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連載

早見和真「八月の母」 vol.26

【連載小説】エリカは博人の誘いにはかたくなに応じなかった。だからこそ、博人はますますエリカに終着した。早見和真「八月の母」#4-2

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

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 古い友人たちにも「地元の水が恋しかった」と笑ってみせたが、東京での生活はハッキリ言って挫折だった。東京で過ごした最後の数年のことを思うと、博人はいまでも叫びたくなる衝動に襲われる。
 生活を投げ出すような形で戻ってきた愛媛は、博人に深く息を吸わせてくれた。三十にもなって髪を明るく染め、小学生の頃とそう変わらない狭いコミュニティの中で生きている地元の友人たちは、そろって博人を歓迎してくれた。
「俺ら、博ちゃんのことが自慢やったんよ。またこうやって遊べるのがうれしいわい」
 ゆうすけという小学校のときの同級生も爛々と瞳を輝かせていた。当時としてはまだめずらしかった私立中に一人だけ進み、エスカレーター式に高校に上がって、大学から東京に出て、十年近く働いた。とくに東京では上手くいかないことばかりだったが、それでも彼らにとってはまぶしく見えるものらしい。
 西山とのみに出かけた数日後にも、祐介と二人で落ち合った。その席でも祐介はこんなことを言っていた。
「博ちゃんはカッコえんよなぁ。好きな仕事をして、高給取りで、好きなように生きとって。ひとがうちに遊びに来るたびに結婚を早まったって嘆いとるよ。昔った三高やって。あんなええ物件はそうおらんって」
 そう笑う祐介を筆頭に、小学校時代の友人の大半がすでに家庭を築いていた。とくに祐介は父親が経営する自動車工場で整備工として働きながら、四人もの子育てをしている。大人数の飲み会には滅多に出てこない。外でのむ金がないのだろうと、友人の一人がいつか小馬鹿にするように言っていた。
「いやいや、立派なものだよ。あんなふうに明るい家庭を築いてさ」
 祐介の行きつけだという安い居酒屋で唐揚げをつまみながら、博人は素直に口にする。
「ちょっと勘弁してや」
「ホントだって。それに、俺だってそんないいもんじゃないぞ。三十を過ぎて恋人もいないなんて、親戚はみんな白い目で見てくるよ。祐介は偉いなってホントに思う」
 もともと子どもは好きだった。母を早くに亡くしたこともきっと影響しているのだろう。博人には大家族に対する憧れというものがずっとある。
 祐介は照れくさそうに鼻先をいた。
「そうなん? そう言うてくれるのはうれしいんやけど。でも、俺には本当に博ちゃんが輝いとるように見えるよ」
「なんだよ、それ」
「ホントやって。俺にも違った生き方があったんやろなって、博ちゃんを見とったらよく思うんよ。これで正しかったんやろかって」
 小学生の頃、祐介は誰もが認める学年のヒーローだった。スポーツも万能で、意外にも勉強もよくできた。
 しかし、祐介の人望の一番の理由は正義感の強さにこそあったと博人は思っている。イジメはおろか、ちょっとした仲間外れも許そうとしない。そういう口うるさい人間特有の生真面目さはなく、祐介を中心にいつも笑いの花が咲いていた。幼い頃、その姿に憧れていたのは間違いなく博人の方だ。その博人を、どういうわけか祐介も認めてくれていた。
 中学でバラバラになってからは会う機会が極端に減り、だから祐介が不良になった、悪い人間とつるんでいるといった話が耳に入ってきたときには、もう二度と交わることはないのだろうと思っていたし、実際に上京し、戻ってくるまでは思い出すこともほとんどなかった。
 それが、いざ地元に戻り、古い仲間たちに出迎えられると、やっぱり一番気が合ったのは祐介だった。
 祐介にだけは帰郷した本当の理由をいつか打ち明けられるという予感があったが、「カッコええよなぁ、博ちゃんは。俺らみんなの憧れや」と、ヒゲ面をくちゃくちゃにほころばせる友人に、伝えようという気持ちは少しずつ失せていった。
「ねぇ、祐介。もう一軒行かない?」
 のみ始めてまだ二時間ほどしか経っていなかったが、博人は笑顔で切り出した。祐介の表情がさっと曇る。
「ああ、ええね……。でも、そうやな、今日はやめとこうわい」
「大丈夫。今日は俺が奢るから。こないだいい店を紹介してもらってさ。でも、ちょっと一人じゃ行きづらい店なんだ」
「何よ、それ。キャバクラ?」
「とは、ちょっと雰囲気が違うんだけど」
 祐介はげんそうに眉をひそめて、最後は諦めたようにうなずいた。「わかった。じゃあ、せめてここは俺に払わせてや」と言うので会計を任せることにして、歩いて二分ほどの〈都〉に場所を移した。
 料金が思っていたほど高くないのは前回の訪問で知っていたし、そのことは前もって祐介にも伝えておいた。
 それでも趣のある店のたたずまいに友人がのまれているのはあきらかだったし、正直、博人も決してキレイとは言えないつなぎを着た祐介を連れてきて良かったのか、自信はなかった。
 店内も前回とは一変して大変なにぎわいを見せていた。博人たちはいよいよ気後れするが、都ママは大歓迎してくれた。
「わぁ、博人くん。ホントに来てくれたん? うれしいわぁ!」
 前回のボックス席は二つとも背広姿のグループ客で埋まっていた。博人たちはカウンターの一番端の席に案内される。
 たまたまか、ママの差し金かはわからないが、カウンター越しについてくれたのはまたしてもエリカだった。
 博人を確認するとエリカも表情を輝かせた。
「わぁ、七森さん。うれしい。ありがとうございます!」
 名前を覚えていてくれたことに博人の緊張も少し解ける。
「なんか今日は忙しそうだね」
「そうですね。でも、いつもこんなもんですよ」
「俺たちは二人でのんでればいいからさ。エリカちゃんは気にせず他のテーブル行ってね」
「あ、さびしい。そんなこと言わないでくださいよ。すぐ準備しますからね」と笑いながら、エリカは西山が入れてくれたボトルを取りに行った。
 ふと見ると、祐介がいたずらっぽく笑っていた。
「なるほど。そういうことなんか」
「そういうことって、なんだよ」
「そやから、お前はあの子に気があるってことやろ? ほやけん会いに来たくて、俺は利用されたというわけや」
 祐介の視線に釣られるようにして、博人もエリカのうしろ姿に目を向けた。すぐに自分の価値観に結びつけ、物事を決めつけたように断定する。それを田舎くさいと言っていいのかはわからないが、地元の友人たちのそういうところに博人はいつもイラッとする。
 ずっと不安そうな表情を見せていたくせに、祐介は途端に前のめりになった。「彼女のことなんて何も知らない」と言った博人のためだとでもいうふうに、あらためて席についたエリカを質問攻めにしていく。
 博人は呆れながら聞いていたが、おかげで知れたことはたくさんあった。エリカがとなりの市に住んでいるということや、むろと同じ二十二歳であること、〈都〉に限らず、水商売を始めてまだ間もないということや、昼も地元で仕事をしているということ、一度も愛媛を離れたことがないということに、恋人はいないということ……。
 すべてが本当かどうかは知らないけれど、エリカは尋ねればなんでも答えた。中でも博人が驚いたのは、エリカというのが本名だということだ。
 そう答えるときだけ、エリカはなぜか不快そうに顔をしかめた。それに気づかず、祐介は感心したように息を漏らす。
「へぇ、カッコええ名前。ご両親イケとんやね」
「そんなことないですよ。普通の親です」
「カタカナの名前なんてええやんか」
「そういう花の名前から採られたみたいですけど、私はあまり好きじゃありません。もっと明るい感じの名前が良かったです。明るいというか、温かいというか」
 そう言って浮かべた笑みは、どこかこちらを突き放すようなものだった。その表情がなんとなく真に迫っているように感じられ、その意味はよくわからなかったが、博人はエリカが適当なことを並べ立てているわけじゃないのだろうとはじめて思った。
 結局、二十三時半の閉店時間まで二人は店に居座った。最後は他のテーブルの接客を終えたホステス二人も席につき、気持ち良さそうに酔っ払った祐介が「終わったらみんなでラーメン食べにいこうや」と、彼女らを誘った。
 応じたのはあとから来た二人だけだった。エリカは「すみません。私は帰ります」とにべもない。
 そのときのエリカの素っ気ない態度も、他の二人が言った「あの子、秘密主義なんよ」という言葉も気になった。
 しかし、博人が何よりも引っかかり、そのうち一人でもエリカを目当てに〈都〉にのみにいくようになった一番の理由は、この日の帰り際に再び嗅いだ例のバニラの匂いだった気がしてならない。

 ボトルさえ入れていれば一人五千円という東京では考えられない料金を、都のママは「出世するまでは学割でええよ」とさらに二千円も引いてくれた。
 それを口実にしたつもりはなかったけれど、ときには会社の接待で、ときには友人たちとの飲み会の流れで、博人は〈都〉を利用した。
 聞けば、〈都〉のホステスたちは全員大学生か昼間の仕事を掛け持ちしているらしく、在籍は全部で十五人、出勤はそのうちの三、四人程度なのだという。だから、店に足を運んだからといっていつもエリカがいるわけではなかったし、いたとしても指名するという制度がないため席につくとも限らなかった。
 それでも、博人が一人で顔を出したときにエリカがいれば、都ママが気を遣ってなるべく彼女をつけてくれた。
 二人きりで向き合うと、エリカは東京のことばかり聞きたがった。ひとたび東京時代のことに触れると質問が止まらなくなる。
「いいですね。楽しそう。私も一度でいいから住んでみたかった」
 過去のことのように口にするエリカを不思議に思ったことがある。
「どうして? まだ二十二歳なんでしょ? いまからでも行けばいいじゃん。お金を貯めて、上京すれば?」
「そんなのムリですよ。現実的じゃありません」
「なんで?」
「べつに東京でやりたいことがあるわけじゃないですし、私にはムリですよ」
 こちらのことはなんでも知りたがるくせに、エリカは自分のことはほとんど口にしようとしなかった。「私は本当につまらない人生だったから」という自嘲する言葉をどう解釈していいかよくわからず、何も言えなくなることもたびたびあった。
 それでもエリカと話していると、どことなく祐介と一緒にいるときのような心の安らぎを感じた。
 出勤日を確認したいからと携帯電話の番号はすぐに交換できた。その日から連絡は毎日のように取り合ったし、博人からの何気ないメールにもエリカからの返信は早かった。
 もちろん店で顔を合わせればいろいろなことを話したし、博人の語る一つ一つに、エリカは「七森さんみたいな生き方に憧れます」と、頰を赤くしていた。気づいたときには他のホステスたちから公認の仲のような扱いを受けるようになっていたし、誰かに面と向かって茶化されてもエリカは否定しようとしなかった。
 それなのに、どういうわけかエリカは博人の誘いにはかたくなに応じなかった。彼女に気がないとは思えない。いや、ホステスと客という間柄だ。気を持たせているだけと考えたことも当然あるが、時給で働いている〈都〉のホステスたちには「営業」という観念がない。
 現に他のホステスたちは「営業なんてしたことない」「そういう色恋の面倒がないけんこの店で働きよる」と、悪びれもせずに笑っている。たしかに〈都〉の居心地の良さは、彼女たちの片手間な感じというか、いい意味でのプロ意識のなさにこそあると博人も思う。
 わざわざエリカが博人にだけ営業をする理由は見つからない。たまに一緒に店に足を運ぶ祐介も「エリカちゃんって絶対にお前に気があるやろ?」などと真顔で言ってくる。都ママにいたっては「あんたら、もうつき合っとん?」と、本気とも冗談ともつかない表情で尋ねてきた。
 その都度、エリカは手を振りながらもうれしそうに顔を綻ばせた。それなのに、店が終わったあとの食事や酒の誘いには絶対に乗ってこなかったし、それならばと提案した日曜日のデートも呆気なく断られた。
「休みの日にはしなければならないことがあって。七森さんの気持ちはうれしいですけど、ごめんなさい。そういう誘いを私は受けることができないんです」
 それでも……、いや、だからこそなのかもしれないが、博人はますますエリカに執着した。店でエリカが他のテーブルの接待に回り、楽しそうに笑う姿を目にして胸を搔きむしりそうになったこともある。
 いつの間にか振り回されているような形になっていて、そのことに対してフラストレーションを感じ始めたあるとき、博人は会社の後輩に告白された。エリカと出会って半年ほど過ぎた、一九九九年の夏のはじめだ。
 エリカとの間に進展は見られそうになく、彼女のことも決して嫌いじゃなかったので、博人は数日悩んだ上で受け入れることを決めた。
 しかし、結果的に後輩にその旨を伝えることはなかった。唐突にエリカとのデートが実現したからだ。
 七月下旬のある日、残業を終えて自宅に戻る車の中で、エリカからメールが来ているのに気がついた。
『七森さん、もうご飯ってたべました?』
 短文なのはいつものことだ。それでもこんな直截的な内容はかつてなく、博人は気が急くのを感じた。
 時計の針は十九時半を指している。ちょうど〈都〉の出勤時間だ。本当はすでに会社でコンビニ弁当を食べていたが、博人は車を路肩に停めて電話をかけた。
『ああ、七森さん。おつかれさまです』と口にしたあと、エリカは出勤日を間違えたこと、店に行ってはじめてそれに気づいたことなどを説明し、躊躇する様子もなく『もしまだだったら一緒にご飯でもどうかなって』と誘ってきた。
 博人は二つ返事でオーケーし、「ちょうどいま車だから」とドライブを提案した。「ほうじようの方に好きな店があるんだ」と警戒されないようにつけ加えると、エリカは『うれしい。久しぶりに夜の海を見たいかも』と声を弾ませた。
 街中の拾いやすい場所を指定して、十分後に落ち合った。私服姿のエリカを見るのははじめてだ。勝手に派手な服装をイメージしていたが、白いTシャツにジーンズ、スニーカーにリュックという素っ気ない恰好に少しだけ拍子抜けする。
 それでも、お団子型にしたヘアスタイルはかわいらしかったし、額の形の美しさにはつい目を奪われた。
 視線に気づいたエリカは恥ずかしそうにおでこを押さえ、「おつかれさまです。ああ、暑い。すっかり夏ですね」と、そのことには触れさせようとしなかった。
 いつもより強いバニラの香りが車内に立ちこめた。かすかな緊張を抱きつつ、胸がポンと跳ね上がる。

#4-3へつづく
◎第4回全文は「小説 野性時代」第208号 2021年3月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第208号 2021年3月号


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