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連載

降田 天「朝と夕の犯罪」 vol.6

【連載小説】かつて、アサヒとユウヒは「お父さん」に連れられ、当てのない車上生活を続けていた。賽銭泥棒、置き引き、万引き。そして、その果てに起きた悲劇。 降田 天「朝と夕の犯罪」#1-6

降田 天「朝と夕の犯罪」

※本記事は連載小説です。

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   7

 北海道へ行こうと言っていたお父さんが、突然、九州を目指そうと言い出したのは、神奈川と東京の境目あたりをうろうろしていたときだった。三人の放浪生活は九州から始まったと聞いていたのに、日本列島のまんなかを越えてなぜ引き返すのかと、アサヒは困惑して理由を尋ねた。
「だって十二月だぞ。これからどんどん寒くなるんだから、南へ行ったほうがあったかくていいじゃないか。鹿児島なんて火山が噴火してて、砂まであったかいから砂風呂ってのがあってな……」
 途中からはまともに聞いていなかった。北海道だろうと鹿児島だろうと、もううんざりだ。暑くても寒くてもいいから、決まった場所に住みたい。家が欲しい。
「……どこにも行きたくなんかないよ」
 後部座席でぽつりと漏らしたアサヒのつぶやきは、運転しながらしゃべりつづけるお父さんの耳には届かなかったようだ。しかし隣にいたユウヒには聞こえていた。
「さっきのってどういう意味」
 お父さんがたばこを買うために車を離れたときに訊かれ、アサヒは口ごもった。裏切り者になったような気がした。じっとこちらを見つめて待つユウヒから目を逸らし、ぶっきらぼうに答える。
「もうこんな生活はいやなんだよ。家が欲しい。ふつうの暮らしがしたい」
 兄がそんなことを考えているなんて思ってもみなかったのだろう。意味を理解するのに時間が必要だったのか、ユウヒはしばらく黙っていた。それから言った。
「だったら車がなければいいんじゃない?」
 アサヒは目をみはって弟を見た。寒いなら毛布かぶればいいんじゃない、とでも言うみたいに、ユウヒは平然としている。
「そしたらどこにも行けなくなるじゃん」
「それって……」
 お父さんが車に戻ってきたので、そこで話は途切れた。口を閉じてシートに背中を押しつけ、アサヒは自分の心臓の音を聞いていた。
 車がなければ。ユウヒの言葉が頭のなかをぐるぐる回る。車がなければどこにも行けなくなる。家を見つけるしかなくなる。そうだ、車が壊れてしまえば──。
 それから数日後の深夜、アサヒはおんぼろカローラの外にひっそりと立った。今日は酒が思いがけずたくさん手に入ったおかげで、お父さんは運転席で高いびきをかいている。ユウヒは車のなかから窓に額を押し当てて、こちらの様子を見守っている。数秒おきに振り向いてお父さんの様子をうかがう。
 アサヒはぎゅっと右手を握りしめた。汗ばんだ手のなかには、スティックシュガーが三本。ガソリンタンクに砂糖を入れたらエンジンが壊れると、前にどこかで読んだ大昔の漫画に書いてあった。給油口の開け方は、お父さんがやっているのを見て知っていた。ガソリンのにおいが鼻を刺す。真っ白な息がせわしなく漏れる。心臓を吐き出してしまいそうだ。どんな盗みをやったときも、こんなに緊張したことはない。
 作業を終えてそっと車に戻ってからも、体の震えが止まらなかった。やったね、とささやくユウヒの声に、うなずくのがやっとだった。闇のなかに体を横たえて眠れずにいると、後悔と不安が忍び寄ってくる。あんなことをしてよかったのか。お父さんにばれやしないか。この車はもう動かないんだ、捨てられるんだと思うと、自分でやったくせに胸が締めつけられてシートに顔をこすりつけた。
 それでもいつの間にかうとうとしていたようだ。車の振動でアサヒははっと目を覚ました。動いている? あわてて体を起こすと、運転席からお父さんののんびりした声が届いた。
「お、起きたか。今日は二人とも寝坊だな」
 見ればユウヒはまだ眠っている。
 窓の外に顔を向けると、景色が横に流れていた。コンクリートで固められた斜面の上に木が繁り、葉っぱがきらきら光っている。白いガードレールがずっと続いている。緩い下り坂をおんぼろ車は軽快に走っていた。
「車、なんともなかったんだ……」
 深い吐息がこぼれた。がっかりしているのに、どこかほっとしたような、奇妙な気分だ。車は壊れなかった。作戦は失敗した。
「なんだ、夢でも見たのか」
 アサヒのつぶやきを聞きつけてお父さんは笑った。
「いつも言ってるだろ、こいつはまだまだ走れるって。いまは神倉ってとこに向かってるんだ。寺や神社がたくさんある町だから稼げるぞ。九州へ出発する前に、軍資金をがっぽり手に入れないとな」
 ラジオのボリュームを上げ、ハンドルを指でたたいてリズムをとる。
 ユウヒがむくりと体を起こしてアサヒを見た。

 ふだんは〝ホテル〟のトイレで体を洗うか拭くかですませるが、たまには公衆浴場も利用する。そこでは体じゅうの垢を落とせるだけでなく、うまくすれば駐車場や脱衣所でひと稼ぎすることもできる。
 神倉に入って二日目の今日、やってきたのは〈つるかめ湯〉という銭湯だった。入り口の古びた券売機で、お父さんは大人の券を一枚と小学生の券を二枚買った。さらにタオル三枚と歯ブラシ三本とひげそりの券も買った。そんな贅沢をするのは、何ヶ月も前に盗んだ銅線が高く売れたとき以来だ。お父さんの言うとおり、この町は稼げる。
 車はあいかわらず問題なく動いている。別の方法を考えなくてはいけない。
 鼻唄を歌いながら風呂を堪能したあと、お父さんはアサヒとユウヒにアイスを渡し、一時間ほどここで待っているよう言った。いつものパターンで、来る途中に見つけたパチンコ店へ行くのだ。
 勝ってきてねと送り出し、アサヒたちはアイスの棒をくわえて館内をうろついた。こうして人の目がある場所に来るのは、小学校の下校時間をすぎてからだ。学校なんて行かなくていいんだ、人として大切なことは学校じゃなくても学べる、というのがお父さんの持論だが、アサヒたちが学校に行っていないことがばれるのはまずいらしい。
 脱衣所に人がいなくなった隙をついて、ユウヒがかごに手を突っ込んだ。貴重品を専用ロッカーに入れず、脱いだ服と一緒にそこへ置いておく客は少なくない。
「だめだ」
 アサヒの制止に、ユウヒはちょっと不満げな顔をした。
「なんで。チャンスじゃん」
「客が少なすぎるし、おれたちがここへ入るのをフロントのおばさんが見てた。それにもしばれて逃げる羽目になったら、お父さんが迎えにきたとき困る」
「そっか」
 ユウヒはあっさり引き下がった。そこでふといたずら心を起こしたらしく、財布から札を抜く代わりに、隣り合ったかごに入っていたブリーフを入れ替える。
「気づくかな。気づかないではいたらバカだよな。ここで見てようよ」
「あやしまれるって。こっそりじゃないと」
 アサヒとユウヒはひそひそと笑い合いながら、貴重品ロッカーの返金口に取り忘れがないかをチェックし、みごと百円を手に入れた。それから脱衣所を出て、自動販売機の下と釣り銭口をのぞき、下駄箱の脇の腰かけに陣取って、交互にちょくちょくいたずらの結果を見にいった。にこにこ眺めていたフロントのおばさんに兄弟かと訊かれて「はい」と答え、何年生かと訊かれて「ぼくが四年生で、弟は三年生です」と答えて、しっかりしていると褒められた。そうやってお父さんを待った。
 ところが、約束の一時間を過ぎてもお父さんは戻ってこない。一時間半がたち、四十分がたつと、おなかがぐうぐう鳴りだした。さらに三十分たつと、空腹は忘れた。目の前の自動ドアはときどき開くが、入ってくるのは冷たい空気と知らない人ばかりだ。お父さんは携帯電話を持っていないし、外に出て闇に目を凝らしてみても、おんぼろカローラは影も形もない。フロントのおばさんも心配そうに首を傾げている。その目が兄弟のがたがたの髪を観察していることに気づいた。
 お父さんは勝ちすぎて時間を忘れているのだろうか。そういうことは何度かあった。お父さんは「いやあ、すまんすまん」と笑って謝るか、「おれは父親失格だ」と言って自分の顔をこぶしでひどく殴りつけるか、どっちかだ。それとも、もしかしてまた急に別人スイッチが入って、どこかでじっと塞ぎ込んでいるのだろうか。最近それが増えている気がする。そうでなければ、まさか事故にでも遭ったのか……。
 ユウヒが一分おきに「まだ?」と訊く。そのたびにアサヒは「もう来るよ」と答える。本当はへっちゃらな顔で答えたいのに、うまくいかない。
 下駄箱の脇の腰掛けで、アサヒとユウヒは待ちつづけた。口数が減るのとあべこべに不安はふくらんで、もしもひとりだったら、べそをかいていたかもしれない。
 また長い時間がたって、自動ドアの向こうに警察官の制服が浮かび上がった。アサヒはとっさにユウヒの腕をつかんで逃げようとしたが、警察官が入ってくるほうが早かった。彼は二人の全身にさっと視線を走らせ、やさしく尋ねた。
「アサヒくんとユウヒくん?」
 胸騒ぎがした。どうして名前を知っているのだろう。ユウヒが問いかけるようにこちらを見た。アサヒは黙って警察官を見つめる。
「お父さんの名前は、正近たくさんだね」
 警察官は腰掛けの前にしゃがんで、アサヒたちを見上げる恰好になった。アンパンマンみたいに顔の丸いおじさんだ。声はやっぱりやさしいのに、顔は笑っていない。心臓のどきどきがひどくなる。
「落ち着いて聞いてね。……お父さんが、亡くなったんだ」
 アサヒもユウヒも、なにも言わなかった。ぴくりとも動かなかった。亡くなるという意味が伝わっていないと思ったのか、警察官が簡単な言葉で言い直す。
 意味は知っていた。ラジオで聞いて、お父さんに尋ねたことがあったから。お父さん、亡くなるってどういう意味? 死んじゃうってことだよ。
 死んじゃうってことだよ!
 警察官が話をしているあいだ、アサヒは下を向いて、つんつるてんのズボンに覆われた膝と、その上できつく握ったこぶしをにらんでいた。アサヒのこぶしは中指の付け根の骨がとがって飛び出している。お父さんのこぶしには同じ箇所に丸くて硬いこぶがある。男のこぶしだとお父さんは言う。
 そんなことを思っていて、説明は切れ切れにしか耳に入ってこなかった。車を発見──運転席に男性の──財布に免許証が──。
 そのなかで一つの言葉だけがはっきりと聞こえた。
 原因は、車のトラブル。
 警察官はそう言った。その瞬間にわかった。
 アサヒがガソリンタンクにスティックシュガーを入れたせいだと。
 失敗したものだと思っていた。それがいまになって。お父さんが運転している最中に。一昨日かいだガソリンのにおいがよみがえり、吐き気がこみあげた。口を覆って体を丸めたアサヒの背中を警察官がさする。
 ユウヒにもわかったはずだ。
 アサヒがお父さんを殺した。
 震えているユウヒの顔を見ることができなかった。

▶#1-7へつづく
◎全文は「小説 野性時代」第206号 2021年1月号でお楽しみいただけます!


「小説 野性時代」第206号 2021年1月号

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