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連載

吉川英梨「新宿特別区警察署 Lの捜査官」 vol.22

【連載小説】捜査員の夫とともに、令状を持って訪れたLGBT支援団体。ついに、犯人の素性が分かった。 吉川英梨「新宿特別区警察署 Lの捜査官」#5-4

吉川英梨「新宿特別区警察署 Lの捜査官」

※本記事は連載小説です。
>>前話を読む

 顔写真はなかった。
 氏名、佐藤サチエ。
 現住所、神奈川県大和市しもがめ二九五一の一〇。
 生年月日 平成十一年十月七日。
 以下は、性的マイノリティ支援団体らしい記入欄だった。
 戸籍上の氏名、佐藤ふみなり
 戸籍上の性別、男。
 性自認、女。
 性的指向、異性愛。
「顔写真はありますか」
 敦が尋ねた。優子は首を横に振る。
「優子さんは顔をご存知なんですね」
「ええ。私も正美も知っています。二人で面談をしていますから」
 敦は、一般公開されている犯人の画像を見せた。犯行直前の防犯カメラ映像を切り取ったものだ。
「この顔は事件発生から三日後には公表していますが──ぴんと来なかったですか」
 優子は嘆くようにこたえる。
「坊主頭じゃ、わかりません。私や正美が知っているサチエさんは、きれいなロングヘアでした。端整な顔立ちをされてましたから、これといった特徴がないんです。黒いロングヘアが唯一の特徴でしたから」
「左眉の上に、幼少期についた傷がありました。その特徴についてはどうでしょう」
「サチエさんは前髪を下ろしていましたから、見覚えはありません。虐待まがいのしつけを受けていたとは、聞いたことがあります」
 初めて面談に来たのは二年前の四月だった、と優子が記録をめくる。
「おばあさんと一緒にいらっしゃってました。おばあさんも会員になっていただいているので、申込書もあります」
 もう一枚、示される。
 氏名、くろさち
 現住所はサチエと同じ、神奈川県大和市の同じ地区だ。番地は違った。
「祖母の方は近所に住んでいるんですね。母親は?」
「その母親が問題だったこともあり、こちらに相談に来ていたんです」
 琴音は思わず、首筋や肩に手をやった。そこに、幼少期に母親に無理強いされてぶら下がっていた三つ編みはない。
「サチエさんはインターセックスとして生まれました。戸籍上の登録は遺漏とされ、医師の助言をもとに両親が性別を決めるというものだったようです」
 DNAは女性、卵巣や子宮もあるが機能するかどうかはわからない──。
「結局、両親は男として登録してしまったのですね」
「ええ。ペニスがありましたからね。事実、妊娠五か月の時の胎児エコー画像でもしっかり見えていたとか。両親はとても喜んだらしいですから……」
 妊娠後半の五か月間も男児と疑わず、生まれてくるのを待ち焦がれていたらしい。
「誕生後、ペニスがついているのに女かもしれないなんて医者から言われても、ご両親はピンと来なかったでしょうし、周囲からも男児を期待されていたそうで。両親が受け入れられなかった気持ちはわからなくもありません」
 赤ん坊の顔には男女差がない。胸も同じだ。性自認の意思表示もしない。赤ん坊の性別決定において、あまりに男性器はシンボリックなのだ。優子が説明する。
「サチエさんの場合は陰茎に尿道が通っていませんでしたので、第二次性徴で女性としての特徴が出てくるのは必然だと医師は両親に忠告したようです。しかし、両親の強い希望でペニスの形成手術は決行され、戸籍上も男として登録したようです」
 だが面談で、サチエは力強く訴えたという。
「私はどう考えても女だった、と──」
 車のおもちゃより人形で遊びたい。青いズボンよりピンクのスカートを穿きたい──。
 三歳ごろから女の子らしい選択をするようになっていたサチエを、両親は厳しく叱りつけ、『男』にきようせいしようとしていた。敦が首を傾げる。
「なぜそこまで男にこだわったんでしょう。早くから性自認が女性と判明した上、そもそもインターセックスですから、医師の助言をもとに戸籍を変更できたと思うのですが」
 敦の問いに、優子は困り顔だ。
「家庭の事情が、深く絡んでいたようです」
 サチエの実家は裕福で由緒ある家庭だったらしい。
「第一子の男児が家督を継ぐというのが生まれる前から決まっているような家庭だと」
 敦が眉をひそめる。
「昭和じゃあるまいし──いまどき家督のために、インターセックスの性別を家族が強引に決めるなんて」
「もう三百年以上続く、かなりの老舗しにせらしいです。我々も詳しくは聞かされなかったのですが、おばあさんが屋号を口走っていました。誰もが知っている老舗だと」
 敦がますます首を傾げている。
「具体的にどんなお店ですか。和菓子屋とかでしょうか」
 優子は書類を見せた。屋号が記されている。
「我々が尋ねようとしたところで、サチエさんが慌てておばあさんを口止めしていました。あまり出自を知られたくなかったようです」
 サチエは男として厳しくしつけられ、幼少にして客前に出なくてはならないこともあったようだ。
「父親は跡継ぎの男児として、サチエさんを厳しく育てたそうです。もう、殴る蹴るは日常茶飯事だったとか……」
 優子はため息をつく。悲しそうだった。
「けれど、女の子だったんです、サチエさんは。殴られようが怒鳴られようが、女の子が男の子に変われるはずがない」
 親類の中でサチエの唯一の味方は、母方の祖母の黒木幸子だけだった。
「会うたびに女の子になりたいと泣きつく幼いサチエさんに、ワンピースを縫ってやったり、口紅を塗ってあげたりしていたみたいです」
 あの口紅は、祖母と孫を結ぶ象徴的な品物でもあったようだ。
「中学生になっても声変わりせず、声は女性らしく高くなる一方で、乳房も膨らんできた。父親はそんなサチエさんを毛嫌いして、母親のことも相当罵ったようです」
 優子はその罵倒を口には出さず、面談記録に記された文字を指さすにとどめた。
〈こんな出来損ないを産みやがって!〉
 サチエが十三歳の時、両親は離婚した。父親は親権を放棄し、面会交流も望まなかった。慰謝料と養育費は現金を一括で母子に支払ったということだ。
「サチエさんのお母さんは、大和市の実家のすぐ近くに立派な一軒家を建て、そこで暮らすようになりました」
 優子が一度言葉を切った。ここでサチエの人生が〝平和に暮らしましたとさ〟で終わらないのは確かだ。
「嫁ぎ先の伝統や慣習から逃れられたはずなのに、お母さんはサチエさんを相変わらず『佐藤文成』として、男扱いしたようです。女性として生きるのを決して許さなかった」
 敦が目を細める。
「なぜです。子供の性自認を無視した戸籍に、どうして拘泥する必要があったんです」
 優子が苦々しい顔つきで、説明する。
「聞くところによると、父親は離婚後一か月で、再婚したそうです。すでに男のお子さんがいたそうで、その子が家督を継ぐことになったとか」
 琴音は身を乗り出した。夫が嫌な顔をするのも構わず、聞いてしまう。
「その子供──連れ子、ですか」
「顔が父親とそっくりだった、とおばあさんがあきれていました。新しい奥さんはもともと、おめかけさんだったんでしょう。戦国時代風に言えば、正室が世継ぎを産まなかったから追い出して、側室を正室にしてその息子を跡継ぎに迎えた、みたいなところでしょうか」
 敦が椅子の背もたれに身を任せる。
「そんなことを罪悪感なしでやっちゃう由緒ある家? イマドキあるのかなぁ」
 優子は敦を無視し、琴音に訴える。
「母親は恐らく、妾の子に家督の座を奪われたことがよほど悔しかったんでしょう。ことあるごとに妾の子とサチエさんを比べました。サチエさんを、立派な男子に育てることに固執して、周囲が見えなくなっていたようです」
 サチエは女性の恰好を許されなかった。高校への進学も男子高校にさせられたという。
「サチエさんは女性なのに、詰襟の学生服を着なければならず、毎朝のように母親にぎゅうぎゅうにさらしを巻かれていたそうです」
 琴音はぞっとする。耳の下で編まれる三つ編みの音が、聞こえてくるようだ。
「体育の時間はこっそりトイレで着替え、プールの授業を休み続ければ教師に詰問され……。学校に行くのが辛いと訴えたら、病院でホルモン治療を再開させられたそうです」
 男性ホルモンを繰り返し注射されたサチエは、母親の望み通り、ひげが生えたり、声が低くなったりした。サチエは鏡を見るたびに男化していく自分をおぞましく思い、髭を抜いた。眉毛も女性らしい形に整えた。こっそり買ったファンデーションやリップクリームを塗ることもあった。高校時代の同級生の中には、サチエをトランスジェンダーと勘違いし、気遣う者も何人かいたようだ。
「それも、高校二年生の修学旅行で、事件が」
 宿泊したホテルの大浴場で、みなと風呂に入らなくてはならかった。サチエには乳房がある。琴音は聞いているだけなのに、慌ててしまう。
「待ってください。まさか、教師は他の男子たちと風呂に入ることを強要したんですか」
「母親は教師に、インターセックスのことを話していません。教師は知らなかったんでしょう。知識もなかったんだろうと思います。サチエさんは、拒否したらしいですが──」
 配慮されることなく、サチエは入浴時間をずらすことすら許されなかった。
「どうして胸を隠しているんだ、と悪気のない同級生からタオルをはぎ取られて、サチエさんはさらしものです。男子たちもびっくりして、固まってしまったらしいですね」
 琴音は唇を嚙み締めた。サチエの心情は察するにあまりある。生まれたときの疾患が特殊だったというだけで、親が望んだ性別を押しつけられた。家のしがらみから離れてもなお、母親の、後妻と張り合おうとするプライドのためだけに、乳房と陰茎、いんのうを持つ特殊な体を、同級生の男たちに晒される──。
「サチエさんは以降、不登校になり、そのまま高校は中退となりました」
 サチエが通っていた男子高校は神奈川県内でも有数の進学校だったという。
「頭のいい女性でした。おばあさんは、このままでは孫の人生が台無しになると思ったのでしょう」
 祖母がサチエを連れて『新宿なないろ会』を訪れた。
「私たちは、まず母子の関係を引き裂かねばならぬと思いました。サチエさんの母親は典型的な毒母です。子供を使い、自尊心を満たそうとしていたのですから」
 琴音は茶を飲もうとした。空っぽだった。頭が無意識に揺れる。誰かが琴音の髪を、三つ編みにしているような気がする。
「ところが、うまくいきませんでした」
 サチエが結局、母親のところに戻ってしまうのだという。
 敦は、信じられないという顔だ。
「なぜ戻るんです。毒母に散々苦しめられてきたのに──」
「共依存だったのでしょう。自分がそばにいてやらないと母親はダメになる、とサチエさんも思い込んだ。事実、サチエさんが家出をすると、母親は酒浸りになってしまって、何度か急性アルコール中毒で救急搬送されています。それでも私たちは心を鬼にしてサチエさんに言いました」
 母親を捨てろ。母親と縁を切れ。
「もう少し段階を踏めばよかったのかもしれません……。難しいです、母と娘は。なにせ、不幸な記憶だけじゃない。幸せな記憶もたくさんあるんです」
 おいしいご飯を毎日作ってくれたこと。や病気のとき必死に看病してくれたこと。大好きだよと抱きしめられたこと──。
 琴音は、自分と母親の記憶をたどっていた。優子が言う。
「二十年近い年月を共にした母子の分離は、簡単なことではないです。結局サチエさんは〝自分が男になればみな幸せになる〟と考えて、自らホルモン治療を再開したり、髪を短く切ったりと、私たちが相談に乗っている間も、かなり迷走していました」
 迷走ではない。もんだ。
「私たちは児童相談所にも相談をして、サチエさんを保護できないかとも考えました。しかし、サチエさんが首を縦にふりません」
「児相に保護となると、他の子供たちと共同生活をしなくてはなりませんね」
 乳房とペニスを両方持つサチエが、同年代の子供たちと共同生活を送るのは難しい。
「先に陰茎や陰囊の除去手術を勧めたのですが、未成年でしたから、親の同意が必要です」
 母親がサインするはずがない。
「二十歳になるまでの我慢だ、という八方塞がりの状況だったとき、祖母の黒木幸子さんが脳梗塞で急逝されました。サチエさんの逃げ場はなくなりました。いつもはおばあさんがサチエさんをここまで連れてきてくれていたのですが、足が遠のくようになって……」
 最後のカウンセリングは去年の夏だった、と優子が無念そうに振り返る。
「しかし無断キャンセルです。私たちは大和市の実家まで出向いたのですが、母親が出てきて塩をまかれて終わりです。サチエさんのスマホも解約されてしまいました」
 NPOとしてはこれ以上、動けなかった。あとは、サチエが自主的に動くのを待つしかない。
 そしてサチエは、成人の日を迎えた。

『新宿なないろ会』の入る雑居ビルを出た。十五時、二丁目の飲食店が動き出そうとしていた。シャッターを半分開けた店、外看板を出している店主、掃き掃除をしている店子──夜に向けて覚醒しようとする、二丁目の鼓動を感じる。
「あの事務所はどうも息苦しい。須川正美の選挙ポスターのせいだな」
 敦は肩をすくめて、苦笑いした。そうじゃないでしょ、と琴音はつい厳しく反論した。敦が目を丸くする。
「お前、あの話、みにしたのか」
「NPOのスタッフが噓をついていると言いたいの?」
「いや、優子さんはカウンセリングの内容を正直に話したんだろうが、要は、サチエという人物の話が真実なのかってことだよ」
「母親と娘の確執というのはよくある話よ。真実味はあった」
「それは俺もわかる。その前だよ。父親の実家の老舗。いまどきあるか? そんな伝統と慣習に縛られた家」
 敦はおおなほど声を裏返して言う。
「せいぜいあったとしても、江戸か明治、百歩譲って昭和初期だよ。跡継ぎは男児じゃなきゃとか、幼児期から客前に出されて働かされるとか、虐待まがいの厳しい躾をされたとかさ。妾の子の男児が家督を継ぐために本妻とその子が家を追われるってのも──」
 琴音はコピーさせてもらったサチエの申込書を見せた。祖母が口走ったという、父親の実家の屋号が示されている。
たん屋』とあった。
「丹後屋はこれまでの捜査で一度、浮上してきている」
 敦は道端で、慌てふためく。
「噓だろ。俺が子守でいない捜査会議で出た情報か?」
「違うわよ。あなたが相模さがみはらのお城で佐藤むねあきから聞いてきたのよ」
 敦はこめかみを押さえた。やがて目を見開き、叫んだ。
「あのブラジャー野郎か!」
 琴音は「しーっ」と敦を咎めた。
「ここで差別的な発言は控えて」
 敦は興奮を隠さない。
役者だな。そういえば、六花が丹後屋だと言っていた」
おおさかゆきぞう。いまは十七代目よね」
「そうか。歌舞伎役者の子なら、幼少期から舞台に立たされる」
「虐待まがいの厳しい躾も、稽古の一環として許される風潮がある」
「そして家督のために男児優先とか、妾の子がどうとかも、歌舞伎役者なら芸の肥やしだと、大して批判されないもんな」
 それにしても──と敦が額に手をやる。
「妙なところで繫がったな。いや、繫がるのか?」
 噂が本当なら、大坂雪蔵は和服の下にブラジャーを装着している。自分は性的倒錯者のような行動をしておいて、どうしてサチエの性自認を頑なに認めなかったのか。
 琴音は敦と共に、急いでL署に戻った。敦が福井管理官に報告、その横で琴音は家宅捜索令状請求の準備に入った。
 ひな壇が沸いている。
「いよいよホシが上がって来たぞ、神奈川県大和市下亀の佐藤文成……!」
 福井は戸籍通りの名前を言っているだけだ。それでも琴音は、サチエを思い、辛くなった。死んでもなお、男の名前で呼ばれてしまう。それから逃れたくて、自ら顔を切り刻んだはずなのに。
 琴音はパソコンを開き、大坂雪蔵のホームページに入った。現在、五十八歳。本名、佐藤やすゆき。サチエや母親は、離婚後も佐藤姓を名乗っていた。母親は丹後屋に戻れる日を夢見ていたのかもしれない。
 家督を継いだ次男は十五歳になっている。十歳の時に、十六代目大坂りゆうすけを襲名していた。学業の傍ら、日々けいに励み、父親と共に公演をこなしているようだ。親子競演の代名詞でもある『れん』の画像が出てきた。親子で紅白の長い髪を豪快に振り回す、眼目の「毛振り」の場面だ。
 前妻について触れたサイトに辿たどり着く。黒木あかね、昭和四十五年生まれの五十歳。元モデルらしい。二十八歳で結婚、一児をもうけたが、四十二歳の時に離婚。親権は茜が持った、とサイトにも記されている。
 琴音は改めて『黒木茜』を検索してみる。モデルとしての活動期間は五年ほどしかない。専属契約していた雑誌や企業もなかった。えんの妻であることだけが、彼女のアイデンティティだったのだろう。
 琴音は、ある一文に目が行く。
『モデルデビューした当初は和製ビビアン・リーとして売り出され、日本人離れした美しい顔立ちが注目された』
 慌てて書類の山を突き崩し、無差別殺傷事件の唯一の死者であるざわしずの顔写真を掲げた。
 二丁目のビビアン・リーと、和製ビビアン・リー。
 二人は、よく似ていた。

※つづき(#6・最終章)は「カドブンノベル」2020年8月号または今秋発売予定の単行本でお楽しみください。


「カドブンノベル」2020年7月号

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