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連載

早見和真「八月の母」 vol.22

【連載小説】エリカの母は、想像以上に「女」を感じさせる人だった。 早見和真「八月の母」#3-6

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

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 エリカから指定されたのは、いつも利用している伊予鉄道ではなく、JRさん線の北伊予駅の改札だった。
 予定より三十分も前に到着したにもかかわらず、エリカはもう改札で待っていた。
「ああ、良かった。コウちゃん、ちゃんと来てくれた」
 エリカの目もとがうれしそうにほころんだ。直前までの苛立ちがすうっと消えていき、康司も思わず安堵する。
 想像していたよりも薄いピンクの浴衣に、真っ赤な帯。このためにセットしたのだろうか。キレイに結われた髪にも帯と同じ色の髪留めが挿されている。
 その浴衣が高いものなのか、そうではないのかは判断できなかった。でも、浴衣姿のエリカは想像していたよりも艶やかで、それなのに品の良さを感じさせた。
 思わずれた康司の視線に気づき、エリカが脇腹を小突いてくる。
「マジで? カワイイの? ねぇねぇ、カワイイ?」
 学校でも有名な不良の女子と花火を見に来て、その女子はかわいらしい浴衣を着ていて、自分に感想を求めている。数ヶ月前の自分からは想像もできなかったことが起きている。いまさらながらそんなことを痛感し、康司はつい笑ってしまった。
 気分が跳ねるのが自分でもわかった。明日から本当に気持ちを切り替える。せめて最後は楽しい思い出を作りたい。「ねぇ、どこで花火見るの? 早く行こうよ」と、不思議そうに首をひねるエリカに康司は満面の笑みを見せつけた。
 エリカは近くに原付を停めていた。当然免許はもっていないし、どこで調達してきたものか聞こうとも思わない。
 バイクは緩やかな丘を登っていった。「もう! コウちゃん、重すぎや! 全然登らん」と、エリカは大はしゃぎしながらハンドルを握る。二人ともノーヘルだ。浴衣に原付という組み合わせはあまりにもアンバランスだったが、そのアンバランスさこそがエリカの本質であるという気がした。
 到着したのは高台の空き地だった。近くに伊予病院があって、眼下に高速道路やしげのぶ川が、その先には松山の街並みまで一望できる。
 西の空はまだ明るいが、ポツポツと街にネオンが灯っている。いつも以上の湿度のせいか、その灯りがにじんで見える。
「すごい。こんな場所があるんだ」
 康司は素直に感嘆の息を漏らした。エリカは必死に髪を直しながら微笑んだ。
「去年、みんなで見つけたんよ。ここ、すごいよね」
 他意もなさそうにエリカの言った「みんな」に引っかかるものは覚えたが、康司は気にしないよう努めた。しかし、悪い予感は的中した。
 花火が始まるまで三十分を切った頃、丘の下から聞き覚えのある激しいエンジン音が聞こえてきた。低音の利いたユーロビートを響かせて、敷地に入ってきた古い車のハイビームが二人を照らす。
 運転席から真っ先に降りてきたのは秋山だった。郡北中の一年先輩で、いまは近くの農業高校に通っているという。初対面のときに武智が自慢げに「秋山さん」と呼んでいた先輩が意地悪そうにエリカを見つめ、わざわざこちらに聞こえるような大声で車内の人間に呼びかけた。
「おいおい、武智! 大変やぞ! お前の女、ゴリゴリ浮気しとるわ!」
 ゲラゲラと笑いながら先に三人の男女が降りてきた。全員、康司も何度か顔を合わせたことのある高校生だ。最後に後部座席から降りてきた武智は一人ふて腐れた顔をしていた。「べつに。女とかじゃないですよ」という一言に、先輩たちはさらに大声で笑い立てる。武智だけが山のような荷物を抱えている。
 エリカが小さなため息を一つ漏らした。秋山はそれを見逃さなかった。
「なんじゃ、エリカ。俺たち邪魔か?」
「べつに」
「せっかくだし一緒にのもうや」
「いいです。私たちもう帰りますから」
「はぁ? 誰が帰すかよ。お前、最近ちょっと本気で調子乗っとるんじゃないやろうな」
 顔は笑っていたが、秋山の声色が変わったのが康司にもわかった。エリカがシャツの裾を摑んでくる。それをきようという秋山の恋人が目ざとく見ていた。
「おいおい、マジかよ、エリカ。本気でそのデブのこと気に入っとか?」
 笑い声が立ち消え、一転、不思議な緊張感が垂れ込める。全員の視線がエリカに注がれた。何も言わせたくなかったし、聞きたくなかった。
「あの、僕たちも一緒にのみます。花火始まっちゃうので準備しましょう」
 秋山たちは大量の酒を買い込んできていた。それどころか、すでにどこかでのんできていたらしい。レジャーシートの上に酒瓶や缶を並べ、あっという間に宴会が始まった。「おい、デブ。のめ」と秋山に言われるまま、康司も酒に口をつけた。
 どうしてもビールがおいしいとは感じないが、どうやら自分はのめない方ではないらしい。康司が缶を開けるたびに、先輩たちから驚きの声が上がった。酔っ払うイメージはなかったし、気持ち悪くなることもなさそうだ。
 そうこうしているうちに一発目の花火が打ち上がった。先輩たちの注目がようやく康司からそちらに移る。エリカは一人だけ酒に口をつけず、秋山にどれだけ命令されてもつまらなそうに水を飲んでいた。逆に武智は誰からも言われていないのに、康司と張り合うようにして急ピッチでビールを空けていった。
 秋山と京子が人目も気にせずイチャイチャし始め、二人の同級生のやまという金髪の男がそれを冷やかす。エリカはあいかわらずつまらなそうに花火を見上げていて、花火が上がるたびにカラフルに染まるその横顔を、武智はちらちらと見つめていた。
 全員の関係性が一目でわかるようだった。康司はただ一人部外者としてこの場に立ち会っているつもりだったが、それを許さない者がいた。
 きっかけは秋山の一言だ。
「おい、大悟ぉ! お前、さっきから何ムクれとるんじゃ。酒まずくなるからそんな顔してんじゃねぇよ」
「べつにムクれてなんてないですよ」
「だったら、なんか楽しい話しろや。空気悪くした罰としてみんなを笑わせろ」
 尊敬する先輩に無理難題を吹っかけられ、さぞかし武智は困惑しているのだろうと思った。しかし、本人は待ってましたというふうにほくそ笑んで、どういうわけか意地悪そうな視線を康司に向けた。
「べつにしてもいいんですけど。もっと空気悪くなりますよ?」
「なんでや?」
「そのデブが怒ると思います」
 武智が言ったとき、花火がクライマックスに向けて次々と打ち上げられた。内臓を突き上げるような音が耳を打ち、空き地が昼間のように照らされる。
 キョトンとした目が見事に康司に集まった。たとえ何を言われたとしても自分が怒る気はしなかった。武智は完全に誤解している。いまここでどれだけ康司を腐したところで、エリカの気持ちは奪えない。気を惹こうとすればするほど、相手の心は冷めていく。康司は身をもってそれを知っている。
 まさに自分とは生きている世界が違う者たちの茶番劇のようだった。べつにかまわないというふうに康司がうなずくと、秋山が「なんだよ?」と武智を促した。
 くくくっと含むような声を上げて、武智は予想外のことを言い放った。
「うちの親父とエリカのオフクロさんが中学の同級生だったって知っとりますよね?」
「は? そんなの知っとるに決まってるやろ。なんだよ、いまさら」と、秋山がみんなを代表するように応じる。
 武智はふんっと鼻を鳴らした。
「実はそのデブの母ちゃんも同級生やったらしいんです」
「ふーん。そんなのべつにめずらしいことじゃないやろ」
「なんかうちの親父にめちゃくちゃ入れ込んでたらしくて、クラスの男子の間でも有名な面倒くさい女だったらしいんすよね。でも、それも知っとると思いますけど、残念ながらうちの親父は美智子さんに入れあげてた。だから──」
「おい、もうやめろや。テメー」と、エリカが久しぶりに声を上げた。それを康司が咄嗟に手で制した。なぜかいまにも笑いがこぼれそうだった。
「うん。それで?」と、はやる気持ちを抑え込んで康司は先を促した。武智が目を見開き、舌を出し、中指を突き立てるという古典的なやり方で挑発してくる。
「お前のオフクロ、親父たちに回されたらしいぜ。帰ったら母ちゃんに聞いてみろや。あなたの初体験はいつですかってな。母ちゃん、泣き出すかもしれんけどな」
 武智はついに腹を抱えて笑い始めた。釣られるように康司も大笑いした。呆気に取られた顔が目の前にいくつも並んでいる。揃いも揃って間抜けな顔だ。夢の中にいるかのようにいまいる場所に現実味が伴わない。
 武智の言っていることはたぶんウソだ。あるいは、父親がウソを吐いている。いくら愛する息子のためとはいえ、そんな苦しい過去のあった街に母が帰ってくるはずない。
 そう思う一方で、母が悲しい思いをしたのはきっと事実なのだろう。武智の父親に入れ込んだのも、その男がエリカの母親に夢中だったのも間違いないのだと思う。
 母がひどく憐れに思え、かわいそうだと感じた。それなのに、笑いがあとから、あとから込み上げてくる。ああ、そうか……。自分は酔っ払ってるんだ……。これが酔っ払ってるということなのか……。
 その気づきは何かの免罪符のようだった。パチパチという例の音が身体のあちこちで鳴っている。
「もうこんなバカの言うこと聞いてられん。コウちゃん、帰ろう」
 そう言って立ち上がったエリカの腕を、康司は思いきり引っ張った。エリカは激しく尻餅をついて、目を真ん丸に見開いたが、まったく気にならなかった。
 康司はゆっくりと立ち上がって、やってやったという顔をしている武智に近づいた。「おい、デブ。やめろ」という秋山の声が虚しく漂う。「デブ」という単語に久しぶりに鮮烈な怒りを覚えたときには、康司の膝が座っている武智の鼻にめり込んでいた。
 武智は数メートル先まで吹っ飛んだ。康司は飛びかかるようにして馬乗りになって、たった一発でもう白目をむいて伸びている武智に容赦なく拳を振り下ろした。
 拳が顔面を捉えるたび、全身を充実感が包み込んだ。感動と言っていいかもしれない。きっと笑っているに違いない。正義は自分の方にある。楽しくて仕方がなかった。花火が打ち上がっていてくれて本当に良かった。細胞の弾ける音を誰にも聞かれずに済んだからだ。
 よってたかってみんなが康司を武智から引きはがそうとしていた。でも、何人がかりで来られようが康司はびくともしなかった。そもそも誰かに止められる筋合いはない。これは自分のための力なのだ。こちらが拳を振り上げなければ、いつか必ず殺される。彫刻刀が今度は心臓に突き刺さる。自衛のための暴力を止める権利は誰にもない。
 そんな康司の衝動を抑え込んだのはエリカだった。目いっぱいの力で振り下ろした拳が、なぜかエリカの背中を打ちつけた。
 耳をつんざくような叫び声を上げ、一度は武智の上に倒れ込んだエリカだったが、すぐに起き上がり康司の両頰に手を当てた。
「お願い! コウちゃん! もうやめて! こいつ死んじゃう!」
「ううん。僕、やめないよ」
「いいからやめろ! 目を覚ませ! コウちゃん、お願いやけん目を覚まして!」
 エリカはなぜか泣いていた。どうしてこの女が泣くのだろうか。そもそも僕をこんなことに巻き込んだのはお前じゃないか。泣きたいのはこっちの方なのに。
 どうせ一発は殴った身だ。だったら二発も、三発も変わらない。そう信じ込み、エリカ目がけて再び腕を振り下ろそうとしたそのとき、この日一番大きな花火が夜の空を彩った。
 その瞬間、空き地の地面に二人の影が映し出された。獣のような大男が、まだ子どものような女の子に襲いかかろうとしている。エリカの背後の武智は壊れたように身体をけいれんさせ、口から泡を吹いている。
 その武智をエリカが身体を張って守ろうとしているのを知って、ふわふわと腰から力が抜けていった。

#3-7へつづく
◎第3回全文は「小説 野性時代」第207号 2021年2月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第207号 2021年2月号


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