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連載

早見和真「八月の母」 vol.11

【連載小説】いますぐ彼女をここから連れ出してやりたいという衝動的な気持ちが湧いた。 早見和真「八月の母」#2-3

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

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 エリカの母、越智のウワサ話はこれまで散々聞いてきた。エリカに対する中傷めいた話のほとんどが母親の印象によるものだ。
 少なくとも年輩教師たちがエリカをこれほど不安視するのは、母親が美智子であるからなのは間違いない。美智子も同じ郡北小、そして大半の子たちが進学する郡北中の卒業生だと他の先生から聞いている。
 不安が半分、品のない好奇心が気持ちのもう半分を占めていた。少しずつ減っていくエリカの口数に反比例するように、和幸は胸の高鳴りを自覚した。
 商店街の外れに〈ミチコ〉というスナックがあるのは知っていた。小さい頃は鮮やかなピンクの看板にドキドキしたものだが、教師となって久しぶりに戻ってきた街で見るそれはすっかりいろせていた。
〈ミチコ〉は四階建ての集合住宅の一階部分にある。エリカの自宅はその二階だ。寒々しい蛍光灯が明滅し、の巣だらけのうす暗い階段を上っていって、呼吸を整えながら慎重にチャイムを鳴らした。
 前回、うんともすんとも言わなかったドアの向こうから人の気配を感じた。それでも誰も出てこない。
 エリカがおずおずと声を上げる。
「お母さん、先生来たよ。今日、家庭訪問の日よ」
 ガタガタと室内で何かが崩れる音がした。しばらくしてドアを開いたのは、イメージしていたようなケバケバしい雰囲気の女ではなかった。出勤前なのだろう、真っ赤な口紅が目を惹いたものの、それ以外はどこにでもいそうな普通の母親という印象だ。
 しかし、しゃべり方は想像していた通りのものだった。
「ヤダ、もう先生! こないだはホントにすみませんでした。なんか連絡が行き違いになっちゃったみたいで」
 美智子は甲高い笑い声を上げながら、満面に笑みを滲ませた。歓迎してくれている様子は伝わってくるが、和幸はかすかな嫌悪感を抱く。
 ちらりとエリカを見やった美智子の視線が冷ややかだったせいか、口から酒の臭いが漂ったせいだろうか。年齢は三十七歳と聞いているが、パッと見の印象は三十歳になる和幸とそう変わらない。
 荒れ果てた部屋の中につい視線がくぎけになった。前触れもなく、大学時代に読んだ本の一節を思い出した。
『貧乏は人の社会的感情を殺し、人と人との間におけるいっさいの関係を破壊し去る』
 かわかみはじめの『貧乏物語』という本だった。まだ二十歳そこそこで、正義感に満ちあふれていた当時の和幸はひどく腹を立てたのを覚えているが、その本の一節がなぜかこのタイミングで脳裏を過ぎった。
 和幸の視線に気づき、美智子はさらに大きな笑い声を上げる。
「ああ、もうすみませんね。もう少し早く先生が来ることを聞いとったらもっとキレイにしとったんですけど。この子、いつも言ってくるのが遅くて」
 エリカが瞬時に身体を硬直させる。学校でのエリカは命じたことをきちんとする子だ。プリントを出しそびれていたとは思えない。だとすれば、この母親の方がウソを吐いているということになる。
「いえいえ、気にせんでください。もうここで。五分ほどで終わりますから」
 和幸は平静を装ったが、美智子は大げさにかぶりを振った。
「そんなわけにはいきませんよ。先生に訪ねてきてもらって玄関だなんて」
「いえ、本当に。学校でもそういう決まりになっていますから」
「そんなはずはないですよ。何年か前の先生はしっかりと家に入ってきましたけんね。なんて言いましたっけ? 腕にいつもカバーをつけとる先生がいましたよね」と、美智子はなぜか小馬鹿にするような口調で学年主任の特徴を挙げた。
 一瞬、言葉に詰まった和幸の隙を突くように、美智子はつっかけを履いて外に出てきた。
「とりあえず、ここじゃなんですから下に行きましょうか」
「いや、それは……」
「エリカ、先に店に行って電気と暖房をつけといて。それからお湯も沸かしとって。お湯が沸いたらコーヒーもいれとってね」と、エリカに命令した次の瞬間には、美智子は和幸に密着し、強引に腕を絡めてきた。
「ね、先生。下の方が落ち着いて話を聞けますから」
 あつに取られる間もなかった。どこに誰の目があるかわからない狭い街だ。知り合いに見られたら言い訳のできない場面だったが、そんなことにも意識は及ばなかった。ただ酒の臭いにだけ気を取られた。
 気づけば、五月だというのに底冷えのきつい店の中にいた。カウンター六席に、四人がけのソファ席が三つある。想像していたよりもずっと広く、さすがに二階の自宅よりは整頓されているようだったが、それでもわいざつな印象は否めない。
「エリカ、お湯沸いたん? あと暖房の効きが弱い。先生が風邪引いたらどうするん。コーヒーは入ったん? あ、それとも先生はビールの方がいいですかね」
 エリカは返事もせずに粛々と母親の命令に従っている。普段の二人のやり取りが見えてくるようで気が滅入った。
 当たり前のようにカウンターチェアに座らされ、中に入った美智子と向き合った。「あの、お母さん──」と、エリカの扱いについてのど元まで文句が出かかったが、和幸はかろうじて留まった。「あの家族の問題には絶対に首を突っ込まんように」という教頭の忠告が脳裏を過ぎったからだ。
 もちろんビールは断った。湯気の立つコーヒーに口をつけることもなく、他の家庭よりも慎重に学校でのエリカの様子を伝え、他の母親からよりも注意深く家でのエリカの様子を聞き取ろうとした。
 しかし、会話はまったくみ合わない。美智子は普段のエリカの様子にいっさい興味がないようだったし、まるでべつべつに暮らしているかのように家でのエリカのことがわかっていなかった。
 暖房の効きが強く、気づけば背中に汗が滲んでいた。口紅と同じ色のワンピースにカーディガンを羽織った美智子の方は涼しい表情を浮かべている。
 話が一段落したところで、美智子はこれみよがしに息を漏らした。
「でも、子どもなんて結局勝手に育つものやないですか。私だって母親からは何も教わってないですし、学校なんてほとんど行ってなかったですよ。それでもこうしてなんとか生きていけるんです。必要以上にあの子に干渉しようとは思ってません。それにエリカは私が子どもの頃なんかよりよっぽどぜいたくしとりますよ。先生が心配してくださらなくても大丈夫です」
 いまの自分を一〇〇パーセント肯定するかのような美智子の言い分に、和幸の気持ちはますますふさいだ。
 自分の人生を子どもに押しつけることが正しいはずがない。自分はこう生きてきた、だからいま幸せだ。そう思うのは本人の勝手だが、だから子どもも同じように育てればいいというわけではない。
 言いたいことは山のようにあったが、和幸は何も口にしなかった。つけ込まれまいというふうに美智子が一方的にしゃべっていたし、仮に和幸が何かを諭そうとしたところで絶対に伝わらないのはわかっていた。
 結局、当たり障りないことだけを報告し、早々に席を立とうとした。古い扉が激しい音を立てたのは、そのときだ。
 ちょうど柱の死角となり、入り口のあたりは見えなかった。入店してきた相手からも和幸の姿は確認できなかったらしい。
「なんでもう店を開けとるんぞ? お前、家に来いって言うたやろうが」
 美智子に向けられたドスの利いた声が、今度はエリカに注がれる。
「はぁ? なんでエリカがここにおるんぞ?」
「あ、あの、私……」
「店には来るなっていつも言いよるやろが!」
 男は突然声を荒らげ、ずかずかと店内に入ってきて、エリカの頭を思いきり叩いた。思わずカッとなり、和幸はとつに「ちょっと、あなた──」と立ち上がる。
「はぁ?」と、柱の陰から姿を現し、大柄の男がにらみを利かせてきた。真っ先に目を奪われたのは、半そでのTシャツからむき出しになった腕に彫られた入れ墨だ。一部ではヤクザというウワサのある、たけけんすけというならず者だ。
 それ以外の二つの理由から、和幸は武智の存在を知っていた。一つは、エリカと同じ五年生の武智だいの父親であるという事実。
 もう一つは、美智子と武智がかつて不貞の関係を持っていたというウワサからだ。エリカの父親は、一部では武智なのではないかと言われている。
 武智はすごむように和幸のもとに歩み寄ってきた。思わず身構えた和幸の背後から、美智子のあきれた声が聞こえてくる。
「ちょっと、やめてや。この人、エリカの担任よ」
「知るか、そんなん。こいつの方から因縁つけてきたんやろうが」
「ホントにやめてや。たかが家庭訪問でヤキモチ焼かんといてや」
「あぁ? 誰がヤキモチじゃ、この野郎。勘違いしとんやないぞ、このアマが!」
 武智の怒りの矛先が首尾良く美智子に向かった。和幸は心臓の鼓動を感じたまま、ゆっくりと視線を入り口に移した。
 エリカはその場に立ちすくみ、自分が叱られているのをこらえるようにうつむいていた。拳が固く握りしめられている。前髪越しに見える顔が感情を失ったようにこわばっている。
 届くはずのない距離なのに、和幸は無意識のままエリカに腕を伸ばしていた。いますぐここから連れ出してやりたいという衝動的な気持ちが湧いた。ここから連れ出して、世界の広さを説いてやりたいと前触れもなく思った。
 それなのに、和幸は声をかけてやることができなかった。教頭の言葉が過ぎったわけでも、激しくののしり合う美智子と武智にひるんだわけでもない。
 安っぽい照明の下で立ちすくむエリカが妙につやっぽく見え、そう見えてしまった自分自身がひどく汚らわしく思えたからだ。

#2-4へつづく
◎第2回全文は「小説 野性時代」第206号 2021年1月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第206号 2021年1月号


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