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連載

早見和真「八月の母」 vol.34

【連載小説】あれほど知りたかったはずのエリカの背景を、いまはこんなに拒みたい。早見和真「八月の母」#4-10

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

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 棚の時計の針が進む音だけが聞こえている。部屋がまた冷えてきたが、リモコンに手を伸ばすのもためらわれる緊張感だ。
 どれほどの時間、次の言葉を待っていただろう。二人の間の静寂を打ち払うように、窓の外からカラスの鳴く声が聞こえてくる。
 それが覚悟を決める合図となったように、エリカはようやく目を瞬かせた。
「私はまだ博人さんを信用しきっていないと思います。それくらい男の人をいまもこわいと思っています」
 やはり博人に口を挟ませず、エリカは一息に言い切った。
「お腹の中にあなたとの子どもがいます」
「えっ……」
「そのために今日はまず全部見てもらおうと思いました。もちろん、あなたに私の人生を引き受ける義理はありません。堕ろせというなら堕ろします。私はあなたに従います」
 それが作戦だったとは思わない。そういう打算の働く女じゃない。でも、一方的に何かを決めつけ、すでに決着をつけているかのようなエリカの口ぶりに、何よりも「堕ろす」という単語に、博人は条件反射的にカッとなる。
「いや、ちょっと待ってよ。そんな大切なこと、なんで突然──」
 そこまで口にしたとき、はたと気づく。あの夜の子どもなのだ。そう思った瞬間、うしろめたさが鉛のような塊となって、胃のあたりに沈み込んできた。
 かすかに眉を動かしたものの、「私はあなたに従います」と、エリカは意固地になったように繰り返した。
 いまにもあの冷たい笑みが浮かびそうだった。自分の置かれた立場を一瞬忘れ、博人は感情を露わにする。
「っていうか、自分の人生だろ。人にばっかり判断を委ねてんじゃねぇよ」
「はぁ?」
「思ってることがあるなら堂々と言えって言ってるんだ。勝手に折り合いをつけてないで、わかりやすく諦めてないで、悲劇のヒロインぶってないでさ。私はこうしたい、こう生きたいって思いきり主張すればいいって言ってんだよ」
 自分の首を絞めるかのような言い分だ。自責の念もたしかにあった。それでも、人生の分岐点であることに気づいているくせに、物わかりのいい顔をして選択を相手に委ねようとしているエリカを認めることができず、博人は声を張っていた。
 エリカは唇をみしめ、長い前髪越しに博人を睨んでいた。どこかで見たことのある顔だ。そんなことを思ってすぐ、なんてことはないと考え直した。ついさっき見た美智子とソックリなのだ。
 何かがきっかけとなったように、どうもうな色をはらんだその目から涙がこぼれ落ちた。
「その声をよってたかって暴力で抑えつけてきたんやろ」
「何?」
「叫んだって、誰も私の声なんて聞いてないんよ! 教師にも、友だちにも、信じようとした男にも、もちろんあの母親にだって、誰にも私の声なんて届いてない! 叫んだって無駄やって学んだんや! 願いなんてどうせ叶わんのやけん!」
 エリカの鼻息はこれ以上ないほど荒い。瞳孔がパックリと開かれ、キレイな涙が止めどなくあふれている。
 自分の性癖か、彼女の特性かはわからないが、そう叫ぶエリカは案の定キレイだった。身につけている服など関係ない。博人はエリカにずっと女を感じ、そして欲情していたのだ。おそらくはあの母親の生き方を否定し、本人がそう見られるのを拒むほどに、博人はエリカに女を感じずにはいられなかった。
「好きな男の子どもを欲しがらない女がどこにおる」
 エリカは最後にそう言って、唇を嚙んだまま泣き崩れた。
 タバコの火はとっくに消えている。それに手を伸ばそうとして、博人の口から小さなため息が自然と漏れた。

 この期に及んで恰好つけたつもりはない。売り言葉に買い言葉という感覚に近かった。あんな言葉を吐いたあと、それがどれほど残酷なことかを頭では理解していたが、エリカに子どもを産ませるという選択肢は博人になかった。
 堕胎のタイムリミットは二十二週であるという。すぐに去年のカレンダーを引っ張り出し、それがおおよそ三月の中旬であることがわかった。
 むろん、早い方が身体への負担は少なくて済むのだろう。そんなことを思いながらも、一月に入ってすぐに〈都〉を辞めたエリカは何かが吹っ切れたように潑剌としていて、なかなか切り出すことができなかった。
 ずるずると時間だけが過ぎていった。週に一、二度、会社帰りに団地にも寄った。あまり喉には通らなかったが、ご飯をごちそうになることも少なくなかった。
 そのうち博人が訪ねていくと、娘の麗華が歓迎してくれるようになった。麗央はそれをおもしろくないと思っていたようだが、母と姉の喜ぶ顔を見て彼なりに何かを感じたのだろう。少しずつ博人に心を開いていくのが見て取れた。
 もういっそ家族として生きることもできるのではないかと考えたこともある。エリカは憑きものが落ちたようにさっぱりした顔をしているし、麗華は「お父さんって呼んだらいかん?」などと照れくさそうに袖口をつかんできた。
 麗央さえ「俺、この髪の色イヤなんよ。ばあちゃんに染められるん、おじさんが止めてや」と言ってきた。
 環境さえ与えてやれたら、それこそ本当にこの街を出て、一念発起東京にでも行けばみんな真っ当に生きられるのではないか。これから生まれてくる子どもと五人、明るい家族の未来図を思い描こうとしたこともある。
 しかし、博人がそんなふうに思うたびに、美智子の影がちらついた。
 最初は会社に電話をかけてきた。
「越智さんという女性の方です」と電話を取った同僚に言われてもピンと来ず、受話器から『ああ、博人さん。美智子です。先日はどうも』という媚びを売るような声が聞こえても、すぐには把握できなかった。
 名刺を渡してしまったことが裏目に出た。勤務時間中にもかかわらず、美智子は延々と身の上話をし始めた。五分、十分……と相づちを打つだけの博人に同僚がいぶかしげな視線を向けてきたとき、仕方なく携帯の番号を教えた。
 美智子はそれを律儀に復唱したあと、唐突にこんなことを言い出した。
『それでねぇ、博人さん。すごく言いにくいことなんやけど、月に二万でも三万でもいいけん私に援助してもらうことってできんやろか? ほら、あの子が夜働いて、仕送りっていうんか、毎月あてにしていたお金がなくなってしもてね。私も生活が苦しくて』
 あたかもそれが博人のせいだというような言い草だった。たかられているのは明白で、不安と怒りがない交ぜとなったような憂鬱が胸に芽生えた。
 血の巡りが速くなった。何か言い返してやりたい気持ちもあった。それをかろうじて飲み込み、美智子の要求を受け入れたのは、すぐにでも電話を切りたかったことだけが理由じゃない。
 この家族と早々に縁を切るのがわかっていたからだ。
「わかりました。その件については夜にでも電話します」と話を打ち切ろうとした博人に、美智子はばつが悪そうに『あ、あの、このことはエリカには……』と言ってきた。
 まだそんな羞恥心が残っていることに驚いた。
「ええ、大丈夫ですよ。僕から言うわけがありません」
 そう応じながら、不意に込み上げてきた笑いを博人は懸命にかみ殺した。

 美智子との間に不穏な何かが起きるたびに、博人は美恵にメールを送った。やり取りする内容はさいなことばかりだ。あの大晦日の深夜の電話で美恵は子どもの泣き声について説明しようとしなかったし、それは当然メールでも一緒だった。
 美恵はいまもたくましく生きていた。以前所属していたより輪をかけて大きな会社に転職していて、本人は『生きた英語がしゃべれなすぎてヤバい! 笑』と嘆いているが、充実した毎日を過ごしているのがうかがえた。
 電話で言っていた『ヒロちゃんに期待しているわけじゃない』という言葉も強がりではないのだろう。
 博人が愛媛に帰っているのを明かしたときも、『わぁ、いいな! 生まれ故郷! 私そのうち遊びに行くから、ヒロちゃん絶対それまでそっちにいてね!』と、返信のしにくいメールを送ってくるだけで、落ち込む素振りは見せなかった。
 博人も自分の状況を打ち明けようとはしなかった。エリカのことも、むろん美智子のことも伝えず、ただ美恵から元気をもらっていただけだ。
 エリカの件で最後に背中を押してくれたのも、美恵からのこんなメールだった。
『私は人生に壮大な悔いを残してしまった人間です。だからヒロちゃんは後悔のしない選択をし続けてください。ずっと応援しています』
 直前までのやり取りを無視した、唐突な内容。何気ないやり取りの中で、美恵は博人のピンチを悟ったとでもいうのだろうか。
 以前から急に話題が飛ぶことは多かったが、美恵のあまりのタイミングの良さに博人の背筋は凜と伸びた。

#4-11へつづく
◎第4回〈後編〉全文は「小説 野性時代」第209号 2021年4月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第209号 2021年4月号


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