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連載

綾崎 隼「盤上に君はもういない」 vol.11

飛鳥はライバル千桜夕妃の背中を追う。棋士の頂を目指す者たちの静かで熱い青春譜‼ 綾崎 隼「盤上に君はもういない」#3-2

綾崎 隼「盤上に君はもういない」

※この記事は、期間限定公開です。

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 三段リーグ、七日目の対局を終えた日の夜、竹森から電話がかかってきた。
「何? 私、忙しいんだから、下らない用件だったら切るよ」
『リーグ戦の結果を見ました。おめでとうございます』
「別に何もおめでたくないんだけど」
『十二勝二敗で一位じゃないですか。さすがに昇段でしょ』
「ねえ、そういうこと言うの本当にやめてくれる? 私、二回も逆転負けをくらってるんだから、アドバンテージ二勝くらいで油断なんてしないわよ」
『いや、残り四局で、諏訪さんの実力があれば、さすがに決まりでしょ。て言うか、一位で上がってきて下さいよ。俺、ずっと待っているんですから』
「その上から目線が、むかつくのよね」
『実際、将棋では上ですからね』
「調子に乗りやがって。いつか泣かす。話、終わったなら切るよ」
『待って下さい! 用件は前に頼まれていた話ですって』
 十中八九、そうだろうとは思っていたが、
「コンピューターおたくに頼んで正解だったわ。千桜さんのアカウントを教えて」
『それなんですけど、結論から言うと、見つけられませんでした』
「はあ? じゃあ、何で電話してきたのよ。見つかるまで探せよ」
 竹森は今もタイトル戦の最中だけど、そんなの私の知ったことではない。
『「将棋ワールド24」に、気になるアカウントが見つかって、三ヶ月くらい追ってみたんです。他人の棋譜も見られるアプリなので。手が恐ろしく早いし、どう見ても素人じゃなかったから、最初はまた誰かがソフトを走らせたのかとも思ったんですけどね』
「あー。なんか問題になっていたね」
『レーティングのあるアプリは、開発者以外がソフトに指させることを禁止しているんです。と言っても、未だに横行しているのが現実です。急所だけカンニングしていれば、絶対にバレないですから。ただ、二桁の棋譜を見て確信しました。俺が追っていたアカウントは、ソフトじゃありません』
 以前に読んだインタビューで、竹森は入手可能な将棋ソフトはすべて試していると語っていた。実力やスタイルに鑑みれば、ソフトについては開発者よりも詳しい可能性がある。その竹森が断言するのだから実際に人間なのだろう。
『俺は千桜さんとは一回しか対局していませんけど、生涯、忘れられない敗戦です。そのアカウントの終盤の詰め方が、俺がやられた時に似ているんです。寄せ方とか時間の使い方がそっくりで。それで、三ヵ月、チェックしていました』
「だけど、さっき、千桜さんじゃなかったって言っていたじゃない。どうして分かったの? アカウントは匿名なんでしょ?」
『チャットも無視されたので、確信まではないんです。ただ、日本人じゃなかったっぽいんですよね。ログイン時間が、どう見ても堅気が活動する時間じゃないんです。外国にあそこまで強い人間がいるってのも考えにくいけど、現役の棋士じゃないことは間違いありません。一応、もうしばらくは気にしてみますが、あのアカウント以上に千桜さんっぽい人間なんて見つけられない気がします』
 竹森に調査を頼んで四ヵ月。こいつでも見つけられないなら、ネット上で彼女を探し出すことは不可能かもしれない。
 となれば、やはり方法は一つしかないのだろう。
『僕は何も教えられない。諏訪さん。今の君には、その資格がないからだ』
 一年前、千桜夕妃の師匠、朝倉七段は、私にそう言った。
 恥ずかしくて、あの日は逃げるように退散してしまったが、冷静になった今なら分かる。彼女のことを知りたいなら棋士になれ。あれは、朝倉七段からのしつだった。
 そして、私は六度目の挑戦となった今期、十四戦を終えて首位にいる。
 私は竹森のような天才じゃない。だが、私には、私だけの強さがある。
 誰よりも多く敗北を知っていること。決して諦めない心を持っていることだ。
 だから私は負けなかった。週刊誌に何を書かれても、大切な人たちを何度失望させても、自分を信じて乗り越えることが出来た。
 竹森との電話から二ヵ月後。
 私は十五勝三敗という成績で三段リーグの一位となり、四段昇段を果たす。
 諏訪飛鳥、十九歳の秋の出来事だった。

      5

「諏訪四段は失踪しないで下さいね」
 記者会見で記者から冗談交じりの言葉をかけられた時、二年半分の怒りがよみがえった。
 許せないことは許せない。自分が棋士になったって怒りは消えない。
 私は戦わずに逃げた千桜夕妃を、今でも許していなかった。
 二年連続で休場を続けた彼女には、既に降級点が二つついている。このままいけば戦わずして来期はフリークラス転落だ。
 フリークラスになった棋士は、陥落後、十年以内にC級2組に昇級出来なければ引退となる。千桜さんが今期も復帰しなければ、再戦は難しいものになるかもしれない。
 彼女の転落が決まる前に、何としてでも見つけ出し、再戦を果たしたかった。
 言ってやりたいことがあった。何より失踪の理由を説明して欲しかった。椅子取りゲームの椅子を奪われた私には、それを聞く権利があるはずだ。
 現実問題として千桜夕妃の行方を知っていそうな人間は、二人しかいない。
 彼女の師匠である朝倉と、弟で元奨励会員のざくらともつぐだ。
 千桜智嗣とは何度か対局経験がある。堅実な将棋を指す男という印象が残っているけれど、私は当時から彼の情熱の深度を測りかねていた。
 負けて悔しさを覚えない人間は、その時点で棋士に向いていない。負けず嫌いで当たり前の世界である。しかし、私は彼が敗戦にショックを受ける姿を見たことがなかった。
 どれだけ連敗を重ねてもひようひようとしている。彼はそういう男だった。
 勝利に執着しない性格は、夢をかなえた途端に失踪した姉にも通じるものがある。
 亜弓さんは何度も彼を訪ねたそうだが、一度としてまともな回答は得られなかったという。とはいえ、棋士になった私が相手であれば、答えが変わるかもしれない。
 二年前、千桜さんの失踪直後に、マスメディアの直撃を受けた彼は、姉は中学生の時に家を出て行ったから、事情も行方も分からないと話していた。
 私は彼がそこに虚実を取り混ぜたと思っている。棋士のことは棋士にしか分からない。たとえ両親とは絶縁状態でも、弟には心を許していたと思うからだ。事実、二年半前の三段リーグ対局日には、何度か彼の姿を将棋会館で目撃している。
 例会日ではない彼が会館に現れた理由は、姉の応援以外に考えられない。
 別々に暮らしていても、あの二人はきようだい以上の絆で結ばれていたはずだ。
 私はそう信じていたから、朝倉七段の前に、まず彼を訪ねてみようと思った。

 千桜智嗣は現在、新潟市の大学病院に勤務する研修医であるという。
 新潟まで出掛けるのだから、避けられて会えないという事態は回避したい。
 直接、病院を訪ね、退勤時の彼を、待ち伏せすることにした。
 新潟にいるはずのない女の顔を見つけ、一瞬で用件を悟ったのだろう。私を見つけた彼は、分かりやすく表情をゆがめた。
「まさか諏訪さんが会いに来られるとは思いませんでした。俺の勤務先なんて誰に聞いたんですか?」
「観戦記者の佐竹亜弓さんです」
「ああ、あの人か。一年くらい前まで、毎月のように来ていました」
「智嗣さん。私は棋士になりました」
 真面目に話しているのに、失笑されてしまった。
「知っていますよ。将棋に興味のない人間でも知っていると思います。諏訪さんはきっと、ご自分で考えている以上に有名です」
「二年半前に負けた日から、私はお姉さんのことをライバルだと思ってきました。千桜四段に追いつくことが目標だったんです」
「おめでとうございます。あなたは追いついたし、すぐに追い抜くと思います」
 本心で言っているのか、彼の声色からとげは感じられなかった。
「私は女です。女性であることを武器にも言い訳にもしたくないけど、女同士にしか分からないこともあります。お姉さんのことは師匠やご家族より理解出来ると思います」
「……そうですね。そうかもしれない」
「会わせてくれませんか? 千桜四段を倒さない限り、私はスタートラインに立てません。お願いします。どうか千桜四段に会わせて下さい」
「申し訳ありませんが、本当に何も知らないんです。別れの言葉は告げられたけど、姉が何処に消えたのかは知りません」
「別れの言葉? それはデビュー戦の前の話ですか?」
「ええ。前夜に姉が新潟まで会いに来たんです。『これから人生で最後の将棋を指す』と言っていましたね」
「ずっと具合が悪そうでしたけど、やっぱり……」
「いえ、諏訪さんが想像されているような話ではないと思います。父が手を回して、姉が世話になっていた病院のカルテをチェックしていましたから」
「命に関わるような話ではないということですか?」
「少なくとも失踪前に、そういった兆候はなかったはずです」
 私と会わせたくないだけなら、元気だと明かす必要はない。彼が噓をついているようには見えなかった。
「諏訪さんと戦った後、姉は入院しましたよね。その時に精密検査を受けています。大病を患っているということも、肺以外に疾患が見つかったという事実もありません。ただ、姉は退院して以降、一度もかかりつけの病院に現れていないんです」
「つまり、『最後の将棋』なるものを指すために、失踪したということですか?」
「姉の言葉の意味が、俺には分かりませんでした。むしろ諏訪さんの方が何か分かるんじゃないですか? 俺も、姉はあなたに特別な何かを感じていたと思います」
 弟にも行き先を告げずに失踪したとなると、残る手がかりは……。
「お姉さんが消えた後、朝倉七段とは話しましたか?」
「いえ。俺はもう将棋連盟と関わっていませんし、師匠も違いますから」
「では、一緒に訪ねてみませんか? 棋士になった私と、家族であるあなたになら、何か話してくれるかもしれません。お祖父ちゃんに頼んで連絡を入れてもらいます」

      6

 連休を利用して上京した智嗣さんと合流し、朝倉七段の自宅に向かっていた。
 十九歳になった今も、私は男の人と付き合ったことがない。恋愛に興味がないわけではないけれど、棋士になるまで余計なことは考えない。そう決めて生きてきた。
 兄弟子以外の男と二人きりで出掛けるなんて、初めての経験である。
 千桜姉弟の容姿が端整であるとはいえ、電車で隣に座っただけで、妙に身構えてしまう自分が意外だった。私は竹森とであれば、何の気兼ねもなく話せる。どうして智嗣さんだと緊張してしまうんだろう。
「お姉さんは内弟子になって以降、ずっと朝倉家で暮らしていたんですか?」
 異性との会話に慣れていないことを悟られるのもしやくだ。平静を装って質問してみる。
「そう聞いています。大学卒業後、姉は独り立ちしようとしたんですが、体調を心配した奥様に止められたらしいです。朝倉先生にも将棋に集中出来る環境に甘えなさいと、引き留められたと言っていました」
「千桜四段は女流棋士じゃなかったから、自立するなら働く必要がありますもんね。朝倉七段の人の好さは外見にもにじみ出ていますけど、生活費まで面倒を見ていたんですね」
「内弟子になったと知った後、父が朝倉先生に会いに行っているんです。勘当した娘とはいえ、様の善意には甘えられないと言って、お金を渡そうとしたらしいのですが、きっぱりと断られたそうです。才能ある子を応援することに見返りはいらないって。父は理解出来ないって顔をしていました」
「私は、ちょっと分かるかな。お祖父ちゃんも内弟子を取っていたし」
「俺も分かります。姉さんの強さを知れば、夢を見たくなります」
 将棋の世界で生きると決めた者にとっては、お金よりも大切なものが沢山ある。
 もちろん、賞金だって欲しいけれど、それは一番じゃない。二番や三番でもない。夢を追うことは、お金を得ることよりもはるかに尊いのだ。
「朝倉七段の内弟子って、お姉さん一人ですか?」
「はい。もともと弟子を取るつもりはなかったらしいです。自分の体調管理だけで手一杯だからって。でも、姉のことは放っておけなかったみたいです」
「自分の境遇とかぶったってことですよね」
 私は子どもの頃から風邪すらほとんど引いたことがない。入院したこともないし、ここ五年ほどはインフルエンザの予防接種以外で病院に行ったこともない。
 いつだって心も身体からだもすこぶる好調。棋士なら誰もが羨む健康体だ。
 世間が私と千桜夕妃に注目し始めた頃、ネットニュースのコメント欄で、私は心ない言葉を散々目にしている。彼女の容姿を称賛する声と、私の容姿をあげつらう声だ。
 どう見たって千桜夕妃は美人である。一方の私は、ぽっちゃりとした体型で、愛らしいというより勇ましい。容姿で比べたら、百人が百人とも彼女を応援するだろう。
 それでも、私がショックを受けることはなかった。
 自分の容姿なんて鏡を見れば分かる。変えようがない。見目麗しい女性に生まれたかったという気持ちがないわけじゃないけれど、代わりに、もっとも素晴らしい賜物である健康な肉体を、両親から与えられた。
 たとえばブラック・ジャックがいたとして、二人の身体を替えてくれると言っても、私は絶対に断る。逆に彼女の方がそれを望むはずだ。
 私たちにとって必要なのは、モデルのような肢体でも、れいな顔でもない。
 ぐに戦える身体があれば、それで良い。

 朝倉七段には、お祖父ちゃんを通して訪問を伝えてある。
 内弟子の弟と、内弟子のライバル。奇妙な組み合わせの私たちを、朝倉七段は穏やかなまなしで迎え入れてくれた。
 一年前と同様、客間に通される。
 奥様が点ててくれた抹茶を飲み干した後で、本題に入った。
「率直に言います。二年半前、私は彼女に完敗しました。ようやく四段になれましたが、彼女を倒さずして、本物の棋士にはなれないと思っています」
「君はもう立派な棋士だよ。僕と妻は長く夕妃を見てきたからね。女性が四段になるということが、どれくらい大変なことか、君たち自身の次に理解していると思う」
「朝倉先生は以前、こうおっしゃいました。順番が違う。今の君には、それを知る資格がない。だから、私は棋士になって戻って来ました。今度は教えてもらいます」
 朝倉七段の柔和な表情は変わらない。
「千桜さんは何処に消えたんですか? どうして逃げたんですか?」
「君は、あの日、夕妃が逃げたと思うのかい?」
「思いません。彼女には逃げる理由がない。でも、彼女は対局の場に現れませんでした」
 朝倉七段とどれくらいの間、見つめ合っていただろう。
「すまない。お茶をもう一杯もらえるかな」
 朝倉七段は居間にいる妻に呼びかけてから、
「あの子はね、自分のことを知られたくなかったみたいなんだ。答えるべきか否か、少し考えさせて欲しい。お茶を一杯飲む間だけ」
「急ぎません。千桜さんのことを教えてもらえるなら、何時間でも待ちます」
 運ばれてきた抹茶に口をつけ、朝倉七段は目を閉じる。
 彼女は弟にすら真実を告げずに姿をくらました。しかし、大恩ある師匠にだけは秘密を作らなかった。そういう理解で正しいのだろうか。
 お祖父ちゃんの話によれば、朝倉七段は将棋連盟理事たちによる聴取でも、弟子の現状について語らなかったらしい。
「智嗣君は夕妃の弟だ。彼女が生まれつき肺に問題を抱えていたことは知っているね」
「姉はそれを誰にも知られたくないと言っていました。対局に言い訳は不要だからと」
「あの子は弟子入りした時から、そういう信念を持っていた。何度も入退院を繰り返していたのに、連盟の人間にも肺の問題を隠していた。夕妃の身体のことを知っていたのは、僕と智嗣君くらいだろう」
「言い訳はしたくない。その気持ちは分かります。でも、どうして、そこまで隠す必要があったんですか?」
「女だからだ。ただでさえ対等に見てもらえないんだから、同情を買うようなことはしたくない。それが夕妃の意志だったし、肺の問題を隠すことには僕も賛成だった。相手の体調に問題があると知って、無駄に時間をかけてくる人間もいるからね」
「でも、それなら、どうして昇段後の会見で公表したんですか?」
「あの場で夕妃が言っていた通りだよ。あの子は責任感が強い。対局料をもらう立場になったのに、戦えない理由を隠すのは不誠実。そう考えたんだろう。入院や突発的な体調不良で欠場することは避けられないからね」
「だとすれば余計に分かりません。これから始まる棋士生活を踏まえて、病状を告白したんですよね。だったら、どうして消えたんですか? 一局も指さずに彼女は何処に?」
「俺も教えて欲しいです。姉が消えてから、もう二年以上っています。何一つ情報がないせいで、死亡説どころか殺されたのではなんて話まで出てきている。お願いします。どんなさいなことでも構いません。姉のことが心配なんです」
「僕の口からは何も話せない。ただ、君たち二人は知っても良いのかもしれない」
 朝倉七段は立ち上がり、桐だんの最上段から何かを取り出した。
「夕妃のことを知りたいなら、ここを訪ねてみると良い」
 差し出された用紙には、愛媛県のとある住所が書き込まれていた。

 朝倉七段の自宅を出てすぐに、智嗣さんは渡された住所を検索した。
「病院だ。病床数が二百だから結構大きいな」
「やっぱり入院していたってことですか?」
「そこまでは分かりません。ただ、この病院をうちの父が把握していなかったことは確かです。少し前に姉の居場所を聞いた時、不機嫌そうでしたから。父は何もかもを掌握していないと気が済まないなんです」
「ここに行ってみないと何も分からないってことか」
「守秘義務がありますから、そうなりますね。今日が土曜日で良かった。最悪、泊まりになっても何とかなる。俺は今から羽田に向かいます」
「私も一緒に行きます」
 迷う必要などなかった。
 千桜夕妃を倒さない限り、私は本物の棋士にはなれない。
 彼女が失踪した理由を知らずして、私は棋士の道を歩き出せない。

      7

 受付で智嗣さんが免許証を見せ、弟であることを伝えると、千桜さんが入院する個室まで看護師に案内された。どうやら事前に朝倉七段が、彼女の弟と友人が訪ねるかもしれないと連絡を入れてくれていたらしい。
 不穏な予感がなかったと言えば、噓になる。
 私が知っている千桜夕妃は、いつだってひどい顔色をしていた。将棋会館で苦しそうなせきが止まらなくなる姿を見たのも、一度や二度じゃない。
 だけど、ここまでの姿は想像していなかった。
 個室のベッドに横たわる彼女は、透明な管につながれ、鼻の下に呼吸用のチューブをつけて目を閉じている。頰はこけ、タオルケットの先にのぞく手首は、以前より細くなっていた。
 病院を紹介されたのだ。元気な姿の彼女と再会出来るとは思っていなかったが、幾ら何でもあんまりだ。これじゃ、今にも……。
「姉さん」
 智嗣さんがつぶやき、ゆっくりと彼女が目を開けた。
「……智嗣。久しぶり。大人っぽくなったねぇ」
 彼女はうつろな目をしていたけれど、意識ははっきりしているようだった。
 案内してくれた看護師からは、手術が終わったばかりで体力が落ちているため、面会は短時間にして欲しいと言われている。
 胸騒ぎがしずまらない。二年間、黙していた朝倉七段が口を割ったのだ。
「まさか、このまま死ぬとか言わないわよね?」
 力なく頭を傾けて、彼女が私を視界に捉える。
「……諏訪さん。どうしてあなたが」
「勝ち逃げなんて許さない。絶対に許さないから。私は、あなたに勝つことを目標にしてやって来たのよ」
 お願いだから、何ともないと言ってくれ。余計な心配をするなと怒ってくれ。
 あの日、あなたに負けたから、私は強くなれた。
 再戦する日を夢見て、一日も無駄にせず努力してきた。
 あなたがいるから、私は棋士になれたのだ。
「女でしょ? こんなところでくたばってないで、気合いを見せなさいよ!」
「諏訪さん、ここは病室です。大きな声は……」
 正論で諭されたって、たかぶる感情は抑えられない。
 悔しい。こんなところで、こんな形で、最大のライバルと……。
 千桜さんはタオルケットをめくると、上半身をゆっくりと起こす。
「姉さん。無理はしないで」
「大丈夫。見て欲しいものがあるだけだから」
 入院服の裾をつかみ、彼女はそれを胸の下まで引き上げる。
 現れたのは、透き通るようなはくせきと、目を背けたくなるほどの傷痕だった。心臓の辺りから下腹部まで大きな傷痕が続き、周辺はんだように色が変わっていた。
「逃げません。こんなところで、くたばったりもしません」
 苦しそうな顔で、しかし、はっきりと告げられた。
「戦うために手術したんです。半年かかると言われているので、私はフリークラスに転落します。でも、戦いたいんです。そのために戻って来ました」
「じゃあ、私は、あなたを待っていても良いの?」
 服の裾を戻し、顔を歪めたまま彼女はうなずく。
「もう一度、将棋を指しましょう。今度は棋士の世界で」
 告げられたのは、私が何よりも聞きたかった言葉だった。

▶#3-3へつづく
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