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連載

早見和真「八月の母」 vol.18

【連載小説】母から「絶対につき合わないで」と言われていたエリカのことが気になって仕方がなかった  早見和真「八月の母」#3-2

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

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 傷自体の深さは一センチにも充たないものだった。現にその日はすぐに血が止まり、事を荒立てることもなく、理科室にいた女子から渡されたばんそうこうを貼って済ませた。
 でも、心の傷はなかなか消えなかった。そして心が痛いと感じるたびに、下腹部が重くうずくようで不思議だった。
 康司がついに母にイジメの件を伝えたのは、その年の夏休み、新学期の気配が少しだけ漂い始めたお盆が明けた頃だった。
 本当に小さなものではあったけれど、お腹の傷跡を見て母は仰天したようだ。唇をギュッと結び、「偉い。よく言ってくれた」と、涙をこぼしながら康司の頭を執拗に撫でた。
 そこから母が誰にどのような話をして、実際にどう動いたのか、康司はいっさい知らされていない。直後にほとんどはじめて父と二人きりで食事に行って、「気づいてやれなくて申し訳なかった」と謝られた。
 その上で「お父さんは仕事を辞めるわけにいかないから」「休みのたびに会いにいくから」と一方的に告げられ、最後もすでに何かが決定しているというふうに「数年後に必ず戻ってこい。またみんなで楽しく暮らそう」と伝えられた。
 本当にあれよあれよという間だった。「とりあえず小学校の間だけ」という取り決めで、愛媛県伊予市にある母の実家のそばにアパートを借りた。
 そうして転校した伊予市立郡北小学校の同じクラスに、越智エリカがいた。担任の先生に紹介され、山のような好奇心にさらされながら教壇に立ったとき、康司はすぐに一つだけ温度の違う視線に気がついた。
 エリカだけが自分を静かに観察していた。東京の小学校よりずっと幼く見えるクラスメイトの中で、彼女だけが転校生である康司を値踏みしているかのようだった。
 人を試すようなそのまなしに、康司は見覚えがあった。漢字とカタカナという違いはあったけれど、山田絵里香と同じ名前だと知ったときは嫌悪感を抱かずにはいられなかった。母から注意されていた〈ミチコ〉の家の子だと聞いてからは、絶対に近づくまいと心に誓った。
 この頃のエリカはまだ問題児というわけではなく、学校にもきちんと来ていた。でも、康司はエリカがいつか絶対におかしくなるのを知っていた。〈ミチコ〉の店構えを思い出せば、真っ当に生きることの方が難しいに決まっている。
 その予感はすぐに当たった。最初の異変は転校からちょうど一年、五年生の夏休みが明けた頃だ。九月一日の始業式からエリカが一度も学校に来ていないのは学年中のウワサだった。
 しばらくすると、その原因が担任のむらかみかずゆき先生にあるという情報が入ってきた。「先生とエリカが男女の関係だった」というのである。
 誰かがそんなことを言い出したのをきっかけに、みんな好き勝手なことを口にし始めた。二人が海で一緒にいるところを見たことがある、二人は授業中よく見つめ合っていた、下駄箱で手紙をやり取りしていたらしい、先生は〈ミチコ〉の常連だった、店に出入りしているところを親が見ていた……。
 話はどんどん尾ひれがついて、すぐに何が本当かわからなくなった。康司はそういった話に絶対に加わらなかった。みんなに提供できるような情報はなかったし、そもそもそういうことに関心がない。もっと言えば「男女の関係」が何なのかもよくわかっていなかったし、何よりも東京時代の経験から陰口を聞くのも苦手だった。
 田舎と見下していたつもりはないけれど、郡北小での毎日はとても呼吸がしやすかった。東京から来たということで最初からみんな一目置いてくれていたし、当然「デブ」などと呼んでくる者もいない。
 そんな穏やかな日常に不穏な空気が入り混じるのは楽しいことではなく、早くみんな落ち着かないかなとごとのように思っていた。
 すると、その願いが届いたように、一ヶ月もすると誰もエリカのことなど話題にしなくなっていた。もともとそんな人間はいなかったとでもいうような雰囲気だったし、となりのクラスを覗いてもみんな楽しそうにしていた。しかし、街全体がすっかり秋の気配に覆われ始めた十一月の半ば頃、突然エリカが学校にやって来た。
 そのときの学校全体に張りつめた冷たい空気を、康司は忘れられない。何よりもみんなが目を丸くしたのは、エリカの髪の毛が明るく脱色されていたことだった。
 ただでさえ話題の的だった中で、その外見の変貌はインパクトが強すぎた。それまで普通に接していた同級生たちが、途端に腫れ物のようにエリカを扱うようになった。積極的に話しかける者はいなかったし、悪口めいた話もよく聞いた。しかし、それは無視やイジメといったものとは性質が少し違った。むしろエリカの方がみんなを近づかせないために、偽悪的に振る舞っているように見えたのだ。
 知人からエリカが自分の同級生の娘だと聞いたらしく、母も目の色を変えて「絶対にそんな子と遊ばないで」と言ってきた。
 あまりの剣幕に呆気に取られはしたものの、康司は「あり得ないよ。そもそもしゃべったこともない」と笑って手を振った。ただ、村上先生とのことだけは気になった。
 五年生の冬休みを境に、エリカと入れ替わるようにして先生が学校に来なくなったのだ。表向きの理由は体調不良というものだったが、それを信じる子どもはいなかった。
 エリカは学校でますます孤立していった。同情する友人も中にはいたが、康司の目にはどうしてもエリカ自身がそれを望んでいるように見えてならなかった。

 結局、小学生の頃は一度も話したことがなく、それは中学に入ってからも同じだった。三年生になって小四以来はじめて同じクラスになったが、すでに住む世界がまったく違ったし、身構えることすらなかった。
 康司は中学受験の失敗を取り返そうと、勉強に心血を注いでいた。一方のエリカは髪の毛をさらに茶色く染め、気が向いたときくらいしか学校には来ず、たまに高校生らしき男のバイクのうしろにまたがって来たかと思えば、教室では同じように髪を染めた連中としか口を利いていなかった。
 エリカが康司をクラスメイトと認識しているかも怪しかった。もっと言えば、エリカが康司という存在自体を知っているという気さえしない。
 だから連休中に〈ミチコ〉の前で鉢合わせしたとき、彼女が驚いた仕草を見せたことが康司には意外だったし、連休が明けてすぐの頃、いきなり声をかけられたときはどう対応していいかわからなかった。
「あ、不良やん。おはよー!」と、二限目の体育の授業を終え、校庭から教室に戻るとき、その時間に登校してきたエリカが廊下で突然手を振ってきた。
「え、ぼ、僕……?」
 エリカはあきらかに康司に向けて微笑んでいたが、それでも最初は自分に向けられた挨拶とさえ思わなかった。
 エリカのとなりにいたたけだいという学年一の不良が不服そうに首をひねった。
「なんや、エリカ。このデブと仲ええんか?」
「べつに、仲いいってわけやないけど。ねぇねぇ、あんたの名前なんていうん?」
「あ、いや、その……、し、白石だけど……」
「何それ、超ウケる。白石ってことくらい知っとるよ。下の名前は?」
「え? あ、だから……、こ、康司」
「コウジ? じゃあ、今日からコウちゃんって呼ぶけんね。ねぇ、コウちゃん。こないだあんなところで何しよったん?」
 武智が康司に睨みを利かしていた。校庭から一緒に帰っていたはずの友人たちの姿はとっくにない。
 胸がバクバクと音を立てていたし、全身にじっとりと汗をかいている。自分の身にいったい何が起きているのかよく理解できなかった。
「あ、あの夜は、家出してた。お母さんとケンカして」と口にした直後に、素直に事情を明かしたことを後悔した。
 案の定、エリカはお腹を抱えて大笑いした。
「何それ! コウちゃん、マジでウケるんやけど! 東京弁超カッケー!」
 武智の顔がいよいよ不満げに歪む。しかしそのとき、タイミング良く武智の担任が通りかかって、二人に職員室に来るよう告げた。
 去り際、武智が康司の肩を強くつかんだ。そうされてはじめて、康司は武智が自分よりもずっと小さいことに気がついた。
「おい、デブ。今日、学校が終わったらしんかわの公園に来いや」
「し、新川のって……」
「いいから来い。絶対に来いよ」と、最後に念押しするように低い声で言って、そのまま武智はきびすを返した。
 エリカも足取り軽く武智のあとを追う。良くも悪くも、お似合いの二人だと思った。武智とエリカがつき合っているというウワサも、実は兄妹なのだという話も耳にしたことがある。
 廊下の角を曲がるとき、エリカが両手を合わせて「ごめんね」と口だけを動かした。そのときはどうでもいいと思った話が、なぜだか無性に気になった。

 その日、康司ははじめて塾をサボった。
「お母さん、今日、迎えはいいよ」
 松山市内の塾まで行きは電車を使っているが、帰りはいつも母が迎えに来てくれている。
「そうなの? どうして?」と、不思議そうに首をひねった母のメガネのフレームがテープで固定されていた。数日前に突き飛ばしたときに折れてしまったらしい。
「なんか友だちが相談したいことがあるんだって」
「友だち? 女の子?」
「はぁ? 違うに決まってるだろ」
「ホント?」
「だから違うって」
「まぁ、それはべつにいいんだけど。けど、やめてよね。恋愛なんて高校に入ったらいくらでもしたらいいんだから。いまはやるべきことをやってちょうだい」
 エリカの顔が脳裏をかすめる。自分が悪いことをしているわけでもないのに、母を裏切っているような気持ちにさせられる。
「ごめんね、お母さん」
 思わず口をついて出た。母はますますいぶかるように眉根を寄せた。
「何が?」
「いや、だからこないだの……。メガネ壊しちゃったこと」
「ああ、そんなこと」と、母は安堵したようにつぶやき、小さく首を横に振った。
「ううん。お母さんの方こそごめんね。なんかカリカリしちゃってた。康ちゃんががんばってること、お母さんが一番よく知ってるのにね」
 そう素直に謝られたことで、ますます罪悪感が募った。そもそも自分が行きたいと望んでのことではなく、それどころか行ったらひどい目に遭うだけだと頭では理解していたが、無視するわけにもいかなかった。
 母に疑われることを恐れ、自転車を使えなかった。武智に指示された新川まで歩いたら二十分ほどの距離がある。額に汗をかきながら小走りで向かったが、指定されていた時間には遅れてしまった。
 公園の入り口にバイクや車が数台停められていて、中に八人ほどの姿があった。高校生のような私服姿の男も、他の学校の制服を着た女もいる。
 わざわざ塾をサボって来たのに、呼び出した張本人はそのことを忘れていたようだ。「は? なんでデブがこんなとこに──」と言いかけて、武智はようやく昼の件を思い出したらしい。
「ちゃんと来たんか。っていうか、おせぇよ」
 やはり制服姿のエリカがポカンと口を開いた。「誰なん?」という他校の女の質問に、ケラケラと笑いながら「うちの学校の不良のコウジくん。今日仲良くなったんよー。っていうか、ホントに来たんや!」と答えた。
 一気にしらけた空気が広がった。エリカもきっとそれに気づいている。気づいてはいるが、気にする素振りを見せない。
「ねぇ、コウちゃん。さっきの話の続きは?」
「え、何?」
「ほやから、なんで家出なんてしたん? もしかしてお母さんこわい人?」
「おい、エリカ。そんなデブほっとけや。せっかくあきやまさんも来てくれとるんぞ」と、武智が呆れたように言ってくる。
 エリカはやっぱり聞こえていないフリをした。武智のことも、秋山という先輩のことも無視している。
「ちょっと? どうしたん、コウちゃん」と、エリカはまるで呆然としている康司がおかしいという顔をした。
 全身に他の人たちの悪意を受ける。東京にいた頃、毎日のように浴びていた視線だ。一つだけ違うのは、一人でもこの場に味方がいることだ。
 強い悪意と意味不明の好意に板挟みにされて、康司は何も口にすることができなかった。しばらくジッと康司の目を覗き込んでいたエリカが、諦めたように息を漏らす。
「まぁ、いいや。どっか他行こうや」
「え、ど、どっかって……」
「大悟、ちょっと原付借りてく」
「はぁ? 何言うとんじゃ、お前」
「あとでちゃんと家まで届けるけん! ほら、行こや。コウちゃん、はよう」と、エリカに強引に腕を引っ張られる。
「あ、いや、ちょっと」という康司の声は届かない。エリカは学校では見たことがないような楽しげな笑みを浮かべ、軽やかに原付のエンジンを吹かした。
 エリカはヘルメットを康司にかぶせてくれた。彼女自身はノーヘルだ。「じゃあ、行くよ。危ないけん、ちゃんと捕まっとってね」と康司の腕を自分の腰に回させ、勢いよく発車させる。勢いが良すぎて、あやうく砂に後輪をとられかけた。「コウちゃん、重すぎ!」と、エリカはやっぱり大声で笑っていた。
 いくつかの路地を曲がり、海沿いの道に出た。「ああ、気持ちいいねー!」とエリカが身を寄せるようにして尋ねてくるが、康司は景色なんて目に入らない。
 母の顔がちらついて仕方がなかった。こんな場面、絶対に見られるわけにいかない。昨日までしゃべったこともなかった不良の女子とバイクに乗っているなんて。しかも康司自身が何年も前から警戒していて、母から「絶対につき合わないで」と懇願されていた女子なのだ。塾までサボっていったい何をしているのだろう。

#3-3へつづく
◎第3回全文は「小説 野性時代」第207号 2021年2月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第207号 2021年2月号


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