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連載

綾崎 隼「盤上に君はもういない」 vol.7

初対局を前に失踪した千桜夕妃の行方は? 棋士の頂を目指す者たちの静かで熱い青春譜‼ 綾崎 隼「盤上に君はもういない」#2-2

綾崎 隼「盤上に君はもういない」

※この記事は、期間限定公開です。

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 両親の将棋に対するスタンスは、姉が中学生になっても変わらない。
 中学生の全国大会は三つある。いずれも夏休みに開催される、『中学生選抜選手権』と『中学生名人戦』、『中学生王将戦』だ。
 姉は二年生の時に、新潟県予選を突破して、選抜選手権の県代表となった。
 全国大会は例年、「将棋のまち」として知られる山形県のてんどう市で開催される。
 六十四人の代表選手が二日間かけて戦うのだが、姉は決勝トーナメントに進出した唯一の女性として、準優勝という成績を収めていた。
 姉はアマチュアの世界で少しずつ有名になり始めていたけれど、娘が実力を発揮すればするほどに両親の顔は曇っていった。
「医者になりたい」と常々口にしていた俺は、将棋を指していても文句を言われたことがない。対照的に、姉は日々、小言のように嫌味を言われるようになっていた。
 俺は中学生になった姉が、両親の前で笑う姿を見たことがない。
 そしてその頃、姉から妙な焦りのようなものを感じるようになった。
 棋士になる方法は明確である。
 奨励会に入会し、二十六歳までに四段に昇段すれば良い。とてもシンプルな道筋であるものの、そもそも奨励会は誰でも入れるものではない。
 奨励会入会には年齢制限があり、満十五歳以下であれば、六級以上の任意の級で受験出来るものの、年齢が上がるごとに挑戦出来る級が上がっていき、十九歳になれば一級しか受験出来ない。十九歳で一級に合格した受験者が過去に二人しかいないことを考えても、挑戦が遅くなればなるほど、入会の難易度が増すことは明白だった。
 奨励会の入会試験は、年に一回だけである。その上、合格出来たとしても、二十一歳までに初段、二十六歳までに四段に昇段出来なければ、強制的に退会となる。
 本気で棋士を目指す若者たちは、一年だって無駄に出来ない。
 幼少期、二十歳まで生きられないかもしれないと言われた姉は、中学生になっても短期の入院を繰り返していた。
 姉には肉体的なハンデがある。体調のせいで一年を棒に振ってしまう年だってあるだろう。姉にとっての一日は、健康な者の一日よりも重い。
 棋士を目指すなら、一刻も早く、奨励会に入会しなければならなかった。

 人は誰しも覚悟を決めねばならない瞬間があり、姉にとってのそれは中学三年生の初夏に訪れた。
 一学期の成績が出たその日。
 姉が持ち帰った定期テストの結果を見て、両親は分かりやすく破顔した。五月の連休明けに風邪をこじらせ、二週間の入院生活を送ったにもかかわらず、姉が今回も学年一位の成績を収めていたからだ。
 両親を大いに喜ばせた後、姉は正座をすると、そのまま頭を床につけた。
「お願いします。これからも学業はおろそかにしません。もしも棋士になれなければ、勉強し直して医者になります。だから、どうか奨励会を受験させて下さい」
 顔を上げた姉は、両目から涙を流していた。
 戸惑う両親に、姉は泣きじゃくりながら続ける。
「時間がないんです。私は身体が弱いから、一年も無駄に出来ません。棋士になれなかったら、ちゃんと医者になります。二十六歳まで挑戦させて下さい」
 姉は実の両親に土下座までして、夢を追わせて欲しいと懇願した。
 その日まで、姉の覚悟を本当の意味では理解していなかったのか、父は頰を引きつらせ、しばし言葉も発せない状態だった。しかし、
「夕妃の気持ちは理解した。本気であることも分かった。だが、お前は千桜だ。医者以外の人生はない」
 気まずい沈黙の後で父が発した言葉は、明瞭かつ残酷なものだった。
「棋士のことは俺も調べた。将棋に必要なのは頭脳だけじゃない。プロになるには健康な身体も必要だ。お前は肺に問題がある。しかも女だ。女は棋士にはなれない。現実を見ろ。二十六歳までの人生を棒に振らせると分かっているのに、応援など絶対に出来ない」
「それなら医者にもなります。大学にも行きますから、奨励会を受験させて下さい!」
「駄目だ。お前の身体で両立なんて出来るわけがない。遊びで指している分には構わない。親の言うことを聞けずに、棋士を目指すと言うなら、この家から出て行け!」

      3

 両親は姉の気性と覚悟を甘く見ていた。
 所詮は十五歳の夢。きつく言えば諦めると高をくくっていたのだ。
 売り言葉に買い言葉ではないだろうが、姉の決断は早かった。
 冷徹な父の言葉から一週間後。
 まだ夏休みも始まっていなかったのに、姉は誰にも何も告げずに、ノートパソコンとわずかな衣服だけを持って家出した。
 当然、両親は慌てる。なんだかんだ言ったところで子どもの我がままだ。いずれは言うことを聞くと考えていたのだろうけれど、姉は本気だった。姉にとって棋士とは、家族の絆を断ち切ってでも目指すべきものだったのだ。
 娘の家出について、父は当初、子どもが意地を張っているだけだと考えていた。
 千桜本家の敷地には、百人以上の親族が暮らしている。泣き落としで同情を買い、誰かの家に泊めてもらっているのだろう。そんな予想を立てていた父は、姉の行方を能動的に捜すことをしなかった。いずれ諦めて帰って来ると考えていたからだ。
 しかし、夏の終わりに、父は娘が想定外の場所にいることを知る。
 将棋連盟が発表した奨励会入会試験の合格者に、姉の名前があったのである。
 奨励会は希望すれば誰でも受験出来るわけではない。実力のある者だけを精査するために、師弟制度が設けられており、基本的にはプロ棋士から受験の推薦を得る必要がある。
 姉はいつの間にかあさくらきようすけというプロ棋士に師事しており、彼の推薦を受けて奨励会を受験していた。
 入会試験は三日間にわたり、初日と二日目は受験者同士の対局による一次試験が、合格者のみが進める最終日には、現役奨励会員との対局と面接からなる二次試験がおこなわれる。
 入会には都道府県のアマチュア上位に相当する実力が必要であり、一次試験も二次試験も勝利数による合格条件が定められているため、例年、合格者は三割程度だ。
 しかし、十五歳の姉は、そんな難関試験を一発で突破していた。

「お父さん、お母さん、姉さんのことで聞いて欲しい話があります」
 一年後の初夏、中学二年生になった俺は、両親に一つのお願いをした。
 自らの意志で家を出て行った娘である。両親は姉に愛想をつかしていたし、事実上の勘当状態となっていた。
 父は昨年、姉を内弟子とした朝倉七段と話し合いの場を持ったらしいが、大人同士による会合を経てもなお、姉との溝は埋まらなかった。
 我が家ではもう一年近く、姉の話題はタブーになっている。
「俺は二人に心から感謝しています。引き取ってくれた恩に報いたいですし、医者になりたいです。俺で良いなら、お父さんの病院を継ぎたいです」
「俺たちはお前を本当の息子だと思っているよ。もちろん、病院は智嗣に継いでもらう。あの馬鹿が挫折して戻って来ても関係ない。病院は絶対に、お前に継がせる」
 父は俺が跡継ぎの座を心配していると思ったようだが、それは勘違いだった。
「姉さんの体調が心配なんです。お父さん、俺の将棋は、あくまでも趣味です。棋士を目指そうなんて思っていないし、俺の実力でなれるとも思えません。だから奨励会を受験させてもらえませんか?」
「お前が奨励会を受験?」
「はい。入会出来れば、姉さんの様子が分かります。同じ級に追いつくことは難しいかもしれないけど、対局日には会える可能性が高い。勉強に支障が出るようなら、すぐにやめます。そもそも棋士になるのは、東大に入るよりはるかに難しいんです。勉強と両立出来ないようでは、奨励会に入れても、すぐに退会となってしまうと思います」
 姉に対する本当の気持ちこそ隠したものの、それ以外はすべて本心だった。
 俺は棋士になりたいと思ったことはない。姉ほどの情熱がなかったからなのか、それとも、常に自分より圧倒的に強い姉と指していたせいで、自信が持てなかったからなのか、理由は分からないが、俺は純粋に棋士よりも医者になりたかった。
 父は昨年、自分から朝倉七段に連絡を取っている。口では突き放したことを言っていても、病弱な姉の現状が気になっていたのだろう。
「分かった。趣味としてであれば、反対する理由はない」
 姉はあんなに反対されたのに、俺の受験は、あっさりと認められることになった。

 一年目の受験では失敗したけれど、翌年、姉と同じ中学三年生の夏に、俺は奨励会六級への入会を果たした。
 事実だけを見れば、実の娘の入会は許さなかったのに、引き取った息子の受験は認めたということになる。理不尽な父の決断を、姉が恨んでもおかしくはなかった。
 しかし、将棋会館で再会した時、姉は俺の合格を自分のことのように喜んでくれた。
 出会って以降、姉の様々な表情を見てきたけれど、あんなにも嬉しそうに笑う姉の顔は見たことがなかった。
 弟の合格が嬉しくてたまらないといった様子の姉を見て、ようやく理解する。俺が本当に見たかったのは、血が繫がらない美しい姉の笑顔だったのだ。
 家族だからじゃない。姉がとても優しい人だったからでも、ましてや将棋が強かったからでもない。もう間違いない。俺は出会った日から、今に至るまで、姉のことを、千桜夕妃のことを、心から愛していたのだ。
 才能がないことを自覚しながら、奨励会という魔窟で、心を折らずに戦い続けることが出来たのは、ただ、姉の笑顔を少しでも長い時間、見ていたかったからだ。
 奨励会に在籍している間は、勘当された姉とも毎月会える。
 本気で棋士を目指している人たちからすれば、理解し難い感覚だろうが、十代の千桜智嗣にとって、将棋というのはつまり、愛する人に会うための切符だったのだ。

      4

 将棋会館で二年振りに再会した日、姉はどうやってけんさんを積んだのか熱心に尋ねてきた。姉が出て行った時点で、地元の将棋クラブには俺より強い人間がいなくなったため、誰の指導を受けていたのか不思議に思ったのだろう。
 奨励会受験を真剣に考え始めてから、俺は千桜家ので、タイトルを取ったこともある棋士に弟子入りしていた。週末は師匠の研究会に通い、棋力を上げてきたのである。
 姉は父が協力的だったことに驚いていたけれど、それ以上のことは質問してこなかった。自分を勘当した両親については、何も聞かないと決めていたのかもしれない。

 昇級や降級がかかった一局では、心が摩耗する。いかに平常心を保てるかが肝要であり、そういう意味で、俺には特殊なアドバンテージがあった。
 奨励会に所属する若者は、例外なく棋士を目指している。一局一局に人生をかけている彼らは、ごく一部の天才を除けば、全員が年齢制限による退会におびえている。
 しかし、俺は奨励会の中で唯一、棋士を目指していない男だった。
 極度の緊張なんて、入会試験後は記憶にない。なら、他の奨励会員と違い、負けても失うものがないからだ。
 俺はどんな対局でも完璧な平常心を保つことが出来る。
 ほとんどの対局を心から楽しむことさえ出来ていた。
 皮肉にも棋士を目指しているわけではないからこそ、俺は強かった。
 奨励会六級に合格した時、二つ年上の姉は既に一級に昇級していた。そのまま一年後には初段に上がり、十八歳にして有段者となった。
 姉には追いつけないまでも、俺も奨励会で結果を出していく。
 誰よりも冷静でいられたこと、良い師匠に恵まれたこと、姉に認められるために努力を怠らなかったこと、幾つかの要素が奇跡のようにみ合い、自らの見立てに反して、順調に昇級を果たしていった。
 スタート時の二年の差は大きい。姉には追いつけず、奨励会で相まみえることは出来なかったけれど、それでも将棋が俺と姉を繫ぎ留めていた。
 晴れの日も、雨の日も、雪の日も、真夜中も、いつだって姉に連絡を取ることが出来た。三日に一度はインターネットを介して対局していたし、例会日の前に、姉からアドバイスの電話がかかってくることもあった。

 大好きだった。
 将棋が、将棋を教えてくれた姉のことが、本当に大好きだった。
 思春期を過ぎ、姉へのおもいは募るばかりだったが、自分が弟としか見られていないことは理解していた。
 子どもの頃から、姉の目には将棋しか映っていない。
 選ばれし者が集う奨励会でも、プロ棋士になれる人間は、一、二割である。そして、過去、女性の棋士は一人として誕生していない。そんな現実を十二分に理解しながらも、姉は愚直なまでに『棋士』を目指し続けていた。
 棋士になって、いつの日かりゆうおうのタイトルに挑戦したいと話していた。
 望めばいつでも『女流棋士』になれたのに。
 女流棋士の棋戦に参戦すれば、タイトルだって狙えたのに。
 竜皇に憧れる姉は、女流棋士として活動することは考えていないようだった。姉が目指しているのは、あくまでも棋士であり、戦いの場は奨励会一本に絞られていた。
 姉は奨励会でも何度か、長期の欠場を余儀なくされたものの、二十三歳でついに三段に昇段する。女性では史上四人目の快挙だった。
 過去に三段まで上がった女性たちは、魔境を勝ち抜けず、最終的には皆、二十六歳という年齢制限の壁に阻まれて、奨励会を去っている。
 挑戦が許されているのは、二十六歳の誕生日を迎えるリーグ戦までだ。姉が手にしたチャンスは、年齢にかかわらず保証される最低在籍期数と同じ、五回だった。

 奨励会は二段までは関東と関西に分かれている。それぞれの会館で奨励会員同士の対局が繰り返され、規定の成績を収めた段階で、昇級、昇段が決まる。
 しかし、最終関門となる三段リーグでは、大きくレギュレーションが変わる。
 全員が東西の区別のない一つのリーグに入り、半年を一期として各々十八戦を戦い、上位二名だけが四段に昇段する。
 在籍者は二段からの昇段者の数によって変わるものの、大抵、三十数名である。全員と当たるわけではないため、組み合わせによる有利不利が生まれるし、実力者が何人集まっているかでも、必要な勝ち星は変動してくる。
 過去、四段昇段の最高成績は十六勝二敗で、最低は十一勝七敗だ。
 ライバルの好不調、誰と同時代に生まれたか、自分ではどうしようもない要素にも振り回されながら、棋士というただ一つの夢を懸けて戦う。それが三段リーグだった。

 四段昇段か、それとも退会か。
 姉にとって最後の三段リーグが開催された年、将棋界待望のスターが同時に二人現れた。永世おうの孫、飛鳥あすかと、中学二年生の新星、たけもりりようである。
 若き天才少女と天才少年、二人の台頭だけでも苦しいのに、リーグ開幕直前に姉は再び持病をこじらせてしまう。三段リーグは一日に二局ずつおこなわれるが、姉は大切な初日を病欠することになってしまっていた。
 どうしてこの世界は、姉にばかり試練を与えるんだろう。
 親に勘当され、肉体にハンデを抱え、それでも、誰にも負けないだけの努力を重ねてきたのに。世界は姉の勇気をあざわらうように、試練を用意する。
 悔しかった。世界が姉にだけ理不尽なことが、たまらなく悔しかった。
 奨励会二段にまで上り詰めた今なら、自信を持って言える。
 俺は、姉の実力を、棋力を知っている。うぬれではなく誰よりも理解している。
 姉は強い。恐らく三段リーグの誰よりも強い。
 それなのに、ただ少し、運が悪かっただけで……。
 俺は四局目が終わった時点で、一勝三敗となった姉の敗退を確信していた。姉の強さを誰よりも理解していると自負していたのに、その強さを信じ切れていなかった。
 しかし、姉は違った。三連敗から始まったリーグでさえ、一度として諦めなかった。
 自分を信じて、運にも、他人にも頼らずに、未来に立ち向かっていく。
 最終盤のあの展開を、誰が予想出来ただろうか。
 一人、また一人と、昇段レースから脱落していく中、じわじわと上位勢に追いつき、十六局目が終わった時点で、姉は三位にまで順位を上げる。
 その上、最後の最後で、幸運の女神が姉にほほんだ。二位であった諏訪飛鳥との直接対決を最終局に残していたため、地力で昇段を決めるチャンスが生まれたのだ。

 運命戦の前日。眠れなくなっていた俺の携帯電話に、姉から着信があった。
 明日の対策を立てるため、一分一秒でも惜しい前夜に、どうして……。
 戸惑いながら電話に出ると、明るい姉の声が鼓膜に届いた。
「こんな時間に、ごめんね。もう寝てた?」
「いや、寝てないよ。姉さんの明日の対局が気になってさ。俺が準備する意味もないんだけど、諏訪三段の棋譜を並べていた。どうしたの?」
「智嗣としやべりたくて」
「姉さんでもさすがに緊張しているってこと? 俺で良かったら、何でも話して」
 人生で一番大切な対局を控えた前夜に頼られたことが、たまらなく嬉しかった。
 俺は棋士にはならない。奨励会に入った時の気持ちに、偽りはない。
 だけど、いつしか心の何処かで迷うようになった。
「私のことを理解しているのは、師匠と奥様を除けば、智嗣だけだから」
「そうなのかな」
「智嗣は盤を通して、いつも私の気持ちを覗いていたでしょ。私も同じだよ。智嗣の気持ちを見てきた。もう、ずっと」
「何だか怖いね」
「ごめんね」
「どうして謝るのさ」
 まさか俺が姉に恋心を抱いていることも見抜かれていたのだろうか。
 今日まで誰にも気付かれていないと思っていたのに……。
「智嗣はずっと、私に期待してくれていたのに、こんなに時間がかかってしまった。待たせてしまって、ごめん。でも、それも明日で終わり」
 確信に満ちた声色で。
「私は棋士になるよ。智嗣、お姉ちゃんを信じて」

▶#2-3へつづく
◎第 2 回全文は「カドブンノベル」2020年3月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2020年3月号

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