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連載

降田 天「朝と夕の犯罪」 vol.13

【連載小説】誘拐決行の日、アサヒは身代金の運搬役に指名される。予定外の展開に、計画の狂いを疑うアサヒだが――。降田 天「朝と夕の犯罪」#2-5

降田 天「朝と夕の犯罪」

※本記事は連載小説です。

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「はい?」
「靴紐がほどけてるよ」
「……ありがとうございます」
 しゃがんでスニーカーの紐を結ぶアサヒの横を、警察官はのどかな足どりで通り抜けていった。
 ──はっは! ほら見ろ、おまわりなんて、ぼんくらばっかりだ。
 幻のお父さんが声を弾ませる。
 固く紐を結び直したところで、携帯が震えた。タクシーを降りて歩きだしてから十分。松葉修を通す最後の指示だ。修はここへ来て交渉のテーブルから外されて驚いているだろうが、ここから先は、いまさら警察を介入させようとしても難しいタームだ。
「左手にあるKKホテルに入って、二階の男子トイレの用具入れを見ろ」
 いよいよここまで来た。
 ホテルがフェスティバルに合わせたプランを提供しているせいか、正面玄関から見えるロビーラウンジにも仮装した人が大勢いた。マリオと入れ違いに中へ入り、にぎわうラウンジを抜けて、エレベーターで二階へ上がる。二階にはレストランが一つと貸し会議室があるが、この時間はレストランが営業していないため、一階に比べてひと気がない。ユウヒが手を打ったのか、あの一眼レフの女やほかの尾行者らしき人物も見当たらなかった。もし隠れていたとしても、この状況では目立ちすぎておいそれとは近づけない。
 男子トイレは無人だった。壁に貼ってある表によれば、次の清掃は約一時間後だ。
 用具入れを開けると、モップやバケツとともに大きな紙袋があった。日本全国に店舗を持つ家電量販店のもので、ガムテープで口が閉じられている。アサヒがホテルへ到着する直前に、ユウヒが先まわりして持ってきたのだった。ホテルの防犯カメラに姿が映っているだろうが、今日は似たような若者がたくさん出入りしているから、顔さえはっきり映らないようにしていれば問題ないはずだ。
 人が来ないうちに紙袋を持って個室に入った。ガムテープを剝がしたときの感触や紙の状態で、誰かに先に開けられてはいないとわかる。袋の中身は、指示を記したメモとパンダの着ぐるみだ。
 指示は頭に入っているが、いちおう目を通してから、身代金が入ったリュックのポケットにしまった。確実に監視の目がないこのタイミングで、リュックにGPSのたぐいが仕込まれていないことを確認する。ジャケットを脱いで、それも丸めてリュックに突っ込む。薄手のセーターとジーンズの上に着ぐるみを身につけた。首から足首までのスーツと頭部に分かれていて、スーツの部分はフリースのパジャマのようにやわらかく背中にチャックがあり、頭部はフルフェイスのヘルメットのようにすっぽりかぶるタイプだ。靴だけは自前のスニーカーだが、顔面も含めて肌が露出する箇所は一つもない。
 着ぐるみのなかでアサヒはきつく顔をしかめた。ユウヒが調達してきたのだが、保管状態が悪かったらしく、ひどくかび臭い。頭も顔も体も、たちまち全身がかゆくなってきた気がする。
 我慢してリュックを背負った。もう携帯に犯人からの指示が来ることはないが、念のためにしっかりと手に持つ。紙袋は置いていってかまわない。これでいいか。頭のなかを隅々までチェックする。よし。
 目の部分に開けられた穴はとても小さく、視界はこれ以上ないほど制限され、一歩踏み出すにも注意が必要だった。まずはそろそろと個室から出る。鏡に映った姿は滑稽かと思いきや、どことなく不気味だった。
 着替えているあいだには誰も来なかったし、トイレの外にも尾行者らしき人影はない。来たときとはルートを変えて階段で一階へ下り、そのまま立ち止まらずに正面玄関から外へ出た。少しの時間でまたぐっと人が増え、それに伴い仮装した人も増え、リュックを背負ったパンダがそこに溶け込むのは難しくはなかった。凝った仮装でないせいか、むしろほとんど注目されない。
 運搬役に着ぐるみを着せるのは、もともとユウヒのアイディアだった。美織が家族に大切にされていないことを理由に、ちょっとした仕返しとしてからかってやろうというのだ。目立ってよくないとアサヒは最初は反対したが、このフェスティバルを知って使えると思った。
 数人がかりで扮した巨大な鉄道やスフィンクスの前に回り込み、背後からの視線を遮るようにしながら、パンダは大混雑の大通りを進んだ。どこからかブラスバンドのような音楽が聞こえてくる。ソースのにおいも漂ってくる。大道芸でもやっているのか、わっと歓声が上がる。
 そのすべてを無視してたどり着いたのは、複数の路線バスが発着するバスターミナルだ。なにもなければホテルから徒歩十分の距離なのに、倍近くも時間がかかった。その代わり、視界の狭さにも動きづらさにもだいぶ慣れた気がする。
 目的のバスはすでに乗り場で待機していて、座席がぽつぽつ埋まっていた。列ができている乗り場もあるが、街から離れた集落へ向かうこの路線の利用者は少ない。ほとんどが老人で、仮装している者はいない。
 バスのなかで全身着ぐるみはさすがに不審なので、乗り込む直前に頭部だけ脱いだ。海底二万マイルから浮上したような解放感だ。顔を見られたくなくてうつむいて乗り込んだが、首から下がパンダの男を、運転手や乗客が気に留める様子はなかった。フェスティバルで浮かれた変なやつには慣れているのかもしれない。
 十六時半きっかり、日の入りとほぼ同時にバスは出発した。なんとこれが最終便で、終点に着くのは一時間後だ。客の乗降が少なく渋滞もまず起きないルートで、めったに遅延がないことは確認済みだ。
 乗降口に近い二人がけの座席に座ったアサヒは、ほんのつかの間、目を閉じた。神経が冴えて少しも眠くはないが、一日じゅう移動しつづけで体は疲れている。
 あいかわらずお父さんの気配を感じていた。染みついたたばこのにおいみたいに。とっくに縁を切り葬った過去のにおい。目を閉じてバスの振動に身を委ねていると、それはますます強くなった。
 バスは市街地を抜け、山梨方面へと進んでいく。景色が山がちになり、残照もみるみる消えて、闇が迫ってくる。
 目的地は山の中腹にある小さな集落で、斜面にへばりつくように何軒かの古い家と畑が見えたが、すべてが使われているわけではなさそうだった。山に差しかかるまでに乗客はアサヒともうひとりの老人だけになり、その老人もふもとの集落で降りた。まもなく十七時半。あたりはすっかり闇に包まれ、道路を照らすものはバスのライトしかない。
 停留所は緩やかなカーブの途中にあった。そこから先は道が細くなり、車が入れないことはないが、バスはここでUターンする。Uターンせずに進めば廃業したキャンプ場があり、さらにその先は徒歩でしか行けない登山道だ。
 無人だった。道の反対側に厚木市街方面へのバス停があるが、そこにも誰もいない。静けさと冷気が体に染み込んでくる。
 時刻表の付いた看板の後ろに待合小屋があり、ベンチが置かれていた。ベンチには手作りらしい古びた座布団が敷かれている。アサヒはそこへ入っていき、ベンチの座面の裏をまさぐった。指先が小さな紙に触れた。バイクで先着したユウヒが貼りつけていった、次の行動を指示するメモだ。着ぐるみのままで十八時に地図の場所へ来い。アサヒには必要のないメモだが、計画どおりにユウヒがここへ来ているという合図にはなる。ベンチの下には黒いビニール袋が押し込んであり、なかには懐中電灯が入っていた。
 再び頭までパンダになり、リュックをとんと背負い直す。目的地は、キャンプ場の先の登山道の途中にある公衆トイレだ。そこを提案したのはユウヒで、友達とキャンプに来たことがあるらしい。下見をして、アサヒも納得した。
 ここからトイレまでは歩いて三十分の距離だが、犯人は十八時ちょうどに来いと要求している。あと二十分少々。走らなければ間に合わない。そんな時間設定にしたのもユウヒの考えで、着ぐるみを着せるのと同じく、ちょっとした仕返しだそうだ。
 走りだしてすぐに、ユウヒの稚気を受け入れたことを後悔した。着ぐるみは走りにくいうえ、ひどく暑い。昨日から気温が下がって夜は一桁にまで落ち込むという予報だったが、あっという間に汗が噴き出してきた。運動不足もあって、たちまち息が上がり、全身の筋肉が悲鳴をあげる。
 ようやくキャンプ場。チェーンで封鎖されている。完全に廃墟だ。横目で見て、むちを入れる気持ちで足を動かす。犬のえる声が聞こえる。野犬のすみになっているのだろうか。恐怖。懐中電灯の光があちこちへ飛ぶ。背中のリュックが揺れる。捨ててしまいたい。足が痛い。腹も痛い。息が苦しい。あとどのくらいだ。
 舗装されていない登山道に入り、石や木の根に足を取られつつよろよろと登っていくうち、やっと公衆トイレが見えてきた。最後の力を振り絞ってたどり着き、荒い息で時計を見ると、約束の時間まであと十秒もない。
 考える暇はなかった。そんな力も残されていなかった。アサヒはトイレに飛び込み、一つしかない個室に入って鍵をかけた。
 ほとんど直後にドアの外で声がした。
「お疲れ」
 変声器を通していない、ユウヒの声だ。
 アサヒは無言でリュックを下ろし、丸めたジャケットの下から札束を取り出した。ドアの下の隙間から差し出そうとして、寸前で動きを止める。
「なんで、運搬役、変更したんだ」
 沈黙があり、自分の息づかいと激しい鼓動、それに虫の羽音だけが聞こえた。懐中電灯の明かりに浮かぶドアの落書きをアサヒは見ていた。ローマ字で記された誰かの名前。
「気が変わったんだ」
 ユウヒはそう答え、ドアの隙間に指先を差し込んできた。アサヒはしばしためらったが、結局その手に札束を握らせた。
「……ありがとな、兄ちゃん」
 そのひとことを残し、ユウヒが去っていったのが気配でわかった。このドアにはあらかじめ細工と補強がしてあり、一度施錠してしまえば開けることも蹴破ることもできない。携帯は圏外だから助けを呼ぶこともできず、ユウヒが安全圏に逃れてから松葉側に連絡するのを待つしかない。
 落ち着いて見ると、ひどく汚い場所だった。登山客もあまり使用していないのかもしれない。和式の便器のまわりは水浸しで、落ち葉が入り込んで溜まり、巨大な蛾の死骸が転がっている。着ぐるみのせいで感じないものの、吐き気を催すような臭いがしているに違いない。最低の一日の、最低の終着点。
 それでもこれで終わったのだと、アサヒは自分に言い聞かせた。

   13

「もし野犬の群れに囲まれたらどうする」
 あれはいつどこでの会話だったのだろう。車上生活には都市部のほうが都合がよくて、野犬が出るような場所にはめったに行く機会がなかったから、ラジオの話題がきっかけだったのかもしれない。
 お父さんの質問に、ユウヒは力強く即答した。
「やっつける!」
「素手でか? 野犬には凶暴な牙があるんだぞ」
「じゃあ石をぶつける!」
「ユウヒは勇敢だな。さすがおれの息子だ。でも野犬はすばやい」
 アサヒはどうだ、というようにお父さんがこちらを見る。
「高いところへ逃げる」
「いい考えだ。アサヒはやっぱり頭がいい。でも野犬はすばやいって言ったろ。おまえたちが思う以上にだ」
 じゃあさ、とユウヒは新たな案を口にしようとする。たぶんまだ思いついていないのに。アサヒは黙って考えながら、お父さんの言葉の続きを待つ。
「おまえたちは野犬に囲まれて尻餅をついて震える。犬たちはじりじりと輪を狭めてくる。歯がよだれで光ってるのが見えて、生臭い息がかかる。そこにお父さんが現れる。おまえたちは、もう大丈夫だと思う」
 赤信号で止まったところで、お父さんは窓の外にたばこの灰を落とした。横に並んだ車から非難がましい目を向けられたらしく、首を傾けて威嚇する。きれいな車だ。「金持ちの車」じゃないけれど、ふつうの車。
「おれは野犬のやっつけ方を知ってる。それを実行できる力とすばやさと度胸がある。でもおれにとって大事なのは、もう大丈夫だとおまえたちが思えるってことだ。お父さんが来たからもう大丈夫だと」
 信号が変わるなり、隣の車は急発進して遠ざかっていった。てっきりしばらく追いまわすのだと思ったが、お父さんはそうしなかった。ゆっくりとアクセルを踏み、煙を吐き出す。
「でもな、おれがいなくても、おまえたちが勝てる方法が一つだけある」
 なになに、とユウヒが訊いた。アサヒはやはり黙って待った。
「それはな……」

▶#2-5へつづく
◎全文は「小説 野性時代」第207号 2021年2月号でお楽しみいただけます!


「小説 野性時代」第207号 2021年2月号

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