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連載

早見和真「八月の母」 vol.21

【連載小説】エリカの母は、想像以上に「女」を感じさせる人だった。 早見和真「八月の母」#3-5

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

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 いつの間にかエリカは康司のシャツの裾を摑んでいた。その手がかすかに震えている。その様子をちらりといちべつすると、美智子は肩のショールを羽織り直し、康司に「ほんで? おたく、どちらさん?」と尋ねてきた。
「あ、あの、すみません。僕は──」と口を開こうとしたとき、エリカが「答えなくていい」と小声で言った。
 そんなわけにもいかず、康司は姿勢を正した。
「あ、あの、白石康司です。郡北中学校で越智さんのクラスメイトです」
 自分が間違ったことを言ったとは思わない。しかし、美智子はなぜか不思議そうに康司の目を見つめている。
 あらためて康司の袖を摑むエリカの手に目を落とし、美智子はぷはっと噴き出した。何がおかしいのか、それをきっかけに大声で笑い続ける。数メートルは距離が空いているのに、笑うたびに酒の臭いが鼻に触れる気がした。
「そんなこと聞いとらん。ほやから、お前はこの子の何なんじゃって聞いとんよ」と口にしながら、美智子はこちらに近づいてくる。
「あ、あの、だから郡北中の──」
「男か?」
「え?」
「お前がエリカの新しい男か?」
「やめてや、お母さん」と、エリカが袖から手を離して口を開く。美智子は再び「ぷっ」と声に出した。
「やめんよ。保護者として当然の権利やろうが」
「やめて。そんなんやない」
「ハハッ。まぁ、そりゃそうや。こんなデブ、絶対にお前の好みじゃないわい。あんた意外と面食いやもんな。村上先生みたいなのが好きなんやけん」
「やけん、やめろって言っていいよるやろが! このクソババァ!」
 エリカが突然激昂した。美智子は受け流すように「だからやめんて。私はお前の保護者やって言いよるやろ」と鼻で笑う。
 美智子はあらためて康司を見やった。胸もとが強調されたドレスに、細かく巻かれた長い髪の毛、濃いアイシャドー。エリカよりずっと白い肌に、強烈な女の香り。どうして自分がこんなの母子のいさかいに巻き込まれているのか、よくわからなかった。
「あの、ぼ、僕、帰ります」
「コウちゃん……」というエリカの弱々しい声が聞こえてきた。無視して背中を向けると、美智子の声が追いかけてきた。
「おい、エリカ、これだけはよく覚えとけ。こいつだけは大丈夫やなんて思うな。男なんて絶対に信用するな」
「うるさい! マジでもう黙れや、ババァ!」
「おーい、デブちゃん! それでもお前が万が一この子と一緒になるようなことがあったら、私の面倒もちゃんと見てくれや! 私は甘くないけん! 絶対に逃がさんけんね!」

 悪いことは続いた。なんとか身体の震えを抑え込み、二十三時前に帰宅すると、この世の絶望をすべて抱え込んだかのような顔をして、母が待ち構えていた。
「康ちゃん。あなたいままでどこにいたの?」
 薄暗がりの食卓にラップをかけれたおかずが並んでいる。帰る直前まで𠮟られて当然だと思っていたのに、母の高い声に異様なほど心がささくれ立った。
「ごめん。今日は疲れてるからもう寝るよ」
 お願いだから放っておいてほしい。それがお母さんのためだから。これから起きることをきっと予見していたのだと思う。だから、康司はすぐに部屋に入ろうとした。
 母はその気持ちを微塵も悟ってくれなかった。
「待ちなさい! あなた、お酒なんてのんでないわよね?」
「はぁ? のんでるわけないだろう。酒なんて」
「いいから、こっち向いて! ねぇ、バレてないとでも思ってるんでしょう? お母さん、みんな知ってるんだからね」
「は? 何を?」
 何も聞くべきじゃないと頭ではわかっていたのに、康司は足を止めてしまった。
 振り返った康司の顔を見て母は間違いなく怯んだはずだ。それなのにきっと口を結び、悲しそうな目をして言ってきた。
「あなた、越智さんの娘と遊んでるんでしょ?」
「遊んでない」
「ふざけないで! ねぇ、私をバカにしないでよ。今日だってあなたが塾を休んでるのを聞いてるの! あなた、ホントにどうしちゃったの? お願いだからああいう連中にたぶらかされないで。ああいう人間はまわりの人たちをボロボロにしていくの。お母さん、そんな人をいっぱい見てきた。一番大切な時期なのよ。お願いだからちゃんとして!」
 康司は何も応じなかった。意外と冷静なままだった。エリカを悪く言われても他人事のように思えたし、すんなりと聞き流すことができた。
 それでも言葉を発することはできなかった。わかったよ、という意味を込めてうなずき、今度こそ部屋に戻ろうとした。
「こんなんじゃまた失敗するわ」という声がリビングに漂った。
「何?」
 あらためて振り返った康司を睨む母は、すでにある種の覚悟を決めていた。鼻息が荒い、目が真っ赤に潤んでいる。この人のこんな顔、いったい何度見てきただろう。
「こんなことしてたら、あなたはまた受験に失敗する! 東京に戻ったらいくらでも遊べばいいから! ねぇ、お願いだから……、お願いだからあんな女たちにあなたの人生を台無しにされないで!」
 体内からパチパチと何かがはじけるような音が聞こえた。比喩ではない。はじめてその音を認識したのは中学受験の直前、小六の冬だった。
 以来、自分の中の暴力的な衝動を抑え込めなくなることがたびたび起きた。きっかけはいつも母の不用意な一言だった。康司の将来を煽るように不安視してくるとき、身体の中で炭酸が弾けるような音がした。
 何も叫ばず、口も開かず、涙も流さず。物を投げたり、体当りしたりするだけのいつもよりずっと冷静に、でもいつもより執拗に母を殴りつけた。
 母は腕で懸命に顔と頭をガードしていた。「お願いだから、もうお願いだから──」と、自分こそが被害者だという泣き声がさらに気持ちをざらつかせる。
 倒れた母の上に馬乗りになって、康司は拳を振り下ろし続けた。自分の倍ほども大きい息子から暴力を受け続け、母はそのうちぐったりした。
 それを認識したときも、何かを破壊したくなる衝動は一向に収まっていなかった。康司は自分の部屋に駆け込み、内側からカギをかけ、布団にくるまった。足に絡まるズボンとパンツをイライラしながら脱ぎ捨て、目を固くつぶり、性器をずっと触り続けた。
 何度果てても、欲望が満たされることはなかった。そもそも自分が欲求のために自慰をしているのかもわからない。
 まぶたの裏に、母子の姿が映っていた。美智子は紫色の安っぽいロングドレスを、エリカの方は見たことのない鮮やかなピンクの浴衣を着て、二人とも例の目を向けてきた。
 康司が大嫌いだった、山田絵里香と同じ目だ。こちらの正体を見透かすかのような、蔑むようなあの目で、母子が康司を見下してくる。
 ただ、それを振り払いたかった。いまにも胸に居着いてしまいそうな二人の残像を消し去りたい一心で、康司は自らの下腹部をいつまでもまさぐり続けた。

 翌朝、母に謝罪した。全身に青あざを作り、四十度近い熱にうなされながらも、母は笑って許してくれた。
「私の方こそ言いすぎてごめんね。康ちゃん、あとちょっと。一緒にがんばろう」という言葉が今回ばかりは身に染みた。一人息子のために夫と離れ、嫌いな故郷での生活を選んでくれた人なのだ。涙をこぼした康司の頭を、母は気の済むまで撫でていた。
 ちょうど期末試験が始まったこともあり、学校は休めなかった。気まずかったが、エリカとも翌日に顔を合わせた。
 休み時間に呼び出された図書室で、エリカは「昨日はごめんね。お母さんも酔っ払ってたって反省してた。コウちゃんに謝っておいてほしいって」とあっけらかんとウソを吐いた。
 この期に及んでまだあんな女を守ろうとするのが許せなかった。そのせいで自分たちはこんなに苦しんでいるというのに。「そうなんだ。全然。気にしていないよ」と康司の方もあからさまなウソを吐きながら、エリカと距離を置くことを真剣に考えた。
 運良くすぐに夏休みに入った。終業式が終わると、エリカは康司に休みの予定を質問してきた。康司は何食わぬ素振りで「しばらくは塾の集中授業で会えそうにない」と答えた。
 エリカはげんそうな顔をした。
「それは仕方ないんやけど。花火は行けるんよね?」
「それは、あの……」
「約束したけんね。二人で夏の思い出を作ろうね」
「そうだね。うん」と答えながらも、理由をこじつけて断るつもりだった。しかし、距離を取ろうとすればするほど、どういうわけかエリカは康司に近づこうとしてきた。
 あるときは塾の終わる時間を見越して駅で待たれていた。「最近、コウちゃん冷たくない?」という質問には「そんなことないよ」としか答えようがなかったけれど、なんとか気持ちを悟ってほしいと願っていた。
 でも、エリカはそんな康司の言葉を真に受けた。
「そう? なら、いいんやけど。イヤなところがあったらちゃんと言うてね。直すけん」
 露骨に素っ気ない態度を取っているのに、それに気づいてくれないエリカを不気味にすら感じていた。
 顔を合わせるのが本当に億劫で、再び母に塾への迎えを頼むようになった。すると、エリカはついに康司の自宅に電話をかけてくるようになった。
 それを取ってしまった母の顔を当分忘れられそうにない。「大丈夫だから」と小声で告げ、子機を受け取り、部屋の鍵を閉めたときには康司の覚悟は決まっていた。
『コウちゃん? ごめんね、電話なんかして。あの、明日なんやけど……』という不安そうなエリカの声を聞きながら、カレンダーに目を向けた。八月九日──。当然、忘れていたわけではない。明日が約束の花火の日だ。
「大丈夫。覚えてるよ。僕はどこに行ったらいい?」と尋ねながら、康司はカレンダーを見つめ続けた。来週、十五日はエリカの誕生日だ。でも、自分が祝ってやることはないだろう。二人きりで会うのはこれで最後だ。
 つき合っているわけではないのだから。そんな遠慮が心のどこかにずっとあった。でも、これ以上翻弄されるのはごめんだった。
 母に言われた「人生を台無しにされる」という言葉が頭にこびりついている。僕たちは生きる世界が違うから──。
 たとえ傷つけたとしても、エリカと離れなければならないのを理解していた。

「今日、迎えはいらない。帰りも少し遅くなる」
 エリカから電話のあった翌日だ。朝食時に伝えると、母はいつもの不安そうな目で見つめてきた。
 康司はそれを直視した。
「大丈夫。こんなこともう最後にするから」
「こんなこと?」
「だから勉強はちゃんとする。お母さんの心配するようなことは絶対にない」
 食卓を覆った沈黙と緊張が康司の気持ちを逆立てた。いまは静かにしていてほしい。心から願ったが、母にはいつだって伝わらない。
「お母さん、信じてるからね」
 母らしい大げさな物言いに、いまにもあの音が聞こえてきそうだった。それでもすんでのところで声を荒らげないでいられたのは、いまもこれ見よがしに貼られているメガネのテーピングに気づいたからだ。
 メガネなんてとっとと新調すればいいのに。また壊されると思っているのだろう。それとも何かを感じてほしいとでも思っているのか。
 電車に乗り、塾に着いてからもずっと気が立っていた。時間は瞬く間に過ぎていった。なぜ自分がプレッシャーを感じなければならないのか。一連のことを振り返ってみても、自分に落ち度があったとは思えない。その理不尽さに腹が立って仕方がない。

#3-6へつづく
◎第3回全文は「小説 野性時代」第207号 2021年2月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第207号 2021年2月号


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