど、必要な勝利数が少なくなっています。
 将棋界には八つのタイトル戦のほかにも一般棋戦が存在します。
 個性豊かな対局形式の大会が幾つもあるため、それぞれに異なる対策、研究が必要になりますし、人によって重視するタイトルも変わってきます。
 私は復帰した日から、一貫して竜皇を目標としていました。
 諏訪さんが飛王を目指し、四時間の将棋に強くなろうとしたように、私もまた、竜皇ランキング戦の持ち時間である、五時間の将棋に強くなろうとしました。
 早指しをやめた理由も、そこにあります。持ち時間が九十分の奨励会では、早指しで相手にプレッシャーを与えることが出来ました。ですがプロ入り後は自らの首を絞めかねない。時間があるからこそ効果を発揮する、そういう力を手に入れる必要があったのです。
 竜皇戦の予選は、一度負ければ終わりのトーナメント形式です。
 挑戦者決定戦までは絶対に負けられない戦いが続きます。
 長期間にわたる戦いでは、集中力を維持することが難しい。指し続けても疲れない体力と、勝ち運に乗って一気に突き進む勢いが必要でしたし、そういう意味では、伸び盛りの若手にとって有利な大会とも言えました。
 子どもの頃から憧れ続けた棋士たちは、想像以上に強かった。
 けれど、抱いていた不安以上に、私自身も強くなっていました。
 竜皇ランキング戦の前に、体調不良の予兆が見えた際は、無理せず、早めの欠場を決断するようにしました。一年を通して、ピークがランキング戦の時期にくるように、調整もしていました。時には順位戦を犠牲にしてでも注力しました。
 そして、棋士になって八年目。
 三十五歳にして、ついに竜皇戦挑戦者の座に辿り着きました。
 私を迎え撃ったのは、二十三歳にして現役最強の五冠、竹森稜太名人です。
 竜皇戦は三勝三敗となり、最終局にまでもつれ込みました。
 そして、両者秒読みの死闘の果てに、私は竜皇となりました。

 夢を叶えたその日。
 対局場まで足を運んでくれた師匠と頼子さんは、私の勝利が決まった瞬間、泣きながら抱き合い、祝福してくれました。
 私が四段昇格を決めた時は平静を装っていたのに、タイトルを取った時には、我がことのように人目もはばからずに泣いてくれました。
 ご存じの通り、それから師匠は自らの引退を発表しました。
 棋士が老いを感じるのは、読みの力が衰えた時だと聞きます。感覚的なものは衰えませんが、読みを確かめる力は、としを重ねるごとに弱ってくるからです。師匠は数年前から、それを自覚するようになったと言っていました。
 とはいえ、今でも私は、二回に一回も師匠には勝てません。同条件なら、師匠はまだ私よりも強いのです。
 本音を言えば、棋士を続けて欲しかった。
 いつまでも強い師匠でいて欲しかった。それでも、
「夕妃のお陰で、本当に幸せな棋士人生だったよ」
 師匠は引退届を出す前に、私にそう言って下さいました。
 自分は何か一つでも師匠と奥様に返せたんだろうか。常に不安に囚われていた私にとって、その言葉は救い以外の何ものでもありませんでした。

 帰国した時に、固く決意したことが一つだけあります。
 それは、夢を叶えない限り、二度とニースの土は踏まないというものです。
 もしも竜皇になれたら、約束を果たせたことを夫の墓前に報告したい。そう思っていましたが、それ以外の理由で、あの地に戻ることはしないと決めていました。
 もちろん、息子には会いたいです。
 でも、彼が何処で、どんな風に生きているのかを私は知りません。
 それに、義母に息子を奪われ、出来ることなどなかったとはいえ、最終的に帰国を決断したのは私です。今更、母親面など許されるはずがないとも思っていました。
 佐竹さんがアンリの居場所を突き止めたと伝えてきた時も、本当は最初から分かっていたんです。見つけたというアンリが、ヴァランタンのファミリーネームを持っているなら、それは間違いなく息子の方でした。
 彼が病院にいた理由は分かりません。しかし、私とアンリの息子です。
 肉体に生来の問題を抱えていても不思議ではありません。
 息子に母と名乗るつもりはない。私には、その資格がない。
 だけど、どんな姿で生きているのか、成長した姿を見届けるくらいなら、許されるんじゃないだろうか。私はそう思って、この地へやって来ました。

 今日の日中、私は八歳になった息子と対面しただけで、感情の奔流に飲み込まれてしまいそうでした。
 嬉しいことに、息子は病気で入院していたわけではありませんでした。
 かつて父が働いていた病院に、ただ毎日、将棋を指すために、遊びに来ていたらしい。そこで皆にわいがられていた理由を知り、胸がつまるような思いに襲われました。
 夫の忘れ形見が、将棋を指していた。国内チャンピオンになるほどに、私たちが愛した将棋に夢中になっていた。
 義母は冷酷で、むちゃくちゃな人でしたが、どうやら最後の頼みだけは聞き届けてくれたようです。九歳にもならない少年が、異国の地で将棋に傾倒した理由なんて一つしか思いつきません。彼は父の遺品を見て、将棋を知ったのでしょう。
 あの子はインターネットで棋士の対局を見ているうちに、日本語を覚えたのだと思います。いえ、もしかしたら棋士の戦いを理解したくて、自分から日本語を勉強したのかもしれません。
 こんなに幸せなことがあるでしょうか。
 愛する息子と将棋を指している間、溢れそうになる涙を抑えることに必死でした。
 二十手も指さない内に、息子が夫のノートパソコンで将棋を学んだのではという推察は、確信に変わりました。棋風がそっくりだったからです。
 次に指してくるだろう手が、おおではなく百手先まで読めました。
 それなのに、てんで勝負になっていなかったのに、楽しかった。
 大切な人と盤を挟んで対面するということは、将棋を指すということは、この世界で一番幸せなことです。
 成長した息子との将棋を楽しみながら、私は改めてそれを思い知りました。

      5

 アンリ・ヴァランタンJr.は、千桜夕妃の実の息子だった。
 彼女は失踪していた二年半の間に結婚し、出産を経験していたが、それを今日まで、今の今まで、明かさずに生きてきた。
 母として戦っていたことを、死ぬまで黙すつもりだった。
 あまりにも想像外の真実に、殴られたみたいに頭が揺れていた。
 私は千桜さんが噓をつくような人間ではないと知っている。それなのに、彼女のことをよく知っているつもりだったのに、事実を事実として消化出来なかった。
 失礼なことだと自覚しながら、心の何処かで、本当はすべてが冗談なんじゃないかと疑っていた。そのくらい衝撃の事実だった。
 だが、その一方で、確信出来ることもあった。それは、一連の事実に驚いているのが、私だけではないということだ。
 千桜さんは今日まで、自分の息子が将棋を指していることを知らなかった。
 息子が病院にいると聞いた時、彼女は自分と夫が抱えていた肉体の問題を思い、絶望を覚えたはずである。心配で、心配で、心が張り裂けんばかりだったはずだ。
 考えてみれば、渡仏が決まってから、彼女はずっと浮かない様子だった。今朝は特に様子がおかしかった。その理由も今なら分かる。再会への期待と同時に、愛する息子の身体を心配し、恐怖に襲われていたからなのだろう。
 そして、この街で待ち受けていた真実は、あまりにも想定外のものだった。
 息子は彼女が何よりも愛した盤上遊戯に、同じように夢中になっていた。
 それを知った時の千桜さんの混乱は、きっと、私の比ではなかったはずである。
「胸を締め付けられるような懐かしい風景が、佐竹さんにはありますか?」
「ないと思います。実家も東京ですから。千桜さんにはあったんですか?」
「私もないと思っていました。故郷である新潟に郷愁を感じたことがなかったからです。でも、この地に帰って来て、よく分からなくなりました。私がアンリと暮らしたのは、わずか半年間です。それなのに、どうしようもなく胸を締め付けられてしまいました」
 楽しいことも、嬉しいことも、あっただろう。
 だが、それ以上に苦しい思いをしながら、千桜さんはこの地を去ったはずだ。それにもかかわらず、心が囚われてしまうのは……。
「息子のことは誰にも話さない。話すべきことじゃない、ずっと、そう信じていたのに、分からなくなってしまいました」
 肩を小刻みに震わせる彼女は、見たこともない困惑の表情を浮かべていた。
 私は彼女の苦しそうな顔も、悔しそうな顔も、何度も見てきた。だけど、こんな表情は知らない。ポーカーフェイスが上手い彼女の、こんなに切羽詰まった顔、私は知らない。
 もしかしたら藤島さんは、こういう瞬間のことを考えていたのかもしれない。
 九年前、彼はアンリの居場所を千桜さんに教えたが、その後、彼女がどうしたかは知らないと言っていた。しかし、さとい彼のことである。あの空白の三年間に何があったのか、本当はある程度、推察していたんじゃないだろうか。だからこそ三ヵ月前、私にこの地のことを教え、背中を押すよう伝えてきたんじゃないだろうか。
「義母は私が日本で、棋士という職業に就いていたことを知りません。夫のノートパソコンは息子に渡してくれたようですが、私のことは死んだとだけ伝えたようです。あの子が私との本当の関係性に気付いているとは思えません」
「はい。あの子が千桜さんの顔と名前を知っていたのは、単に将棋に夢中になっていたからだと思います。将棋を好きになったから棋士について調べ、女性初のタイトルホルダーということも知っていたのではないでしょうか。千桜さんは連盟の理事になった後、国外への普及活動に熱心でしたよね。もしかして、それは……」
 心苦しそうな顔で、彼女は一つ頷いた。
「将棋が世界的な人気を博すようになれば、いつか息子に自分の存在を知ってもらえるかもしれない。そう考えていました。母の戦う姿を、見て欲しい。成し遂げたことを知って欲しい。いつかの未来に託した期待だったんです。でも、私の知らないところで、その夢は、とっくに成就していました。息子は私の軌跡を知っていました。それだけじゃない。憧れてさえいた。それだけで十分です。十分だと思わなければいけないのに……どうして……」
 千桜さんは目頭を押さえると、そのままうつむいてしまった。
 私には子どもがいない。そういう人生を選ばなかった私には、千桜さんの気持ちを想像することしか出来ない。
 ただ、感情を表に出さず、人に頼ることを嫌う彼女が、ここまで想いを吐露したのだ。抱えるおうのうの深さは、問わずとも理解出来た。
 明日、少年は空港に現れるだろうか。
 その時がきたとして、彼女は一体、どんな結末を選ぶのだろう。

 将棋ファンにとって、棋士、千桜夕妃の人生は、長い間、謎に満ちていた。
 彼女の人生を一冊の本にまとめるにあたり、私はこれまでに二十時間以上のインタビューをおこなっている。
 棋士というのは天才だ。凡人の理解のはんちゆうからは、大きく逸脱した存在だ。
 誠実に、詳細に、生い立ちを聞かせてもらったのに、昨日までは知れば知るほどに、彼女が遠くなっていくように感じていた。
 それでも、一つだけ断言出来ることがあった。
 私は観戦記者になる前、新聞社の科学部で記者をしていた。
 前職を辞めたのは、簡潔に言えば愛のためである。
 キャリアで最も重要な仕事を前に、私は愛を取った。凡人である私にとって、愛よりも優先すべきことなどなかったからだ。
 そして今、千桜夕妃の人生を知り、切実に思うことがある。
 スケールが違う。
 執念も、想いの深さも、違う。
 だが、きっと、彼女を動かしていたのも、愛だったのだ。
 人は愛を求め、愛におぼれて、生きていく。
『愛のために生きた棋士』
 その一点において、私は彼女のことを理解出来る気がした。

 わずか二時間しか眠れなかったのに、目覚めると、驚くほどに頭がすっきりしていた。今日、乗らなければならない飛行機への恐怖心さえ消えせていた。
 昨晩、いや、あれはもう今朝と言った方が正しいだろうか。千桜さんは何も答えを出せなかった。
 息子に再会した時、どうすれば良いか分からない。
 嘆く彼女に、私はこう告げた。
「何を選んでも、何を選ばなくても、間違いじゃありません。あの子はとても賢い子だから、千桜さんがどんな道を選んでも理解してくれるはずです」
 正解なんてない。そして、間違いもない。
 愛は、きっと、そういう優しい形をしているはずだ。

 どれくらいの時間、少年はここで彼女のことを待っていたのだろう。
 帰国のため、コート・ダジュール国際空港に到着すると、すぐに私たちを発見したアンリ少年が駆け寄ってきた。
 国際空港は今日も雑多な人種でにぎわっている。
 再会して以降、少年は千桜さんの傍を一瞬たりとも離れようとしなかった。その一挙手一投足を胸に刻み込もうと、一心に見つめている。
 彼は本当に将棋を愛し、棋士に憧れているのだ。
「またニースに来てくれますか?」
 少年の顔に浮かぶ笑顔がまぶしい。
 期待を込めたあどけない質問に、千桜さんは心苦しそうな笑みを浮かべる。
 将棋界には女性棋士にしか担えない仕事がある。千桜さんは飛鳥と並び、日本で最も忙しい棋士の一人だ。社交辞令でも噓はつきたくないのか、千桜さんは質問に答えることをしなかった。
 国際線出発ロビーに着くと、少年の両目から涙が溢れ出た。
 それから、少年は千桜さんの手を取ると、何度も何度も力強く握手をした。
 母も父も知らない彼は、今日までどれくらい寂しい思いをしてきたんだろう。
 捨てたわけじゃない。諦めたわけでもない。愛する、たった一人の息子である。
 本当は今すぐ抱き締めたい。日本に連れて帰りたい。そう思っているはずなのに、千桜さんは手を握り返す以上のことをしなかった。
 棋士として生きるため、子育てを放棄した自分に、今更、息子を迎え入れる資格なんてない。そんなことを考えているんだろうか。それとも、義母のことを思い、遠慮しているんだろうか。
 千桜さんの心中は、やはり私には分からなかった。
 愛している。あなたを心から愛している。
 私なら一番伝えたいシンプルな言葉を、今、この場で告げているはずだ。
 そこに答えが存在しないなら、私は自分の心に正直であろうとするだろう。
 だが、彼女はこんな場面ですら、感情を抑えることを選んだようだった。
「僕のお父さんは、子どもの頃、日本で暮らしていました」
 チェックインカウンターに私たちが向かおうとしたタイミングで、少年が口を開いた。
「お父さんが子どもの頃、ユキという女の子と将棋を指していたって知ってから、僕はずっと、その女の子が千桜竜皇だったら良いなって思っていました」
 思いがけない話に、足が止まってしまう。
「でも、そんな夢みたいな話、あるわけないって思っていたんです。でも、夢じゃなかった。お父さんに会いに来てくれて、ありがとうございました」
 千桜さんの顔に、はっきりと分かる戸惑いの色が浮かんだが、彼女は一瞬で感情を戻し、一つ、小さく頷いた。
「お父さんと千桜竜皇が友達だったこと、僕、本当に嬉しいです」
 千桜さんは何も答えなかった。
 伝えるべき言葉が見つからないからなのか、何も伝えるべきではないと信じているからなのか。答えは分からないが、千桜さんが選んだのは沈黙だった。
「また遊びに来て下さいね。お父さんも喜ぶと思うから」
 涙を浮かべながら告げた少年に笑顔で頷き、千桜さんはゲートをくぐる。
 私たちが国際線出発口に入っても、少年はその場から一歩も動かずに、こちらを見つめていた。
 名残惜しそうな眼差しが背中に痛い。
 本当に何も言わなくて良いんですか?
 喉まで出かかったけれど、私は何も言えなかった。
 彼女の人生は、彼女だけのものだ。
 どんな道を選んでも、選ばなくても、それが千桜夕妃の人生だ。

 保安検査場へと向かう道中、不意に、千桜さんの足が止まった。
 憂いを帯びた眼差しで、彼女はニースの青空を見つめる。
「八年間、ずっと、会いたかった息子の元気な顔を見ることが出来ました」
「はい」
「これ以上の幸せは望むベくもありません。もう十分です。もう十分過ぎるほどに、幸せな思いで満たされているのに。それなのに……」
 大きな窓の外に、突き抜けるような青い空が広がっている。
「八年前、この地を去る時に決めたんです。話せないことがあるって、話すべきじゃないこともあるって、ずっと、そう信じてきました。それなのに、どうして、人の心は、こんなにも弱いんでしょうか。自分で決めたことなのに、どうして翻してしまいたくなるんでしょうか」
「ごめんなさい。私に言えることはありません」
 いつだって人生は、自分の頭の中で決まる。
 たとえ間違っても、後悔することになっても、その最後の決断だけは、己でしなければならない。
「真実を知った時、あの子が何を思うかは分かりません。それでも、思うんです。伝えなければならないんじゃないかって。別れ際に、あんな顔を見せられたら、隠し続けられません」
 彼女の爪先が、初めて反対を向いた。
「私は夢のために、子どもと別れることを選んだ人間です。何を言われても、何を思われても、文句は言えません。だけど、たとえ拒絶されたとしても、伝えなければならない気がするんです。あの子にはそれを知る権利があるし、私にはそれを伝える義務がある。ごめんなさい。このまま帰ることは出来ません」
 その思いを後押しするため、彼女の背中に手を添えると、千桜さんは迷いを振り切ったような顔で、来た道を見据えた。
「戻りましょう。あの子が待っています」
 私の言葉に頷き、彼女が歩き出した。

      *

 千桜夕妃が五分前に通過した国際線出発口から出ると、少年は別れた時と同じ場所に立っていた。
 戻ってきた夕妃に気付き、顔を上げた少年が泣いている。
 そして、夕妃が言葉を発するより早く、
「お母さん!」
 少年の口から、そんな言葉が飛び出した。
「お母さんなんですよね? あなたが僕のお母さんなんでしょ?」
 隠し続けていた本音と共に、少年が泣き崩れる。
 その一瞬で、夕妃はすべてを理解することになった。
 聡い息子は、、すべてを悟っていたのだ。

 九年前、夕妃と再会したアンリは、二人の対局を棋譜として残し始めた。
 夕妃の名前を『Y』として登録し、死ぬまでの半年間、すべての対局を記録として残していった。
 息子は父の死後に生まれた子である。普通に考えれば、母は父と最後の日々を生きた人物だろう。息子は父が残した記録を追う内に、少女時代の友人『ユキ』と、最後の日々に父が対局していた『Y』が、同一人物ではないかと疑い始めたのだ。
「お母さんが僕を残して帰国した理由は分かりません。おちゃんは『お前の母親は酷い女だった』と言うだけで、名前も教えてくれませんでした」
 あの人は、そういう人間だ。
 何の意外性もない。
「だけど、お父さんが入院していた病院で尋ねたら、日本からやって来た背の高い女の人がいたことを覚えている人がいました。二人が将棋を指している姿を見ていた人もいました。その女の人の特徴を聞いて、思ったんです。僕のお母さんは、棋士の千桜夕妃なんじゃないかって」
 異国の地でも、インターネットがあれば棋士の活躍を知ることが出来る。
 息子は、ずっと、画面越しに自分の姿を見つめていたのだろう。
 だから将棋も強くなった。母の背中を見つめていたから、八歳にして国内王者になれるほどの実力を身につけるに至った。
「ごめんね。本当に、ごめん」
 八年振りに抱き締めた息子から、愛した男と同じ匂いが香った。
「良いんです。僕は、お母さんのことを見ていたから。お母さんが戦っていることを知っていたから」
 ずっと、こうしたかった。
 抱き締めて、傍に引き寄せて、愛していると伝えたかった。
「アンリ。教えて。あなたは私に勝ったら、何をお願いするつもりだったの?」
「弟子にして欲しかったです」
 覚束無い日本語で、少年は泣きながら告げる。
「棋士になりたいんです。僕も、棋士になりたかった。だから、必死に日本語も勉強してきました。でも、僕は弱かった。棋士を目指せるだけの力がなかった」
 思い知る。
 そうか。何処まで行っても、痛ましいまでに自分たち三人は親子なのだ。

 自分は母親失格だ。
 夢を追うために、一度は息子を諦めてしまった人間だ。
 今更、母親でありたいなどと願うことは出来ない。そんなことは許されない。
 それでも、将棋ならば教えることが出来る。
 将棋を愛し、棋士に憧れた少年の夢を、後押しすることが出来る。

 何も、誰も、間違ってなどいなかった。
 腕の中に確かな温もりを感じながら、今、千桜夕妃はそう思っていた。

      了

本作は単行本として小社より刊行予定です。
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「カドブンノベル」2020年6月号

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