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連載

有川ひろ 物語の種、募集します。 vol.9

有川ひろ「ゴールデンパイナップル」――「物語の種、募集します。」小説その9

有川ひろ 物語の種、募集します。

図書館戦争』『県庁おもてなし課』などで知られる小説家・有川ひろさんによる、読者からの投稿を「種」として小説を書く企画。

投稿内容は、思い出話でも体験談でも、心に留まったキーワードでも写真でも。あなたが物語の種になりそうだと思ったものなら、なんでもOKです。

投稿募集ページはこちら
https://kadobun.jp/news/press-release/dz61anf341s0.html

「種」から今回芽吹いた小説は……


ゴールデンパイナップル  有川ひろ

 スマホでニュースを眺めていると、祇園祭ぎおんまつりの模様が動画付きで流れてきた。山鉾巡行だ。ああ道理で、と合点が行った。京都線の電車の中で金魚のような浴衣姿がやけに目についていた。
 祇園祭が今年は開催されたのだった。祖母の家が京都にあるので、子供の頃にはよく行った。盆地の底に貼り付く熱い空気がまるで蒲焼きのタレのようだった。
 体にねっとり絡んで裏に表に何度も返してじゅわじゅわと焼き付けるこってりとした暑さ。体の芯に熱が溜まっていくくどい暑さは、海辺の町に住んでいた彼にはかなりこたえた。
 背が低い子供の身では観客に完全に埋もれてしまい、山鉾もゆらゆら揺れる高い鉾のてっぺんを少し仰ぎ見たくらいだ。
 それにしたって随分と高かったんだな、と家の屋根より高くそびえた鉾がしずしずと進む映像を眺める。
 流行病はまた感染のピークを迎えているが、祭の賑わいは子供の頃の記憶と変わらないように見える。
 祇園祭は流行病のため二回中止になった。そもそもが一ヶ月かけて疫病をはらう祭だというから、新型ウイルスなどに歴史ある祭が屈してたまるかという負けじ魂が今年の開催に繋がったのかもしれない。
 他にも大きな祭が今年からは復活しているニュースを聞く。一方、彼が住んでいた海辺の町の祭は引き続いて中止になったと実家の母から電話で聞いた。
 小さな花火大会と夜店、別に地元の踊りでもない踊りがセットになったありふれた祭である。地元の町内会が持ち回りで運営しており、住民としても若干負担に思っていた節があるらしい。感染対策を錦の御旗に早々に今年も中止が決まったそうだ。
 別に伝統があるわけでもなし、このままやめたらいいのにねぇ。とそろそろ運営委員が回ってくるはずだった母の正直な証言である。
 地域に根付いて地元に愛されている祭と、自治体が惰性で何となく続けていた祭がくっきりと分かたれる節目になるのかもしれない。
 ガタンと電車が揺れた。今日の運転士は荒っぽい。
 近くに立っていた浴衣の娘がよろけた。連れの男がさっと支える。そのまま二人で手を繋いだ。俗に言う恋人つなぎでないのが初々しい。娘はマスクの色まで浴衣のピンクの撫子柄に合わせていて、今日に懸ける気合いのほどが窺えた。男は男で精一杯こざっぱりとした服のようだ。
「大丈夫?」
「うん」
「この後、うち来る?」
 甘酸っぺ――――――!
「あ、でも浴衣、自分じゃ無理だし……」
 そりゃそうだ、ざまあカンカン。浴衣の娘を家に誘うなど世慣れていないにも程がある。とは言え、彼も若い頃は同じ愚を犯した。
 むりむり、脱いだら二度と着れないわ! とカラカラ笑われた。
「……着替え、貸してくれる? 浴衣、持って帰る」
 思てたんとちが――――――う!
「あ、でも……おうち、大丈夫?」
 そうだそうだ、撫子を着付けてくれたお母さんは帯を解いて帰ってくるなんて思っちゃいないだろう。お父さんも黙っちゃいないぞ。俺がお父さんだったら朝まで説教&小遣い減額、とまだお母さんと巡り会うアテすらないのに空想の翼を広げる。
 大丈夫、とピンクの撫子ははにかんだように微笑んだ。
「ママ、わたしの味方だから」
 翼は折られた。理解のあるママばんざい! 妬ましいなんて言わないよ絶対。
 その後、二人の手つなぎは恋人つなぎに昇格し、体温を分かち合うように寄り添った。
 彼のほうはといえばクールビズなのに服が全身モイスチャーになるくらい汗だくである。恋の力は不快指数も乗り越えるのか。
「今年は一緒に来られてよかったね」
「二年前に約束したのにね」
「来年にはもう卒業しちゃうもんなぁ」
「講義なんかまだオンラインだもんね。……でも、間に合ってよかった」
 会話の断片で恋の道のりが知れた。彼の学生時代とは違うのだ。この流行病に子供時代や青春を巻き込まれた者は、当たり前のように当たり前のことを奪われている。
 大学で彼氏彼女ができてもデートひとつままならず。せっかく恋が叶っても長い自粛で思いが途絶えてしまった若者も多かろう。
 オンラインで授業はできても、学生同士の交流は極めて生まれにくい。同じ教室で顔見知りになって友人に、恋人に、だが彼らには顔見知りになるという段階をざっくり奪われている。
 修学旅行や学校行事の機会も同じだ。仮につまらなかったとしても、つまらなかったと言えるのはそれを経験したから言えることだ。小説や漫画、映画やドラマ、エンタメ作品の中で当たり前のようにアイコンとして登場するそれらの行事を「知らない」世代が既にいるのだ。
 そして、その損失は永遠に取り返しがつかない。
 彼の高校のクラスメイトには児童養護施設から入学してきた女子がいて、修学旅行なんてお金もかかるし時間の無駄だし、修学旅行の積立金を受験の準備や塾の月謝に使ったほうがよっぽどいいじゃんと膨れていた。実際、一度は修学旅行の欠席を学校側に申し入れていたらしい。
 だが、彼女も卒業後に同窓会で会ったときは、修学旅行というお約束イベントに頑張って参加しておいてそんなに悪くはなかったと言っていた。
 あのとき、あのクラスで。仲の良かった子とも特にそうでもなかった子ともわいわい大人数で行動する。飛行機や新幹線も何十人、何百人が列になってしゃがんで待つ。あの奇妙な解放感と束縛感は、学校行事という強制イベントでないと体験自体ができない。
 ああいうのも含めて修学旅行なんだなぁって思った、と彼女は言った。楽しいことだけでなく、煩わしいことも窮屈なこともある。気まずいこともある。そういうおりして上澄みを思い出にするのも人生の訓練だよね、と――同級生の頃からちょっと小難しいことを言う子だった。
 標準的な体験ってしといたほうがいいんだよ、多分。みんなが知ってる基準を知らないのって、気がつかないうちに損したり苦労すること多いし。
 それは生い立ちが複雑だったであろう彼女が言うから余計に重みがあった。なぜ自分にそんな話をしてくれたのかは分からない。同窓会の会場で会い、同じ本の話で盛り上がった流れだったか。高校生の頃も読む本が比較的かぶっていて感想をよく喋り、それはうっすら気持ちが華やぐ思い出だった。
 それも普通に学校に通えていたからだ。通う学校が閉まっていたら発生しない思い出だ。
 翻って、ピンクの撫子とその彼氏。
 ああ、君たちは卒業までに祇園祭を見られてよかったな――と素直に思った。若者や子供たちがこの疫病で奪われたあれこれの喪失感は、大人は決して理解してやれない。理解できると言うのは傲慢だ。
 ただ、流行の隙間を見ながら、少しでも彼らが埋め合わせていけますようにと祈るしか。
 彼らが埋め合わすことを大人たちが少しでも見守ることができたら。
 浴衣を脱いで帰るのも全然オッケーだ、ただしちゃんと付けるものは付けなさい。
「梅田の乗り換えでジュース飲もうか」
 ああ、いいね。
 あそこのミックスジュースはおいしい。
 おじさん、奢ってあげたいくらいだ。お兄さんと自称して滑るのが恐いので先制しておじさんと言っていくスタイルです。
 氷の粒が混じったさらりとしたミックスジュースが喉を滑り落ちる感覚を思い出し、弱冷車のもったりした冷房が気持ち涼しく感じられた。
 同級生の彼女に久しぶりに連絡してみようかな、などと思った。

 話がなげぇんだよおっさん!
 舌打ちしつつ彼女は滑り込んできた電車に飛び乗った。乗り込める車両に駆け込んだら弱冷車だった、ジーザス!
 大型スーパーに勤めはじめてから一年。流行病の中、どうにかこうにか準社員枠で潜り込めたのが幸運だった。どこまでアテにしていいか分からないが正社員登用のルートもあるというし、社保完備で当面の食い扶持が稼げるのは相当幸運なほうだろう。卒業した大学はそれほど有名なところではない。
 配属された食料品売り場も思ったより悪くなかった。品出し作業は割と向いていた。
 だが、上司の話が長くてくどいのがいただけない。日報の曜日を間違えたのは確かにこっちが悪いが、週半ばの水曜と木曜なんかテンション的にも客の入り的にもさほど変わらない、というかどうでもよくない? そんなんで帰りがけに三十分もくどくど説教する? いい水・木は週休の水・木だけDeath、覚えとけ電球頭。
 おかげで帰宅に一番乗り継ぎのいい電車を逃がすところだった。
 弱冷車のうえ換気で窓が少し開いていて、なけなしに冷えた空気が風に巻かれて逃げていく。お願いもうちょっと冷気プリーズ。
 走った暑さでぶわぶわ鼻の頭に湧いてきた汗をタオルハンカチで叩いて落ち着かせ、ふと気がつくと乗客にやたらと浴衣が多かった。あっちにカップル、こっちに友達連れ。ひいふうみいよ、いつむ、なな。気合いの入ったカップルは男のほうも浴衣を着ている。
 男の浴衣ってちょっとチャラく見えるけど、自分で着れないだろうしお母さんとかに着付けてもらってるのかなと考えると急にかわいくなってくる。
 どこかで花火大会でもあるのかな、と思ったら祇園祭のようだった。せっかく関西に進学したのに一度も行ったことがない。
 浴衣でデート? 来世くらいに叶うかな?
 でもまあ、今年はこちらもこれがありますから!
 イヤホンを付け、スマホの動画を再生する。
 よっちょれよ、よっちょれよ、よっちょれよっちょれよっちょれよ。今年はロック風アレンジだ。画面の中でまだジャージの振り付け師が鳴子を振って踊り出す。
 ふるさとのよさこいまつりの踊りである。祭の開催中は各商店街や地元企業、自治体などあらゆる団体が踊り子隊を組織して市内の競演場や演舞場を練り歩く。曲はよさこい節をワンフレーズは入れていること(ただしアレンジ自由)、踊りは鳴子を持って前進すること(ただし振り付けは自由)、踊り子隊は曲を流す地方車が先導すること(ただし規模は問わないので生バンド乗車のトレーラーであろうがスピーカーを積んだミニバンであろうがかまわない)等々ルールがかなりゆるいので、郷土の由緒ある踊りというイメージは全くない。踊るのが好きな奴らが夏場に各々ダンスチームを結成するというノリだ。コンテストがあるので入賞常連の強豪チームは踊り子に選ばれる競争率が高いが、踊るだけなら誰でもどこかには潜り込める。
 そもそもが隣県徳島の阿波踊りが全国的に有名で盛況なので、高知にもああいうドカンと派手なのが村おこし的にほしいと戦後に作ったお祭りだ。
 仕掛け人にしてよさこい節を作曲した武政英策というおっさんが上手かった。曲のアレンジを許可したのも武政だし、振りを考えるに当たって手に何か持って踊ると見映えがいいんじゃないかと鳴子のアイデアを出したのも武政だ。
 曲のアレンジ自由が振り切れてサンバ調が流行ったときもこのおっさんが「大胆なアレンジが流行るのは祭が若者に受け入れられた証拠、好きにさせておけ」と頭の固い反対派を黙らせた。ナイスだ武政、顔も知らんけど。
 なお、祭が生まれたときに基本の型となる振りも一応決められているのだが、これは「正調」と呼ばれて県庁や市役所、地元銀行などの「お堅い」チームが何となく継承を担っている。何となくというところがミソで、まあガチガチに決まってはいない。ダンサブルなチームの中に正調が交じると箸休め的な感じでこれはこれで良さが際立つ。全部正調だと退屈だろうから、これを狙ってアレンジ自由としたのなら武政かなりの策士である。顔も知らんけど。
 当たり前に毎年やっていた頃は、雨天決行が当たり前だった。何故かは知らねど、よさこいは前後夜祭を含め四日間の開催のうち一日は必ずと言っていいほど激しく降られるのである。踊り子の熱気が上昇気流を呼んで雨雲を生むとか言われている。ゲリラ豪雨の走りであろう。降っても踊りは中止されない。むしろ天然のシャワーとばかりに汗を流してリフレッシュする。激しく降ったらすぐやむし、照りつける太陽があっという間に衣装を乾かしてくれる。
 降られるのがお約束だが、不思議と台風で中止になったことはない。台風シーズンまっただ中の開催であるにもかかわらずだ(少なくとも彼女の覚えている限り)。これも踊り子の熱気が前線に影響し、台風の進路を変えているとかいないとか。
 一応全国的に有名な祭のはずだが、地元民の感情は割と分かれる。二大派閥はよさこい大好き派とあんなものやめてしまえ派。よさこいの期間中はあちこちの路上を踊り子隊が練り歩くため交通規制がかかり、市内中が渋滞に陥る。歩道も観客で溢れ返るので大混雑、踊り子にとってはまたとない舞台だが、渋滞が傍迷惑だという声も根強い。
 また、自分で踊るほどではないが見る分には楽しい派、あってもなくてもどっちでもいい派、自分が参加する年は大好きだが参加しない年は滅べ派、様々ある。
 祇園祭も立派な山鉾が練り歩く間は交通規制がかかるのだろうが、祇園祭などやめてしまえという過激派はそれほどいないだろう。この辺り、伝統の長い祭と新しい祭では地元住民の意識の持ち方も違うらしい。
 彼女は地元にいた高校生の頃までは友達とよく参加していた。よさこいが特に好きというわけではなく、友達付き合いの中によさこいもあるという感じだった。練習は面倒くさいときもあるが、参加すればまあ楽しいし、凝った衣装で踊り用の化粧をするのも気分が上がる。
 進学で地元を出てからは参加していなかったし、特によさこいが好きというわけでもなかったが、去年おととしと立て続けによさこいが中止になってみると、自分でも意外なほどの喪失感があった。
 高知がよさこいを中止するなんて。――それだけ流行病が深刻だということなのだろう、だがしかし。踊り子の熱気で台風の進路さえ変えるというあのよさこいが!
 自分の親がよその人に謝るところを見てしまったような気分だった。いや、そんなところ見たことないけど。でも、実際に見たらこんな気分になりそうな気がした。
 病気が流行ってからは帰省もできなかった。流行った当初、高知は感染者数が1とか0とかで非常に少なく、もし増えたらどこの誰々の家から出たと特定されてしまいそうな恐さがあった。いなかの社会の狭さである。休日に市内唯一の大型ショッピングモールに行けば大体知り合いと出くわすことになっている。それも一人では済まない。いなかのモールは多分ディズニーランドと同じくらいの価値がある。
 山間部の村から参加したよさこいチームのボーカルが、モールの特設演舞場で「みんなー! ここがモールぞー!」と叫んだことがある。どんなコールよりもぶち上がったという。
 今年はよさこいが復活するという。正確にはよさこい祭は中止だが、代替案として規模を縮小した「よさこい鳴子踊り特別演舞」を開催するという。どういう分類をしているのかは知らないが、よさこいはよさこいだ。
 居ても立ってもいられなくなった。いつも踊っていたチームが参加することになり、彼女にもリモートで練習できるからどうかと誘いが来た。もちろん即答で参加。いつも一緒に踊っていた仲間も何人かは帰省して参加するという。
 地元組も実際に集まっての練習がなかなかままならないようだが、リモートだからこそ県外組が参加しやすい部分もある。むしろ、この流行病の自粛がなかったらゆるやかに見る側に回っていただろう。
 自分が参加していなくても開催はされていてほしい、それがよさこいだ。前代未聞の二年連続中止に不思議と気持ちが奮った。規模を縮小してでも開催されていたら、県外からリモート練習で参加とまでは思わなかったかもしれない。
 ワンルームの部屋では狭いので、彼女はマンション前の道で練習している。鳴らすとうるさいので拍子木部分は輪ゴムで留めている。一度職質されたが、ふるさとの踊りの練習だと説明すると警察官の目が優しくなった。ふるさとという言葉に人は割と優しい。
 県外組はそれぞれ練習場所を見つけて励んでいるらしい。合い言葉は「目指せ、花メダル」。
 各競演場には審査員席が常設されており、次から次から流れてくる踊り子隊の中から「魅力的に踊っている」踊り子にメダルを授与する。とはいえ、授与式のようなものがあるわけではなく、審査員が踊り子たちを縫って進み、踊り子の首に横からひょいとかけるだけだ。
 これぞの基準は特にないが、笑顔はかなり重要。下手でも笑顔がいいともらえたりする。同様に、衣装を着てぽてぽて歩いているだけの幼児がもらえる率もけっこう高い。
 審査員のおっちゃんおばちゃんの「気分で」濫発されるメダルだが、そんな中にひときわ格の高いメダルが存在する。それが花メダルだ。普通のメダルを造花でぐるぐるデコっただけのものだが、これは「笑顔」「技術」「人目を惹く」など複数の要件が重ならないと授与されない。何を以て上手いとするかは決まっていないが、もらえる奴は「何か目立つ」。
 数も少ないので、踊り子としては一度はゲットしたい憧れのメダルだ。毎年参加していた頃はもらえた例しがない。出ていればそのうちもらえるだろう、と流れで出ていた年月が惜しまれる。流行病の自粛がなくても、県外組になったら練習に参加することがそもそも難しい。そんなことにも県外に出てみるまでは気づかなかった。
 今年はチームの全員で合わせるのはよさこい前日の合同練習からだが、合わせる回数が少ないからこそピークはきっちり持っていきたい。
 だから、――浴衣の若者たちの気持ちは少し分かる。彼女にとっての祇園祭はよその有名な祭でしかないが、「ある」ことが当たり前だった催しが突然なくなってしまう奇妙な寄る辺なさは同じだろう。
 彼女がリモートでよさこいに参加する気持ちと、浴衣の若者たちの気持ちは多分似ている。
 やっとあるべきものが戻ってきたという寿ぎだ。
 浴衣を着られるイベントなんてこの二年なかった。そんなイベントがやっと来た。
 あたしの天王山は、来月。あんたたちは今楽しんでくれ。
 よっちょれよ、よっちょれよ、よっちょれよっちょれよっちょれよ。
 イヤホンで曲を聴きながら、体が自然と小さくリズムに乗った。

 ホームに電車が来ているのは見えたが、走っても到底間に合わないので諦めた。
 同じように諦めた中高年がてくてく上っている階段の端を、脇目もふらずに駆け上がっていく娘がいた。
 彼の職場の準社員だった。帰りがけに日報の不備を注意したが、今ひとつ伝わっていなさそうだったので、話がくどくど長くなった。露骨に面白くなさそうな顔をしていたが、それならもう少し真面目に聞いてほしい。話を聞いている感触があればこちらも無駄に長引かせたりしない。
 てきぱき動くし返事もいいし割と買っているのだが、日報の誤字脱字が多すぎる。日付や曜日を間違えて打ち込んでいることはしょっちゅうだ。何度言っても直らない。
 水曜も木曜もそんな変わんないデショ、というような顔をしていたが、お弁当用冷凍つくねの補充を水曜にしたか木曜にしたかは仕入れの判断に大きく関わってくるのだ。どのような商品も売り時や流行りというものが細々ある。
 電球頭でもそれくらいのことは考えている。電球頭という陰口スレスレの渾名あだなは十年くらい前ツルっと来たとき当時のアルバイトの若い女性が言い出してあっという間に陰で定着した。髪型でごまかせなくなった頭の形がそっくりらしい。彼は影が薄いのかオーラが薄いのか、いることに気づかずギャハハと笑って話していた。若い女性はザンコクDeath。
 名付けの張本人はとっくに辞めて今では一家総出で買い出しに来たりしているが、旦那の額がだいぶ後退して行き着く先はバーコードだと思われる。親の因果ならぬ若気の至りが旦那に報い人を呪わば穴二つ。しかしまあいつも一家で楽しそうなので、もう髪の量は悪口の対象に入っていないのかもしれない。
 電球頭の渾名は今でも残ってますけどね。まあ別にもうそんなには気にしていませんが。
 ホームに上がってみると電車はもう出ていた。日報が雑な準社員はいなかったので、さっきの電車に滑り込んだらしい。駆け込み乗車はあまり感心しないので明日の朝礼のネタにでも使うか。話すことが見つからず困っていたところである。
 名指しはしないが本人は気づいて嫌な顔をするだろう。また電球頭とぶつぶつ言われるだろうが女性に電球頭と陰口を叩かれるのは十数年来慣れっこだ。
 面接のときに正社員登用について訊いてきたが、今でもそのつもりはあるのだろうか。面接官の中に自分が入っていたのは向こうは覚えていないかもしれないが。
 そのつもりがあるのだろうと思っていたので割と細々言っている。正社員登用は日頃の勤務を見て、という建前になっているが、誰か一人取り立てようとなったとき同じくらいの勤務評定の者がいたら、後は細かいところの比べ合いだ。彼女の雑な日報は減点対象である。
 そういうことまできちんと話せばいいのだろうか。だがそれくらい自分で分からないようではとも思うし、変に肩入れしていると思われてもキモいとかセクハラとか言われるかもしれないし、まあ君子危うきに近寄らず。電球頭のおっさんは余計なことを言わないに限る。
 待つほどもなく次の電車が来た。
 電車のドアが開いた瞬間、華やかだなと思った。浴衣の若者が多いのだった。
 赤い朝顔、青い朝顔、ピンクの紫陽花あじさい。紺の桔梗に黒地の菖蒲。金魚に花火に麻の葉模様。髪も巻いて結って飾りをつけてと手が込んでいる。
 手が込んでいると知っているのは、この数日というもの中学生の娘が髪型の練習で毎夜大騒ぎしていたからだ。実際に奮闘していたのは妻だが。髪をコテで巻いてゴムで結んでピンを差して仕上げの髪飾りをつけ……と手本の動画を見ながらエアコンの効いた部屋で大汗をかいていた。
 最初に娘がやってほしいと見せてきた髪型は宝塚の娘役の写真で、父の目から見てもそもそも髪の長さが足りないのではと思ったが、妻が宝塚をなめるなと盛大にキレていた。
 あんな超絶技巧が素人に真似ができるかということもあるが、娘が選んだ髪飾りのせいもあるらしい。
 子供たちから若い娘さんまで大人気キャラクター「ちびかわ」のリボンかんざしを娘は仕上げにご所望であった。彼の勤めるスーパーでもキャラクターパッケージのお菓子がよく売れているのでありがたい限りだ。
 もちろんちびかわは大人気だしかわいいキャラクターだが、宝塚の娘役がちびかわかんざしを着けると思っているのか! という点が長年宝塚ファンである妻にとって深刻な解釈違いだったらしい。
 同じクラスの仲良しグループで浴衣を着て祇園祭に行くというイベントで、娘が選んだ浴衣もやはりちびかわ柄だった。
 もちろんちびかわは大人気だしかわいいキャラクターだし彼の勤めるスーパーでも各種商品で多大な恩恵を受けているが、――浴衣までもか!
 年頃の娘が初めて自分で選んで買った浴衣がちびかわ柄。もちろん下駄もおそろいでちびかわが鼻緒に踊っている。下駄だけでも無難なものに妻が誘導しようとしたが失敗したという。
 どうしてあなたのところのスーパー、ちびかわの浴衣なんか置いてあるのよ! と妻に厳しく責められた。
 衣料品売り場は階もちがうし彼の担当ではないのでとんだ冤罪だが、一応売り場担当に訊くとキャラクター物は一定の需要があるので、とのことだった。
 ちびかわは悪くない。大人気だしよく売れる。ちびかわが好きな娘もちっとも悪くない。これからも好きなものを素直に好きでいてほしい。しかし、娘が初めて選ぶ浴衣はできればちびかわじゃないのがよかった……! と思ってしまうのは親のエゴだろうか。
 親の贔屓ひいき目かもしれないが、娘は赤がよく似合う。あの赤い朝顔などはよかっただろうな、と車内の浴衣の柄を眺める。
 赤い花火もいいが赤いグラデーションのハイビスカスはちょっと派手すぎる。赤い金魚と黒い出目金が水の中に泳いでいる柄も面白い。
「おいおっさん、なに見てんだよ!」
 荒っぽい怒声に身をすくめると、
「お前だよ、電球頭!」
 職場の知り合いかなと一瞬思ったが、怒鳴りつけてきた若い男はキンキラの髪の色からして彼の知人には存在しないタイプだった。外見的特徴の指摘がたまたま渾名と一致しただけらしい。
 知らない人から見ても私は電球頭ですかそうですか。
 なぜ突然怒鳴られたのか目を白黒させていると、
「俺の彼女! じろじろ見てただろ!」
 俺の彼女と覚しきは、ちょっと派手すぎるとスルーした赤いハイビスカスである。隣に本命の朝顔がいたので何度か視線が戻っていたが、
「誤解です! 決してそのお嬢さんを見ていたわけでは……」
 むしろうちの娘には似合わないなと除外していたのだが、あー若い頃もこういうことあったな突然派手なヤンチャ系に絡まれること! 人間を絡む側と絡まれる側に分けたら絡まれる側ですいついかなるときも自信を持って!
「じゃあ何見てたんだよ!」
「浴衣の柄を……いえ、そのお嬢さんに限った話ではなく」
 浴衣見てたってことは俺の彼女見てたってことだろうが、とか何とかこういう輩が展開しそうな論は大体分かる。分かるくらいには絡まれてきたしカツアゲされたこともある。今ならオヤジ狩りか。狩られたらどうしよう。
「実はうちの娘がちびかわの浴衣を買ってきまして。ちびかわが好きなのは知っているんですが、浴衣はちびかわじゃないのを選んでほしかったというのが正直な気持ちで。こういう素敵な柄の浴衣を着てくれたらいいのになぁといろんな浴衣についつい目が」
 ハイビスカスはスルー対象だったが素敵の中に入れておく。
「えー、ちびかわって浴衣あんの? ウケルー」
 ハイビスカスの彼女がギャハハと笑った。
「ウチもキティーとかにすればよかったー!」
 見ると提げている巾着は国民的ネコチャンキャラクターだ。片耳に赤いリボンがついている。
「キティーのセットもございます」
「えー、おっさん浴衣屋さんの人?」
「いえ、ダイナスーパーです。衣料品売り場で全店展開中です」
 ハイビスカスが妙なところに引っかかってしまったので、イキッて突っかかってきた男は拍子抜けしたようになっている。
「えー、ウチらも地元のダイナしょっちゅう行くわー」
 だから何だ。心の底からそう思うが、強ばった顔のまま固まっておくしか選択肢がない。
「ダイナ行きにくくなったら困るし、いじめんのやめなよー」
 ハイビスカスから思わぬ調停が入った。お前らの地元のダイナがどこかは知らんが。
「だって……お前のことじろじろ見るから」
 ハシゴを突然外された彼氏は気まずそうにもごもご言っている。
「おっさんウチの浴衣うらやましかったんだよー」
 ハイビスカスは別段うらやましくなかったが、そう思ってもらうのは自由だ。人間には内心の自由がある。思うまま羽ばたいてほしい。
 停車駅のアナウンスが入った。ハイビスカスが「あー、ウチらここだわ」とドア上の電光掲示板を見上げる。全然要らない情報ありがとう、確かにうちの支店があります。
「じゃあねー、電球のおっちゃん。来年は娘がこういうの着てくれるといいねー」
 電球を駄目押ししてハイビスカスと彼氏は電車を降りていった。
 ぶふっと周囲でいくつか小さく噴き出す声が泡のように弾けた。
 慣れている。――笑うがいい。
 電球頭でもこれまで堅実に生きてきた。娘にちびかわの浴衣を買ってやり、妻が観たいというからタカラヅカスカイステージもケーブルで契約している。おかげで家に帰ると大体タカラヅカが流れているが、喧嘩腰のワイドショーやニュース番組を観るよりは精神衛生的に良い、何しろ品のいい綺麗なお嬢さん方しか出てこない。おっさんには良さが分からないイケメンタレントがちやほやされているのを観てムスっとするようなこともない。意外と悪くなかった、タカラヅカスカイステージ。
 電球頭のおっさんも一生懸命生きています。あなたが思うより平穏です。
 ご心配なく。

 こらえきれずにマスクの中で小さく噴き出すと、電球がちらりと彼女のほうを見た。
 すみません、あまりにも似てるので。
 絡まれて気の毒だったなと思いつつも、金髪男の呼ばわった電球頭に笑いをこらえるのが大変だった。彼女の他にもこらえていたのが何人もいる。
 マスク、手洗い、うがいに加えて公共の場所で大声で喋るのはやめましょうというこのご時世にいきなり怒声を張り上げる金髪男にはドン引きしたが、電球頭はピンポイントが過ぎた。車内に何十人いるか知れないおっさんを一言で特定してのけた言語センスには驚嘆せざるを得ないが、絶対知り合いになりたくない。
 助けられずにあまつさえ笑ってしまってごめんなさい電球さん。電球さんって呼んじゃってるけど。
 娘さんの浴衣はちびかわですか。流行ってますものね。何歳だろう、小学生くらいかな。でもちびかわけっこう年齢層広いからな……
 彼女の勤めるファンシーショップでも人気だ。筆記用具にメモ帳、ノート、クリアファイルにハンカチ、ティッシュ、ポーチ、手鏡、変わり種では折りたたみ傘というのもあった。
 だが、よもや浴衣まで押さえているとは。ファンシーショップでは衣料品はせいぜいTシャツくらいまでなので予想の範囲外だった。
 でもそういえばわたしが子供のときもあったなキャラクター浴衣。小学生のとき流行りました、ムーンライト戦記ひかり。主人公の月乃ひかりの守護宝石がムーンストーンで、ムーンストーンの力を借りて変身して戦って……わたしのご贔屓はアクアマリンのまりんちゃんだったけど。
 ご丁寧に主要キャラ五人の柄を展開していた。袖に各キャラの守護宝石……はつかないけれど、宝石を模したスワロフスキーの飾りがついていて、これが当時の少女たちの心を鷲づかみだった。今にして思うとえぐい商売してたなメーカー!
 できればちびかわじゃないのにしてほしかった、という電球さんの気持ちは大人になると痛いほどよく分かる。そろそろ子供が生まれた友人も増えてきて、親が絶対の絶対に着てほしくないキャラクター物の服を根負けして買ったという話もよく聞く。
 でもすみません、わたしもアクアマリンナイトまりんちゃんの浴衣買いました。女の子が騎士ってところがよかったんです、最先端だったんです。今なら少女戦士も男の娘ヒロインも何でもありですけど。
 母親と浴衣を買いに行ったときのことは今でも忘れない、母は万策尽きたように「好きなのにしなさい」と肩を落とした。
 母親が最後まで粘って薦めていたのは水色の鉄扇柄だった。アクアマリンナイトが水色だったので似た色味で誘導を試みたのだろう。今思えば悪くない柄だったが、子供にはキャラクター物がどうしても欲しい時期があるのです。
 その後、彼女はコスプレの道に分け入ってしまったので、浴衣を着たのはあれが最後になった。浴衣よりも先に作って着たいものがいろいろできて、浴衣どころではなくなった。
 最初で最後になるのならあの鉄扇柄を着てあげたらよかった、と思わないでもない。洗面所で洗って乾かし中のコスプレ用のシリコンの付け胸を見ても何も言わずにいてくれるのでいい両親である。
 親の因果が子に報いるなら、彼女の子供は絶対の絶対にキャラクター物を着たがるようになるはずなので、もし子供に恵まれたら反対しないと決めている。
 そろそろ結婚話が出ている彼氏もコスプレで知り合ったので、子供は英才教育で絶対にオタクになると決まっているというのもある。
 彼女がようやくまりんちゃんの完成度を納得できる域にまで高められたイベントで知り合ったのが今の彼氏である。
 向こうは格闘ゲームのキャラクターをやっていた。マシュマロ・ガイというキャラクターで、その名のとおり魅惑のマシュマロボディで敵の攻撃を無効化してしまう技を持っており、クセはあるものの使いこなすと最強キャラと言われていた。
 そのマシュマロ・ガイを着ぐるみなしの生身で完全再現していた彼氏に一目惚れだった。連絡先の交換を申し込んだのは彼女だったが、向こうもまりんちゃんの完成度に好意を持ってくれていたという。
 コスプレイベントを二人でそぞろ歩いていたら、「異色のカップル」とネットニュースで話題になった。
 どうしよう、こんなの書かれちゃいましたね、とガイはずいぶん気にしてアプリでメッセージを送ってきた。
 嫌じゃないですか? 記事、取り下げ申請しましょうか?
 SNSで注目の集まった投稿を勝手に取り上げて記事にするような雑なネットニュースだった。使われた写真もイベント参加者が撮ったもので、その参加者には投稿の許可を訊かれたが、そのネットニュースは無断で使っただけだ。
 元投稿の参加者も「レイヤーに許可を取って投稿しているので勝手に使わないでください」とネットニュースに苦情のコメントを書いていた。
 取り下げはしてもらいましょう、と返事を書いた。
 でも、わたしたちはカップルになっちゃうのもアリだったりして?
 努めて気軽に、冗談としてかわされても「だよねー」と笑える余白を持たせて。行けるんじゃない? ガイもわたしのこと好きよね? かわされたら泣いちゃう。
 コスプレで会うのも楽しいが、コスプレでは普通のお店にお茶や食事には行けない。コスプレへの偏見を助長するような行為は慎むのがコスプレイヤーの嗜み。
 クセ強ファッションとして社会的に認知されているゴスロリはたまにちょっと羨ましい。嗜む友人がいるが、ゴスロリお茶会の写真は圧巻だった。
 友だちと人気のパンケーキを食べに行って、ガイもパンケーキ好きかなとよぎるようになったらそれはもう恋なのだ。職場の飲み会でちょっと美味しい焼き鳥屋に行ったときもよぎったし、何ならサイゼリーヌでも餃子の飛車角でもガイならどのメニュー好きかなとよぎる。よぎりすぎだ、マシュマロ・ガイ。
 責任取ってよマシュマロ・ガイ。
 最高潮の緊張を持って待ち受けた返事は――冗談だったらザンコクですよ、それ。
 よし来た、ほい来た! こういうときはひねりは要らない。
 冗談ではない、です。
 送ると長考が入った。ここで長考要ります?
 ガイじゃないぼくはただのデブですよ?
 ここ、そんなことないって言っても欺瞞だしなぁ。とこちらもやや長考。
 かわいいデブです。
 ちょっとゆるキャラっぽいが、それも含めて。戦隊物だと黄色でカレーを飲みそうなところがツボである。
 ガイからはポッと頰を染める絵文字が来た。
 初めてのデートはパンケーキ、ガイの私服はポロシャツだった。ぱつぱつお腹はいつもどおりだが、コスプレでないという非日常にドキドキした。レイヤーにとっては日常こそが非日常。
 お互い金の使いどころが似通っているので等身大の付き合いが続き、結婚という運びになった。このご時世なので結婚式は控え、親族同士で簡単な食事会を予定している。結婚式代でコスプレ衣装が何着作れるかということを考えるとお互い自然に「ま、いいか」となった。その分のお金で流行病が落ち着いてからコスプレパーティーを披露宴的に開催するのもいい。レイヤー仲間はきっと張り切って扮装してくれるだろう。
 一人娘の花嫁姿が見たいと泣く両親のために、貸衣装で写真だけは撮ることになった。ガイの体型的には和装が似合うので、白無垢と紋付きである。本格的な和装はさすがにコスプレ衣装で作るのが難しいので、本格コスプレの気分で臨む。和物の漫画やアニメをチェックし、どの作品のつもりで挑むか相談中だ。
 電球さんにも電球さんがツボの奥さんがいるのかな、とふと思った。ちびかわの浴衣を買った娘がいるのだから、電球さんと結婚した女性が一人は必ずいるはずだ。髪はあるときに結婚したのだろうか、でも自分がデブ萌えであったようにハゲ萌えがあってもおかしくない。
 まりん浴衣でコスプレ道に分け入った自分のように、ちびかわ浴衣の娘もそちらに進む可能性があるかもしれない。キャラ物は着ぐるみコスにも繋がりそうだ。
 もしコスプレ道に行っても理解してあげてください電球さん。などと勝手な願いをかけていると、電車がターミナル駅に停まった。
 開いたドアからどっと人が流れ出していく。彼女は電球さんの後に続いて降りる流れに乗った。
 別に跡を付けたわけではないのだが、たまたま行く方向が同じだった。改札を出ててくてく、阪急電車の乗り換え方面だ。
 せかせか歩く電球さんが先に阪急の改札を通った。真っ直ぐ向かった階段も同じ路線だな、と思ったら、電球さんの行き先は階段の下のジューススタンドだった。何人か並んだ列の最後尾に着く。
 季節のフルーツで生ジュースを出すスタンドだ。バナナとみかんに氷をぶち込んでミキサーでガーッとやる定番のミックスジュースは、お手頃価格なんとびっくり一八〇円。後味がさらりと冷たくて美味しい。今日みたいな蒸し暑い日はさぞかしだ。
 ちょっと心惹かれたが、今度ガイと一緒のとき飲もうと思い直して階段を上った。

 一番乗り継ぎのいい電車でさっさと帰り、よさこいの練習をするはずだった予定が変わった。
 理由はピンクの撫子柄の浴衣である。
 乗り換える阪急の改札を通ったとき、前にピンクの撫子柄がいた。かわいい浴衣、ああいうの好き、と思っていたら彼氏連れの撫子は人の流れを逸れた。柄を目で追う感じで少し見送ると、二人は京都線に上る階段の下のジューススタンドに並んだ。
 階段の下の隙間活用のような店構えのジューススタンドである。椅子がない立ち飲み形式だ。カップが軽く飲み干すサイズ感なので、大体の客がその場で飲んで帰る。
 ミックスジュースかぁ、と喉を通るさらりとした冷たさが蘇ってしまった。今日みたいに蒸す日はきっと殊更においしい、知ってる。
 ――と、ついふらふらと撫子カップルの後ろに並んでしまった。
 定番のミックスジュースは一八〇円だが、季節限定商品もある。今は何かな、と下がっている札を見ると、ゴールデンパイナップルと白桃があった。どちらも心惹かれるが、値段はガツンと跳ね上がって四五〇円。とてもじゃないが手が出ない。
 定番でも充分おいしい、庶民として定番を注文。カップは小ぶりだが縁までなみなみと注いでくれる。土佐弁で言うところの「まけまけいっぱい」。
 ぐっとあおると食道の輪郭が分かるほどの冷たさが胃まで滑り落ちていった。体の芯がすうっと冷える。
 一気に行くか、と更に呷ると、途中で頭にキンキンが来た。かき氷並みだ、たまらん。
 キンキンが収まるまで一休み。撫子カップルはキャッキャうふふとゆっくり飲んでいるので、キンキンは来ていないらしい。
 と、改札からスタンドにおっさんがまっしぐらに歩いてきた。その勢いに気圧され、特徴的な頭髪の具合には後から気づいた。
 電球頭だ。お前も阪急か。
 電球頭は彼女には目もくれず列に並んだ。定番ミックスジュースの客を二人ほど待って順番が来て、思ったよりも大きな声で注文した。
「ゴールデンパイナップルを!」
 四五〇円を!? ――と他の客が声に出さないまでも、気配で少し沸き立った。長者だ、長者だ、長者が出たぞ。おらが駅の庶民派御用達ジューススタンドに長者が出たぞ。
 電球頭に開襟の長者が出たぞ。
 このスタンドで季節限定を頼む長者はその一瞬だけ利用客のヒーローだ。
「はい承知しましたー」
 敢えて平坦を保った声で店員がゴールデンパイナップル用にセットしているらしいミキサーに材料を放り込む。ベースはやはりいつもの定番、バナナとみかんと喉ごし氷。そこにゴールデンパイナップルを贅沢にオン。一切れ、二切れ、いや三切れ。
 出来上がりは定番よりも黄色が濃かった。
 美味いに決まってる、こんな神の雫。周囲の客のさり気ない注目を集める中、電球頭は神の雫をゴッゴッゴッと行った。
 途中休んで眉間を押さえたのはキンキンが来たらしい。あるある、あたしも今あった。
 と、電球頭がふとこちらを見た。目が合う。
「あ、ども……」
 帰りがけの説教があったのでちょっと気まずく会釈。電球頭も目礼した。
「すごいですね、それ」
 特に値段が。
「いつもは私もそっちです」
 というのは彼女が持った定番ミックスか。
「今日はちょっとむしゃくしゃすることがあったものですから」
 あれ、これまだ日報のこと言われてるか? しつこいな、と思いつつ。
「あ、日報すみませんでした」
 一応謝ると、電球頭は恐縮したように首を振った。
「いえ、違います。電車の中でちょっと絡まれまして」
「あー、そりゃ災難……」
 うっかりラフな相槌を打ったところで「でもまあ、」と続いた。
「もし正社員登用の枠が出たときね。同じくらい働く人が二人いたら、そういう細部の比べ合いになりますから。たかが日報、されど日報です。気をつけて損はしません」
 ……けっこういい奴だった、電球。
「気をつけます」
「はい、けっこう」
 お互い残りのミックスジュースに口をつける。
「あと、休みもすみません」
 お盆の繁忙期にがっつり夏休みを取ってしまった。むろんよさこいのためである。
 電球頭はゴールデンパイナップルをすすりながら何の感慨もなさそうに言った。
「従業員の権利ですから」
 だが、盆や正月の長い休みは家事の切り盛りがある主婦パート優先で決めているのが何となくの暗黙の了解だ。
「よさこいでしょう?」
 同僚のおばちゃんたちには話したが、電球には別に言っていない。告げ口されたか? お祭りなんて大丈夫なの、とチクリと言われたこともある。今年は祇園祭も淀川の花火大会もあるじゃねーか、とは言わない程度の社会性。
「誰かに聞きました?」
「いえ、誰も? 私に従業員同士の会話を教えてくれる人なんかいません」
 それはそれで寂しいこと言うなよ……!
「日程で何となく思っただけです。私も出身は高知なんですよ」
 知らんかった……! 電球のプライベートに何の興味もなかったので。
「私は今で言う陰キャというやつだったので、参加したことは一度もないんですが」
 でしょうね、とこれは素直な感想。
「でも、よさこいに思い入れを持っている人がたくさんいるのは知っています。やると決まったんなら無事に開催されるといいなぁ、くらいは思います。よさこい関係の業者も倒れるギリギリだという話は親戚から聞いていますし」
「でも、感染とか大丈夫なのかって言われちゃって」
「もちろん、気をつけるべくは気をつけていただいて。でもまあ、最後は運を天に任すしかないところはあると思いますよ」
 意外と達観だ。
「うちの娘が今日の昼間に友だちと祇園祭に行ったんですよ。娘の中学は修学旅行がなくなってしまいましてね。修学旅行に行けなかった代わりに友だち同士で浴衣を着て祇園祭に行くことになったんだそうです」
「止めなかったんですね」
 うーん、と電球は首を傾げた。
「感染はもちろん心配ですけどね。でも、どっちもリスクはあるので」
「どっちもですか?」
「感染のリスクと、思い出を作らせないリスクと、どっちが重いとは私は決められません」
 私、優柔不断なので、と電球は全然カッコよくないことを言って笑った。
「思い出をたくさん我慢させてきた負い目もありますしね。まあだから、気をつけなさいと言い聞かせて行かせました。娘が感染したら私にも伝染うつるでしょうし、そうしたら私も職場に迷惑をかけることになりますが、そこは相身互いで努力義務をするしかないでしょう」
 職場でも感染者はぽつぽつ出ている。罹った人も別に気をつけていなかったわけではない。目に見えないウイルスと戦うのは分が悪い、ただそれだけだ。
「まあ、できるだけ罹らないように気をつけて行ってきてください。最後は運天です」
 と、電球頭は天井を指差した。――運を天に任す。
 努力しつつ運天。
「分かりました、気をつけます」
 では、と電球はゴールデンパイナップルを飲み干し、その場にあったアルコールを手に擦ってマスクを着けて立ち去った。せかせかと歩いていく背中は一度も振り返らない。
 その背中に何となく一礼。――努力しつつ運天。投げやりでも開き直りでもなく、それ以外にどうしようもない。
 振りをいくら体に入れても、よさこいが始まる前に感染したら参加はできない。
 定番ミックスジュースを飲み干して、マスクを着けてから空のカップをゴミ箱にシュートする。電球を見習って飲食後に忘れがちなアルコールも。
 よっちょれよ、よっちょれよ、よっちょれよっちょれよっちょれよ。
 努力と運天、よっちょれよ。

 何となく阪急梅田の改札でジューススタンドに寄ったのは、明らかにピンクの撫子の影響だ。
 彼氏と乗り換えでミックスジュースを飲もうと話していたのが頭の隅に残っていた。
 さすがにもういないだろうな、とスタンドの列を眺める。数人並んだ中には浴衣のカップルもいたが、撫子柄ではなかった。
 撫子カップルは乗り換えに向かう途中までちらちら見えていたが、彼は改札に入る前に本屋に寄ったのではぐれた。はぐれたも何も最初から他人だが。
 本屋で同級生の彼女とよく感想を話していたシリーズの新刊が出ていたので買った。
 もしかしたら彼女もまだ読んでいるかな、とちょっと甘酸っぱい気持ちを抱いて、甘酸っぱいミックスジュースを買う。定番のほう。季節限定でゴールデンパイナップルと白桃があったが、値段が折り合わない。
 口をつける前にふと思い立ってスマホで写真を撮った。

 久しぶり。
 本屋に寄った後、梅田でミックスジュース中!
 あのシリーズの新刊出てたよ、まだ読んでる?

 これくらいならさりげないだろうか。
 するりと喉を滑り落ちていくミックスジュースの爽やかさが弾みをつけたか、思ったより躊躇せず送信ボタンを押せた。

fin.

今回の物語の「種」は……
===
ミックスジュースが好きです。通勤で使う阪急梅田駅の2F中央改札口の構内側の端、お持ち帰りすし屋の隣で、やや階段の陰の少し引っ込んだところにミックスジュースのスタンドがあります。いくつかの種類がありますが、昔ながらのミックスジュースは消費税込み1杯170円です。バナナ風味とほんのりミカンと絶妙な粒々の氷と。注文するとガラガラとミキサーを回してプラスチックのカップの縁ぎりぎりまで注いで渡してくれます。私はお酒が飲めないので、仕事帰りのこのささやかな一杯がたまのご褒美になります。家で作るのと違ってバナナが少し薄めだなとか、少し水っぽさがいい塩梅に170円なんだよなとか、170円というあまり心を痛ませない価格がたぶん関西なんだろうな、昔阪神デパートに行った時にはたまにスタンドに寄ってジュースをきょうだいで半分こしたなとか、そういえば前も同じようなことを思い出していたなとか、とりとめもないことを考えたり思い出したり。氷のせいで眉間がキーンとなりながらちびちびと立ち飲みをします。この帰りの時間帯は学生さんたちよりも仕事帰りの人が並んでいることが多く、大体ミックスジュースを買っていきます。時々季節限定のものや意識高い系(!)の野菜とか果物が入っているミックスジュース(価格が200円を超える)を頼んでいる人がいると、心なしか周囲がおお!となります。椅子はないので、飲みながら立ち去る人もたまにいますが、ほぼ皆カップ捨ての周りで立ち飲みです。だから1杯を飲みきるまでのほんの数分。仕事帰りの見知らぬ人同士が、同じ場で微妙に視線を合わせないようにしながら同じものを飲んで同じ一瞬を共有します。見知らぬみんなも頑張ってるな、よし明日も頑張ろうと思う、私のささやかな気持ちの回復ポイントとなるミックスジュースを飲むこの時間が好きです。

投稿者は、りこさん(女・47歳)
===
でした!

編集部注)ご投稿いただいたあとミックスジュースは価格改定されたため、作中では180円となっています。

 

「種」の投稿はこちらから
https://kadobun.jp/news/press-release/dz61anf341s0.html


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