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連載

綾崎 隼「盤上に君はもういない」 vol.20

幼い夕妃に将棋を教えた人物の行方は? 棋士の頂を目指す者たちの静かで熱い青春譜‼ 綾崎 隼「盤上に君はもういない」#5-2

綾崎 隼「盤上に君はもういない」

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 歩みは遅くとも、成長を続けられた要因は、デジタルネイティブの棋士として育てられたことにあると、自己分析しています。
 今のソフトは強化学習によって人間とは違う価値観を身につけているため、感覚的な部分さえ進歩しています。
 将棋は選べる手が無数にあるせいで、序盤や中盤の優劣を客観的に捉えることが難しいのですが、コンピューターは評価値という具体的な数字を算出出来るため、人間には判断が出来ない形勢や指し手の価値を、示すことが出来ます。
 み砕いて言えば、ソフトを使いこなせば、他の棋士たちがまだ気付いていない手や局面の優劣を知ることが出来るということです。
 将棋は勉強すればするだけ強くなります。ただ、成長の速度は、勉強の仕方によって大きく変わります。大切なのは時間の長短ではなくその使い方です。
 将棋とは賢く勉強した者こそが勝者となれる、賢者の遊戯なのです。

 奨励会の年齢制限は二十六歳ですが、体調不良による不戦敗が続いたせいで、二段で長い間、足踏みを続けることになってしまいました。
 叶うとは限らない夢を追うことは、苦しく、厳しい。振り返ってみても、あの頃は、考えても仕方のないことを気に病むことが多かったように思います。
 私が体調を崩している時、師匠は絶対に対局を休ませました。若い頃に無理をしたせいで、ハンデを抱えることになった人生を、弟子に繰り返させまいとしていたからです。
 弟子を思うが故に、厳しくして下さっていることは分かっていました。
 ですが、もしも間に合わなかったら、すべてが無駄になってしまいます。
 奨励会の若者たちは、人生を将棋だけに捧げています。
 青春も、他の可能性も、何もかもを犠牲にして戦っています。
 たとえ命を落とすことになってしまっても、私は棋士になりたかった。棋士になれないで長生きするくらいなら、棋士になって二十代で死にたいと、本気で思っていました。

 二段になって半年ほどが経った頃、対局を有利に進めていたのに、中盤で不意に眩暈めまいおう感に襲われてしまったことがありました。
 こちらの体調に気付き、無理やり長期戦に持ち込もうとする方は、それまでにも大勢いましたし、その日の対局者が選んだのも、そういう戦術でした。
 勝つためにベストを尽くすのは、当たり前のことです。
 汚いとは思いません。体力も含めて、棋士の力だからです。
 必死の早指しで局面を進めましたが、私は途中で気付いてしまいました。
 このまま無理をすれば倒れてしまう。また入院生活を送る羽目になってしまうかもしれない。そんなことになれば、どれだけ不戦敗が続くか分かりません。負ける気などしないのに、投了するしかありませんでした。
 女性用控室で横になり、二種類の薬を服用すると、時間と共に、鼓動が落ち着いていきました。これなら病院に行かなくても済むかもしれません。
 対局後、私が控室で横になっている姿を見慣れていたからでしょう。その日も誰かに声を掛けられるということはありませんでした。
 奨励会は二段までは関東と関西で分かれています。
 かつての私は、奨励会に入ればアンリと再会出来ると考えていました。
 けれど、いつまで待ってもアンリは現れませんでした。関西の奨励会員の名簿にも、毎年の受験生の名簿にも、その名前を見つけることは出来ませんでした。
 友達がいないことを、寂しく感じたことはありません。
 私には素晴らしい師匠がいます。何でも相談出来る頼子さんがいます。毎月のように大切な弟にも会えています。決して孤独ではありませんでした。それなのに、時々、無性に寂しくなってしまうのは、やっぱりアンリに会えないからでした。
 アンリが何処で何をしているのか、まったく分からないせいで、心がざわつくのです。
 嫌な負け方をした日は、嫌でもアンリのことばかり考えてしまいます。
 帰途に就いてすぐ、再び眩暈に襲われてしまった私は、将棋会館のあるせん駅にも辿り着けず、やむなく公園で休むことにしました。
 こんな体調です。明日は大学の講義も休まなければなりません。
 今日も太陽は、あんなに高いのに。
 子どもたちは、無邪気に走り回っているのに。
 どうして自分一人だけが、こんなにも弱いんだろう。
 泣きたくなるようなおもいを抱きながら、屋根付きのベンチで休み、ボーッと空を眺めていたら、不意に横から名前を呼ばれました。
 缶コーヒーを片手に立っていたのは、見覚えのある年配の観戦記者でした。
 こんなに近くに誰かが来るまで気付かないほど、ぼんやりしていたらしい。ひとしきり落ち込んだ後で、彼のことを思い出しました。
 ふじしましようさん。何度か取材の申し込みをされたことのある記者でした。
「隣、座っても良いかい? 年のせいで膝が痛くてね」
 彼はそんなことを言いながら、少しだけ距離を空けて、隣に腰を下ろしました。
 観戦記者と一口に言っても、様々なタイプがいます。新聞社や雑誌社に所属し、社の主催する棋戦を扱う記者が多いですが、藤島さんは完全なるフリーランスでした。若手について書くのが好きらしく、奨励会のこともよく記事にしている記者です。
 私は初段に上がった時も、二段に昇段した時にも、取材を申し込まれていました。
 まだ自分は何も成し遂げていない。何を語っても滑稽に聞こえてしまう。そう思って二度とも断っていましたが、彼は嫌な顔一つしませんでした。
「千桜さんは本当にいつも頑張っているね。頭が下がるよ」
 藤島さんはその日も褒めて下さいましたが、奨励会では頑張っていない人などいません。素直に思っていることを伝えると、
「いや、あんたは誰よりも頑張っているよ」
 少し強い口調で断言されました。
「この十年、いや、もう二十年かな。あんたより不戦敗の多い奨励会員を見ていない。詳しいことは知らないけど、大変なんだろ。偉いよ。女ってだけで偉いのに、千桜さんの頑張りには、本当に頭が下がる」
 父親よりも年配の男性に手放しで褒められると、反応に困ってしまいます。
「俺はね、人を見る目があるんだ。千桜さん、あんたはプロになるよ。あんたが最初の女性棋士になる」
 嬉しい言葉でしたが、みにするほど子どもではありませんでした。棋譜を見たならともかく、三段以下の奨励会員の対局を見る機会は、ほとんどないからです。
「俺は例会がある日は、ほとんど将棋会館にいるからね。気付いたのは、あんたが一級の頃かな。千桜夕妃はとにかく早い。大抵、あんたは一番早く対局室から出て来る。そして、そういう時は必ず勝っている。雑なんじゃない。頭の回転が誰よりも速いんだ」
 素直に驚いてしまいました。奨励会の取材が好きだということは知っていましたが、想像していた以上に、彼は奨励会員たちをよく観察していたのです。
「早指しは気性かい? それとも、体力に不安があるから?」
 答えは後者です。私には時間がないと思っていたからこそ、こんな棋風になりました。
 それを告げると、藤島さんは寂しそうに空を見つめました。
かなしい話だね。俺みたいな老いぼれの時間を分けてあげたいよ。あんたは朝倉七段の弟子だろ? 才能があるやつに降りかかる悲劇は、不運というより罪だな。朝倉七段は人並みの健康な身体があれば、タイトルを取っていてもおかしくない棋士だ」
 それは、私が常日頃から歯がゆく感じていたことでもありました。
 私は今でも師匠が最強の棋士の一人だと信じているからです。
「千桜さん。話したことは記事にはしない。もちろん、インタビューしたいって気持ちはあるけど、あんたが良いと言うまでは何も書かない。だから、これからも時々、話しかけて良いかい」
 面白いことなんて何も言えないと思います。
 恐縮しながら答えると、藤島さんは楽しそうに笑って下さいました。
「棋士を目指そうなんて奴の話は、それだけで面白いよ。それにね、俺は好きなんだ。才能ある若い奴と話すのが。成長する姿を見るのが、人生最大の喜びだ」
 変わった人だと思いました。
 奨励会員なんて何者にもなれずに敗れ去っていくだけかもしれないのに、喋っているだけでそんなに楽しいものなんだろうか。私には分かりませんが、藤島さんはそれからも時折、話しかけてくるようになりました。
 缶珈琲を飲みながら公園で雑談する仲になった後、私は一つの誤解に気付きました。
 藤島さんは棋士や棋士の卵から話を聞くことを、商売の種にしています。
 当初は私が与える側で、彼は受け取る側だと思っていました。しかし、実際に会話による恩恵を受けているのは私だけでした。
 藤島さんは何十年という記者生活で出会ってきた棋士たちの若い頃の話を、沢山聞かせてくれました。憧れ続けた棋士たちの奨励会時代の話は、聞いているだけで高揚するエピソードばかりでしたし、参考に出来る話も山ほどありました。
 私との会話なんて藤島さんにとっては商売の種にもならない雑談です。それなのに、彼は何時間でも棋士たちの話を楽しそうにしてくれました。
「早くプロになったあんたを取材したいよ」
 棋士になるまでインタビューは受けない。そんなこと、実は私は言っていないんです。それでも、いつの間にか、藤島さんの中ではそんなルールが出来ているようでした。
 藤島さんは出会った頃から、私が棋士になれると信じて疑っていませんでした。
 単純に嬉しかったし、誇らしかった。
 私にとって、この世界はとても残酷です。
 ですが、いつだって見つけてくれる人がいました。

 私は二十三歳で奨励会三段に昇段しました。
 奨励会には三段リーグに最低五回は挑戦出来るというルールがあります。私の場合、年齢制限がくるタイミングで、ちょうど五回目の挑戦になる計算でした。
 奨励会の規則は前触れなく変わることがありますので、二年半後も同じレギュレーションであるとは限りません。ただ、一つ確実だったのは、増えすぎた棋士の数を抑制するために改定された規則が、今更、私の都合の良いように変更されることはないだろうということでした。
 私を取材してもらえないでしょうか。
 三段リーグへの挑戦が始まる前に、藤島さんにそう持ちかけました。
 今、大言壮語を語っても、棋士になれず奨励会を去ることになるかもしれない。でも、仮にそうなったとしても恥ずかしいことではありません。
 過去、何人もの女性が、三段リーグに挑戦しては夢破れ、去っています。
 しかし、彼女たちは決して負け犬じゃない。勝者にはなれなかったかもしれませんが、彼女たちが誇り高い戦士であり、勇者であったことは疑いようのない事実です。
 私も同じように、胸を張って三段リーグで戦いたい。
 藤島さんからの取材を受けることにしたのは、覚悟を決めるためでした。
 女流棋戦に出場したことがない私は、一般的にはほぼ無名です。インタビューを受けたことで、日陰にいた女性三段の存在が、世の中に知られることになりました。
 私は初挑戦で、十七局目と十八局目を体調不良で欠場した上で、十勝八敗という成績を残しています。四段昇段の可能性を感じさせるには十分なものでしたから、取材の申し込みも一気に増えることになりました。
 けれど、世の中が私の存在を忘れるのもまた、早かったと記憶しています。
 二度目と三度目の挑戦は全休、四度目の挑戦でも序盤戦を欠場で棒に振り、早々に二位争いから脱落していたからです。

 ラストイヤーには二人のぼしが現れました。
 高校一年生にして女流五段の諏訪飛鳥さんと、中学二年生の竹森稜太さんです。
 これ以上ないほどのスポットライトが当たった三段リーグで、私は初日を欠場し、復帰戦の三局目でも敗北しています。三連敗からのスタートでした。
 四局目で初勝利を挙げたものの、四段に昇段出来るのは二人だけであり、三十人以上がその椅子を狙っています。
 わずか二日で、私のプロ入りを予想する記者は、藤島さん一人になってしまいました。
 二日目の対局を終えた後、いつもの公園で藤島さんに話しかけられました。
「俺はね。人を見る目があるんだ。今期、昇段するのは、あんただよ。ほかの記者たちは勝者にあんたを挙げた俺を笑ったが、今も一ミリだって疑っていない」
 一勝三敗。絶望的なスタートです。普通に考えれば、勝ち越すことで一期延命することが現実的な目標でしょう。ですが、藤島さんと同様、私もまだ自分を信じていました。
 竹森名人に記録を塗り替えられるまで、三段リーグでは十七勝以上した人間がいませんでした。全員、必ず二敗はしているのです。そして、十五勝三敗で終えた人間は、百パーセント昇段しています。四敗でも昇段の確率は九割近くあり、五敗になって初めてその確率は五割まで下がります。つまり、あと一敗しても、ほぼ確実に昇段出来るのです。
 可能性が残っている限り、諦める理由などありませんでした。
「あんたは女である以前に、肉体にハンデを背負っている。ずっと、聞いてみたかったんだ。どうしてそこまで戦えるんだ? 俺は、あんたの闘志が曇る瞬間を見たことがない。あんたをそこまで駆り立てるものは何なんだろうな」
 人は言葉にすることで、自らも気付いていなかった真実を悟ることがあります。
 私はその日、師匠以外には話したことがなかった生い立ちを、藤島さんに話しました。
 小学四年生の秋まで、三年半の間、入院生活をしていたこと。
 そこで友達が将棋を教えてくれたこと。
 いえ、それは正確な言い方ではないかもしれません。友達が教えてくれたのではなく、将棋を始めたから、その子と友達になれたわけですから。
 藤島さんはアンリについて知りたがりましたが、残念ながら話せることはほとんどありませんでした。別れて以降の彼については、私も何も知らなかったからです。
 ただ、藤島さんはとても興味をかれたようで、
「よし、じゃあ、俺がその友達を捜してやるよ。消えたもう一人の天才。面白そうな話じゃないか」
 そんな風に言って下さいました。
 その言葉で、私は最後の勇気をもらったのだと思います。

 もしかしたら藤島さんがアンリの行方を突き止めてくれるかもしれない。そうしたら、夢にまで見た再戦だって叶うかもしれない。
 希望は心の活力です。
 皆さんもご存じの通り、私は残りの十四局を、十三勝一敗という成績で走破し、最終的には十四勝四敗の二位で、四段昇段を果たしました。
 人生で最も嬉しかった瞬間を問われたなら、私は今でも、迷わずこの日を挙げます。
 二十六歳までの私は、棋士になることだけを生きる目標としていました。
 この国に生まれてきて良かった。
 命まで燃やすような戦いの後で、私は心の底から、そう思いました。

      3

 よどみなく語り続けていた千桜さんが不意に黙り込み、窓の外に目を向けると、完全に日が暮れていた。
 彼女の話に夢中になるあまり、時間が経つことを忘れてしまっていたらしい。
 インタビューが始まってすぐに、長くなると思うと言われ、けいちよう新聞社の会議室に移動している。それから今まで彼女は喋り続けていた。
 途中で何度も休憩を取るべきだと思ったけれど、切り出せなかった。
 ずっと知りたかった千桜夕妃の内奥に触れる時間が、たまらなく楽しかったからだ。
 そして今、私が一番知りたかった空白の三年間に辿り着いた。
 稀代の女性棋士の人生は、期待以上に興味深かった。新たに知ることも沢山あった。だが、本当に知りたいのは、ここから先の物語である。
 九年前、史上初の女性棋士が誕生した時、誰もがその偉業を手放しで祝福していた。狂想曲のように報道が過熱し、連日連夜、マスメディアに躍った『千桜夕妃』の名前は、その年の上半期、日本で一番検索されたワードにもなった。しかし……。
 期待が最高潮に達したタイミングで訪れたデビュー戦に、彼女は現れなかった。
『千桜四段は幼い頃から不安を抱えてきた肺を病み、静養を余儀なくされました』
 将棋連盟より説明がなされたけれど、私や飛鳥は発表に納得していなかった。千桜さんの入院先すら連盟が把握していなかったからだ。しかも彼女が姿を消していた間、師匠である朝倉七段は、弟子について一言も語らなかった。
 千桜夕妃には空白の三年間がある。私の使命は、その謎を解き明かすことだ。
 心情としては、今すぐに続きを聞きたい。ただ、
「さすがに疲れましたよね。一度、休憩を入れますか?」
 彼女は体力に不安を抱える棋士である。理性では日を改めるべきだと分かっていた。
 けれど、私は好奇心に打ち勝てなかった。
「千桜さんさえ良ければ、このまま話を聞かせて頂きたいのですが」
 ずっと気になっていた彼女の秘密に触れるチャンスなのだ。
 知りたかった。千桜夕妃という棋士にれたからこそ、その内奥を理解したかった。
 彼女は私の提案には答えず、深刻な顔で黙り込んでしまったが、やがて、
「聞かれた質問には、正直に答えたい。最初にお伝えした通り、そう思っています」
 長い沈黙を破り、そんな言葉を口にした。
「ただ、矛盾するようですけど、誰にも話さないと決めたことがあって。今も、ずっと、考えていたんですけど、やっぱり、それを話そうという気持ちには、どうしてもなれなくて。すみません」
 消え入るような声で謝罪されたものの、彼女が謝る筋合いなどないことだけは確かだった。千桜さんの人生を知りたいというのは、記者である私の我がままでしかない。
 彼女は善意でそれを語ってくれているに過ぎないのだ。
「話さないと決めたことというのは、棋士になってからの話ですか? それとも、千桜さんが世間から消えていた三年間の話ですか?」
「佐竹さんが知りたいのは、あの三年間のことなんだろうなって、薄々気付いてはいたんです。だけど、やっぱり、ごめんなさい」
 そんな風に言われてしまったら、何も聞けなくなってしまう。
 やはり空白の期間に、千桜さんはベッドに横たわっていただけではないのだ。
 復帰後、彼女の棋風は明らかに変わっている。人生観すら変わる何かを、その期間に経験したとしか思えない。
 しかし、はっきりと告げられてしまった。
 彼女はあの三年間について、今も語るつもりがないのだ。
 とはいえ、あの三年間を紐解かずして千桜夕妃は理解出来ないと、私は記者の勘で確信している。そして、今日、半生を聞き、突破口も見つかった。
 鍵は『アンリ』だ。
 アンリの行方を突き止め、二人の再会が叶えば、閉ざされた彼女の心を開くことが出来るかもしれない。

 何も出来ない時間は、もどかしい。
 具体的な進展がないまま、インタビューから一ヵ月が経った頃、
「佐竹さん。この後、時間はあるかい。話したいことがあるんだ」
 順位戦の取材中に、千桜さんと親交が深い記者、藤島さんから思わぬ誘いを受けた。
 千駄ケ谷駅近くの居酒屋に入ると、お通しが運ばれてくるより早く、彼が話し始めた。
「俺は来月で六十歳になる。自営業みたいなもんだからね。定年退職があるわけじゃないが、さすがに引退だって考えちまう。最近、足腰がきついんだ」
「その年齢まで一線で記者を続けられていること、尊敬します」
「そういうのは良いよ。年下の同業者に、ご機嫌を取られるようになったら終わりさ。やりたいようにやってきた記者人生だ。後悔はない。ただ、一人だけ、もっと追い続けたかった棋士がいる。佐竹さんなら俺に誘われた時点で分かるだろ」
「……千桜夕妃竜皇でしょうか」
「ああ。俺はあの子が大学生の頃から追いかけてきた。半分、自分の子どもみたいなもんだ」
「千桜竜皇も藤島さんを慕っていますよね。嫉妬を覚えたこともあります」
 素直な思いを打ち明けると、藤島さんは嬉しそうに破顔した。
「最近、やっと彼女のインタビューを取れるようになったんです。でも、頑張ったんですけど、本質的な部分には踏み込ませてもらえませんでした」
「なるほど。それでアンリについて調べてたのか」
 私は二週間ほど前、彼に『千桜竜皇の幼少期の友人について何か知りませんか?』というメールを送っていた。今日まで返信はもらえなかったわけだが、
「正直、手詰まりで、わらにもすがりたい状況なんです」
「俺が知っているのは、二人が子どもの頃の話だけだよ」
「藤島さんもアンリの現状については知らないということですか?」
「ああ。期待に応えられなくて、すまないね。俺も彼には会ったことがないんだ。ただ、あんたの手助けをまったくしてやれないわけでもない」
 藤島さんはポケットから小さなメモを取り出す。
「俺も調べたことがあったんだよ。あの子の四段昇段祝いにしようと思ってね。これは、その時に突き止めた帰国先の居住地だ」
「この住所は千桜さんも知っているんですか?」
「ああ。あの子に渡したものだからね。ただ、そこから先のことは知らない。俺の仕事は、棋士の人生に干渉することではないからな。それでも、引退を考え始めた時に、ふと思ったのさ。あの子の背中を押してやれる記者がいても良いんじゃないかって。そういう記者に、あんたならなれるかもしれないってな」
 もちろん、彼女に望まれれば今すぐ立候補したい。
「あの子はね、放っておくと、すぐに孤独になろうとする。でも、人間が一人で出来ることには限りがあるだろ。実際、俺の期待なんぞでも力になっていたみたいだしな」
「そうですね。竜皇は藤島さんに、とても感謝していました」
「嬉しいね。じゃあ、なおさらだ。俺が消えても、あの子が安心して信頼を置ける記者がいて欲しい。だから、それをやるよ。今もそこにいるという保証はないが、確かめてみる価値はある。竜皇のルーツを辿る旅だ。経朝新聞なら取材費も出るだろ。あの子の背中を押してやってくれないか?」

 棋士たちほど波瀾万丈に生きてきたわけではないけれど、私の人生にも物語のようなエピソードは存在する。
 あれは小学生になった頃だっただろうか。
 年末、母の実家である北海道に飛行機で里帰りした際、降雪に見舞われ、着陸までの十分間、信じられないほどに機体が揺れた。墜落を覚悟した私は泣き叫び、着陸した後も酔いが収まらず、その場で吐いてしまった。
 恥ずかしかったし、一生忘れられないトラウマになってしまった。あの一件以来、飛行機が完全に駄目になってしまい、高校の修学旅行すら仮病で休んでいた。
 就職後は仕事での出張も多かったが、飛行機には一度も乗らなかった。たとえ徹夜をしてでも新幹線と列車で現地に向かい続けた。
 しかし、今回ばかりは観念するしかないだろう。
 三ヵ月前、藤島さんの協力を得た私は、曲折を経て、アンリ・ヴァランタンの現在の居場所を突き止めた。かつて彼女に将棋を教えた少年は、二十五年の歳月を経て、フランスのニースにある病院にいるとのことだった。
 アンリとの再会を見届けずして、不世出の棋士の人生は、本に出来ない。
 二ヵ月かけて上司を説得し、千桜さんの対局予定とにらめっこしながら、私は同行取材の名目で二人分のチケットとホテルを手配した。
 外堀から埋めてしまえば、渡仏を説得出来ると思ったからだ。
 幼き日の友人が南仏の病院にいる。
 それを知った千桜さんは、珍しく動揺の色を見せていた。
 彼女の心中は想像するよりほかになかったが、現地までのチケットを二人分、手配してあると告げると、私の同行も受け入れてもらうことが出来た。

「唇が真っ青ですよ。大丈夫ですか?」
 国際線出発ロビーで合流した千桜さんは、挨拶より先に、私の顔色を心配してきた。
 体調に問題はない。これは心の問題だ。
 乗り換えも合わせれば、十二時間と二時間のフライトである。
 二人の再会を見届けるには、その前に悪夢のような壁を乗り越えなければならない。搭乗する前から酔っているみたいな気分だった。
「私、子どもの頃から飛行機が駄目で。死ぬまで乗らないという誓いを、成人の日に立てたんです。でも、千桜さんを一人で行かせるわけにはいかないじゃないですか」
 大人が飛行機を嫌がる姿が、おかしかったのだろう。珍しく彼女が苦笑する顔を見た。
「私は日常会話であればフランス語も話せますので、渡航に不安はありませんよ」
「言葉の問題ではなく、体調に不安がある千桜さんを、一人には出来ないという意味です。それに、お二人の再会は絶対にこの目で見届けたい。記者魂です」
 これから私たちが向かうのは、南フランスの地方都市ニースだ。
 アンリは帰国後、ニースの病院に転院し、自身も医者となったらしい。

 精も根も尽き果てるとはこのことだろう。
 ニースに到着した時には、冷や汗も出尽くしていた。
 機内では千桜さんに随分と心配をかけたし、到着してからもホテルまでの道中、語学にけた彼女に、頼りっぱなしになってしまった。
 せめて英語だけでも勉強し直してくれば良かっただろうか。
 付き添いという立場でありながら、ほとんど介護されているような状態の自分が情けなかった。
 ホテルでの一泊を経て、私の体調は回復したのだけれど、翌朝、今度はか、彼女の顔色が朝から曇っていた。
 ロビーでは何もないところでつまずいていたし、出掛けには忘れ物までしていた。
 フランス滞在、二日目。
 今日が本番である。
 潮の匂いがする海岸通りには、朝から力強い太陽の光が降り注いでいた。
 朝食を食べ、意気揚々と目的の病院に向け出発したものの、すぐに私たちはバスを降りることになってしまった。乗り込む路線を間違えていたからである。
 昨日から彼女に頼りっぱなしの私が言えた義理ではないのだが、こんなに落ち着きのない千桜さんを見るのは初めてだった。

 ニースの旧市街を抜けた先には、La colline du châteauラ・コリーヌ・デユ・シヤトーと呼ばれる丘がある。
 その一角に建つ病院を訪ねた私たちは、あまりにも意外な歓迎を受けることになった。名乗るより早く、千桜さんが患者たちに取り囲まれたのである。
 将棋連盟の常任理事である千桜さんは、国際宣伝部の部長として、海外での普及活動に尽力している。
 率先して広告塔を務めていることもあり、単純に棋士として抜群の知名度を誇るわけだが、患者たちは彼女が五ヵ月前に竜皇になったことまで知っていた。
 フランスでは数年前から将棋ブームが起きていたと聞く。
 患者たちは現役竜皇の突然の来訪に、信じられないほどの歓声を上げていた。
 世界的な人気を博すようになったとはいえ、依然として棋士は日本人しかいない。現実問題として海外で棋士に会える機会はめったにない。
 対局を見たい。
 叶うなら竜皇と対局してみたい。
 当代きっての棋士を前に、患者たちが望むことは同じだった。
 患者たちにせがまれ、千桜さんは希望者全員と将棋を指すことに決める。
 指導対局をするために来たわけではないのだけれど、そうでもしなければ何十人と集まった患者たちが解放してくれそうになかった。
 千桜さんをぐるりと囲むように、患者たちは将棋盤を床に置いていく。中には白衣姿の男性の姿もあった。
 最終的に集まったのは、二十三人の挑戦者たちだった。
 一対二十三の戦いが始まり、千桜さんは盤を移動しながら、よどみなく指していく。
 二十三の盤面を覚えておくなど、彼女にとっては朝飯前なのだろう。中盤に至っても、千桜さんが指し手を選ぶのに時間をかけることはなかった。
 囲い、しや穴熊、詰まされにくい戦法を取る人間も多数いたが、誰の守りも棋士の前には無力だった。
 千桜さんは一度として十秒以上の時間をかけることなく、たった一時間で二十三人に勝利していた。竜皇に対し、破れかぶれの王手をかけることが出来た人間すら、一人も現れなかった。

 対局後、千桜さんが看護師に、アンリという人物に会いに来たことを告げる。
 ようやく目的を果たせる。そう思ったのも束の間、次なる展開に、私は再度、戸惑うことになった。
 看護師に呼ばれて現れた人物が、年端もいかない少年だったからである。
 どう見ても彼は小学生だった。それも低学年だろう。
 あどけない顔に、金糸のように繊細な髪と青い目。聞いていた通りの容姿ではあるものの、彼は私たちが会いに来た人物ではなかった。
 ティエリ・アンリなんて名前の有名なサッカー選手もいたし、『アンリ』とは、この国では珍しい名前ではないのかもしれない。
 アンリ少年は千桜さんに気付くと、他の患者たちと同じように目を輝かせ、すぐに対局を申し込んできた。
 二十三人の大人たちと将棋を指したのに、子どもの願いを無下にするのも心苦しい。
 千桜さんが少年との対局を了承すると、患者たちが再び集まって来た。
 観客となった患者たちが口々に何かを言っていたが、フランス語なので分からない。そんな私に気付き、千桜さんが説明してくれた。
「彼がこの病院で一番強いそうです」
「そうなんですか?」
「先月、国内チャンピオンにもなったそうです」
「フランスはヨーロッパの中でも、将棋の普及が早かった国ですよね。大会の規模で話は変わるでしょうけど、にわかには信じられません。この子、幾つですか?」
 千桜さんに質問され、少年の口から返ってきたのは「huit ansユイツタン」という言葉だった。
「八歳だそうです」
「八歳? 八歳で国内チャンピオンですか? 幾らなんでもそれは」
「周りの方たちも頷いているので本当のようですよ」
 気付けば、周囲を数十人の観客が囲んでいた。
 患者だけではない。看護師や、仕事中であろう医師たちの姿まである。
「『大橋流』か。この子、作法も勉強していますね」
 将棋の王の駒には、『王将』と『玉将』が存在する。上位者が『王将』を使用するのが一般的であり、少年は『玉将』の後、金、銀と決められた順番で駒を並べていった。
「千桜さん。将棋を指すのも良いんですけど、ちゃんと質問して下さいね。この病院には、もう一人、アンリがいるはずです。それは間違いないんです」
 私たちがはるばるニースまで来たのは、彼女の少女時代の友人に会うためである。
 乞われるがまま、悠長に将棋を指す千桜さんに、私はもどかしさを覚えていた。
「それ、お父さんのことかもしれません」
 一瞬、誰が言葉を発したのか分からなかった。
 日本語だったのに、明らかに千桜さんの声ではなかったからだ。
「僕の名前は、アンリ・ヴァランタンJr.です。その会いたい人というのは、僕のお父さんではないでしょうか」
 駒を並べ終わった少年が、青い瞳で私たちを見つめていた。
 捜しているアンリは千桜さんと同世代だ。この年代の子どもがいても不思議ではない。少年の父親がくだんの人物なら、彼が日本語を話せることにも説明がつく。
「では、この対局が終わったら、お父さんの話を聞かせてもらえませんか」
「良いですよ。竜皇が勝ったら何でも話します。その代わり、僕が勝ったら、お願いを一つ聞いて欲しいです」
 少年は自信に満ちた顔で交換条件を出してきた。
 国内で優勝経験があると言っても、所詮は子どもだ。棋士に勝てるはずがない。
「分かりました。では、こうしましょう」
 千桜さんは自らの駒から角を取ると、木箱の中に戻す。
「駒落ちですか? 僕に負けるわけがないって思っているんですね」
「あなたは勝っても負けても、お父さんのことを教えてくれるでしょう? だったら、あなたにも勝てる可能性がないと不公平です」
「僕は竜皇が思っているより強いですよ」
「そうですね。そう感じたから、飛車ではなく角を落としました」
 駒を落とされたことに納得がいかないのだろう。少年は不服そうだったが、千桜さんが駒を盤に戻すことはなかった。
「約束ですからね」
 駒落ちの将棋では、落とした側が先手となる。
 千桜さんが初手で中飛車を選択すると、少年は応じるように飛車を中央に振った。持久戦ではなく、真っ向勝負を望んでいるのだ。
「僕が勝ったら、お願いを聞いてもらいます」
「分かりました。ただ、私はどんな時も、将棋で手加減はしません」
「嬉しいです。それでこそ『棋士』だ」
 棋士が盤上で躍らせる駒は、音が違う。
 その美しい所作の一つ一つに、観客たちからどよめきが起こっていた。

 千桜夕妃は竜皇である。
 三十五歳の彼女は、現役最強の棋士の一人と言って良い。
 対する少年、アンリ・ヴァランタンJr.は、わずか八歳だ。とはいえこの病院内では「アンリ先生」と呼ばれており、一ヵ月前の国内大会ではチャンピオンになったと聞く。
 八歳が優勝したなんて、にわかに信じられる話ではない。だが、彼の父が少年時代に千桜さんと互いにせつたくしたアンリであれば、眉唾みたいな話でも信じないわけにはいかない。
 近年は訪日して棋士を目指す外国人も増えている。しかし、いまだ奨励会で有段者になった者は誕生していない。将棋連盟は世界各国の王者と記念対局を組んでいるけれど、棋士に勝ち越した者も一人もいない。
 それでも、観客たちは自分たちの「先生」が善戦すると予想しているようだった。
 いかに少年が強くとも、棋士は別格である。わずか八歳の少年が棋士に勝つなんてことは、絶対に有り得ない。そう分かっていたけれど、対局前に千桜さんが角を落としたことで、状況が変わった。
 大駒、角落ちのハンデは大きい。大会のレベルはともかく、国内チャンピオンになれるほどの人間なら、この条件で戦えば、棋士に勝てる可能性はある。
『桂馬の高飛び歩の餌食』
『銀に成らずの好手あり』
 将棋には格言が百個ほど存在し、『序盤は飛車より角』といった格言もある。文字通り、序盤では飛車よりも角の方が価値が高いという意味である。
 観客たちは期待していた。
 千桜さんが角を落とした時点で、少年の有利を確信した者すらいるようだった。
 誰もがかたをのんで見守ったその戦いは、わずか三十分で勝敗が決する。
 赤子の手をひねるように、千桜さんは少年を一蹴した。
 歯が立つとか、立たないとか、そういう次元ですらなかった。
 対局中、千桜さんの手が止まったのは、最長でも十五秒だった。ほとんどすべての手をノータイムで彼女が返したせいで、わずか三十分で決着がついてしまったのだ。
 観客たちが盤面を理解するより早く、少年は首をねられていた。
「……何をされたのかも分かりませんでした」
 敗北を悟り、少年はぼうぜんと漏らす。
「凄いな。竜皇って本当に強いんですね」
 少年の言葉に、千桜さんは穏やかなまなしで耳を傾けていた。
 これが指導対局であれば、こんな風に一刀両断にはしない。棋力を測りながら、彼を高みへと導くための将棋を指したことだろう。
 少年の強さを認めたからこそ、千桜さんは完膚無きまでに倒すことにしたのだ。
「どれくらい実力差があるかも分かりませんでした」
 将棋の世界は奥深く、深淵なる場所にある真理に辿り着ける者は一人もいない。それを理解した上で、それでも努力と成長を諦めなかった者だけが、棋士になれる。千桜さんは少年に、それを早い段階で理解させようと思ったのだろう。
「約束通り、お父さんのことを話します」
 少年が看護師に何かを説明し、応接室らしき部屋へと案内された。
 そして、私たちは少年の口を通して、アンリの三十年の物語を知ることになった。

 ずっと知りたかった、アンリのその後の物語。
 千桜さんはどんな気持ちで、少年の言葉に耳を傾けていたんだろう。
 アンリ・ヴァランタンの父は、日本人の母を持つフランス人だった。
 大学卒業後、貿易商社に就職した父は、異国にもルーツがあることを知った人事部の采配で、日本への転勤を言い渡される。
 日本語に四苦八苦する両親とは対照的に、来日した時点で三歳だったアンリは、現地の言葉にすんなりとむ。そのため、インターナショナル・スクールではなく、地元の公立小学校に通う手続きが取られたらしい。
 しかし、桜の季節に、アンリの入学が叶うことはなかった。心臓の病が悪化し、長期の入院を余儀なくされたからだ。
 アンリの闘病生活は、長く、苦しいものだった。
 手術後、最初の一年間は、ベッドから起き上がることすらままならなかった。
 ベッドの上で将棋を覚えたアンリは、同じ趣味を持つ医師や患者たちと、しばしば将棋を指すようになる。殺風景な日々の中、将棋を指している時間だけが輝いていたが、それすらも刹那的な話だった。
 きっと、自分は長生き出来ない。若くして死んでしまうはずだ。
 小学校に通って、一生懸命勉強したところで何になるというのだろう。
 大好きな将棋で強くなったって、すぐに死んでしまうなら意味がない。
 アンリは早熟なえんせい観にとらわれていた。

 外部生として院内学級に通う日々の中、突然、その出会いはやって来た。
 ある陽射しの穏やかな午後。
 同じく一年生の教科書で勉強していた少女の咳が止まらなくなった。
 医師と看護師がやって来て、彼女を病室に連れ帰ろうとしたが、少女は泣きながら抗議し、頑として帰ろうとしない。
「今日はここまでにしよう。休んで、熱が下がったらまた明日……」
 勉強なんて楽しいものじゃない。やめて良いなら、やめてしまいたい。アンリはそう思っていたが、少女は自分の手を引いた医師を、容赦なくにらみ付けた。
「病気に負けたくない!」
 少女の咆哮が、教室にこだまする。
「生きたい! 何でもするから治して!」
 不思議だった。理解出来なかった。
 どうして、そんなことが願えるんだろう。
 どうしてあんなにも正直に、自分の気持ちを叫べるんだろう。
 彼女は小学校に一週間も通えずに入院してきた少女である。自分と同じ、希望ある未来を初めから奪われた子どもだ。それなのに、あんなにぐに未来を願った。
 衝撃だった。感動なんて陳腐な言葉では説明出来ないほどの出来事だった。
 だから、それは必然だったのかもしれない。
 アンリはその少女のことをもっと知りたいと思ったし、彼女に自分が一番面白いと信じている将棋を伝えたいと思った。
 それが、アンリ・ヴァランタンと『ユキ』という名の少女の出会いだった。

 少年時代、アンリはただひたすらに棋士になりたかった。
 ユキと共に見た竜皇戦の舞台に、いつか自分も立ちたいと願った。
 しかし、環境がそれを許さない。父の再転勤で帰国することになり、インターネット以外では対局が出来なくなったからだ。
 将棋には国境がないのに、棋士は日本から離れてもなお目指せる職業ではなかった。アンリが帰国した頃は、まだ、そういう時代だった。
 幼き日の夢に破れた少年は、それでも大志を抱く。
 自分を救ってくれたのは医学だ。いつか、自分も同じように誰かを救いたい。運命に絶望した子どもたちに、救いの手を差し伸べたい。
 アンリは次なる目標を抱き、新しい人生を歩み始める。
 医師免許取得後、アンリが就職したのは、温暖な気候に恵まれ、帰国後に自身も世話になったニースの病院だった。
 医師になったアンリは、やがて患者たちに将棋を教え始める。
 運動が出来ない子どもたちや、認知症のリスクがある高齢者のために広めた娯楽だったが、患者たちの食いつきは想像以上に良かった。幼き日に日本で信じたように、将棋には国境を超える魅力があったのだ。
 時が流れ、アンリは結婚する。
 やがて授かった一人息子のアンリJr.もまた、それが必然であるかのように、この盤上遊戯に心を奪われていくことになったのだった。

▶#5-3へつづく
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