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連載

有川ひろ 物語の種、募集します。 vol.8

有川ひろ「清く正しく美しく」——「物語の種、募集します。」小説その8

有川ひろ 物語の種、募集します。

図書館戦争』『県庁おもてなし課』などで知られる小説家・有川ひろさんによる、読者からの投稿を「種」として小説を書く企画。

投稿内容は、思い出話でも体験談でも、心に留まったキーワードでも写真でも。あなたが物語の種になりそうだと思ったものなら、なんでもOKです。

投稿募集ページはこちら
https://kadobun.jp/news/press-release/dz61anf341s0.html

「種」から今回芽吹いた小説は……


清く正しく美しく  有川ひろ

「ねえ、これお客さんに物販で勧めてくれる? 飲むだけでウイルスが治るのよ!」
 店長が出してきたのは、このエステサロンで以前から扱っている美容ドリンクだ。新鮮な水素を細胞の中に取り込むことができる特別な水をベースに、アメリカで特許を取っているとかいう酵素を加え、飲むだけで細胞の新陳代謝が活性化し……真面目に聞いていなかったので細かくは覚えていないが、とにかく飲むだけでお肌が若返り、シミ、しわ、たるみが改善され、あらゆる関節痛が改善され、末期ガンさえ治るという奇跡のドリンクである。
 このドリンクを毎日飲んでいるからこんなに若々しさを保てている、還暦にはとても見えないと人に言われる――と自信満々の店長は、スタッフの彼女が見る限り明らかに古稀が近く見えるし、何なら古稀を過ぎているかもしれない。店長の真の年齢は誰も知らない。
 能面でも被っているのかというほどの厚化粧は昼が過ぎると端からひび割れてきて、店長の主な午後の業務は事務室に立てこもっての化粧直しだ。
「あらぁ、ウイルス治っちゃうんですかぁ~」
 そもそもウイルスが治るという言い回しはどうなのか? というような細かいことは突っ込まない。「飲むだけで」「世界的な猛威を振るっているウイルス感染症が」「治る」と言いたいのだろう。
 感染症は抑え込んだりぶり返したりを繰り返しながら流行が続いている。
 発症したところで何をどうすればいいのか分からなかった初期は、大手のエステでは回数券やコースの期限を延ばして一時休業の措置をしたという話も聞いている。スタッフと顧客が物理的に接触しないわけにはいかないエステでは頷ける対応だ。
 このサロンではどうかというと、一貫して通常営業である。どんなに人流自粛が叫ばれていた時期も定休日以外は一切店を閉めたことがない。
 閑静な住宅街の民家を改装した隠れ家的エステサロンのため、人流が激しくない。よって自粛する必要はない。というのが店長の言い分であった。顧客の中にはかなり流行が激しい地域から通っている人もいたが、おかまいなしである。
 マスク、手洗い、うがいは徹底している。それはもう、ほぼ楽隠居状態で直接顧客を触らない店長とは訳が違うので、スタッフはしゃかりきに予防対策に勤しんだ。接客の前後に手の消毒はもちろん、使うベッドや器具もアルコールで拭き上げるので、彼女の手はすっかりガサガサだ。もう一人いるスタッフも同じである。
「ね、ちゃんと売ってちょうだいよ。あなた物販の成績悪いわよ」
「すみません、わたし説明がちょっとヘタみたいでぇ~」
 器具の拭き上げをしながら愛想笑いでごまかす。
「あなた、お客の評判はいいんだから物販さえもっと伸びればねぇ。このままじゃ時給上げられないわよ」
 心にもないことをよくもまぁ、と思いつつ、バカみたいな笑顔であっけらかんと言う。
「ウッソォ、時給って上がるんですか~!? 知らなかった~!」
 店長はさすがにばつが悪くなったのか、タオル棚を整頓するふりをしはじめた。
 勤めて二年になるが、時給は研修期間のままビタいち上がっていない。労働基準法の最低基準を余裕で割っている。驚くなかれ八百円。
 募集時の条件は、未経験者可・研修期間のみ見習い時給。研修中にフェイシャルマッサージやボディマッサージ、美容機器の施術を習得し、技術習得後は応分に昇給ということになっていた。
 家から通いやすい場所だったことと、何より未経験者可の条件が魅力的だった。美容には若い頃から興味があったし、技術を習得したらよそのサロンに転職も利く。エステサロンの求人は他にもあったが、求められているのは即戦力で未経験者可は少なかった。
 高価な美容機器はとても自分で購入できないが、マッサージならセルフケアにも役立つ。二人の息子の子育てが一段落して、手に職をつけつつ自分のメンテナンスもできると考えたら、研修期間の安い時給も許容範囲と当時は思えたのだ。
「お疲れさまでーす、お客さまお帰りになりました!」
 二階のエステルームから戻ってきたのは、彼女の三ヶ月後に入ってきた後輩ちゃんだ。未経験だったが筋が良く、力持ちなのでゴリゴリに凝ったお客から全身マッサージの指名をよく受けている。見送ったお客もマッサージの常連だ。
「次のコース組んでいただけそう?」
 食いつくように店長が尋ねた。
 サロンでは全施術を一括前払い制のコースを組んだほうが割安な価格設定にしてある。イオン導入一回七千円が五回コースで三万二千円、七回コース四万円という具合で、一回につきいくらか割引きになるが、どちらかというと前払い制で顧客を囲い込む狙いだ。
 コースが終わるときに次のコースを組ませられるかどうかが勝負である。更新されなかったら離れる前兆だ。
「取り敢えず次の予約は入れていただけましたけど……今のご時世でコースを組むのはちょっと恐いと仰って。当分は来れるときに一回ずつの予約にしたいって」
 無理もない。コースは割安だが有効期限がある。最長でも六ヶ月だ。だが、今の感染症の流行は既に一年以上続いており、収束は未だ見えない。不要不急の外出が憚られる状況では期限内に全回通いきれるかどうか微妙だ。
「コースの期限を延ばさないと今は難しいんじゃないですか? 一年以内とか……」
 彼女もそう口を添えたが、店長は「ダメよ!」と目を怒らせた。
「今の設定でも赤字なのよ! どんどん回転上げてたくさん組んでいただかないと! 次は絶対組んでもらってね!」
「お客さまにそんな無理言えませんよ! ウイルス恐いじゃないですか!」
 若い後輩ちゃんは生真面目なので、口先で受け流すということができない。彼女なら「言ってみますね~」と答えて「無理でした~」で済ますのだが、お客さまのために店長に立ち向かってしまう。
 このままでは喧嘩になるので、また横から口を出す。
「店長、ドリンクの説明しなくていいんですか?」
「そうそう、そうだったわね」
 店長も単純なのでコロッと誘導されてくれた。
「このドリンクなんだけどね……」
 と、信じるかどうかはあなた次第ですの効能を一しきり。後輩ちゃんは明らかに気のない顔で聞いている。
「ちょっとお高いんだけど、本当に効果のあるドリンクだから! ぜひお勧めして……」
「はーい、言ってみますね~」
 後輩ちゃんが答える前にニッコリ。食らえバカみたいな笑顔。
「試供品は施術後に試飲で出していいから。10ccずつよ」
 ドリンクは一瓶120ml、試飲12回分という計算だろう。現在、店に一日十二人も客は来ない。彼女と後輩ちゃんがフル回転しても七、八人が限度だ。そもそもの問題として、三つあるエステルームがスタッフ不足で常に一つ空いている。
「あ~、でも開けちゃったら次の日まで置いとくのは不衛生ですから~。こっちで余らないように適当にやっときますね~」
 ありがと、と店長は満足気にエステルームを出ていった。
「10ccって。醤油かよ」
 後輩ちゃんが吐き捨てた言葉に笑ってしまう。
「まあめちゃくちゃ高いからね~。ケチりたくなっちゃうんでしょ。アン・ハサウェイも飲んでるって話だし」
 ここだけの話だけどね、とアン・ハサウェイがブルック・シールズになるときもあるしエマ・ワトソンになるときもある。
 一度エリザベス・テイラーと言い出したときはさすがに「亡くなってますよね?」と突っ込んだ。最初に言い出したアン・ハサウェイのインパクトが強烈だったので、彼女と後輩ちゃんの間ではハサウェイドリンクと呼んでいる。
 一本二千五百円、二十四本入り一セットで買うとお値打ち価格五万七千円。
「ガンが治るって言ってたのは知ってますけどウイルスが治るってどういうことなんですか?」
「メーカーに言われたんじゃない? 知らないけどさ?」
「先輩テキトーでウケる~」
 テキトーに受け流していかないとあんな店長の下で続かない。
「大体あんなもん売ってるから赤字なんじゃないですか。うちらがいくら頑張ってもアレの赤字で吹っ飛んじゃう」
 いわゆるサイドビジネスというやつだ。ハサウェイドリンクの前は補整下着。何十万円もするセットを次々売って億を稼いだというのが店長の武勇伝だ。武勇伝再び、とハサウェイドリンクに手を出したはいいが、事務室に積まれた在庫はさっぱり減る気配がない。しかもネズミ講的な販売システムになっており、継続して仕入れないとペナルティが発生するらしく、数ヶ月に一度追加が何箱かやってくる。
「ていうか、うちらの時給上げてほしいわ」
「上がるらしいよ、いつか」
「いつかかよ!」
 万事ズケズケ物を言う後輩ちゃんは時給のことを切り込んだことがあるらしいが、ドリンクの在庫がダブついて苦しいので三ヶ月待ってくれと言われたらしい。その後このウイルス禍が絶好の言い訳にスライドし、ウイルスだからウイルスだからと逃げられている。
「あー、もう辞めた~い」
「ね~」
 この一年ほど、店長がいないときは合い言葉のように「辞めたい」だ。というのも、一年前に二人の先輩に当たるエステティシャンが辞めたのである。ウイルスが流行しはじめてまもなくの頃だったか。
 二人にマッサージやフェイシャルの施術を教えたのがその先輩だった。店長は名ばかり店長のこの店で、実質的に顧客を持っていたのは先輩だ。彼女が雇われた頃は目が落ちくぼんでいた。先輩の更に先輩に当たるスタッフと二人で店を回していたのだが、彼女と入れ違いにその大先輩が辞めたという。
 よその店に移りたがっていたその大先輩を、受け持ちのお客さまがまだコースの途中だからと店長がなだめすかしてのらくらのらくら雇っていたが、これ以上引き延ばすならお客さまを次の店に引き抜いて辞めるとなって、慌てて雇われたのが彼女だったという次第である。
 未経験の彼女の技術研修中だけはヘルプで店に入っていたが、彼女が施術を一つ覚えるごとに顧客を引き継ぎ、彼女の入店後きっちり三ヶ月で大先輩は店を去った。
 技術研修は一つの施術につき合計三回、最初は先輩から説明付きで自分が施術を受け、その後先輩と店長に実技をして習得したものとする。
 彼女としては、たった二回の実技で顧客を受け持つのは一言で言って不安、二言で言って不安かつ心配でしかなかったが、店長が合格と言うので仕方ない。聞くと大先輩はヘルプ料金を都度請求していたらしいので、ドケチな店長としてはさっさと彼女を一人前ということにして引継ぎを終えてしまいたかったのだろう。
 そこまでしないと辞められないってことよ、と残った先輩は言った。そして先輩は、大先輩とほとんど同じ手順を踏んで辞めた。後輩ちゃんを育ててから去ってくれたのは感謝しかない。
 要するにこの店は、沈む船からネズミが一匹逃げようとしたら新規のネズミを引き入れてから辞めるしかないことになっているのであった。辞める前に先輩がぽつりぽつりと漏らした事情によると、そんな調子でもう何年もやってきたらしい。
 そして船に残っているのは施術歴二年の彼女と一年九ヶ月の後輩ちゃんという次第だ。
 顧客とは顔馴染みになっている。コースはどれも安くはないし、途中でほったらかして辞めるのも寝覚めが悪い。新規のネズミを引き入れて辞めようにも、彼女も後輩ちゃんも自分が新人を育てて引き継げるほどの技量が自分にあるかどうか自信がない。このご時世で辞めたとしても、次の勤め先を探せるかどうかの心配もある。
 かくて「辞めた~い」「ね~」の応酬だ。これだけは幸いだったが、お互いに気が合っているので、店長を上手くかわせば職場自体は苦痛ではない。
 だが、それだけにどちらかが辞めるとなると残ったほうの苦労が増えるということにも考えが及んでしまう。
「どこか探したりしてる?」
 たまに探りを入れるようにそんなやり取りも。
「ネットの求人は見てるんですけどね~。通勤考えるとなかなか……」
 後輩ちゃんは旦那と二人暮らしだが、数年前に山を切り拓いた住宅団地に家を買ったという。通勤はバスと電車の組み合わせだが、なかなかそのパズルが難しく、今の店は通う立地としてはベストらしい。
「先輩は?」
「うちも下の子のPTAがあるからね~」
 彼女のほうは、子供の学校行事に縛られて時間の自由が利かない。顧客と予約のすり合わせをすれば比較的時間の自由が利くという点では今の店はベスト。
「二人とも中学生になったらだいぶ楽になるんだけど」
 下の子は小六なのであと一息だ。
「じゃあうちもその頃かな~」
 はっきりと口には出さず、何となく「せーの」で辞めようねという意志疎通。
 その頃にはウイルス禍はどうなっているのか。未来には重たい緞帳がかかっているかのようである。

 彼女が持っている顧客の中で、上得意中の上得意だった。
 会員登録の身分は主婦になっている年配の女性だが、明らかに単なる主婦ではない金離れで、コースも気前よく組んでくれる。施術中の会話で推し量るに、いわゆる社長夫人であるらしい。
 気に入られたきっかけは全身マッサージだ。半額キャンペーン中だったので案内したら予約が入った。それまで更新だけで新規のコースを強く勧めたことは一度もなかったが、マッサージ後に初めて勧めた。
 できればコースを組んだほうがいいと思います。
 社長夫人は意外そうな顔をした。今まで勧めたことがないのだから当然だ。
 このままだと病気になっちゃいます。
 体中がゴリゴリに凝っていて、あちこちのリンパ節に瘤のような滞りができていた。ある程度は施術で流したもののとても一回では改善しない。健康に差し障りが出るまで待ったなしという感じだった。
 そんなに酷い?
 夫人は肩を触る仕草をした。自覚はあったらしい。
 腰と足の付け根も酷いです。
 何回コースがいいかしら?
 120分の十回コースをお勧めします。
 一番高いコースになる。お値段何と十二万超え。
 さすがに断られるかと思ったが、じゃあそれで、と即答。やはり金持ちは違う。
 後に聞いたところによると、「今まで一度もコースを勧めてきたことがないあなたが言うんだから、本当に酷いんだと思って」とのことだった。「わたしが病気になったら主人が困っちゃう、家では縦の物を横にもしない人なの」と笑った。
 それからずっと指名を受けている。
 おっとりした夫人で、会話もいつも穏やかだ。コースを更新するときは店長が乗り出してきて、あまり必要とも思えないオプションをあれもこれもと積んでいる。
 すみません、とこっそり言うと、いいのよと微笑まれた。
 あなたの売上げになるんでしょう?
 善意100%の微笑みに、時給八百円の真実は話せなかった。
 その日の施術の前に、店長に「頼むわよ」と言われた。ハサウェイドリンクのことである。
 施術後にはいつもお茶を出すことになっており、そのお茶と一緒にハサウェイドリンクを用意した。試飲用の小さな紙コップにハチミツ色の液体を注ぐ。いつも良くしてもらっているので、気持ち多目に。
「あら、何かしら」
 社長夫人は試飲カップに無邪気に注目した。
「あの、前にもお出ししたことがあると思うんですけど、店長がお勧めしてる美容ドリンクなんです」
 そのときは「ガンが治るんですって!」と芝居がかった調子で言って、眉唾ですよと匂わせた。腹芸は夫人にも通用したらしく、「帰って主人に相談してみるわ」で無事に終わった。
「ガンが治るやつ」
 目配せすると思い出したらしい。そのまま全く気持ちの入っていない棒読みで続ける。
「何かね、ウイルスにも効くって分かったんですって」
「そうなの?」
 夫人は真顔になった。あれあれ、その顔は違うぞ。欲しいリアクションじゃないぞ。
「何かね、店長が言ってました。何かね、メーカーから連絡があったって」
「そうなの……」
 夫人は頷き、試飲をテイスティングするようにゆっくり飲み干した。
「味はね、パイナップル味で美味しいんですけどね」
 けどね、に強めのニュアンスを籠めてみる。
「でも、めちゃくちゃ高いんですけどね」
 けどね、をネガティブにならないギリギリの平坦で放つ。
 だが、夫人のリアクションは軽やかにならなかった。
「でも、全くのデタラメでそんなに高いお金は取れないんじゃないかしら」
 とても良心的で善良な意見だ。だが、この世が善人ばかりだったらモシモシおれおれと電話はかかってこないのだ。
 平常だったら夫人もそれは承知だろう。おとなしくて穏やかな人だが、話していて賢明でないと思ったことはない。
「ウイルスに感染したら高齢者は危ないんですって」
 もうみんな疲れているのだ。夫人も。
「主人は私より五つ年上なの」
 愛する人がいればこそ、守りたい人がいればいるほど疲れる。
 あかぎれになるほど手を洗ってアルコールをこすり、息苦しいマスクを着け、うっかりマスクを忘れて外に出ると白い目で見られるどころか殴りかかってくる奴がいて事件になったりする。
 こんな世界に生まれたんじゃない。もっとぬるい世界で生きてきた。いきなり世は正に世紀末にされても人の心はついていけない。
 世は正に世紀末がいつ終わるのか兆しも見えないままで人は強くはいられない。
「あなたに会うのが楽しみだったけど、このままじゃ通うのも恐いし……」
 金をドブに捨てる理由を一つずつ探して積んでいく顔馴染みを黙って見ていられるほど強くもいられない。
「……わたしはお勧めしません」
 夫人がはっとした。――彼女の背後を見て。
「あなた、今なんて?」
 詰問の口調と声の近さに胸郭が冷えた。
 聞かれた。
「取り敢えず、一箱試させていただくわ」
 有無を言わせぬ調子で夫人が言った。
「店長さん、よろしくて?」
 こんな据わった声を出せる人なのかと驚いた。
「――ええ、ありがとうございます! ただいまお手続きを……」
「この人にしていただくから、下がってくださる? ゆっくりお茶をいただきたいの」
 もちろんでございます、と脳天から出るようなお愛想声で店長は引っ込んだ。完全に位負けだ。
 店長が部屋のドアを閉める音を待ちかねて顔を上げた。
「すみません、わたし……」
 シッ、と夫人が唇の前に指を立てた。ドアに目配せ。――たぶん貼り付いてまだ聞いている。
「手続きをしてちょうだい。買うならあなたから買いたいの」
 張りのある声はドアの外に聞かせている。
「ありがとうございます、書類取ってきますね」
 ドアを開けるとすり足で駆け去る気配がした。
 夫人を送り出した後、店長に詰められた。
「どういうつもりよ」
 食らえバカみたいな笑顔。
「すみませぇ~ん! わたしだったら高くてとっても買えないから、つい心配になっちゃって~。お客さま、おうちに帰って旦那さんに怒られないかな~って」
 家族からのクレームという案件に店長は弱い。強引な物販で本人の家族に乗り込まれたことが何度かあったらしい。忌々しげに舌打ちしつつ、
「次は承知しないわよ」
「はぁ~い」
 次はもっと上手くやる。次は良くしてくれるお得意に金をドブに捨てさせるような真似など。
「こんなことじゃ時給は上げられないわね」
 上げるつもりなど今まで一度でもあったか。
 矛先を引っ込めた代わりにその日は延々イヤミが続いた。
「あなたもねえ、ちょっとはスキンケアに気を遣ってくれる? マスクで隠れるからって手抜きしないでちょうだい。お客さまから苦情が来るのよ、エステティシャンが肌荒れしてたら効果があるのかどうか心配になるって」
「どなたが仰ってるんですか?」
「あなたは知らなくていいことよ。みんな言ってるんだから」
 みんな言ってる。――子供の頃にその理屈を振り回していたいじめっ子が同じクラスに一人はいた。中学生になっても、高校生になっても。大人になったらこんなバカはいなくなるだろうと思っていたのに、大学生になっても社会人になってもママになってもいた。
 行き着く先はここだヨー。こうはなりたくないよネー。
「お客さまがいらっしゃるのでお部屋のお支度に入りますね~」
「物販の説明はわたしがするから。呼びに来なくていいわよ、頃合いで行くから」
 見張っているからな。はいはい承知承知。
 エステルームの物品をこれでもかというほどアルコールで拭き上げ、ベッドのシーツやタオルを替える。
 ハサウェイドリンク一箱五万七千円。夫人がそれをぽんと出せるような暮らし向きの人であることは知っている。全身マッサージ十回コース十二万円も一括だった。
 だが、自分が十回分しっかり施術できる十二万円と、頭空っぽにして夢だけ詰め込んだような謎の美容ドリンク五万七千円ではわけが違う。同じ金額でフェイシャルもボディも何回かコースを組める。どうせなら。
 うなるようにお金があるとしても、こんな遣わせ方はしたくなかった。
 悔しくて悔しくて、拭き上げるテーブルがみしみし鳴いた。

 その日の帰り、地元の百貨店に寄った。
 帰り際にまたイヤミを言われたからだ。その顔なんとかしなさいよ。
 お前もナ。岩盤ファンデがひび割れてるぜ。腹で毒を練りながらバカみたいな笑顔でお返事。
 後輩ちゃんが「何あいつ」と毒づいてくれたが、昼間の事情は話せなかった。話したら自分の口で自分にとどめが刺さる。
 イヤミを真摯に受け止めたわけではないが、帰宅する前に少し発散したかった。こういうときは自分を甘やかすに限るので、ハサウェイよりは信頼できるコスメブランドでパックでも買おうという算段。へこんだ自分を慰めるときは消え物に限る。衝動で物を買ってもへこんだ気持ちを物で残すようなことになる。
 かといって胃の中に消える物もよろしくないという主義だ。あんなクソババアのために余計なカロリーを取ってたまるか。
 どこで何を買おうと決めていたわけではないので、何となくコスメコーナーをぶらぶら巡る。
 と、催事のコーナーに何やら見慣れないコスメの物販が来ていた。正確には、コスメの物販が来ているなという気づき方ではなかった。
 何だかきれいな人たちがいるな、とその一角に目を惹かれた。揃いの制服やエプロンではなく、数人いるそれぞれが私服だが、すらりと姿勢が良くてそれぞれに端整でタダモノではないオーラを発していた。
 モデルかタレントでも来ているのかな、とふらふら寄っていったら物販だった次第。
 馴染みらしいお客とのやり取りが聞こえて正体が分かった。元タカラジェンヌであるらしい。いわゆる宝塚OG。
 なるほど道理で、と思ったのは若い頃にここから電車で何駅も離れていない宝塚大劇場に通い詰めていたからだ。
 好きな男役トップスターが退団してから何となく足が遠のいてしまったが、その機がなければ結婚も遠のいていたかもしれない。そのスターを見つめていれば日常の不安や倦怠感、嫌なこと諸々すべて吹き飛んでしまうので人生に翳りが生じず、宝塚さえあれば一人で生きていける生物に進化していた可能性がある。
 トップスターの中にはトップを退いた後に専科という各組を必要に応じてヘルプする傭兵部隊のような集団に属し、五十歳を過ぎてもなお現役という人もいるので、あの人にハマっていたら危なかったと割と真面目に思っている。
 置いてあるのは石鹸に美容クリーム、洗顔料、あとはダリアコーヒーなるものも置かれている。不思議なラインナップだし、いわゆるライン使いするような化粧品がそろっているわけでもないようだ。
 だが、その見慣れないコスメの販売員が一番佇まいが端整だった。こんな端整な人々が売っている商品とは? と単純に気になるし、正体が宝塚OGと聞けばなおさら。
「何か気になる商品おありですか?」
 スッと声をかけてきたのは、すらりと背が高いショートヘアの女性だった。頭の形がきれいでショートがよく似合っている。裾だけひらりと控えめに広がる花柄のスカートを穿いているが、
「元男役さんですか?」
 無防備なところに声をかけられたので、頭の中身がそのまま垂れ出た。
 女性はちょっと目をぱちくりさせたが、にこりと笑った。
「はい。元雪組でした」
「あ~、雪組大好きでした~」
 好きなトップが正に雪組だった。
「あら、嬉しい」
「宝塚のOGさんたちで作ってらっしゃるお化粧品なんですか?」
「わたしがメーカーを立ち上げたんですけど、物販のときは同期や後輩にヘルプをお願いしてるんです」
「説得力ありますよね~、フラフラっと近寄っちゃった」
「説得力?」
「だってこんなきれいな人たちが売ってるお化粧品なら絶対いいものだって思っちゃう」
 ありがとうございます、と元男役女史は胸に手を当てて軽く一礼した。男役だ、男役が気障るやつ! と勝手にテンションが上がってしまう。
 変に謙遜しないところもいい、元宝塚OGなのだから気品があって当たり前だ。気品ある所作が身についている人が美しいのも当たり前だ。
「ダリアが原材料なんですよ」
「ダリアってお花の?」
 花びらでもすり潰すのだろうかと思ったら説明が来た。
「ダリアって球根がおいもみたいになってて、そこに栄養とか美容成分が集まってるんですよ。お花の農家は花が終わると球根は捨てちゃうんですけど、もったいないなと思って加工してみたんです。だから名前もダリアジェンヌ。元ジェンヌが作ってるダリアの商品です」
 ラインナップの中にあるコーヒーもダリアの根から作ったものらしい。タンポポコーヒー的なものだろうか。化粧品を作るのが目的ではなく、廃棄されるダリアの球根を活かそうという目的なら、不思議なラインナップになるのも道理だ。
「ダリア農家さんとお知り合いなんですか?」
「実家がそうなんです。わたし、宝塚の村のほうの出身で」
 宝塚ファンは宝塚のことをムラと呼ぶが、そのムラではなく行政単位としての村。
「宝塚の村出身でムラに入ったんです。退団後にムラから村に帰って」
 おどけた口調に釣られて笑ってしまう。
「村から来たタカラジェンヌ、村へ帰るですね」
「そうそう。村の子なんで」
「都会に残ろうって思わなかったんですか?」
 つい訊いてしまったのは、自分が地方出身だからだ。ほどほど辺鄙なところから進学で関西に出てきて、そのまま居着いてしまった。都会の便利と求人の多さに抗えなかった。
「わたしは村のみんなにタカラジェンヌにしてもらったので、村に恩返ししたくて」
 眩しい。動機が眩しくて後光が差して見える。
 ハサウェイドリンクで欲深店長とゴタゴタした身にはなおさらだ。
 宝塚市では実はダリアが名産で、昔からダリア農家が多いという話も聞かせてもらった。宝塚大劇場にはずいぶん通った身だが、まったく知らなかった。
 美しい宝塚OGを掴まえてこれだけ豆知識を聞かせてもらったのだから、何か買わないとバチが当たる。
 美容業界の端っこに携わっている者として、気になったのはジャー容器に入った美容クリームだ。全顔用だがアイクリームとしての使用がお勧めの用途に書かれており、たっぷり入っているのに五千円しない。アイクリームとしては相当お値打ちだ。
「アイクリームだけで使ったら一年以上かかりそうですよね」
「ええ、なので全顔でたっぷり使っていただけたら。手のひらについた分はハンドクリームに」
「手もきれいになります?」
 手が商売道具の立場としては気になるところだ。元男役女史はちょっと小首を傾げてから手の甲を揃えて見せた。
「わたし毎日使ってこんな感じです。全顔に塗ったあと、手にも揉み込んで」
 肌理きめの細かいきれいな手だった。
 財布と相談して、クリームと石鹸を一つ買った。石鹸は三つある中からオレンジの香りがするものを。フレッシュな柑橘の香りは元気が出そうだった。クリームに配合されているラベンダーも好きな香りだ。ラベンダーのアロマオイルは美容業界的には万能で、アロママッサージのときは取り敢えずラベンダーを混ぜておけという信頼感がある。他の香りと喧嘩しないのでブレンドに使いやすいということもある。
 新発見の美容成分がどうたらという製品ではないが、いい買い物をしたという満足感があった。村から来て村に帰ったタカラジェンヌから村の名産で作ったクリームと石鹸を買う、何かの物語に参加したようなイベント感もある。
 男どもに「使わないでよ」と釘を刺しながら浴室の石鹸皿に石鹸を出し、洗顔に使うと泡立ちが細やかで優しい洗い心地だった。何しろ香りがいいので気分が上がる。香りのいいふわふわとした泡で肌を包むと、いつもより肌をいたわっている気持ちになれた。
 風呂上がりはいつもラインで使っている基礎化粧品の最後にクリームを足した。薄い紫色――宝塚的にはすみれ色のクリームだ。よく伸びて使いやすい。ラベンダーの香りも落ち着く。
 目元に特にしっかり塗り込み、手のひらに残った分はそのまま手に揉み込む。
 人の美容は懸命に受け持ってきたが、自分を慈しむ時間は久しぶりに持ったような気がした。
 何となくスマホで検索してみると、元男役女史のインタビューや製品情報が出てきた。
 退団後はメイクの仕事をしようと思い勉強のために上京したが、やがて自分をタカラジェンヌにしてくれた村のじいちゃんばあちゃんたちに恩返しがしたいと介護福祉士の資格を取得。結婚を機に故郷に帰ったところ、後継者不足で村のダリア農家が衰退している現実を知り、ダリアを活用した商品を開発。
 談話が眩しくて目が潰れる。この腐敗した世界に舞い降りた天使か? ゴッドチャイルドか?
 だが、元タカラジェンヌという経歴に全力で応えてくれているようでもあった。やはりファンとしてはタカラジェンヌには清く正しく美しくいてほしい。
 清く正しく美しい生き様でいてほしい。
 勝手な期待を載せられて重圧だろうが、しかしタカラジェンヌはいつどこで見かけてもやはりその佇まいが美しいのであった。――知らず立ち寄った退団後の物販でさえ。あの人たちが宝塚OGだと知らないお客も中にはいるだろう。それでもあれは元タカラジェンヌだよと言われたらなるほどしかりと思ってしまう説得力を全員が醸し出していた。
 宝塚歌劇団を作った小林一三翁の薫陶たるや。
 スマホを眺める視界に落ちた髪の束を何気なく掻き上げると、指先からラベンダーが香った。
 製品情報で過剰な効果効能は一切謳われていなかった。誠実に作って誠実に売ろうとする意志が感じられた。
 あの人はきっとダリアコーヒーをガンが治ると言って売りつけはしまい、と思った。

 翌日目を覚ますと、不思議なくらい気持ちがさっぱりしていた。
 出勤して後輩ちゃんと顔を合わすや言った。
「わたし、辞めるね」
 後輩ちゃんは目をぱちぱちさせて、ニカッと笑った。
「じゃ、ウチも辞めよっと」
 後輩ちゃんも潮目を測っていたのだろう。
「家で旦那に愚痴ばっかこぼしちゃって。どんどん人相悪くなってきてるから辞めたら? って言われてたんです。家のローンだったらそんなに無理して組んでないから、次の勤め先ゆっくり探したらいいよって」
 家の事情は彼女も似たようなものだ。
「店長に話すのが修羅場だね~」
「さっさと修羅場終わらせましょうよ、今から行きましょ」
「今から!?」
 さすがに心の準備ができていない。後輩ちゃんに話してから何日か覚悟を溜めるつもりだった。
「だいじょーぶですよ、ウチら最強の切り札ありますから」
 店長はといえば、塗った顔が今すぐひび割れるのではないかというほど大口を開けた。
「あんたたちそんなことが許されるとでも……!」
 金切り声を上げようとした鼻先に、後輩ちゃんはカウンターを叩き込んだ。
「時給八百円って労働基準法違反ですよね?」
 文字どおり店長は声を失った。
「あなた……それは……研修期間だから」
「研修期間っていつまでですか? ウチらもう二年この時給でやってるんですけど?」
「それは……」
「ウチら今すぐ労働基準監督署に駆け込んでもいいんですけど?」
 強い、さすがガンガンいこうぜ系。いのちをだいじに系の彼女ではこうは切り込めない。
 だが、このままでは店長がヒステリーを起こして怪獣大決戦が始まるので、条件は仲裁した。
 現在受け持っている顧客のコースが終了したら退職、新規の顧客は取らないしコースの更新もしない。新人教育もしないので引継ぎをするなら経験者に。
 ハサウェイドリンクは売らない。
「それはあなた、勤めてる間は業務として……」
「ヤです!」
 後輩ちゃんがまたバッサリ。
「だってガンが治るとかウイルスが治るとか絶対ウソだし! もしお客さんに訴えられて辞めたウチらまで事情訊かれたらメーワクですもん!」
 金切り声を上げるかと思ったが、店長は訴えられるというワードにも弱かった。訴えられたら勝てない商品だという自覚はあるのだろう。
「施術が終わったらお呼びするので、ご自分で説明してください。お店で実際お客さまに使ってるお品なら販売できますけど、ドリンクは店長個人のビジネスですよね?」
 夫人がハサウェイドリンクを買う前にこう言えていたら。
 清く正しく美しくにはもう遅いだろうか。でも。
「……今のコースが終了するまではきっちりやってちょうだいよ!」
 それが店長の捨て台詞であった。
 十日ほど後の給料日、時給計算が五十円上がっていて笑った。労働基準法違反のアリバイ工作のつもりか。「足りてねえよ!」と後輩ちゃんが突っ込んだ。

 次に社長夫人が訪れたとき、施術の終盤で伝えた。
「今日からドリンクの説明を店長がさせていただきますので」
 夫人は眉を軽くひそめた。
「何かあったの?」
「実はわたし、今のコースが終わったらお店を辞めることになって」
 あら、と夫人の眉間のシワはもっと深くなった。
「揉めたの?」
「いえ、あの後叱られたとかじゃ全然ないんです。でも、わたしが色々もう無理っていうか」
 ああ、それは……と夫人は納得した様子だ。クセの強い人だものね、と独りごちる。
「次のお店は決まってるの? あなたが行くところに行きたいわ」
 ああ、これかと思い当たった。
 お客さまを引き抜いて行ったら許さないわよ。訴えてやるから。
 店長は二人が辞めることが決まってからしつこいくらいそう言っている。
「決まってません。わたしの技術じゃ他のお店が見つかるかどうか分からないし」
 だが、経験者の募集に応募することはできる。その資格を得たことだけは収穫だ。
「あら、あなた上手よ。他のお店でも絶対大丈夫」
 息抜きにエステを使える夫人に言われると少し自信が持てる。
「このご時世だから、お給料が同じだけもらえるところが見つかるかどうか分からないけど」
 マスクの中で思わず吹き出した。それなら絶対大丈夫だ。だって、
「わたし今、時給八百円なんですよ」
 何ですって、と夫人は首を持ち上げて彼女のほうを見ようとした。衝撃プライスだったらしい。
「それはあなた、わたしのコースが終わるまで待たなくていいわ。すぐお逃げなさい」
 お辞めなさいどころかお逃げなさい。すたこらサッサッサのサ。
「でも今のお客さまのコースは責任持ちたいので」
「ねえ、すぐに次のお店が決まらないなら自宅でサロンをやったら?」
 夫人の提案は彼女の意表を衝いた。
「もし空いてるお部屋があったらそこにベッドだけ入れて、個人でやってる人けっこういるわよ。美容機器を揃えるのは難しいかもしれないけど、アロママッサージだけに絞ったサロンでもいいと思うし」
 というのは、彼女の経験則だが顔に高い美容機器を使うよりも全身マッサージで全身の滞りをほぐしてやったほうが結局顔の調子も上がると夫人に話したことがあり、夫人はそれからずっと全身マッサージでコースを組んでいるのである。
 初めてのとき指が捉えた瘤のような滞りはすっかり消え、もう病気になりそうな危うさはない。
 マッサージに使うオイルなら家に一通りそろっているし、折りたたみ式のマッサージベッドはそれほど高価なものではない。フェイシャルの機器も物によっては手が届くし、自分用に欲しいと思っていたものもあるから一石二鳥だ。
 部屋は空いているといえば空いているし、空いていないといえば空いていない。使わない四畳半に取り敢えず要らないものを押し込んで納戸のようにしてしまっているのだ。
 片づけるのが億劫でほったらかしてしまい、家族に魔窟呼ばわりされている。あれを片づけるのは骨だが、空けば使える。
 自分の技術だったらどれくらいの値付けにすればいいだろう? 自分の裁量で決められるなら、コースを組まなくても気が向いたときに通いやすい値段で。この店の半額でもパートに出るより随分な稼ぎになる。少なくとも時給八百円の今に比べたら王侯貴族の収入だ。
 どうせなら、自分のような普通の主婦がふらりと立ち寄って自分をメンテナンスできるようなサロンにしてみたい。
「やってみようかなぁ……」
 呟くと夫人の声が弾んだ。
「やるならわたし通うわよ。お友達も紹介してあげる、あなたなら心配ないもの」
「あ、でもお客さんを引き抜いたら店長に訴えられちゃうので」
 まあ、と夫人は心外な顔をした。
「わたしが誰とご縁を持とうとあの人に口を出されるいわれはなくてよ」
 夫人は施術後、メモに連絡先を走り書きして渡してくれた。
「やるならきっと連絡をちょうだい。独立でもよそのお店でも行きたいわ」
 これほど買ってくれるお客を少なくとも一人掴めた。これが自分が今まで仕事をしてきた結果だと思うと胸が熱くなった。

 後輩ちゃんのほうは、知り合いのサロンに誘われたという。
「ちょっと遠いからマイカー通勤になっちゃうけど、交通費も出るから取り敢えず勤めてみようかなって」
 マッサージメインのスタッフを探していたらしく、後輩ちゃんのパワフルな施術に白羽の矢が立ったらしい。
「よそだとめっちゃ給料もらえますよ、びっくりしちゃった」
 時給八百円の身分にとって世界は驚きに満ちていた。
 辞めてもときどきランチをしようと約束して、後輩ちゃんは彼女より一足先に辞めていった。
 やがて彼女も最後の日が来た。感染症は季節柄もあってか少し落ち着いている。次は冬に警戒だそうだ。
 店長に挨拶に行くと、事務室にはハサウェイドリンクの在庫がまた積み上がっていた。だが、その行く末を気にする義務ももうない。
「今までお世話になりました」
 心の籠もりようがない挨拶だが、店長もフンとしか言わなかったのでどっちもどっち。
「これ、ささやかですけど」
 渡したのはダリアジェンヌの石鹸だ。通販をしていたので自分の分も兼ねていくつか注文した。店長にはユーカリの香りがする淡いピンク色の石鹸にした。クレイ効果で毛穴の汚れをすっきり洗い上げてくれるというから、能面のごとき厚化粧で息が詰まっているような肌もどうにかしてくれるに違いない。
「何のつもりよ」
「普通にお礼です。ここにお勤めできたことには感謝してるので」
 興味があった美容の仕事の経験者になれたし、この年になると作るのが難しい友達もできたし、買ってくれる顧客もついた。
 後は魔窟の四畳半を何とかすれば、買ってくれた夫人に案内を出せる。メールでまだかしらとちょいちょいつつかれているので急がないといけない。
 この店に勤めなかったら拓けなかった未来が拓けたので、時給八百円の二年間は相殺だ。
 店長は「イヤミとしか思えないわ」とブツブツ。このままハサウェイドリンクを抱えて沈んでいくのだろうか。
「ドリンクの販売、やめたほうがいいですよ」
 店長がくわっと目を怒らせた。
「商売って損切りが大事なんですって」
 夫人が言っていた受け売りだ。
「わたしには店長がカモにされているようにしか見えません。どうせなら老後のお金がなくなる前に損切りしたほうがいいと思います」
 喉で息が鳴ったが、金切り声は出なかった。もしかすると、自分でも少し気づいているのかもしれない。
 そのまま会釈して事務室を出た。荷物を提げて外へ。
 まだ夕の日差しが残っていた。牢獄から出たような気分がかすめる。
 別に何も言わずに辞めてもよかった。だが。
 自分なりに清く正しく美しく辞められたような気がした。

 辞めて半月ほどが経った。
 郵便で送られてきた最後の給与明細を確認すると、五十円だけ上がっていた時給がまた八百円に戻っていた。
 まあ、らしいといえばらしい。ハサウェイドリンクはやめてくれていればいいが。
 魔窟は何とか八割くらい片づいた。あと一息なので、マッサージベッドのカタログも取り寄せはじめた。ベッド持ち込みで客先に出張する方式にも対応できたほうがいいので、家の車で積み卸しできるタイプを探している。
 カタログをめくりながら無意識に口ずさんでいた歌は、宝塚ファンならみんな歌える「すみれの花咲くころ」だった。
 久しぶりに観に行ってみようかな、と思った。

fin.

今回の物語の「種」は……
===
兵庫県宝塚市北部の山間には、昭和5年から続くダリア栽培の盛んな村があります。私はそこのダリア農家に生まれ、タカラジェンヌになりました。退団後は福祉の世界に飛び込み介護福祉士に。結婚を機に帰郷すると村は少子高齢化の波が押し寄せ、ダリア産業は後継者不足に陥っていました。地域復興を願った私は廃棄されるダリアの球根を活用した商品を開発し、商品を通してその産業の歴史や素晴らしさを伝えています。世代間の価値観の違いや保守的・閉鎖的な村文化と向き合いながら、後世に繋ぐ活動はやがて輪を広げ、『ダリアジェンヌ』は宝塚のまち、そして宝塚OGに支えられる存在になりました。今後もたくさんの方と一緒にこの物語を紡いでいきたいと思います。



投稿者は、梓晴輝(あずりん) さん(女・37歳)
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でした!

「種」の投稿はこちらから
https://kadobun.jp/news/press-release/dz61anf341s0.html


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