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連載

吉川英梨「新宿特別区警察署 Lの捜査官」 vol.21

【連載小説】妻で、母で、警察官。世界中に批判されているような気持ちを抱える琴音が、六花からかけられた言葉は。吉川英梨「新宿特別区警察署 Lの捜査官」#5-3

吉川英梨「新宿特別区警察署 Lの捜査官」

※本記事は連載小説です。
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 朝七時に新宿L署へ出勤した。自宅で朝食を作ったが、虎太郎の分だけで精一杯だった。琴音は何も口にしていない。野菜不足にならないよう、炊き込みご飯のおにぎりとみそ汁をロビーのコンビニで買い、デスクで食べた。おにぎりを口に入れた途端、しいたけの香りがぷうんと鼻に抜けていく。
 最悪。
 琴音は味噌汁のカップの蓋の上におにぎりを置いた。割り箸で崩しながら、椎茸を取り除く。
 六花が刑事課に入ってきた。琴音はその顔に驚く。大丈夫、と立ち上がってしまう。
「はあ、おはようです」
「おはよう……」
 六花は顔がむくみでパンパンにれていた。猫のように吊り上がっていた目は出目金みたいだ。
 夜通し、泣き腫らしたのか。
 琴音も泣いたが、顔が腫れるほどではない。六花はアイスクリームを食べ始めた。
「朝ごはん、アイスなの」
「たまにうどんも食べるけど」
「バランスよく食べないと、体壊すよ。野菜ちゃんと取ってる?」
 六花がちらりと、蓋の上の整列した椎茸を見た。相好を崩し、冷やかしてくる。
「わー。椎茸、残してるー」
 自身の子供じみた振る舞いを恥ずかしく思い、琴音は強引に話を逸らした。
「そういえば、千円札って、なに? 昨日うちの夫と話していたでしょ。千円札が効いた、とかなんとか」
 六花が不思議そうに、琴音を眺める。次に、アイスクリームを睨む。語り始めた。
「須川優子、知ってる?」
「新宿なないろ会の副代表で、須川正美の奥さんね」
「元カノなんだ、私の」
 琴音は一拍置いて、なるほど、とだけ答えた。目が腫れているのは、彼女のせいか。
「一目れだったの。近所のファミレスでよく見かけて。いっつも彼氏と一緒だった。それでいつも、ふしあわせな空気、漂わせてるの。彼氏がモラハラ野郎で、いつも怒られたり、注意されたり。あるとき、彼氏が席を立ったのね。途端に優子はほっとした顔してさ。これは絶対、別れた方がいいと思って。彼氏がトイレ行っている隙に、私はぱっと目の前に座って、口説いた」
 琴音は目を丸くした。
「すごい行動力」
「キレられたけど」
「え、なんで?」
「口説いたというか、わからせようとしちゃって。いまあなたがどれだけ不幸なのかって。好きだったからなんだけど、余計なお世話、と思われちゃって」
 琴音は、いつかのシャワールームで散々六花に夫婦生活のことを指摘されたのを、思い出した。
 六花はアイスクリームを舌でつぶすように食べながら、続ける。
「優子は怒り出しちゃったし、彼氏がいつ戻ってくるかわかんなかったから、とにかく連絡先を渡そうと思って。紙ナプキンに書こうとしたけど、捨てられたらイヤでしょ。だから、千円札に電話番号書いたの」
 お金なら、捨てられない。
「で、電話かかってきたの?」
 六花は首を横に振った。
「半年後、二丁目のカフェで偶然、再会したの。優子は千円札、うっかりタクシー代に使っちゃったんだって」
 琴音は、ほほ笑んだ。
「でも再会できたんだね。ドラマみたい。素敵ね」
 頭の中では何度もはんすうしていた。シャワールームでの六花のあれは、忠告や警告ではなく、愛情表現だったのではないか──。
「昔の話だけどね。まだ二十歳だった。卒配中だったかな」
「そんな前から付き合ってたの?」
「十五年付き合って、別れたの。別れたというか、捨てられたというか」
いちなんだね……」
 六花は照れくさそうな顔をした。強引に、琴音の話に持っていく。
「琴さんの初恋は?」
 中学校一年生の時に追っかけていた先輩のことを思い出す。同時に、椎茸の匂いと母親のこともよみがえる。言わなかったが、顔に出たようだ。六花が訊く。
「苦い思い出なの?」
 琴音は首を横に振る。
「椎茸絡みだから、思い出したくない」
 六花は、得意げに指摘した。
「わかった! 椎茸農園の人でしょ?」
 琴音は味噌汁を噴いてしまいそうになった。心から笑う。笑うって、こんなに楽しい気持ちになるものだったのか──そう気がついたら、目尻に涙が浮かんだ。アイラインを潰さないように、小指の爪で涙のしずくを拭う。六花がニコニコしながら、琴音を見ている。並べられた椎茸に視線をうつし、六花がしみじみと言う。
「かわいい」
「え?」
「すっごくかわいい」

 朝九時、捜査員がひとり、またひとりと現場に散っていく。今日の夕方の捜査会議に、幹部たちは期待していた。
 恐らく今日、犯人の住居、もしくは実家の住所が割れる。
 一方、須川正美の証言次第では、犯人の素性そのものが判明する可能性が高かった。
 琴音も気持ちは前のめりだ。事件が解決に至ったときの喜びは何物にも代えられない。これのために琴音は刑事を続けている。世界中が敵だと思っても琴音は刑事をやめられない。
 捜査本部の片隅で、六花がグッチのウエストポーチを肩にかけたのが見えた。敦も出動だ。コートを羽織ったが──出入口を二度見して、叫ぶ。
「虎太郎……!?」
 琴音も振り返り、真っ青になった。今朝「ママ先に行くから気をつけて学校行ってね」と虎太郎に呼びかけて家を出たが──。
 ランドセルを背負った虎太郎が、受付の警察行政職員に付き添われ、立っている。両親を見て、申し訳なさそうに目を伏せる。
「どうしたの虎太郎……! 学校は?」
 琴音は息子の元に走り、その肩に手を置いた。敦も駆け寄る。虎太郎が両親を順ぐりに見た。
「ごめんなさい、ママに言うのを忘れちゃって。今日から、インフルで学級閉鎖なんだ」
 琴音は天を仰いだ。昨日は学校からの連絡帳やプリントに目を通す余裕がなかった。虎太郎も学童でのトラブルを引きずり、学校の連絡事項を伝えるのを忘れていたのだろう。
「学童に行ったら、学級閉鎖の子は入れないからおうちに帰りなさいって言われて。でも、自宅でひとりでいるのは危ないっていっつもパパとママに言われてたから、どうしようかなと……」
 琴音は周囲を気にし、慌てた。
「虎太郎。学級閉鎖中は、元気でも自宅の外に出ちゃいけないの」
 電車に乗ってここまで来るなどもってのほかだ。六花が興味深そうに虎太郎を見ながら、近寄ってきた。
「堂原さん、悪いんだけど、私のデスクに予備のマスクがあるから、持ってきてくれない?」
 六花はウエストポーチを前に回した。
「私のあげるよ」
 六花はポーチのポケットから、個包装されたマスクを取り出し、虎太郎に渡した。黒いマスクだった。虎太郎がびっくり顔になったが、珍しがって、マスクをつける。虎太郎の六花を見る目に、好奇心と興味が湧き上がっていた。この人は面白そうだ、とわくわくしているのだ。
「まさかの学級閉鎖──」
 敦も額に手をやり、天井を仰いだ。病児保育か民間シッターくらいしか預け先がないが、事前予約が必要だ。当日いきなり預かってもらうことはできない。
「おさんは」
 琴音は言った。敦が首を横に振る。
「やめとけ。上のが明後日あさつてから中学受験だよ。とても頼めない」
 今日、誰が虎太郎の面倒を見るのか。
 敦とにらみ合いになる。
「私、昨日家に帰ったよ」
「俺は午後、須川のところだ。今日の聴取は絶対に外せない」
「それは幹部にとっても同じ。ホシの素性が今日割れるかもしれない。幹部が待機していないのはありえないし、そもそも私は昨日、自宅に帰って家事育児してきた」
「それは女なんだから当たり前だろ」
 琴音は目をいた。敦も鼻息を荒くする。
「琴。今日ばかりは無理だ」
「私の幹部としての立場も考えて」
「お前こそ、俺の捜査一課刑事としての立場を考えてくれ。目の前に手柄がある。俺が六花と二人で靴底をすり減らしてもぎとったものだ。それを棒に振れというのか!」
 琴音はぞっとした。六花と二人でもぎとったもの……。
「それじゃ、私との家庭は?」
「はあ?」
「私たち二人でもぎとったもので、守っていかなきゃいけないものなんじゃないの?」
 虎太郎が、泣き出した。
「ごめんなさい」
 琴音ははっと我に返った。
「僕がいるから、パパもママも仕事ができなくて迷惑かけてばかりで、本当に、ごめんなさい──」
 敦は首が外れそうになるほど横に振り、その場にしゃがみこんだ。息子の腰に手を回し、言い聞かせる。
「違う、違う。虎太郎はなんにも、悪くないよ。これは、パパとママが悪いんだ。お前は本当に、泣かなくていいから」
 琴音は慌てて帰宅の準備をした。
「お母さん、いま帰る準備するから。泣かないで」
 無意識だった。母という役割を結局、優先している。捜査幹部失格だった。終わったな、と思う。警察組織幹部という職務と、子育ては、どうがんばっても両立できない。
「琴……」
 敦が顔を引きつらせ、琴音を見ている。琴音は顎を伝うものに気が付いた。涙が勝手に流れていた。泣いているという意識がなかった。周囲も、息を吞んで琴音を見ている。
 琴音は虎太郎の手を引いて捜査本部を出ようとした。六花が間に割り込んでくる。子供みたいに、ぴょんぴょんはねて、「はいはーい!」と手を挙げる。
「私、まだ巡査部長だし昇任も手柄も興味ないし。普段から素行不良だから上司からなにを言われても全然平気だし」
 大きな瞳を愛くるしく動かし、六花は生き生きと言った。
「私が子守する!」

 夫婦というのは、一緒に並んで歩くだけでこんなにも違和感があるものなのだろうか。
 琴音は敦の背中を追いながら、やすくに通り沿いを歩く。
『新宿なないろ会』への聞き込みは敦と琴音で行くことになった。刑事は基本、二人組で捜査する。みなもう各自聞き込みへ出てしまった。琴音しかいなかったのだ。
 敦はほとんど振り返らず、スタスタと先を歩いて行く。その背中にとがめられているように感じた。母親のくせに、部下に子守を押し付けた──。
 スマホがバイブする。画像を受信していた。六花からだ。自宅で一緒に昼食を食べている。焼きそばを作ったようだ。虎太郎はちょっと照れたような顔だった。琴音は敦に画像を見せた。
「──いい子だよな」
 六花のことを言っているようだ。
「ずいぶん仲がいいよね」
 心から羨ましかった。敦は口の端を引きつらせた。
「お前……相手はビアンだぞ。嫉妬すんなよ」
「別に嫉妬なんかしてない」
 琴音が羨ましいのは、六花と仲良くしている敦の方だ。琴音も、もっと六花と話をしたかった。彼女といると単純に楽しかった。もっと六花のことを知りたい、そばにいたいと考え──はっとする。
 私……?
 敦は琴音の批判をやめない。
「今日もボロボロ泣いてたし。あんな程度で泣くか、普通」
 普通じゃなくなってきているのは自覚している。そして夫がそういうとき、妻に寄り添ってくれない、ということもよくわかった。
 信号が青になった。歩き出した敦に、くぎを刺される。
「須川正美が証言する気になったのは、俺や六花がその部下にねじ込んだからだ。これは俺の手柄だからな」
「わかってる」
「そうじゃない。聴取の邪魔をするなと言ってる。横やりを入れるとかさ。六花はいつも半歩下がって俺を立ててくれた」
 横断歩道の真ん中で、琴音はいまにも立ち止まってしまいそうだった。心はとっくに折れているが、折れてもなお、夫は妻の心を修復不能なまでに粉々に踏みつぶしていく。

 お腹の大きな女性が、NPOのオフィスの扉を開けた。須川優子だ。妊婦だというのに、妙な色気がある。垂れ目なのに甘さがない。苦しげな目つきで、なんとなく不幸そうな感じがした。
 優子が、目をきょろきょろさせている。六花を探しているのだ。敦が説明する。
「大変申し訳ありません、堂原は諸事情あって今日は……。失礼ですが、須川優子さんですね」
 優子はあきれたような顔で、言う。
「やっぱり。押し付けられたんですね」
 囁くような、鈴ののような声だった。不思議と引きつけられる。
「押し付けられた、というのは」
「彼女、逃げたんでしょ? 私と会いたくないから」
 優子は琴音と敦を応接スペースに通した。給湯室で茶葉を急須に入れている。
「六花はいつもそう。都合が悪くなると逃げる。組織でどう評価されているのかは知らないですけど、結構ズルいとこあるんですよ、あの子」
 子守を買って出てくれたのは、優子の聴取をしたくなかったからか。琴音は六花の、泣き腫らした顔を思い出す。敦がフォローした。
「自分は男だけに、気持ちはわからなくもないです」
「元恋人が他人の子供をはらんでいる姿なんか、見たくない?」
 敦が苦笑いで流している。
 優子がお盆に茶と茶菓子を載せて、やってきた。デパ地下で売っているような、高級アイスクリームだった。六花のために準備していたのだろう。敦が周囲を見る。
「そういえば、須川正美先生は」
「今日はオリンピック会場の視察です」
「昨日の電話では、十三時に来るようにと厳しく指定されたのですが。ご本人がいまの時間しかあいていないからだと思っていました」
 琴音の指摘に、優子がごもっとも、と頷く。
「十三時は、視察のはじまる時間ですよ。あの人、どうしても自分がいない時間帯にしてほしかったんですよ。あっちもあっちで、六花と顔を合わせたくないんでしょう」
 優子はどこか疲れたように、ため息をついた。大きなお腹で息苦しいのもあるだろうが、新しい命を宿した喜びが、あまり見えない。
「あの──」
 琴音は無意識に、尋ねようとしていた。いま、幸せかと。結婚し、子を産みたい。その理由だけで十五年も愛した人を捨てて、条件に合う相手をつかまえた。幸せになれたのか。
 直前で、飲み込んだ。
「早速ですが。令状です」
 琴音はトートバッグから封筒を出し、書面を示した。ここからは、敦に聴取を譲らなくてはならない。女だから。妻だから。半歩下がる。この仕事が好きで二十年近く〝愛して〟きて、けれど女だから、男に譲らなくてはならない。
 優子が令状に目を通した。テーブルに置いてあった投げ込みファイルを開く。一枚の用紙を示す。
「これは、該当する方の入会申込書です」

▶#5-4へつづく
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