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連載

降田 天「朝と夕の犯罪」 vol.5

【連載小説】かつて、アサヒとユウヒは「お父さん」に連れられ、当てのない車上生活を続けていた。賽銭泥棒、置き引き、万引き。そして、その果てに起きた悲劇。 降田 天「朝と夕の犯罪」#1-5

降田 天「朝と夕の犯罪」

※本記事は連載小説です。

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 道の駅のことを一家ではそう呼ぶ。駐車場に停めた車のなかで寝るなら宿泊料はただ、トイレもあるし、その手洗い場では水を飲むことも体を洗うこともできる。おまけに何ロールものトイレットペーパーや、ときには誰かの忘れ物のお土産つき。店が開いている時間なら、ちょっと危険を冒せば、ごみ箱に手を突っ込むよりはるかにいい食べ物が手に入る。こういう場所では従業員も客も気が緩んでいるから、置き引きだって車上荒らしだって簡単だ。いや、簡単は言いすぎか。でも難しくはない。
 お父さんはユウヒを急かしてトイレに直行すると、手をつかんで蛇口からほとばしる水のなかに突っ込んだ。「いたっ」とユウヒが声をあげたのは、傷にみたというより、水の勢いか手首をつかむ力が強すぎたせいだろう。どうにか自分の手を取り返したユウヒは、濡れたその手を振ってから、チャックの壊れたジャンパーにこすりつけた。なるべく早くコインランドリーに行かないと、とアサヒは頭にメモする。乾燥機の底で取り出されるのを待っている清潔なタオルかハンカチを、こっそり「失敬する」ために。
 トイレを出たとき、お父さんは別人になっていた。その変化はいつも唐突で、きっかけがどこにあるのかもわからない。まるでスイッチが切り替わったみたいに、ふだんとはほとんど正反対の、陰気で無口で不機嫌な男になる。子どもたちはたちどころにそれを察して、お父さんにはできるかぎり話しかけない。
 いやな予感はこれだったのだとアサヒは悟った。思ったより稼ぎが少なかったことでも、ユウヒが転んだことでもなく。
 お父さんは無言で先に立って車に戻り、運転席に体を沈めた。お気に入りのマフラーに顎の先を埋め、足を小刻みに揺すりながら、せわしなくたばこに火をつける。
 ユウヒがアサヒをつつき、挑戦的な笑みを浮かべてじゃんけんのポーズをとった。アサヒはなるべく向かい合わせになるよう尻の位置をずらした。目を合わせ、声は出さずに、せーので手を動かす。たたいて、かぶって、じゃんけんぽん! アサヒは両手で頭を覆い、弟の一撃を防いだ。たたいて、かぶって、じゃんけんぽん! また防ぐ。たたいて、かぶって、じゃんけんぽん! 今度は攻撃だったのに、間違えてガードしてしまった。笑い声を抑えようとユウヒが口をもごもごさせる。攻撃するときも音が出ないように、たたくふりをするだけだ。
 静かにしていろとお父さんが言うわけではない。でも、お父さんもラジオも沈黙しているときは、なんとなく兄弟間でも話しづらくなって、息を潜めていなければいけない気になる。すると車内を満たす音は、お父さんがひっきりなしにたばこを吹かす音と舌打ちだけになる。アサヒもユウヒもその時間は窮屈で嫌いだ。弟がいてよかったとアサヒはいつも思う。
「メシ食え」
 お父さんが振り向かずに短く言った。アサヒはドアポケットから、盗んだパンとスナックを取り出した。
「お父さんは?」
 いちおう尋ねてみたものの、返事がないのはわかっていた。この状態のお父さんは、アルコールとニコチンしか受けつけない。アサヒとユウヒはパンを一つずつ選んだ。食べ物を見たら急に強くなった空腹をこらえ、袋を開ける前に大急ぎで「いただきます」と言う。必ずそうしろという、お父さんの言いつけだ。
 吞むようにクリームパンを食べてしまったユウヒが、そこで残念な発見をした。
「あれ、スティックシュガー、三本しかないよ」
 スティックシュガーはいつも後部座席のドアポケットに、ほかの雑多なものと一緒に入れてある。ユウヒはそこに手を入れてかきまわし、それから助手席のヘッドレストに針金でくくりつけてある二つの空き缶をのぞき込んだ。もともとコーンの缶詰だったほうには割り箸やプラスチックのスプーンが、ミカンの缶詰だったほうにはあまり使われない歯ブラシが突っ込まれている。そこにスティックシュガーがないのは一目瞭然だ。
 ふだんのお父さんなら、ここでただちに車を発進させ、二十四時間営業のファストフード店かファミレスに飛んでいく。アサヒたちがいいよと遠慮しても、父親が息子と約束したんだからと言って、なにがなんでもスティックシュガーを手に入れる。
 でもいまのお父さんは、黙ってたばこを吸いながら貧乏揺すりをしているだけだ。
「ユウヒ、二本いいよ」
「え、兄ちゃんは?」
「ガムシロはまだあったろ。シロップ水にする」
 突然、お父さんが運転席のドアを開けたかと思うと、なにかをアスファルトにたたきつけた。さっき神社から持ってきたワンカップだ。容器が割れる音と漂ってきたにおいでわかった。
 アサヒとユウヒはぴたりと口を閉ざし、動きも呼吸も止めて待つ。お父さんがドアを閉め、たばこの煙を吐き出し、再び貧乏揺すりを始めるのを。
 お父さんはシートに座ったまま車外に身を乗り出し、ワンカップの破片を拾ったようだった。それに口をつけ、唇を突き出してわずかに溜まった酒をすする音がした。ドアが閉まり、沈黙が訪れる。いや、お父さんは口のなかでつぶやいている。おれはクズだ、おれはクズだ、おれはクズだ……。
 結局、アサヒもユウヒもスティックシュガーは口にしなかった。無言のままごみを車の外へ投げ捨て、それぞれの尻の下からくしゃくしゃになった毛布を引っぱり出す。ジャンパーの上から体に巻きつけ、目をつぶる。
 次に目を開けたときには、どこか別の場所にいるだろう。あまり長い時間、同じ場所に車を停めているのはまずいから。そうやって少しずつ、九州から関東まで流れてきた。旅の始まりはアサヒもユウヒも憶えていない。生まれたときからずっと三人で車のなかにいる気がする。何ヶ月後かには、ゴムが垂れ下がったこの窓から北の海を眺めているだろう。お父さんは「いつか三人で北海道に行くぞ。でっかいどうだ!」と言っていた。
 北海道に行くより、自分たちの駐車場があればいいのにとアサヒは思う。スティックシュガーを常備しておく台所があればいいのに。向かい合って食事のできるテーブルが。体を伸ばして寝られるベッドが。毎日入れるお風呂が。清潔なタオルが。お父さんとユウヒと自分と、家族三人、いつまでもいていい場所があればいいのに。
 そんな場所をなんというか、アサヒは知っていた。
 お父さんがいつも願う「3H」──健康、幸せ、愛情に加えるべき、もう一つのH。
 家(home)だ。

   6

「いただきます」
 無意識にそう口にして、はっとした。どんなときでも「いただきます」は必ず言うこと。これはお父さんの言いつけだった。それが当たり前になっていたから、憶えてはいないものの、小塚家へ来てはじめてケーキを食べたあのときもそうしたはずだ。
 思えば、お父さんにはそういうちぐはぐなところがあった。子どもに車上生活をしいて、盗みをさせ、小学校にも通わせずにいた一方で、行儀や言葉づかいに関していくつか独自のこだわりを発揮した。
 お父さんを「お父さん」と呼ぶのもそうだ。父さんでも父ちゃんでもなく。──いいか、「お」と「さん」が肝心なんだ。ちゃんとした子はそういうもんだ。ムッシューって言うんだよ、ムッシューって。
 言葉まではっきりと思い出した。当時はムッシューの意味もわからなかったし、お父さん自身もよくわかっていないようだった。誰かの受け売りだったのだろう。たぶんあの3Hも。本棚に不特定多数の人が本を突っ込んだみたいに、お父さんの頭蓋には思いがけない知識が入っていることがあった。高校を中退してから仕事を転々としてきたというから、そのせいかもしれない。
 アサヒはナイフとフォークを手に取った。向かいの席では小塚の父、和俊がすでにロールキャベツにナイフを入れている。不思議なもので、なんでもない日に自宅でナイフとフォークを使って食事をし、ワインを飲んでナプキンで口を拭うこの父のことを、アサヒは「父さん」と呼ぶ。引き取られてすぐのころはこの家庭の習慣にならって「パパ」と呼んでいたが、成長するにつれ恥ずかしくなって変えた。和俊はそのことをむしろ、アサヒが小塚家になじんだ証だと捉えて喜んだ。
 そういえば、ユウヒも里親を「父さん」と呼んでいた。そんなことを考えながら、機械的にロールキャベツを口に運ぶ。
「彩、またそんなにかけて」
 七味で真っ赤になった娘の皿を見て、梨沙子が苦々しい声を出した。
「だってこのほうがおいしいんだもん。カプサイシンでダイエットになるし」
「そのソースおいしくない? ヨーグルトソースよ」
「おいしくなくはないけど、これじゃない感あるんだよね」
「あなたはやせる必要なんかないんだから、それより体の内側から健康的にきれいになるほうがいいわよ。ヨーグルトに含まれる乳酸菌には……」
「あー、その話はいいから」
 菌活とかいうものにはまっている母と、休日には化粧をして出かけるようになった妹は、互いに遠慮なくものを言う。たぶん仲がいいのだろう。彩は見かけによらず成績優秀らしく、和俊にとっても自慢の娘だ。
「なに?」
 見ていたつもりはないのだが、彩に横目でにらまれた。慣れているので無視していると、「うざい」とののしられた。べつにどうということもない。小塚旭になって二年あまりのあいだ、つまりはじめて小学校に通って必死でを学んでいたあいだに、学校でぶつけられた言葉の数々に比べれば。血がつながらないとはいえ自分の兄が、野蛮人だの家畜だのと呼ばれてトイレの床を舐めさせられていたことを、彩は知っているのだろうか。だとしたら、アサヒのことが憎くてたまらなかったに違いない。
 梨沙子がやんわり彩に注意する。和俊のおどけたような目配せは、年ごろの女の子は難しいな、と言いたいらしい。実際、何度かそう言われた。その意味をアサヒは正しく理解しているつもりだ。つまり、いちいち目くじらを立てるようなことじゃない。家庭内がうまくいっていないわけじゃない。
「ところで旭、ゴルフに興味ないか」
「突然どうして」
「おまえも次は三年生、あっという間に社会人だ。どういう会社に入るとしても、付き合いの上でゴルフは覚えといて損はないぞ。古い考えだと思うかもしれないけど、おまえが社会に出たとき力を持ってるのは古い世代なんだ」
「やってみようかな」
 考えずに答え、乳酸菌を体に取り込む。酵母菌も。こうじ菌も。
 アサヒは好き嫌いなくなんでも食べる。砂糖以外なら。料理やお菓子に使われているのは平気だが、たとえばコーヒーに入れるなど、砂糖そのものを目にしてしまうと体が受けつけない。
 ──砂糖がだめな理由、ばらしちゃってもいい?
 こちらを見つめるユウヒの目を思い出す。アパートを出たあとも、こうしているいまも、ずっとあの視線を感じつづけている。
 時間をくれと告げたものの、その場しのぎにしかならないことはわかっていた。自分は脅迫に屈するだろう。ユウヒの言いなりになって狂言誘拐に荷担するだろう。あのことをばらされたら、今日まで積み重ねてきたものが台無しになる。十年かけて、少なくとも表面上はふつうに生きられるようになったのに。言葉の定義を厳密にしなければ、多くはないが友達もいる。彼女がいたこともある。住む場所があって、大学生で、家庭教師のバイトをしている。ひとりの時間には、本を読んだり音楽を聴いたり映画を観たりする。卒業したら就職して、いずれは結婚だってするかもしれない。
「ところでココア、今日もごはん残したのよ。涼しくなれば元気になるかと思ってたけど、もう歳だし、やっぱり明日にでも病院に連れていったほうがいいんじゃないかしら」
「えっ、じゃあ、あたし行く」
「あなたは学校でしょ」
「ココアのほうが大事じゃん。ココアだってあたしと行くのが一番安心するよ」
「学校が終わってから連れていったらいいじゃないか」
 ユウヒが〈ハレ〉の存続を願うのはわかる。共感はできなくても理解はできる。でもなんでそこまで、と尋ねたアサヒに、ユウヒはきょとんとした顔で答えた。だって、それで問題解決じゃん。
「のんきなこと言ってて、ココアになにかあったらどうすんの。パパはあたしが重大な病気でも仕事を優先するの」
「そんなわけないだろう」
「同じじゃん」
「わかったわよ。明日の朝一番に、私と彩でココアを病院へ連れていく。終わったらちゃんと学校行くのよ」
 そうだった、ユウヒはそういうやつだった。十年前、車上生活に嫌気が差していたアサヒはふと漏らした。家が欲しい、ふつうの暮らしがしたい、と。するとユウヒはけろりと言ったのだ──車がなければいいんじゃない?
「はーい。大丈夫だからね、ココア」
 父と母と妹が同じ方向を見て会話をしていることに、ようやく気づいた。リビングの隅にうずくまった、焦茶色で尻尾のある家族。
 アサヒがそちらに顔を向けたときには、すでにその話題は終わっていた。両親は歯科医院に新しく雇った受付の女性の話を始め、彩は真っ赤なロールキャベツをつつきながら携帯をいじっている。食事中はやめなさい、と母が彩に注意した。

▶#1-6へつづく
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「小説 野性時代」第206号 2021年1月号

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