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連載

有川ひろ 物語の種、募集します。 vol.6

有川ひろ「Mr.ブルー」――「物語の種、募集します。」小説その6

有川ひろ 物語の種、募集します。

図書館戦争』『県庁おもてなし課』などで知られる小説家・有川ひろさんによる、読者からの投稿を「種」として小説を書く企画。

投稿内容は、思い出話でも体験談でも、心に留まったキーワードでも写真でも。あなたが物語の種になりそうだと思ったものなら、なんでもOKです。

投稿募集ページはこちら
https://kadobun.jp/news/press-release/dz61anf341s0.html

「種」から今回芽吹いた小説は……


Mr.ブルー  有川ひろ

               *

 時節柄、彼女が勤める家電メーカーでもリモート会議が増えた。
 鋭意開発中の製品はドライヤーである。来年発表の新モデルはやはり時節柄のため開発が遅れ気味だった。試作品の完成は半年遅れ、やっと評価試験に入った段階である。
 モニター要員として彼女も毎日のように使用テストを繰り返しており、ドライヤー部門に配属されてからずっとロングを保っている髪は毛先がぱさついている。リモートで出勤が減ったせいもあるかもしれない。外出が減ると身だしなみの基準値は自然と下がる。
 今日は研究所長を交えた商品化会議である。社内にいくつかある研究開発部門を統括する研究所長の許可が下りねば試作品は試作品のまま終わる。
 リモート会議室に彼女が入室すると、既に数人が入室済みだった。巷では失礼クリエイターと揶揄されるマナー講師が誰も幸せにしないリモートマナーをクリエイトしているようだが、彼女の会社では採用されていない。噂によると、研究所長の発令があったという。――合理的でないマナーの採用を禁ず。
 事実かどうかは誰も知らないが、事実であっても不思議ではないという評価の噂である。合理的なことでは社内の追随を許さず、会議で提案を却下するときの決まり文句は「合理的じゃないですね」だという――が、これも噂の域を出ない。ただ、合理的でないという理由で却下される議題は多いというだけだ。
 合理的でないマナーの採用を禁じたと噂の研究所長は、一体どのスペースに現れるのか。研究所長が参加するリモート会議はドライヤー部門では初である。
 稟議が厳しいことで有名なので(これは噂でなく事実だ)、入室済みのメンバーはいつもより緊張した表情だ。服装もやや改まっている。日頃は部屋着なのか寝間着なのかというトレーナーで出てくる男性も一応襟付きのポロシャツである。
 彼女も一応ツヤ感のあるブラウスにしておいた。
 会社での研究所長は、常に紺のスーツである。ワイシャツとネクタイもブルー系で統一され、必ず毎日留めているネクタイピンにはスターサファイアがあしらわれているのであった。
 誰が呼んだか密かな通り名はMr.ブルー。噂によると、スターサファイアのネクタイピンは時価三百万円であるとか、自家用車は青のBMWであるとかレクサスであるとか、確かめようがない伝説が独り歩きしている。研究所長への昇任が社内史上最年少の五十二歳だったという経歴も伝説のクリエイトに一役買っているかもしれない。
 会議開始まで三分を切ったころ、参加者が全員揃った。伝説の研究所長Mr.ブルーの登場は色味だけで分かった。
 表示枠の中にブルーのコーディネイトが出現したのである。水色の地に白いピンストライプのシャツ、青の斜めストライプのネクタイ、紺のハイゲージベストだった。
 ベストの下のネクタイにはやはりスターサファイアのネクタイピンが留められているのか、ということも気になったが、それより何より――
『全員揃ったようなので始めましょうか』
 議長となるチーフの挨拶をそぞろに聞きながら、彼女はMr.ブルーの背景に目を凝らした。
 後ろの壁に額装したポスターが飾ってある。空色の地に舞い散る桜が合成された背景に、白いスラックスの片足だけがわずかに見切れている。美しく伸ばされた足の角度は確かに覚えがある。おそらく去年の四月。
 カメラもう少し左。左行ってちょっと上。画角の外のポスターを窺っていると、同期の女子に個別チャットで【おなかでも痛いの?】と訊かれてしまった。いけないいけない、ここは会議に集中しなくては。
 新商品の評価試験の結果が順次報告される。どの試験項目も前モデルより数値は向上している。だが、Mr.ブルーは登場したときから表情の揺らぎが全くない。良いとも悪いとも読み取れず、チームのメンバーが焦燥感を募らせていることだけが回線越しに伝わってくる。
『――はい、了解しました』
 Mr.ブルーの発言に全員が固唾を呑んだ。声色からはやはり良いとも悪いとも読み取れない。可と続いても不可と続いても違和感がないようなフラットな調子である。
『全体的に前モデルより性能は向上している、了解しました』
 これは不可と続くほうのやつだ、と全員が気づいてしょっぱい顔になる。
『乾燥時間が約12%短縮されたとのことですが、これは黒船と戦えるレベルの向上ですか?』
 チーフの目が泳いだ。黒船の隠語が示すのは、吸引力が落ちない唯一ので有名な海外メーカーが発売したドライヤーのことである。出力に物を言わせる製品は風量がとにかく多く、乾燥時間が短いことでは他の追随を許さない。
『それは……』
 答えるチーフは伏し目がちである。
『……価格帯も違うことですし』
 黒船はドライヤーとしては飛び抜けて高価格な商品でもある。国内メーカーの最上位モデルの価格を更に二万円近く上回る。
『うちとしては使用感などで差別化を図りたいと……』
『使用感で差別化は可能ですか』
 こわっ! 語尾が上がりも下がりもしない疑問形こわっ! 彼女が目を泳がせるとモニターの中ではチームメンバーがやはり同じようにそぞろな眼差しになっている。
『例えば手触りに関してですが、ロングヘアの方は美容院でトリートメントを受けた後の感触を何日ほど保てますか?』
 誰とも指名しない問いに自分から答える者はいない。主に女性に向けられた質問であることは明らかだったが、外出を控えがちな時節柄、彼女はもう四ヶ月近く美容院に行っていない。時節を言い訳にしていることは否めなかった。床屋や美容院は営業自粛の対象にはなっていないし、近所の美容院はどこも入り口を全開にした上で営業している。換気中のアピールでもあるだろう。彼女の行きつけの美容院からも対策をアピールしたダイレクトメールが何度か来ている。
 モニターを兼ねることもあって女性メンバーは全員セミロング以上を保っているが、発言する者は誰もいない。
『時節柄もありますしホームケアでもかまいませんが、特別なケアの後の感触の維持は?』
 Mr.ブルーの追い込みは容赦がない。通販でもトリートメント剤は購入できるのだし、家でスペシャルケアをすることは可能だ。部門柄そうした買い物は経費で落ちる。それに出社すれば開発室に併設の洗面台に高価なヘアパックが常備してあるのだ。リモート期間中一度も出社していないわけではない。
 彼女はリモートワークが増えてから普段使っているヘアケア用品しか使っていなかったし、場を沈黙が支配している以上は他の女性メンバーも同じだろう。全員が揃って髪を引っ詰めている理由も彼女と変わりあるまい。
『部門柄もありますし、髪を下ろしたらアホ毛が跳ねているというようなことにはなっていないと思いますが』
 ブフォッという笑いは気づくと自分の口から噴き出ていた。
『何か』
『いえっ、すみません!』
 Mr.ブルーの口からアホ毛という単語が出てきたことのギャップに負けた。Mr.ブルーもアホ毛と言うのか、そうか。しかし確かにアホ毛を表現する別の言葉は思い浮かばない。
 引っ詰めてもピンピンに跳ねていたアホ毛はワックスで押さえつけてある。
『髪の長い方を他人事だと思わないように』
 Mr.ブルーの矛先はどうやら男性陣に向かった。
『ショートでも髪を美しく保つ努力はできるはずですし、その需要も当然あります。モニターは女性陣に任せておけばいいというような美意識の低いことでは困ります』
 お前らは美意識が低い。有り体にそう言っている。男女の別なくまんべんなく恐い。
『特に髪を染めている人はダメージも強いでしょうし、使用感で差別化を図るならそうした方が満足を得られるほどの性能を追究していただきたい。そうでなくては新機種を出す意味がない』
 使用感に関しては全員が押し黙ってしまった時点で負けだ。
『なお、乾燥時間の向上は前モデル比15%を目指してください』
 しれっと向上の項目を追加され、会議は閉幕に向かった。
『個別の連絡のある方は?』
 会議後に個別に話したいメンバーは相手を指名して残るか、別にリモート会議室を立ち上げてそちらに移るシステムになっている。
 彼女はとっさにMr.ブルーに個別チャットを送った。
【仕事に直接は関係ないのですが、ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが】
 モニターの中でMr.ブルーが少し怪訝な顔をした。
【了解しました。部屋はどうしますか】
 他のメンバーはそのまま解散になりそうな流れだ。
【このままでお願いします】
 Mr.ブルーにすみませんお手数かけますなどとチャットを送っているうちに、他は全員退室した。
『それで質問というのは』
『あ、あのっ……』
 どう切り出したものか迷って、結局直球。
『それはもしかしてこまれいさまでしょうか!?』
 Mr.ブルーははっとした表情で背後を振り向いた。背後の壁のポスター――否。
 彼女の見立てが正しければ、それはカレンダーのはずである。社会的にリモートワークが推奨される前――去年の四月の。
 Mr.ブルーは改めてこちらを振り向き、静かに息を吐いた。
『……あなたも、でしたか』
 やはり。
 背後のポスターの正体は、去年の宝塚歌劇のスターカレンダー。四月を飾ったスターは星組の新トップスター、生駒礼人。名付けの由来は奈良出身ということで生駒、宝塚歌劇において礼節の大切さを教わったので礼人。ニックネームは生駒から採ってイコ。今年就任したばかりであり、このカレンダーが発売された時点では二番手スターであった。
『そのカレンダー、私も部屋に……』
 めくった瞬間、悲鳴を上げてしまうほど美しいショットであった。奇跡の、いや宝塚スターは存在しているだけで奇跡なので全てのショットが奇跡なのだが、その中でも選りすぐりに奇跡という一枚で、彼女にとってはもはや月が変わると同時にお別れするカレンダーではなく永久保存版のポスターなのであった。
『額装はちょっとできてないんですが……』
 Mr.ブルーの額装はモニター越しにも金がかかっていると分かるしっかりした額だった。
『額はいいですよ。気分で公演ポスターと入れ替えもできますし、数枚なら裏に重ねて収納できますから丸めず保管したいものにもってこいです』
 これはかなりのガチ勢だ。
『あの、いつから……私は再々演のロミオとジュリエットからなんですけど。ベンヴォーリオ役が本当に素晴らしくて』
 ロミオの親友で、ジュリエットが死んだという大誤報をロミオに伝える役でもある。生駒礼人のベンヴォーリオはロミオの悲しみを思って苦悩するナンバーをそれはそれは悲痛に歌い上げ、ロミオへの友情の深さでファンを涙させたのであった。
 当時若手であった生駒礼人が未来のトップスター候補として頭角を現した作品である。その後上演された新人公演では主役のロミオに抜擢されてもいる。
『私もロミオとジュリエットからです。初演の「愛」役のときですが』
 さらりと言い放たれて彼女は息を呑んだ。
『それは……研2でウルトラ大抜擢されたあの伝説の、』
 宝塚歌劇で上演されたロミオとジュリエットは、フランスでフレンチロックミュージカル版として上演されたロミジュリの日本語版であり、そこには「死」という抽象的な役柄が登場する。
 台詞は一切なく、登場人物が憎悪や怒り、絶望などネガティブな感情に支配されるような場面で現れて、登場人物たちにまとわりつくような舞を舞う。原作冒頭の「口上」にある「死の影に怯えとおした二人の恋の一部始終」という文言を象徴するような役だ。舞だけで不吉な存在感を表出せねばならないので、凄まじいダンスの技量が要求される。
「愛」は宝塚のオリジナルとして初演時から創出された役柄である。こちらは「死」とは対照的に愛や希望、慈しみなどを象徴する役で、やはりダンスのみでそれを表現する。
 一言の台詞もなく、ただ舞うだけで人々の向かう未来の揺らぎを表現せねばならない。人々の行く末に訪れるのは「死」か「愛」か――そのせめぎ合いを取り入れたのは宝塚の優れた独自性でもあるが、「愛」は前例がないだけに困難な役だ。
 その困難な役に、入団してようやく二年目の研究科二年生だった生駒礼人が抜擢されたのである。控えめに言って事件であった。
『震えました。ダンスの技量ももちろんですが、本来は男役であるイコ様が女性に扮して何らの違和感もなく……途方もない才能が登場した、と。必ずや将来トップになると確信しました』
 抽象キャラクターなので厳密には性別はないのかもしれないが、扮装としては男性形の「死」に対して「愛」は女性形の役柄である。
 宝塚では男役が女性を演じることを女装と呼んだりもするが、生駒礼人の「愛」は元々娘役であったとしても違和感がないほどしなやかで美しかったという評判だ。
『あのとき別箱で東京公演なかったからわたし見送っちゃったんですよね……』
 宝塚歌劇団が所有する宝塚大劇場、東京宝塚劇場で上演されるメイン公演に対して、宝塚所有でない一般劇場で上演される公演を別箱公演と呼ぶ。ロミオとジュリエットの初演は別箱しかも地方公演のみで、彼女は日程と旅費の関係で見送ってしまったのだが、今でも後悔が尽きない。
 というのは、このロミジュリ初演には後の各組トップになる若手が何人も出演していたのだ。後悔で血の涙を流している彼女の宝塚仲間は片手の指の数では足りない。
 その公演を押さえているとは、Mr.ブルーのファン歴は浅からぬ実績がある。少なくとも、生駒礼人については彼女より四年は先輩だ。
『ちなみに宝塚歴は……』
『生まれる前からひいは星組です』
 出た! 生まれる前から!
 宝塚歌劇は母の代、祖母の代からのファンだという者が珍しくなく、そうしたファンは宝塚歴を名乗るときに「生まれる前から」「母のお腹にいたときから」というような言い方をする。
 Mr.ブルーの申告は、母の代もしくは祖母の代から星組ファンだったことを意味する。
『それまで星組というチームそのものに愛を注いでいたのですが、初めてファンクラブに入ってみたくなり、それこそベンヴォーリオを観た帰りに入会申請書を取り寄せました』
 彼女がやっとイコ様落ちした頃、既にMr.ブルーはファンクラブ入会を果たしていたのだ。周回遅れどころの話ではない。大大大先輩だ。
 はっと気づいた瞬間、うっかり口走っていた。
『もしかして、三百万のスターサファイアのネクタイピンは……!』
 Mr.ブルーがモニターの中で困惑顔になる。
『……三百万と流布していますか』
『あああすみません! 噂で! 噂が!』
『さすがに桁が一つ下ですね』
 とはいえ三十万。
『お察しのとおり、星組ファンとしてのごく個人的なアイコンです。生まれる前から星組ファンでしたが、死ぬまで星組ファンでいる誓いとして、組カラーの青に星の入ったアイテムを』
 Mr.ブルーに比べたら彼女など沼の浅瀬で足を浸しているに過ぎなかった。Mr.ブルーは頭までずっぽりだ。
 まさかこんなところに先達がいようとは。
『仕事中にあまり私語をしていてはいけませんね』
『すみません、私用でお引き留めして! どうしてもそのカレンダーが気になって!』
 平謝りしつつ、少しばかり名残惜しい。仲間を見つけると贔屓の良さを語り尽くしたくなってしまうのはヅカオタの性である。新しい仲間は贔屓について新しい視点をもたらしてくれることがままある。
『私語は業務時間外としましょう。メッセのアカウントを送っておきます』
 と、チャットでメッセージアプリのアカウントが届いた。
『公演やお茶会のチケットを融通できるかもしれません』
『マジですか! 私もチケット回ってきたらお声かけます!』
 今後の情報共有を約束し、その日はリモート会議室を退室した。

 Mr.ブルーとは干支二回り近く年の差があったが、同じものを推す身であれば話題が尽きることなどないのであった。何しろ宝塚の歴史は長く、生まれる前から星組ファンであったMr.ブルーは半世紀以上をファン活動に費やしていることになる。
『とはいえ、物心つくまでは母に連れ回されていただけですが』
 業務時間外の私語はメッセージアプリの音声通話が活用された。お互いアイコンは生駒礼人の公式舞台写真なので、モニターだけ見るとイコ様同士が喋っているようになる。声がイコ様ではないので毎回少々脳がバグるが、それはお互い様だろう。
『物心つかれたのはいつですか?』
『確か小三だったと思います。男は宝塚に入れないと分かったときに、改めてファンとしての道が開けました』
 男役になるおつもりだったらしい。
『野球やサッカーを見て選手に憧れるのと同じベクトルに宝塚があったんです。何しろ身の回りに宝塚スター以上にかっこいい男性など存在しませんから、自分がなりたい理想の男性像を追求していくと自然と宝塚スターということに……』
 それは確かにそうだ。現実に宝塚スター以上の男性などいるわけがない。清く正しく美しく、心技体いずれを取っても男の中の男。男の中の男がトップから名脇役、新人若手生徒に至るまで揃っている最強の軍団である。
『それは……幼くして大変な挫折を』
『女の子に産んでやれなくてごめんねと母に泣かれました』
 泣いて詫びた母はこう宣ったという。
 宝塚スターにはなれなくても、わたしたちは一生スターを支えていくことができるのよ。
『その薫陶が後々スターサファイアのネクタイピンにまで繋がるわけですね……!』
『まあ、それは今まで宝塚に注ぎ込んだ総額からすると些細なものですから』
 恐い! 当年五十四歳、弊社エリートコース爆走・史上最短昇任研究所長が宝塚に注ぎ込んだ総額恐い!
『就職も本当は阪急電鉄を狙ってたんですが……』
 宝塚歌劇は阪急電鉄グループの事業である。グループの部門は多岐にわたり、映画会社の東宝は「東京宝塚」に由来する社名ということは宝塚ファンにとって基礎中の基礎。
 スターへの道を断たれて事業側を目指すというのは、社内きっての切れ者であるMr.ブルーらしい進路ではある。
『筆記試験は通ったんですが、面接の当日にインフルエンザで辞退することに』
 それは……、何と言っていいやら分からず、絶句の後に『さぞやご無念』と搾り出した。
『いえ、お気になさらず。どうも私はここ一番の運がないようで。万が一にも宝塚の運営に運のなさが影響を及ぼしていたらと思うと、むしろ落ちて良かったのかもしれません』
 何というポジティブ変換。ポジティブすぎて恐い。
『宝塚音楽学校の受験資格すらないと知ったときの挫折を思えば何ほどのものでもありません。人生最大の挫折を子供の頃に味わっているので、その後の挫折は全てかすり傷です。長じてから身長も顔面も男役を目指すにはあまりに力不足と思い知ったおかげで身の程をわきまえることもできましたし』
 Mr.ブルーの声音に自嘲の気配はなく、事実を事実として淡々と述べている様子だった。
『ああ……わたし、今ちょっと泣きそうです』
『何ですか。私の身長と顔面への哀れみですか?』
『いえ、とんでもない!』
 確かにMr.ブルーは身長は平均より低いほうだ。山椒は小粒でもぴりりと辛い、という比喩でその辣腕ぶりを語られる。
『宝塚はこんなにも人を強くするのかと感動の涙が……稟議を出しても出しても通らない所長の強靱な精神を育んだのが宝塚だと思うと、通らない稟議に誇らしさすら感じます』
『いえ、稟議が通らないことは恥だと思ってください』
 ドライヤーの新モデルは未だに試験中である。
『モニターをオンにしたらアホ毛が浮いているようなことにはなっていないでしょうね』
『宝塚談義に仕事を持ち込むのはおやめください、閣下。オフはオフで大切にしましょう』
 確かに、と納得した気配がして、すみませんと率直な詫びが入った。
 それに最近はヘアケアも怠っていない。ワックスでなでつけなくても素直にまとまるくらいになってきた。
『どうも私は仕事と趣味を切り離すことが苦手で』
 言われたことの意味がちょっと分からない。
『仕事……関係ありますかね、宝塚に』
『何を言っているんですか?』
 Mr.ブルーがいかにも怪訝そうな声になる。言われたことの意味がちょっと分からない、と声音で率直なリターンだ。
『私は自社製品がタカラジェンヌに選ばれることを常に目標としていますよ。ドライヤー、加湿器、空気清浄機、美顔器、エアコン、白物家電に至るまですべて』
 厳しい判断に合点が行った。想定ユーザーがジェンヌ、それは半端なものは出せない。
『ドライヤーなら黒船と比較して当社を選んでもらえる、そのくらいのレベルでないと。価格帯は当社が有利です。しかし、髪を乾かすのは毎日のこと。ハードな毎日を送っているジェンヌのQOLを向上するためには乾燥時間の短縮は必須。さらにジェンヌとして美しい髪を維持できる性能も必須。その使命に新機種が耐えうるかどうか。現状ではまだ足りない』
 Mr.ブルーにとって全ての道は宝塚に通ずるのだ。おそらくこのモチベーションが史上最短昇任を実現させている。
『いけないいけない、また仕事と混同してしまいましたね』
『いえっ……志を共有できるように頑張ります! 夢はイコ様に使ってもらえるドライヤーですね!』
 そういえば、まだこの話をしていなかった。
『イコ様のお披露目公演はもうご覧になりましたか?』
 新トップコンビが主演を果たすお披露目公演は、卒業公演と並んで宝塚ファンには格別の思い入れがある公演である。
 生駒礼人は満を持してロミオとジュリエットにてロミオ役だ。娘役トップのあま使つかアンジェも歌とダンス、ルックス、身長ともに生駒礼人と好バランスで今後の期待が集まっている。
『私もようやくこの前の日曜日に観に行けたところなんです』
 公演期間はそろそろ終盤、Mr.ブルーがまだ観ていなかったらこの話題は次に持ち越そうと様子を窺う。
 と、Mr.ブルーからは歯切れの悪い沈黙が返ってきた。ややあって、
『ご覧になれたんですね。それはよかった』
 何だこの寂しげかつ儚げな相槌は。五十四歳会社役員男性の醸し出す儚さは生まれてきてから初めて食らったが、ただごとではない哀切な響きが声に籠もっている。
『あ、あの……』
『私は……取っていたチケットがすべて公演中止の時期にかかりまして』
 ヒッ、と喉で息が詰まった。
 世界的な流行を見せている疫病の煽りを受け、外出自粛や休業要請が発出されることも珍しくなくなっているご時世である。もちろん、映画や舞台も例外ではない。
 星組トップお披露目公演も、やはりその影響を免れなかった。幕が開いて数日でスタッフ内に感染者が発生し、最初の公演中止を余儀なくされた。その後も何度か中止期間が発生している。
 どんなお悔やみの言葉も無力に感じられた。何しろMr.ブルーは伝説の研2大抜擢で「愛」を演じたときからの生駒礼人ファンだ。初期の初期からその才能を見出し、ファンクラブに入り、成長をずっと見守ってきたのである。
 見守ってきたスターがついに贔屓組のトップに就任、ファンにとってこれ以上の喜びはない。誰もがその天上の夢のような瞬間を信じて贔屓スターを応援するが、何の気運に恵まれなかったのか、ついにトップ就任は果たさぬまま卒業していくスターも大勢いる。
 トップスターは泣いても笑っても一人、その枠はあまりにも狭い。
 Mr.ブルーはその夢を得て、意気揚々とチケットを取り、そのチケットが誰のせいでもないことですべて失われたのであった。
 新トップお披露目公演などチケットは瞬殺で、新たなチケットなど手に入るはずもない。たまに宝塚仲間がやむない事情で手放すことがあるが、それも血の涙を流しつつの放出で、その血の涙には仲間が容赦なく群がりそれもまた争奪戦なのであった。
 ことにMr.ブルーは男性である。宝塚という世界はやはり女性ファンが圧倒的多数を占め、横の繋がりも女性よりは作りにくいだろう。
『あの、例えばお母様やお母様のお友達でチケットを融通し合えるお仲間は……』
『母もご友人も老いまして……なかなか観劇に足を運べず』
 行けたとしても一回が限度で、チケットの手配は近年Mr.ブルーが代行しているという。
『老いた母やご婦人方が楽しみにしている公演を譲れなどとはとても……』
 そのうえ、今回のお披露目公演は公演回数が減ったために超絶プラチナチケットと化している。
 社会情勢的に公演中止の懸念はあったので、元々の先行予約から倍率も凄まじいことになっていた。時期をばらして複数枚取り、どれかが観られたら御の字という寸法だ。
『何てことですか……! わ、わたしのチケットが所長に当たっていたら良かったのに』
 Mr.ブルーが生駒礼人に懸けてきた情熱を思うと、自分などよりという気持ちが湧いたのは本当だ。だが、事前にこの話を聞かされていたらチケットを譲れたかというと、それは怪しい。Mr.ブルーより歴は短いとはいえ、やはり彼女も生駒礼人ファンであり、その晴れ舞台を棒に振ることは実際にはできないだろう。
 できるものならそうしたいと一抹思う気持ちはウソではないがだがしかし人間のエゴよ。
『いけませんよ。そのチケットはあなたのところに来る運命だったんです。私は人の運命を踏みにじってまでイコ様のお披露目公演を観たいわけではありません。私は清く正しく美しくイコ様のお披露目を観たかったのです』
 何。神。尊い。――志の高さに語彙が不具合を起こした。
 Mr.ブルーは神。生駒礼人を、星組を、宝塚を見守る神に違いない。
『まあ、ここぞというときの運がないんですよ、私は』
 Mr.ブルーの声が寂しげな笑みを含んだ。
『さすがにチケットが大劇場・日比谷合わせて七枚すべて飛んだときは……』

 世界の! すべてが! 闇に! 沈んだ―――――――――――――――――――――!

『という気持ちになりましたが』
 突如として高らかに歌い上げられたナンバーはロミオとジュリエット、ジュリエットの訃報を聞いたときのロミオの歌である。意外と上手い。
『今の一節は……』
 節の回し方や余韻の残し方など、明らかに生駒礼人の癖を意識した物真似であった。
『イコ様のロミオをご覧になれてないのに……?』
『宝塚は本当に素晴らしい劇団です。大千穐楽を待たずして公演のブルーレイを発売してくれるのですから。そのおかげで公演に行けなかった私もイコ様がロミオとして歌う姿を、フィナーレで青い大羽根を背負って階段を下りる姿までも目に焼き付けることができるのです』
 とはいえ、生でそれを見届ける至福とは比べるべくもないのだが。
『世界のすべてが闇に沈んでも、劇団は天にまたたく星の輝きを与えてくれるのです』
 星組だけに。
『しかも!』
 Mr.ブルーのギアが一つ上がった。
『劇団はこちらが何一つ手続きしなくてもチケット代を自動的に全額返金してくれたのです! 多くの公演が飛んで興行的には厳しい状態に追い込まれているであろうにも拘らず! 何なら私はチケット代はもう返してもらわなくていい、そのままカンパさせてほしいと思っていたのに、劇団の誠意は私の想像をはるかに超えてきました』
 彼女は幸運にも公演が飛ばなかったのでそのような次第は知らなかった。だが、さすが宝塚と敬意を新たにする処置である。
『劇団の誠意にファンとしてどう応えるべきか。私はすべてイコ様公式グッズに注ぎ込みました。お披露目公演のブルーレイはもちろんのこと、宝塚ロミジュリ全コンプリートボックス、過去の出演作の全ブルーレイ、トップ就任記念で満を持して発売された「生駒礼人ダイナマイトエクセレントヒストリー」ブルーレイセット、その他ファングッズまで今や金で買えるものはすべてが我が手にあります』
 頭の中で雑にそろばんを弾いた結果、それはS席チケット七枚分の返金を大幅に超えているのではと思われた。
『というわけで、「愛」に抜擢されたロミジュリも、新人公演のロミジュリもお貸しすることができますよ。新人公演のロミオはやはりまだ初々しさが残っていてお披露目とはまた違う魅力があります』
『お願いします!』
 何という善きヅカ友ができたのかと思わず神に感謝の祈りを捧げてしまう。いや、上司ですが。
『あの、もし余ったチケットが回ってきたら、お知らせしますね!』
『ありがとうございます、お気持ちだけで充分です』
 ブルーレイは次の出社日に受け渡すことにして、その日は談義を終えた。

 その日の朝出社すると、デスクの上に伊勢丹の紙袋が置かれていた。中身はプチプチシートに厳重に梱包された箱状の物体である。
「それ、Mr.ブルーがあんたに渡しといてくれって」
 同期の女子がそう声をかけてきた。今日も青かったわー、と感想付き。
「泣く子も黙るMr.ブルーとどういう接点?」
「いやー、ちょっと趣味かすってるとこがあってさ」
 Mr.ブルーが宝塚ファンであることを公言しているかどうか分からないのでうっすらぼかす。だが、彼女のほうが全く嗜好を隠していないのであまり意味がなかった。
「なるほど宝塚」
「あー、何かお母さんがヅカファンなんだって。そんで色々貸してくれることに」
 まあ嘘はついていない。Mr.ブルーが生まれる前から星組ファンだと言っていないだけだ。
「お、それきっかけで付き合ったりとかないの?」
「いやいやいや、年が上にも程がある。それにご結婚されてるんじゃないの?」
 泣く子も黙るスパルタ研究所長、そして彼女的には宝塚ファンとしてのMr.ブルーしか認識していなかったので知らなかったが、同期によると独身であるという。
「役員からお見合いの話はいっぱい来たらしいけどね~。何かどれも決まらずじまいだったって。まあ今となっては自分が役員だし、あの年だし、お見合い持ってく人もいないよね」
 なるほど、と情報の一つとして聞いておく。彼女にとっては尊敬すべき宝塚ファンという要素が最も重要なので、備考情報に過ぎないが。
 借り受けたブルーレイをウッキウキで持ち帰ると、厳重な梱包は生駒礼人コンプリートセットとも呼ぶべき詰め合わせになっていた。しかも全二十枚にも及ぶ詳細な見所レポート付きである。
 オタクに得意分野について尋ねると望まれた以上の熱量で回答してしまうという真理はどこかの賢者が唱えていたが、彼女とMr.ブルーの間柄においてはヨシ来た合点望むところだくらいの勢いである。
 ハマる前だったので生で見そびれていた公演も、臨場感あふれるレポートで作品の行間を埋められた。というかこの人やっぱめちゃくちゃ仕事できるんだなという的確な解説と感想である。そして何より評論家気取りでなく愛があふれているのがいい。
 ブルーレイを一本観賞するごとに予定をすり合わせて宝塚談義である。
『やはりわたしは所長にこそお披露目のロミジュリを観ていただきたかったです……!』
『いや、それはもう運命ですから。私の愛を神が試しておられるのです』
『負けません! 所長の愛は負けませんとも! ですがもし私が不慮の事故で亡くなった場合は所長にこの脳を遺していきますからどうにか記憶を移植して私が観たロミジュリを所長も』
『おそらく技術の進歩を待つためにコールドスリープが必要になるかと』
 話の合間合間にお互い耳に叩き込んだ楽曲のフレーズを口ずさんでしまうこともしばしば。
『自粛が明けたらカラオケ行きませんか!? 宝塚の楽曲がたくさん配信されてる機種を入れてる店があって』
 こと宝塚の話題に関しては前のめりなMr.ブルーが、そのとき初めて躊躇を見せた。
『いや、それは……』
『カラオケお好きじゃないですか?』
『いや、一人では宝塚の曲をよく歌いに行きますが……』
 それなら何を躊躇することがあろう。
『直接ではありませんが一応は上司と部下という関係性ですし、何よりあなたにお付き合いしている方がいらっしゃったら、会社の上司と二人でカラオケというのはお相手の方はあまり気分が良くないのでは……』
『大丈夫です! フリーです! ド・フリーです!』
 断言してからふと気づく。
 独身だと聞いているが、Mr.ブルーのほうこそ付き合っている誰かがいるのでは。その場合、彼女のほうも同じ配慮をすべきだろう。
『あの、所長のほうは……』
『私のほうはこの年まで独身ですので。もはや主義です』
『主義ですか』
『理想の男性像は宝塚の男役ですが、理想の女性も宝塚の娘役ということになってきますので』
 なるほど合点。今まで見合いがまとまらなかったのも道理である。
『現実に存在しない精霊が理想というのと同じですものね……』 
 理想と現実が切り離せずに恋愛に支障を来す経験は彼女も数多い。彼氏とのデートより観劇のほうが生きている実感がある、と気づいてしまうと急速に熱が冷めていく。
『それもありますが家庭の事情も……母が高齢ですし、私しか看取る家族がおりませんので』
 画面に映るわけではないが、思わず居住まいを正す。
『介護の手助けを期待して結婚するような形になってしまうのは相手の方にも申し訳ないですし、母を看取るまでは独りでいようと決めていまして。しかし母を看取ったら今度は自分自身が老後ですし、どうも私は女の人を幸せにできる星回りではないらしいと……これもまた運命です』
 そう言ってMr.ブルーはすみませんと笑った。
『重たい話になってしまいました』
『いえ! ……でも、わたしは所長に幸せになっていただきたいですが』
『幸せですよ。私は一生星組のファンですから。男女なら裏切りや失望もあるかもしれませんが、宝塚は決してファンを裏切りません。愛するものが失われない、これほど幸せなことはそうそうありませんよ』
 画面に映るわけではないのをいいことに思わず拝んでしまう。
『お互い支障がないのならカラオケはいずれ』
『はい! ぜひ!』
 その日の談義はそれで終わった。

 次の宝塚談義より先にリモート会議の日程が決まった。Mr.ブルーも出席の予定である。
 思うところあって前日に美容院に行った。
 会議室への入室は気後れに足を引っ張られてギリギリになった。入室するともう全員そろっていて、大トリで登場することになってしまった。
 マイクはまだ誰も入れていなかったので声こそしないが、全員がどよめく気配がした。
『その髪は……』
 代表して尋ねたのはチーフである。
『ご存じの方もおられるかと思いますが、私は宝塚のファンでして』
 同期からチャットが入る。
【何言い出したん、あんた】
『現在、宝塚では度重なる公演中止に苦しみながら私の大好きなスターが主演を務めています。今回の役は金髪です』
 長さは彼女のほうが長いが、美容師にパンフレットを見せて同じような金髪に染めてもらった。
『私の愛するスターのように髪を激しく染めている人が美しい髪質を保てるということが黒船と戦える使用感なのではないかと考え、この色に染めてきました。この髪でモニターテストに臨みたいと思います』
『な、なるほど……?』
 力押しではあるがチーフは納得したらしい。そして、
『ブラァボー!』
 大きく拍手したのはMr.ブルーである。彼女が金髪で登場したときより参加者は動揺した。
『心意気やよし! 期待しています』
 これでいいのか。いいらしい。ならいいか。そんな空気感でリモート会議は始まった。

『思い切りましたね。しかし素晴らしい意気でした』
 Mr.ブルーがそう述べたのは、次の宝塚談義のときである。
『元々他社との渉外が少ない部門ですし、今は出社も減っているのでチャレンジのタイミングかと思いまして』
『乾燥時間の向上は残り2%を積み残していますが』
『イコ様に選んでいただける製品を目指して頑張ります』
 オフはオフで大切に。その約束のとおり、仕事の話題はそこまでとなった。
『そういえばですね』
 先日から思っていたことを切り出す。
『私も理想の男性が宝塚の男役なので、恋愛に縁遠い生活を送っているのですが』
『無理もないことです』
『結婚するかしないか、自分でも現時点でまったく分かりません。半端な男と家庭を持つくらいなら単身宝塚の追っかけをしていたほうがずっと幸せだと思いますし』
『それももちろんです』
『ですが、私も所長と同じく、一生宝塚のファンです。それだけは間違いありません。組は恋に落ちるスターによって変わるかもしれませんが』
『それもまた運命です。イコ様が組替えをしていたら私もついていったと思います』
 宝塚を愛する者同士。それだけは一生覆らない事実である。
『ですから、私たちは一生善きヅカ友でいましょう。病めるときも健やかなるときも共に宝塚を愛し、助け合いましょう』
 Mr.ブルーはややあって答えた。
『……なるほど。それはなかなか悪くない老後です』
 我ながら悪くない提案をした。
 目先の楽しみとしては、まずヅカカラオケである。

fin.


今回の物語の「種」は……
===
「リモート会議」でいい感じの物語を。
(デビュー担当編集より)
===
でした!

「種」の投稿はこちらから
https://kadobun.jp/news/press-release/dz61anf341s0.html


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