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連載

有川ひろ 物語の種、募集します。 vol.5

有川ひろ「ぷっくりおてて」――「物語の種、募集します。」小説その5

有川ひろ 物語の種、募集します。

図書館戦争』『県庁おもてなし課』などで知られる小説家・有川ひろさんによる、読者からの投稿を「種」として小説を書く企画。

投稿内容は、思い出話でも体験談でも、心に留まったキーワードでも写真でも。あなたが物語の種になりそうだと思ったものなら、なんでもOKです。

投稿募集ページはこちら
https://kadobun.jp/news/press-release/dz61anf341s0.html

「種」から今回芽吹いた小説は……


ぷっくりおてて  有川ひろ

               *

 両親の仲は極めて良好、かつ濃厚である。――今に至るも。
 結婚は見合いだったが、お互い一目惚れであったという。上司の顔を立てて一度だけのつもりがまさかこんなに好みのタイプが来るなんて、と父も母も別々の機会にいけしゃあしゃあと息子に惚気のろけるくらいお互いベタ惚れなのであった。
 出会って一年後の八月、初めて二人が出会った記念日に盛大な結婚式を挙げ、息子を授かったのはその八ヶ月後である。
 ハネムーンベビーだったが早産で未熟児で大変だった、という公式発表になっているが、何のことはない若い二人の我慢が利かずに仕込みが早かっただけの話である。
 ところが、早産未熟児若い夫婦の涙涙の子育て奮戦記は非常に熱を持って語られていたので、息子は成人過ぎまでその設定を信じていた。親戚の結婚式で伯母に「あんたまだ知らないの?」と真実を知らされて赤っ恥を掻いたが、責めたとて仕方ないと両親のキャラに諦めがついていたので、設定が崩壊したことは胸に納めている。これが思春期だったらグレにグレていただろう。
 じいちゃんも言ってくれりゃよかったのに、と息子は母方の祖父をちらりと思い出した。

 小学生の頃は、毎年の夏休みにこの祖父の家に預けられていた。期間は夏休みが始まって最初の日曜日から夏休みが終わる最後の日曜日まで。まあまあ気合いの入ったホームステイである。
「この子ったらおじいちゃんっ子で、おじいちゃんの家にお泊まりしたいって聞かなくって~」
 初めて祖父の家に連れて行かれたときの母の言い分である。それまで東京からまあまあ離れた鳥取の祖父の家、つまり母の実家には一度も行ったことがなかった。祖父はときどき東京に遊びに来ていたが、長逗留はしなかったし、孫息子にとってはそれほど馴染みがなかった。どちらかといえば千葉在住の父方の祖父母のほうが身近だった。
 ガバガバな設定に孫息子も困惑したが、祖父も困惑しているようだった。そうだったっけ? とお互い目で窺い、しかし二人とも何でやねんと突っ込める文化圏には暮らしていなかった。
 どうやらそういうことになったらしい、とお互いアイコンタクトでガバガバ設定を受け入れた。
「また頃合いで迎えに来るからよろしくね、お父さん!」
「すみませんお義父さん、よろしくお願いしま~す!」
 そう言い残して去った両親の頃合いが夏休みの終わる最後の日曜日だったという次第。後には今ひとつ打ち解けが足りない孫と祖父が残された。何だかよく分からないが、
「よろしくおねがいします、おじいちゃん」
 そう言うと、祖父はぎこちなく笑った。
「うちはばあさんがおらんから行き届かんけど、すまんな」
 祖母は母が小さい頃に亡くなっていた。
 ぽつぽつ聞いた話や長じて知った話を総合すると、田舎育ちの反動か、母は子供の頃から都会への憧れが非常に強かったらしい。進学は絶対東京と心に決めて名門女子大にストレートで合格、上京時の宣言は「お父さん、わたし東京で絶対に幸せになるから!」だったという。
 すでに地元で所帯を持っていた兄や姉の援助もあり、進学の障害はほとんどなかった。高校で付き合っていた彼氏も「いい思い出をありがとう」とそつなく別れた手練てだれである。
 帰省は当然のようにおろそかになったが、祖父はそれを咎めるような性格でもなかった。伯父伯母も年の離れた末っ子より自分の家庭でてんてこまいの時期だった。
 自由の申し子と化した母は東京で夢の大学生活、勤めてわずかで理想的な結婚と人生とんとん拍子だったが、たった一つ物足りない点があった。
 子供を早く授かりすぎて、夫婦二人きりのラブラブ新婚生活が短く終わってしまったことだ。
 三年後に授かっていたら理想的だった、とぬかしたのは公式設定が密かに崩壊した後で、息子としては仕込みを失敗したのはそっちの責任だと仏頂面になるしかない。設定が崩壊していないつもりの両親は「お前は体が弱くて大変だった」などと苦労話を始め、苦虫を噛みつぶすというのはこういうことかと生まれて初めての実感を得た。
 思うに、母はバラ色の人生を夢見る子供だったのだろう。それは母と結ばれた父も。そして、子供であることが許される環境のまま今も生きている。それで未だに挫折していないのだから、ある意味恵まれた人生だ。恵まれた人生の影にはガバガバ設定を針で突かない出来た大人が何人も潜んでいる。
 祖父もその一人であろう。
 ラブラブ新婚生活が足りなかった両親は、息子がお泊まり保育を難なくクリアした頃から息子のホームステイを狙っていたらしい。だが、夫の実家に預けっぱなしというのは妻としてさすがにはばかられ、田舎で自然と親しませるという美しい名目で妻の実家に白羽の矢が立った次第。
 息子を実家ホームステイに送り込んだ後は旅行に行ったりイチャイチャしたりエンドレス。
 初めて祖父と孫が二人きり、間が持たなかったであろう祖父は共通の話題を求めてアルバムを持ち出した。
「この辺からお前の写真が出てくるはずだが……」
 言いつつ祖父がめくったページには、見慣れた両親の写真がちらほら登場しはじめた。
「ほら、これだ」
 恐らく産院の写真だった。入院着を着た母の腕に丸々肥えた白い産着の赤ん坊が抱かれている。父も隣に寄り添ってピースサイン。
 写真の下に手書きの白いメモが貼り込まれている。――三八〇〇g。健康優良児。
「この数字は?」
「お前が生まれたときの体重だよ」
「三八〇〇gって何キロ?」
「三・八kgだな」
 孫はそのとき小学一年生としては大柄で、背はクラスで一番、体重も三〇kg近くあった。
「やっぱりおれ、小さかったんだね」
 そのときの孫にとって、それは頼りない軽い数字に感じられた。
「おれ、早産で未熟児だったんでしょ? お母さんが言ってた」
 祖父はうう、と唸った。母が息子に吹き込んだらしいガバガバ設定を勝手に壊していいものかどうか迷ったのだろう。
「体重の後ろはなんて書いてあるの?」
 祖父はまたしばらく唸った。
「健康に大きく育ちますように、と漢字で書いてあるんだ」
 そうか、と素直に納得した。
「だからおれ、こんなに大きくなったんだね」
 お前はいい子だなぁ、と祖父は孫の頭をわしわし撫でた。
 その後、十年以上を経てガバガバ設定は崩壊したが、打ち解けが足りなかった祖父と孫の距離を縮めたという点において設定はいい仕事をした。

 祖父の家は縁側のある昔ながらの佇まいの日本家屋だった。農家なので作業用の中庭と納屋もある。
 東京の自宅はマンションだったし、千葉の祖父母も街中の普通の建売だったので、ひなびた様子のその家は孫にとって新鮮だった。
「この部屋を使うといい」
 祖父が案内してくれた二階の部屋は、母が上京するまで使っていたという。勉強机とベッドが残ったその部屋は、畳の上に生成り色のカーペットを敷き、カーテンは甘いピンクの柄だった。
 自宅のリビングも同じような色合いなので、母の趣味はこの頃から全くぶれていないらしい。
「便所と風呂を直しといてよかった」
 十年ほど前までトイレはぼっとん便所、風呂は薪で焚く五右衛門風呂だったという。
「ぼっとん便所って?」
「和式のくみ取りだったんだ」
 和式までは分かった。学校にもまだ和式のトイレはある。しかしくみ取りが分からない。
「くみ取りって?」
「こう……くみ取る……」
 祖父は何か筒のような物を抱えて動かす仕草をした。
「バキュームカーに来てもらって」
 バキュームカーという単語も聞き慣れない。便槽に大小便を溜めて月一回でバキュームカーにくみ取ってもらうというシステムを、祖父は訥々とつとつと説明した。消臭の薬を入れたりうじを殺す薬を入れたり、手入れも大変だったそうだ。
「お母さんキライそう……」
 甘いピンクのカーテンとは対極の世界観である。
 祖父もくすりと笑った。
「東京の大学に行ってからとんと戻ってこなくなったのは、便所のせいかもしれん。薪の風呂も嫌がってたしなぁ」
 都会志向の母には耐え難い生活様式だったに違いない。
「今は水洗のウおシュレットでガスの風呂だからな。東京と一緒だから安心しろ」
 ウォシュレットの発音が若干たどたどしいのはご愛敬だ。
「トイレはウォシュレットがいいけど、薪のお風呂はちょっと入ってみたかった」
 ファンタジー物のアニメや漫画で主人公たちがよく入っている。
「お前はいい子だなぁ」
 祖父はそう言ってまた孫の頭をわしわし撫でた。
 いい子は両親にも毎日のように言われていたが、両親と祖父では響きが違って聞こえた。
 そりゃそうだ、と思ったのはもっと大人になってから。両親のいい子には色々と大人の都合が乗っかっていた。

 薪の風呂こそなかったが、リアルとなりのトトロのような田舎暮らしは満喫できた。絵日記に書くことは毎日事欠かない。
 何しろ朝がキュウリを採ってくることから始まる。祖父は稲作農家だったが、裏庭に自家用の畑を作っており、青菜やネギ、キュウリやトマトなどよく使う季節の野菜は買わずに賄えるようにしてあった。
 キュウリはつるに生えていて、採り立てはトゲが手に痛いほどピンピン立っていることを初めて知った。母がスーパーで買うキュウリは三本セットでビニールに入っていて、トゲはしなしなでちっとも痛くない。何ならイボだと思っていた。
 母がスーパーで買ってきて冷蔵庫に入れるキュウリでは絵日記にならないが、庭で採ってくるキュウリはそれだけで一日分が埋まる。今日はおじいちゃんの畑でトマトをとりました、ネギをとりました、のバリエーションだけで一週間は軽い。
 祖父はキュウリを斜めに切って薄く塩をしたものを必ず目玉焼きに添えていた。味噌汁と白いごはんに納豆や焼き海苔、自家製のぬか漬けがつくのが定番らしいが、孫に少し気を遣ったのか途中からウィンナーやハムが足されるようになった。
 祖父の料理のレパートリーはシンプルに切る、焼く、煮るが主だったが、近所のおばさんたちがちょいちょい作りすぎた料理のお裾分けをしてくれた。東京から孫が来ているという噂が回り、張り切って洋風のおかずが届けられたりもした。身割れのカニクリームコロッケなどはご愛敬。
 近所の子供たちも東京の子を珍しがって、毎日遊びに誘ってくれるようになった。いとこたちはずっと年上で一緒に遊ぶような感じではなかったので、退屈しなくて済んだ。
 預けられて一週間ほどで大事件が起きた。
 夏休みの宿題だった朝顔の観察日記である。両親は朝顔の鉢を息子に持たすのを忘れていた。息子も観察日記の重圧から解放されて忘れていた。観察ノートは宿題セットの一式として持ってきていたが、観察する物がないのでナチュラルに開かなかった。
 朝顔に双葉が出たことを電話で知らされ、慌てたのは祖父である。翌日早々ホームセンターに朝顔の種を買いに行った。
「どうせもう追い着かないよ」
 孫息子は合法的に宿題がなくなったとむしろほくほくだったが、真面目な祖父は諦めなかった。
「じいちゃんは農家だ、任せろ」
 祖父は買ってきた種を一晩小皿の水で浸水させて、それから土を調えてあった鉢に蒔いた。
 何と翌日には双葉が出た。追い着かなくていいのに追い着いた。
「ほら、追い着いたろう」
 内心ではがっかりだったが、自慢げな祖父に悪いので上辺だけ喜んだ。
 両親が朝顔を持たせるのを忘れたこと、祖父が農家の技で観察を追い着かせたことももちろん絵日記のネタになった。

 毎日事欠かない絵日記のネタに、ある日珍客が訪れた。
 祖父と風呂に入っていたときのことである。
 手拭いで風船を作るというレトロな遊びを教わっていて、ふと目の端を白い影がかすめた。
 見ると磨りガラスの向こうに白いトカゲのようなものがぺたりとくっついていた。
 キャーッと女の子みたいな悲鳴が出た。屈辱だったが反射なので仕方がない。
「何だ何だ」
 祖父も手元を狂わせて手拭い風船をパンクさせ、孫と同じほうを見た。
「何だ、ヤモリか」
「トカゲじゃないの?」
「似てるけどな」
 祖父は腕を伸ばして湯気で曇った鏡に家守と書いた。
「家を守るって書いてヤモリだ。災いから家を守ってくれると言われてる」
 災いから家を守るというワードが刺さった。
「何それ超能力? モンスター?」
 ちょうどモンスターを集めて鍛えるゲームが流行していた。
「モンスターかどうかは知らんが縁起がいい生き物だな。害虫も食べてくれる働き者だし、農家の味方だ。それになかなかかわいらしいしな」
「え~、どこがぁ?」
「手がぷっくりしてて赤ちゃんのお手々みたいだろ。もみじのお手々だ。お前も赤ちゃんの頃はこんなお手々だったぞ」
 言われてヤモリのシルエットをよく見ると、小さな手は人間のように五本の指がついていて、形は確かに極小のもみじだ。
 どれ、と祖父は湯船の中で立ち上がった。窓をひょいと開けて腕を伸ばし、外側に貼りついていたヤモリをお椀にした手でぱふっと押さえる。
 ヒッと悲鳴を上げて湯船の角に身を寄せたが、湯船を飛び出さなかったのは祖父がいたずらに孫を恐がらせるようなことはしないという信頼が既に出来上がっていたからだ。
 祖父が指先にきゅっと掴まえて見せたヤモリは、目がくりっと丸くて漫画じみた顔をしていた。かわいらしいと言えなくもない。
「リザードナーに似てる」
 流行っていたゲームに出てくるキャラクターだ。グラフィックは火を噴くトカゲ。
「あのゲームか。育てると強くなるやつ」
 祖父は孫の文化に寄り添おうとしてか遊びの話をよく聞いてくれていた。
「トカゲのやつは何になるんだっけな、サラ……サラ……」
「サラマンデルだよ」
「それだそれだ」
 いつも聞き流しているのではなく、ちゃんと覚えていたのだなと胸がくすぐったくなった。
「……ちょっと触ってみようかな」
 おっ、と祖父は嬉しそうな声を上げた。
「よし、じいちゃん押さえててやるから」
 人差し指をそろそろ出して、祖父の指が押さえているヤモリの頭をちょんとなでる。ヤモリはちょっと首をすくめてキュッと鳴いた。
「ヤモリも鳴くんだね」
 リザードナーもゲームの中でこんなふうに鳴く。
「ゲームを作った人がよく調べとるんだろうな」
 何だか無闇と嬉しくなった。自分の好きなものを思いがけず誉めてもらえる喜びというものをそのとき初めて味わった。
「ちょっと持ってみようかな」
「お、持つか」
「噛まない?」
「噛んだってこんなちっちゃい口だもの」
 ヤモリの頭は祖父の親指の爪より小さい。犬や猫に甘噛みされるよりも痛くないだろう。
 おっかなびっくり祖父にヤモリを持ち替えさせてもらっていると、ヤモリはくにゃっと身体をくねらせて湯船にぽちゃんと落ちた。
 水面でばちゃばちゃ暴れるヤモリをとっさに両手のお椀で掬った。掬った水ごと洗い場に放すと、素早く床を走って壁を登った。一気に天井近くまで。
「すごい、忍者みたい!」
「ああ、確かに忍者だなぁ」
 祖父も一緒にヤモリの駆け上がった先を眺めた。
「忍者の命を救ってやったなぁ。恩返しに来るかもしれんぞ」
「何くれるかな」
「反物は織れんだろうしなぁ」
 別に何をくれるわけでもなかったが、ヤモリはちょくちょく夜の風呂場に現れるようになった。窓に貼りついていたり、天井や壁に貼りついていたり。ヤモリは身近な生き物になり、孫も気軽に押さえられるようになった。
 いろんな生き物も身近になり、虫取りや水遊びも近所の子供に引けを取らない。
「何だか田舎の子みたいになったわね~」
 迎えに来た母の言である。
「あんまりワイルドになりすぎないでよ」
 そう思うなら田舎に預けっぱなしにしなければいいのだが、それはそれこれはこれの両親だ。夏休みもラブラブな夫婦生活を堪能したらしい。
 両親が持ってきたどこかの温泉地のお土産に祖父は渋い顔をした。
「旅行なら一緒に連れてってやればよかったじゃないか」
 孫をおもんぱかっての言葉だろうが、孫は「やだよ」と即答した。
「温泉つまんない。じいちゃんちのほうが楽しい」
 温泉の魅力はまだまだ分からない年頃だった。
 祖父は嬉しい反面、自由すぎる娘夫婦に苦言を呈したい気持ちもあったようで複雑な顔をしたが、両親は素直にやったぁラッキーの顔だった。

 観察日記の朝顔の鉢は夏休み明けに学校に持っていかなくてはならなかったので、祖父が農家の技で完璧に梱包して送ってきた。学校で配られたプラスチックの鉢でなく、立派な素焼きの鉢を使っていたので、家から学校へ運ぶのを手伝った母が「こんな立派な鉢使わなくていいのに」とブツブツ言った。ずいぶんと重かったらしい。
 祖父仕立ての朝顔は学校でとにかく目立った。素焼きの鉢に竹を細工した支柱が本格的だったし、土に農家の技が利かされていたためか育ちが段違いによかった。
 そして何より、クラスメイトの朝顔はみんな揃いの赤い花が咲いていたのに、孫の朝顔は祖父の種のチョイスで青い絞りが咲いていて、これが格別にかっこよかった。
 浸水で成長を追い着かせたことを書いた観察日記も非常に教師ウケがよく、理科の時間に孫の朝顔を取り上げて説明されるほどだった。
 みんなが祖父を誉めているようで鼻が高かった。
 朝顔は中庭に全員の分を並べて、種を採るまで観察が続けられた。日直が昼休みに水をやる。
 孫が日直のときのことだ。相棒は幼稚園から一緒の女の子で、なかなかかわいらしい子なので男子に人気があり、孫も憎からず思っていた。
 じょうろで水を撒いていたら、孫の朝顔で葉が不自然にわささと揺れた。その葉陰からひょいと顔を覗かせたのは、小さなヤモリである。
「お前……!」
 懐かしい友達に会うような声が出た。祖父の家では毎夜のように現れた。田舎から朝顔の鉢にくっついてやってきたのだろうか、それともこの辺に棲んでいるヤツだろうか。
「どうしたの?」
「ほら、これ」
 日直の女子に押さえたヤモリを差し出したのは、かわいいものを見せてあげたいという純粋な好意だった。――返ってきたのは金切り声。
 じょうろを放り出して泣きながら逃げていく女子を、半ば呆然として見送った。友達と揉めたことはいくらでもあったが、自分の好意をこんなに拒絶されたことは今までなかった。
 手の中でクッとヤモリが身をくねらせた。孫は中庭の大きな木に駆け寄り、粗い木肌にヤモリを放した。ぷっくりお手々を素早く交互に動かし、するするっと登る。もみじの手の小さな忍者はあっというまに梢にまぎれた。
 日直の子が逃げ帰った教室で泣きやまなかったので、女子たちにつるし上げを食った。
 トカゲをけしかけていじめるなんてひどい。トカゲじゃなくてヤモリだが、説明するのもばからしかった。女子たちに要求されるままごめんと謝る。
「トカゲ見たい! 行こうぜ!」
 男子が何人か教室を飛び出した。孫も一緒に引っ張られて出た。トカゲじゃなくてヤモリだよ、とそのときは言ったが、男どもは「どっちでもいいよ」と聞いちゃいない。
 毛嫌いされるよりマシだが、見つかったらもみくちゃにされそうだったので、見つからなくてほっとした。
 教室に戻ると日直の子がぷいとそっぽを向いたが、胸はちっとも痛まなかった。初恋だったか未満だったか。しかし、祖父と愛でた馴染みの生き物を毛嫌いする女子はごめんである。

 小学校の夏休みはずっと祖父の家で過ごした。
 中学からはバレー部に入ったので部活の夏休みに入ったら。数日くらい一人で留守を預かれるようになっていたので、両親にとってのホームステイの旨味はそれほどなくなっていたが、孫は祖父の家に遊びに行くことが楽しかったのである。
 高校に入って最初の夏休み、少し痩せたなと思った。孫が東京に帰ってから入院したと聞いた。その秋の連休、両親は一家揃って祖父の見舞いに帰った。年末年始も。良くも悪くも自由すぎる両親の珍しく常識的な行動で否応なく察した。
 梅は咲いたが、桜までは保たなかった。
 葬儀は祖父が会員になっていた葬祭会館で執り行われた。孫は制服の詰め襟で参列した。
 そういえば祖父には学校の制服を着たところを見せたことがなかったな、と思った。学業から解き放たれて向かうホームステイは当然のことながらいつも私服だった。
 火葬場で骨上げを待つ間、親戚の誰かがふと呟いた。
「今日は啓蟄けいちつだったなぁ」
 言葉としては知っていたが意味は知らなかったのでスマホで調べた。冬ごもりしていた虫などいろんな生き物が目を覚まし、土から這い出てくる日だという。
 あいつも起きたかな、と風呂場のヤモリを思い浮かべた。ぷっくりかわいい赤ちゃんのお手々。もみじの手の忍者。
 風呂場にやってきても祖父はもういない。
 蛇口を開けたように目から涙が飛び出した。
 周りの親戚がどうした大丈夫かと気遣ってくれたが、頼むからかまうな放っておけ。
「この子、おじいちゃんっ子だったから」
 母の言葉にますますえつがこみ上げた。
 初めて母がそう言ったとき、それはお得意のガバガバ設定で、祖父と孫とはそうだったっけとアイコンタクトを交わしたものだ。――あれから何年。
 設定は緻密に埋められて、もうすっかり公式だった。

               *

 ガバガバ設定は親戚の結婚式で出生の秘密が明かされたことを最後にあまり破綻しなくなった。それが最大のガバガバ設定だし、両親も新たなる設定を生み出すバイタリティはもうないらしい。
 だから恋人を両親に紹介するときは、息子もすっかり油断していた。
 結婚を前提に付き合っていると紹介すると、母は感極まった様子でのたまった。
「まさかこんな日が来るなんて!」
 大仰な物言いに恋人は当然首を傾げて、目で事情を問いかけた。――何か事情が? しかし、心当たりなど息子にもありはしない。
 母は自ら回答した。
「この子は早産で未熟児で、大人になれないかもしれないって心配してたのに」
 何ということでしょう、ガバガバ設定は生きていた。
「ねえあなた、夢のようね」
 振られた父は一瞬遅れて「そうだな」と頷いた。なりを潜めていた設定なので瞬発力が衰えたのだろう。
「そんなことが。ちっとも知りませんでした」
 恋人の反応は大いに母のお気に召したらしい。
「親の心子知らずよねぇ」
 新規客を掴まえて母の舌はよく回ったし、父も調子を取り戻した。息子のみいたたまれない。
 まあいい後で説明しよう、と聞き流し、涙涙の子育て奮戦記がようやく閉幕。しかし、祈りが天に通じて丈夫に育った息子の幼少期列伝が開幕した。
「自立心が強くって、夏休みは毎年鳥取のおじいちゃんの家に一人でホームステイに行ってたの。おかげで私たちも羽を伸ばさせてもらって」
 脚色が強すぎる。しかしこれも後でまとめて説明すればいいかと口を挟まずにいたら、
「おじいちゃんっ子だったから安心して預けられたのよね」
 否定しにくい虚々実々をぶち込まれた。
「ところで二人の馴れ初めは」
 父が珍しくいい仕事をした、話が逸れた。
「大学のゼミの卒業旅行なんです」
 今にして思えば、当時は気兼ねなく旅行ができた。当節はグループ旅行だと気をつけることが少々多いが、注意深く経済を回す努力が社会で続けられている。
「ヤモリが縁結びの神様で」
 旅館の食堂で夕飯を食べているときにヤモリが出たのである。窓の外側にぺたりと貼りついていたのをざとい女子が見つけてキャーキャー大騒ぎになった。
 何これトカゲ!?
 やだ気持ち悪い!
 そんな中、当時はゼミの同期でしかなかった恋人は悲鳴を上げていなかった。
 でもけっこうかわいくない?
 どこがよ!
 手とかぷっくりしてて。こんなに小さいのにちゃんと指が五本あって、赤ちゃんの手みたい。
 勝手に心の距離が縮まった。ゼミの同期から気になる異性に。
 ヤモリだよ。トカゲじゃない。
 気づくと口を挟んでいた。
 ヤモリはするするっと窓を登って消えた。その卒業旅行中にデートに誘った。
 いいけどどうして?
 訊かれて答えた。
 俺もヤモリはかわいいと思うんだ。
 今考えると答えになっていないが、結果オーライである。
「それは答えになってないわよねぇ。ちょっと意味が分からないわぁ~」
 母は深掘りする気満々だ。食い下がられて渋々答えた。
「じいちゃんもヤモリの手がかわいいって言ってたから親近感が……」
「あんたは本当におじいちゃんっ子ねぇ」
 自分の首を自分で絞めた。虚々実々はますます否定しにくい。
 だが、この自由すぎる両親でなかったら、毎夏の祖父との日々はなかったかもしれない。恋人とも結ばれなかったかもしれない。
 不本意ながら、ガバガバ設定は息子の人生の根幹に関わっているのであった。

fin.



今回の物語の「種」は……
===
毎夜訪れるぷっくりおてての可愛いやつ


投稿者は、ロックイ さん(女・37歳)
===
でした!

「種」の投稿はこちらから
https://kadobun.jp/news/press-release/dz61anf341s0.html


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