menu
menu

連載

有川ひろ 物語の種、募集します。 vol.7

有川ひろ「百万本の赤い薔薇」——「物語の種、募集します。」小説その7

有川ひろ 物語の種、募集します。

図書館戦争』『県庁おもてなし課』などで知られる小説家・有川ひろさんによる、読者からの投稿を「種」として小説を書く企画。

投稿内容は、思い出話でも体験談でも、心に留まったキーワードでも写真でも。あなたが物語の種になりそうだと思ったものなら、なんでもOKです。

投稿募集ページはこちら
https://kadobun.jp/news/press-release/dz61anf341s0.html

「種」から今回芽吹いた小説は……


百万本の赤い薔薇  有川ひろ

 出張が多い会社だということは結婚する前から伝えてあった。
 案の定、結婚一周年の記念日も出張中であった。
 今なら出先でも携帯でちょっとメールなりメッセージなり送れるが、当時は国民皆携帯という時代ではなかった。仕事を終えてから宿から電話でもしようかと思ったが、課長と相部屋だったので電話をかけるために外に出ることも少々しづらかった。実は結婚記念日なんで、などと大の男が言えたものか。
 帰りに寄った土産物屋でせめて気の利いた土産でもと見繕った。幸いにしてうわばみと名高い課長も地酒を念入りに選んでいる。
 出張先は和紙が名産の土地で、土産物屋には和紙の小間物が多かった。レターセットにはがきや栞、筆立てや文箱。和紙の飾りをあしらったヘアピンや髪ゴムもあったが、妻はショートヘアなので髪飾りは使わない。
 赤い薔薇をちぎり絵であしらった文箱があった。ちょうどはがきが入るほどの小振りな物だが細工が細かくて気に入った。薔薇は妻も好きな花だ。
 他は適当な銘菓を選んでレジに並んでいると、後ろに課長が並んでひょいと彼の手元を見た。
「お、洒落てるな。俺も嫁さんに買おうかな。同じのあるかい?」
 課長が尋ねたのはレジを打っていたおばちゃんだ。
「ああ、これいいでしょう。職人さんが一つずつ作ってるんですよ。でも椿はまだあったかなぁ、これが最後の一点かも」
「椿がいいんだけどな~」
 話に置いていかれたのは彼一人である。――椿とな。
 赤い花びらが重なった花で葉は緑。どこで薔薇と椿を見分けているのか花に疎い彼にはとんと見当がつかなかったが、課長もおばちゃんも文箱の花が椿だという共通認識で話している。
 そうか、薔薇ではなかったか。
「紫陽花や水仙もきれいですよ」
「紫陽花か。紫陽花もいいな。見てこよう」
 課長は意外と風流であった。薔薇でないなら柄を譲ってもよかったのだが、何となく言い出しそびれた。
「お土産ですか?」
「ええ、妻に」
「あら、いいご夫婦」
 おばちゃんは何かかわいいリボンでもあったらよかったんだけど、と恐縮しながら店屋の名前が入った鄙びた柄の包装紙で文箱を包んでくれた。
「紫陽花は手が込んでていいねぇ」
 上機嫌で課長が戻ってきた。
「いいでしょう」
 気さくな課長はたかがレジを通すだけの間におばちゃんと話が弾んでいる。
「こちらも奥さんにお土産ですか?」
「部下を見習ってね。山の神の機嫌は取っとかないと恐いからサ」
「あら、そんなこと言って」
 あら、いいご夫婦。と言われて、はァどうもで終わってしまう自分とはえらい違いだ。いつかこの課長のようになれるのだろうか、などとちらりとかすめた。営業職なら愛想はないよりあるほうがいい。
 本当は研究職が志望だったが、同期にもっと優秀な奴が何人もいた。営業は性分的に自分にはあまり向いていない、と思いながら四年目だ。
 帰りの列車で缶ビールの打ち上げになった。課長の肴はカルパスで彼はするめのゲソだった。
「ゲソ好きか」
「ええ、まあ」
「いつもゲソ買ってるもんな」
 よく見ているなと思った。
「分かるよ、ゲソ旨いもんな。するめのメインはゲソだよ。ゲソのために身を食ってると言ってもいい」
 彼もまったく同感だった。身も別に嫌いではないが、ゲソに比べると旨味が単調な気がして、選ぶとやはりゲソに軍配が上がる。子供の頃、ストーブの天板で焼いたするめは父と子供たちとでゲソの取り合いだった。
 親父の権限で父がたっぷり取っていくので、子供の分け前はほんのぽっちりだ。大人になったら自分でゲソを一杯分丸々食べるのが夢だった。
「噛めば噛むほど味が出てくるよ」
 お前もな、と課長は何気ない調子で続けた。
 向いていないと思いながらの四年目は筒抜けだっただろうか。
 それ以降、取り立てて仕事の話に流れることもなく、カルパスの良さを語られた。チープな肉の脂の旨味が良いそうだ。
「俺が子供の頃はさ、よく食う男の三兄弟だったから一人前ずつの肉なんか滅多におかずに出てこなかったんだよ。けど、カルパスは親父の好物だったからしょっちゅう家にあってサ。プツっと外側の皮を噛んだら脂の味がぶわっと広がって、肉々しくって、夢の食べ物だったね」
 課長のカルパス談義を聞きながら、妻は何が好きだったかななどと考えた。ストーブでするめを一枚焼いたときはゲソの取り合いにはなっていないような気がする。そうだそうだ、妻は確かエンペラ派だった。二重になっていて得だからと言っていた。
 一番好きなのはチョコレートボンボンだったか。父親が会社でバレンタイン・デーにもらってきた物がとても美味しかったという。何でも舶来の高級品だったそうで、なぜ会社の女子社員がこんなものをくれるのかと後に家庭争議の種になっていたという。
 舶来品をもらってきたのはその一回で、例年は安物のウィスキーボンボンが常だったそうだ。胴を割って中身の酒を洗い流して食べていたという。
 そこまでしてチョコなんか食べたいものかねぇと彼が言うと、妻は笑った。
 チョコレートって子供のおやつとして経済じゃないでしょう? だからいつもは買ってもらえなくって。おせんべいなら三人姉妹に一袋買っておけば済むけど、チョコレートだと三人に一枚じゃとても足りないし。
 土産のお菓子は饅頭にしたが、チョコレート菓子を探せばよかったかもしれない。
 列車の前をイノシシが横切っただか何だかで東京駅への到着は少し遅れた。課長と別れてから郊外の自宅までは小一時間ほどだ。
 築年はいっているが水回りがきれいだったので決めた四階建てのコーポは、内見のとき一階と四階が空いていて、用心のことを考えて四階にしたのだが、出張で疲れて帰ってくると一階でもよかったんじゃないかと思ったりもする。エレベーターがないので荷物が大きいとさすがに階段がこたえる。
 鍵を開けようとしたらドアが先に開いた。
「おかえりなさい」
「よく分かったな」
「足音がしたから。それにそろそろ帰ってくる時間だったし」
「俺じゃなかったらどうするんだ、不用心だろう」
 そんな小言を言いながら、やはり四階にしておいてよかったと思う。朗らかだが迂闊なところのある妻だ、これが新聞の勧誘や何かでもドアを開けてしまうに違いない。
「これお土産」
 荷物をほどきながら土産を渡す。花屋は間に合わなかったけどせめて結婚記念に薔薇を一輪、なーんてね。などとおどけて渡す胸算用も椿だったのでパァだ。
「なになに」
 饅頭はパッケージで饅頭と分かるので、妻は文箱のほうをいそいそ開けはじめた。
 何のお祝いもできなくて悪いけど、と言おうとしたのと、妻の歓声がぶつかった。
「結婚記念日のお祝い、用意してくれてたの?」
「いや、ただのお土産なんだけど……」
「結婚一周年だから文箱はぴったりよ」
 妻によると、結婚一周年は紙婚式といって紙にちなんだ記念品を買う習わしらしい。
「きれいな椿!」
 薔薇でないのはやはり一目瞭然らしい。一体どこで見分けているのか彼には不明だ。しかし、土産の文箱はたまたまではあるが大ヒットだった。
「晩ごはんももう少しごちそうにしとけばよかったわ。遅くなるかもしれないって言ってたからサッと出せるものにしようと思って、納豆とコロッケなの」
「充分ごちそうだよ、肉じゃがコロッケだろ?」
 商店街の肉屋が売っている名物だ。大鍋で作った肉じゃがをつぶしてタネにしているという手の込んだもので、一個五十円という値段は当時としては相場より十円ばかり高かったが、十円のハンデをものともせず大人気のコロッケだった。
 ごちそうコロッケの夕飯を食べながら、結婚記念日の話になった。
「銀婚式や金婚式は聞いたことあったけど、紙婚式なんてあるんだな」
「そうよ、毎年あるの。紙から少しずつ固いものになっていくのよ、絆が強まるように」
「一年目が紙とすると、二年目は何なんだ?」
「綿よ。綿婚式」
「紙より固い……のか?」
「めんと読めば布だから紙より強いんじゃない?」
 わたの記念品なんて何があるんだと思ったが、布という解釈でいいなら色々ある。
「タオルかな」
「お歳暮みたいでつまらないわ、ペアのTシャツなんかどう?」
「ペアルックはちょっと恥ずかしいよ」
「じゃあハンカチ」
「ハンカチ使わないからなぁ」
 まあ、と妻が目を三角にした。
「いつも汚れてないと思ったら!」
 やぶへびやぶへび。いつも手を洗ったらピッピと振って終わりである。
「あなたがネクタイで私がスカーフというのはどう?」
「えー、でも二年目だろ? 毎年ランクアップしていくなら二年目でちょっと高級すぎないか」
 まだ専業主婦が珍しくない時代で、妻も結婚退職で主婦になった。彼のほうが転勤の多い会社だったということもある。稼ぎ手としては記念品のハードルが上がることはプレッシャーだ。
「そうねえ、先々はダイヤモンド婚式とかもあるんだし」
「ちょっと待て。金銀で終わりじゃないのか」
「銀は二十五周年で金は五十周年よ。もっと長生きしたいじゃない」
「銀と金の間はどうなってるんだ」
 夫としては戦々恐々である。ちょっと待ってね、と妻が席を立った。箪笥から取ってきたのは手書きのメモだ。
「銀婚式の後、真珠、珊瑚、ルビー、サファイアとなっております」
「毎年か!?」
「安心して、その頃は五年おきよ。十五周年の水晶婚式の後は五年ごとになるの」
 五年おきでも宝石が立て続くのは厳しいなぁ、とぼやくと、妻は「何言ってるの」とハッパをかけた。
「金婚式の後はエメラルド、ダイヤモンド、ブルースターサファイア、プラチナと続くのよ」
「何だか宝石商の陰謀を感じるなぁ」
「あら、わたし陰謀でも全然かまわないわ」
「そりゃあそっちはさぁ」
 でも、と妻が椿の文箱を手に取って嬉しそうに開けたり閉めたりした。
「まずは紙からよね」
 間に合わせで買ったような土産物の文箱で喜んでくれる妻でよかった。
「ケーキくらい買ってくりゃよかったな」
 探しながら帰ってきたら、まだ開いている店があったかもしれない。
「いいじゃない、まずはお饅頭からで。包み紙もかわいいわ」
 いなかのまんぢう、という商品名の下に、味わい深いタッチでちんまりとじいさんばあさんが描いてある。
「こんなふうになりたいわね」
「ダイヤモンドが似合うばあさんじゃなさそうだ」
「箪笥にたっぷりしまってあるのよ」
「ばあさんに貢いでじいさんはこんなにやせ細ったんだな、かわいそうに」
 手遊びをするように軽口を叩き合いながら豪勢な肉じゃがコロッケの夕飯を終え、食後は妻が淹れてくれたお茶で饅頭を開けた。
 ざっくばらんとしたつぶあんの饅頭は、まあどこにでもある田舎みやげの味であった。

 二年目の綿婚式は、相談して揃いの毛布を二枚買った。布団は狭い賃貸の省スペースも考えてダブルを誂えたが、冬を一度越してみると毛布がダブルで一枚というのは具合がよくなかった。朝になるとどちらかが巻き込んで取り上げていて、片方が寒さに震えて目が覚めることになる。毛布はシングルで二枚あったほうが平等に温かい。
 電気毛布という案も出たが、綿のイメージより電化製品のイメージが強いので見送りになった。まだ安くはなかったので予算の問題も少しあるが、明け方の肩の寒さのほうがこたえるという点で意見が一致した。
 椿の文箱は、毎年の年賀状をしまっておくのが定番になった。
 年賀状を書く季節になると、そろそろ椿の出番ねと妻が押し入れから出してくる。去年の賀状を数えて今年買う年賀はがきの枚数を決め、二人分で百枚ほど買っておけば足りるという目安がついた。
「ただ会社の分が多いからなぁ」
 会社から社用の年賀状は百五十枚ほど支給されることになっていた。
「コツコツ書いていかないと間に合わないなぁ」
「大変ね」
「営業だからどうしてもなぁ」
 営業にとっては年賀状も挨拶回りのツールである。部署全体でまとめて一枚、というわけにはいかない。日頃やり取りをする相手に一枚ずつ、名刺交換をしただけの相手にも一応。と数えていくと、カルパス好きの課長などは三百枚にもなるという。
 向こうはチラ見するだけだろうが、チラ見したとき「あいつから来てないな」と思われるのは困る。また、そういうことを意地悪くカウントしている得意先もいる。
 一筆でいいから何か添えろよ、というのもカルパス課長の教えだ。同じ部署で何人か出すときは文言を変えるようにも言われた。宛先は同じなので、何かの拍子で同じ文言で手抜きしているのを見られたら印象が悪い。
 念には念を入れだ、とカルパス課長は笑った。彼は賀状のノルマをこなすので精一杯、とてもそこまでは考えていなかった。
 だが、仕分けは同じオフィスでするだろうし、机の上に賀状を置いておくこともあるだろう。
 念には念を入れ、万々が一。その想像力の有無が結果を分けることもあるかもしれない。
 そういえばカルパス課長の机には『手紙の書き方』『時候のあいさつ』などの本があった。
 礼状や挨拶状を書く機会も多い仕事だが、定型をいくつか使い回していた。なるほどなぁ、と同じ分野の本を買ってみた。
 しばらくして、カルパス課長に「どうしたどうした」と笑いながら肩をどやされた。
「あいつ急にロマンチストになったなって向こうさんに言われたぞ。『一雨ごとに紫陽花の色が冴えるこの頃ですが、いかがお過ごしでしょうか』とはなかなか名文をひねるじゃないか。電話でわざわざ読んでくれたぞ」
 顔から火が出そうになったのは、客先にウケてしまったことではない。それは望むところだ。
 まさか真似したことが本人にバレるとは思わなかった。
「いや、あの……」
 課長をちょっと見習って、とさらりと言うのは照れくさい。
「結婚してちょっと濃やかになったみたいですよって言っといた! 奥さんに椿の文箱を買ってましたしねって」
 わははと笑いながら課長は立ち去った。自分のことには鈍いのがいい上司である。
 以降、すっかり愛妻家のイメージがついた。彼が新妻に椿の文箱を買ったというのは得意先にとって面白いトピックだったらしく、カルパス課長もどんどん吹聴するようになったのだ。
 俺も嫁さんに椿の文箱を買わなきゃな、などとからかわれることも度々だ。上手い返しが思いつかず口をもごもごさせていると、勝手に照れていると解釈されて勝手にウケる。
 お前、もうその持ち味で行け。得だ。――というのは上司命令。確かに得だ。何より楽だ。
「しかし、年賀状の枚数だとなかなか大変だよなぁ」
 新年の挨拶などそれこそ定型で、バリエーションをつけるのが難しい。あまり型から外れると逆に悪目立ちしないかというのも気になる。
「じゃあイモ版でも押してみたら?」
「版画はちょっと面倒だなぁ、彫ってる間に年が明けちゃうよ」
 小学校のとき図工の授業で何度か彫ったが、初めてのときは凸凹を逆に彫っていて版木の裏にやり直した。線を一本浮かすために周りを彫ってずいぶん時間がかかった記憶がある。
「おイモだったら柔らかいから楽よ。簡単な柄でよかったらわたし彫ってあげる」
 そう言って妻は次の日さっそく彫ってくれていた。シンプルな梅の柄だ。
「試しに一つね」
 家に朱肉しかなかったので朱肉で色を載せて裏紙に押してみると、なかなか味わい深い風合いが出た。試しに「今年もよろしくお願いします」とサインペンで書き入れてみたが、イモ版の分だけ手が込んでいる感じが出る。
「大きい梅と小さい梅と二種類彫って、赤とピンクのスタンプ台で押したらもっとかわいくなると思うの。うちの年賀状にも押しましょうよ」
「そりゃあいいなぁ。頼めるかい」
「任せて、慣れたからもっと上手にできると思うわ」
 挨拶文は何種類かを使い分けたが、末尾に押した梅のイモ版は取引先から大層評判がよかった。
 なかなか上手いじゃないか、などと誉められ、妻が彫ってくれたことを言うとこれまたウケがよかった。
 次の年からも彫ってもらうのがお決まりになった。年々妻の腕は上がって、ついには毎年干支を彫るまでになった。その頃には手書きで苦労していた宛名も印刷になっていたが、「奥さんのイモ版」はすっかり名物になっていた。
 イモ版は日を置くとしなびてしまうので、休日を一日潰して一気呵成に押してしまう。印面は切り落としてふかし芋になることが常だった。
 さつまいもがそれほど好きではない彼がふかし芋を食べるのは年に一回その日だけだ。年末の歳時記はずいぶん長く続いている。

 結婚記念の記念品はといえば、三年目の革婚式は少し奮発して彼はベルトで妻は財布。
 四年目の花婚式は花なので簡単だ、今度こそ妻の好きな薔薇のアレンジメントを買った。色は花屋にお任せでオレンジとピンク。文箱の椿を実は薔薇だと思って買ったとは言わずじまい。
 五年目、木婚式。ちょっといい塗りの夫婦箸を買った。
 六年目の鉄婚式はよく覚えている。ちょうど岩手に出張が入ったので、南部鉄器のすき焼き鍋を買って帰った。買って帰ると予告していたので家では妻がすき焼きの用意をしていた。この年から結婚記念日のごちそうはすき焼きになり、歳時記にすき焼きが加わった。
 七年目の銅婚式はさっぱり思いつかなかったので妻に任せたところ、デパートで銅製の揃いのタンブラーを買ってきた。この年に長男が生まれた。
 八年目は青銅かゴムだそうで、青銅と銅とは何が違うのかよく分からなかったし、ゴムは何を記念にすればいいか分からず、また子育てが忙しい時期でもあったのですき焼きだけで終わってしまった。
 一回逃すと何となく機を見失い、その後はもう取り敢えずすき焼きだけという流れになった。次の年に長女が生まれ、二人の子育てで結婚記念日どころではなくなったというのもある。
 結婚記念日の代わりに子供の成長が記憶の栞になった。出張で家を空けがちな彼はあまり妻を支えてやれず、妻も不満は大きかっただろう。
 それでも子はかすがいとは言ったもので、大きな喧嘩をしても何となく子供がうやむやにしてくれた。
 おかげでふかし芋の歳時記とすき焼きの歳時記は続いた。もっとも子供たちはすき焼きが両親の結婚の歳時記とは知らない。すき焼きが出てくるのが年に一度というわけではなく、年に何度か食わせてやれるくらいの甲斐性はある。
 だが、その頃うるさくCMを流しはじめたスイートテンダイヤモンドは流行りに気づかぬ振りをした。そもそもその頃には十年を超えていたのでノーカンである。

 出張は多いが転勤は少なかった会社の方針が変わった。
 各地に営業所を増やし、地元採用の契約社員に本社から管理職を派遣するようになった。一つの任地からは数年で戻れるが、一年ほどインターバルを置いてまた次の任地である。それぞれの土地の取引先ともっと関係性を深めたいという趣旨らしいが、社員にとっては、である。
 彼も下の娘が中学生に上がる頃、子育ても一段落しただろうしどうだと声をかけられた。昇進がセットで、断ったら出世の芽はなくなる。
 子供二人の学費を不自由させたくなかったし、家を買おうかどうか迷っていた時期でもあった。このまま勤めるのであれば単身赴任しか選択はなかった。
「喜べ、昇進だぞ! この際だから家も買おうか」
 空元気でいいこと主体に報告したが、妻の反応は冴えなかった。
「家を買ったらあなた……」
「単身赴任手当も出るからな」
 被せ気味に妻の言葉を遮った。
「けっこう出るんだ、安い部屋を探せば俺の生活費くらいは出る。給料も上がるしローンは充分払えるさ」
「せっかくおうちを買ってもお父さんが一緒に住めないんじゃ……」
 転勤を告げたら返す刀で単身赴任ねとぶった切られたという話を先輩から多く聞いていたが、こう難色を示されるのも却って寂しい。決意が揺らぐ。
 お互いそんなに我が強くないから衝突しないだけで夫婦仲は普通だと思っていたが、周囲からはおしどりだおしどりだと言われていた。案外おしどりだったのか。
「子供たちも手が離れたし、そろそろパートに出ようと思ってたところなの。だから昇進しなくてもやっていけるんじゃない?」
「パートはさ、したらいいよ。余裕があるのに越したことはないし、助かるよ。でもさ」
 妻はあまり人間関係の要領がいいほうではない。ママ友との付き合いやPTAなどでくよくよ悩むことも多かった。
 パートに出るのは全然悪くない、だが、家計があるから辞められないというふうには追い込みたくなかった。
「家も欲しいし、子供たちが大学に行きたかったら行かせてやりたいじゃないか。それには俺が昇進するのが一番手堅いんだよ」
 家は駅から徒歩二十分だが、一応希望の地域に買えた。書斎が持てたらいいなと思っていたが、さすがにそれは望みすぎだ。息子と娘に部屋を持たせてやれたので上等だ。
 貯蓄のことを考えると赴任先からちょくちょく帰るのも交通費の点で憚られ、月に二回ほどの帰宅で落ち着いた。疲れていたり、出費が重なったりしたときは月一に減る。
 日頃住んでいない家は、いつまで経っても親戚の家にお邪魔するような距離感だった。迂闊に物を動かすと娘に怒られたりする。
 安アパートでの一人暮らしは独身時代に戻ったような気楽さもあるし、身の回りのことは割とこまめにできるほうだった。夜中にどうしてもカップラーメンではなくインスタントラーメンを食べたくなったとき、気軽に台所を使えるのは悪くないなと思った。
 妻はパートを始めたが、続く勤め先が見つかるまでしばらくかかった。やっぱり義務のようなことにしなくてよかった。
 単身赴任で行ったり来たりのバタバタと長男の大学受験などが重なり、銀婚式は何もないままいつのまにか過ぎていた。節目が五年ごとになるとどちらもついつい忘れる。
 真珠をすっ飛ばし、珊瑚をすっ飛ばしたときに息子が所帯を持った。娘は何やら好きなことを仕事にして一人好きなように暮らしている。
 理屈としては子供の部屋が二つ空いたので、もう書斎を持てる。だが、子供たちの部屋を模様替えするのも億劫で、というのは言い訳だ。

「子供たちの部屋を片づけちゃうのもちょっと寂しくて……あんまりあの家で一緒に住んでないもんですから」
 マッサージベッドに俯せていると、気恥ずかしいようなこともさらっと言える。
「トータルで五年くらいは住んだのか?」
 ぎゅうぎゅうと揉んでくるのはカルパス先輩。もう上司ではないので先輩だ。
 いやいやまさか、もうちょっとは……と脳内でちゅうちゅうたこかいなと数えたが、
「そんなもんかもしれません。長男は大学から下宿で家を出ましたしね」
「まあ人使いの荒い会社だったよなぁ」
 単身赴任のインターバルはきっちり一年から一年半。次の赴任があると分かっているから本社勤務のときも自宅暮らしは腰を落ち着けた気分にはならなかった。
「ふくらはぎ張ってるな」
「昨日鹿児島から帰ってきたもんですから。座ってる時間が長かったせいかも」
「鹿児島の出張くらい飛行機使わせてやれよなぁ」
「JRのほうが気軽なもんで。空港がちょっと市内から遠いんですよねぇ」
 カルパス先輩は転勤制になって数年で会社を辞めた。柔道整復師の資格を取り、早期退職制度を使って整骨院を開いたのだ。人柄を慕ってか常連になっている同僚は彼の他にも意外と多い。部署が離れた同僚の近況をカルパス先輩から聞くこともある。
 それなりに繁盛しているらしく、予約しようとした日がいっぱいのことも珍しくない。元同僚の他にも地元の顧客をしっかり掴んでいるらしい。
 年寄りは喋りに来るようなもんだからな、と謙遜するが、腕はなかなかだ。
「先輩は思い切りがよかったですよねぇ」
「昔からマッサージは得意でな。柔道部でレギュラーよりも大事にされてたんだぞ、マッサージ要員として」
 漠然と老後は整骨院でもやるか、と思っていたところに会社の大転換があって決心がついたという。
「何しろ資格さえありゃベッドひとつでできるからな。飲食店よりは畳むときのリスクが少ないだろうって計算よ」
 始めるときに畳むことを考えている周到さが堅調な経営に繋がっているのだろう。
「お前は途中で研究職に行けたらよかったなぁ」
「いやぁ、でも先輩にキャラを作ってもらってから楽になりましたよ」
 キャラ、というのは子供たちが言っていて覚えた。
「イモ版、続いてるよなぁ」
「歳時記ですねえ」
 すき焼きの歳時記は赴任のタイミングによるが、イモ版はずっと続けている。とは言っても妻がだ。
「奥さんもプロの域だよな、ありゃ」
「喜びます」
 辰年に彫った竜はちょっとした評判だった。イモを縦に切ることで長さを出した力作だ。押すのは力加減がちょっと難しかったが。
 椿の文箱はさすがにくたびれてしまい、とっくにお役御免になっている。
「お前、嘱託になって三年だっけ?」
 定年は過ぎたが、再雇用の希望を出した。
「さすがに転勤はもう打ち止めだろ?」
「ええ、さすがに。還暦前に本社に戻して頂きましたよ。出張はちょいちょいありますが」
 定年が近づくと本社勤務になるのは最後のご奉公と言われている。
「逆だよなぁ、逆」
 カルパス先輩は背中を揉みほぐしながらぼやいた。
「若いうちは本社にいさせてやればいいんだよ。結婚したり子供ができたり色々あるんだから。転勤なんか、人生のイベントがあらかた終わったおっさん連中でいいんだよ。どうせ山の神ともマンネリで飽きが来てるんだから、ちょっと離れたほうが逆に上手く行ったりするんだ」
「重役が来たときに言ってやってくださいよ」
「言ってんだけどねぇ」
 今の若手は子供がかわいい盛りに転勤になったりするから気の毒だ。保育園や幼稚園、ママ友のネットワークなど子育ての環境を調えた後だとパパが一人で行ってきてということになるのが常らしい。
 しかしまあ、と思ったついでにぽろりとこぼれた。
「こんなに離れて暮らすならダイヤモンドくらい買ってやればよかったなぁ」
「スイートテンってやつか? 宝石屋の陰謀だぞ、あれは。日本の会社員のつましい小遣い制でダイヤなんか買えるかってんだ」
「十年かけて積み立てとけってことじゃないですか?」
「銀婚式はもう済んだんだっけ?」
「お互い忘れて過ぎちゃいましたね。十五年過ぎると五年ごとなんでうっかりしがちで」
「じゃあ次は金婚式か」
「いやいや、間にいろいろ入るんですよ。真珠とか珊瑚とか。うち今年は四十年目でルビーですよ。まあとても無理ですけどね」
「女だけ得するようになってないか、そのシステム」
 そういえば、とふと思い出した。
「初めての結婚記念日のプレゼントは先輩と一緒に買ったんですよ」
「そんな買い物付き合ったっけ?」
「覚えてませんか、椿の文箱。先輩は紫陽花を買って」
 はるか彼方の記憶をたぐり寄せる顔をしていたカルパス先輩は、紫陽花で思い出したらしい。
「あー、あー、あー! 椿がラス一でな!」
「一年目の結婚記念日は紙婚式なんですよ。俺は知らずに買ったんですけど、妻がえらく喜んでくれて。あの文箱は随分長く使いました」
「あの椿はよかったよ、細工が細かくて」
「実は俺、薔薇だと思って買ったんですよね。妻が薔薇が好きなので」
 四十年目の真実はカルパス先輩に効果的に炸裂した。
「薔薇!? お前、あれ薔薇だと思ってたの!?」
「赤くて花びらが重なってるからてっきり。どこで見分けてるんですかねぇ、みんな」
「そりゃあ傑作だなぁ、どこからどう見ても椿じゃないか」
 でもまあ、あの椿はよかった。カルパス先輩はもう一回そう言って肩を揉んだ。
 マッサージは一回四千八百円なので、会計で五千円札を一枚出した。お釣りは五百円玉が一枚戻ってきた。
「結婚記念日に花でも買ってやれよ。薔薇一本分上乗せだ」
「ありがとうございます」
 上司の頃もこちらが軽く受け取れるくらいの気遣いが上手かった。
 本社に戻ってきて初めての結婚記念日だ。今年は家ですき焼きが食えるだろうか。妻は今年が四十年目と覚えているだろうか。鉄婚式の南部鉄器のすき焼き鍋はしばらく拝んでいない。
 カルパス先輩のマッサージのおかげか、帰り道は足が軽かった。

 結婚記念日に家に帰ると、食卓にはもうすき焼き鍋が出ていた。
 春菊、長ネギ、しらたき、焼き豆腐、名脇役もそろい踏みだ。
「二人だけだからいいお肉買っちゃった」
「もう量は要らないからなぁ」
 相槌を打ちながらちらちら時計を気にする。と、玄関のチャイムが鳴った。
 妻がインターフォンに出ようとするのを押しとどめ、自分が出る。いつもは時節柄もあり玄関に置いて行ってもらうが、マスクを着けて直接受け取った。
 セロファンで包まれたアレンジメントは意外とずっしり重かった。薔薇を四十本、赤をメインに。注文はそれだけだ。
 一旦下ろしてマスクを外し、もう一度抱え直して居間に向かう。
「どこに置けばいいかな、これ」
 あらあら、まあまあ……と妻が目を丸くして、床にアレンジメントを置く隙間を作った。椅子には大きすぎて載らない。
「ルビーはちょっと無理だけどさ」
「ルビー、入ってるわよ」
 ルビー婚式と伝えたので花屋が気を遣ったのか、薔薇の中に赤いスワロフスキーの飾りが一本刺さっている。
「それに真っ赤な薔薇がルビーみたいよ。ルビーを一抱えもらっちゃったわ」
「百万本だったらかっこよかったんだけどな」
 流行った歌のタイトルにかけておどけてみたが、活ける場所がないわよと妻は現実的だった。
「それに百万本だと意味が変わっちゃうわ、四十本じゃないと」
 椿の文箱から始まって、一年一年、一歩ずつ。
 ようやく薔薇が四十本。
「一年目に椿の文箱を買ったろう? あれ、本当は薔薇だと思って買ったんだ」
 四十年目の告白に、妻は若い頃より豊満になったおなかを抱えて笑い転げた。
「全然違うじゃないの、椿は真ん中に黄色い芯があるでしょう?」
「そういう色の品種かと思ったんだよ。赤くて花びらが何重にも重なっててさ。形も似たようなもんじゃないか。見分けなんかつかないよ」
「実物を見たら違うって分かるわ。来年は薔薇公園に薔薇を見に行かない?」
 家から二駅ほど電車に乗ると、市が運営しているこぢんまりとした薔薇公園がある。あることは知っていたが、忙しさにかまけて一度も足を運んだことはなかった。
 家の近所に何があるかもまだろくに知らない。まだまだ我が家の新参者だ。
「椿も近所のお寺に立派なのがあるのよ」
「色々案内してもらわないとな」
 家は新築の間は転勤転勤でろくに住めなかったが、老後に近場の楽しみがたくさん残っているのは悪くない。
 ルビーの薔薇を眺めながらつつく結婚記念のすき焼きは、たいそう豪勢な味がした。

fin.

今回の物語の「種」は……
===
去年結婚四十年で、妻に贈った薔薇四十本の写真です。


投稿者は、ノリ さん(男・69歳)
===
でした!

「種」の投稿はこちらから
https://kadobun.jp/news/press-release/dz61anf341s0.html


関連書籍

MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2021年12月号

11月25日 発売

怪と幽

最新号
Vol.008

8月30日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP