menu
menu

連載

早見和真「八月の母」 vol.32

【連載小説】エリカは何もわかっていない。なぜうれしそうにできるのか、その神経を疑いたくなる。 早見和真「八月の母」#4-12

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

    ※

 目に映るすべてのものがかげろうで揺れていた八月。
 母に「犯罪者」のらくいんが押されたあの日。
 私がそれまで立っていた地面は音も立てずに崩れ落ちた。それまで絶対と信じていたすべてのものがあやふやな存在だったと思い知って、私は呆気なく生きるみちしるべを失った。
 でも、そこからが本当の人生の始まりだった。家族というシステムから解放され、ほんのわずかに自分の世界が広がっただけで、見える景色はまったく違った。
 あの街を一日も早く出ていきたいという思いがますます募った。自分を知る者のいない街で生きていくという希望がさらに切実に胸に迫った。
 暗闇の中に、ほのかな光が差した。私の人生が始まった瞬間だ。
「本当に元気そうだね。立派になった」
 天井の小窓から真夏の太陽が差している。冷房のよく利いた店内で、テーブル越しに向き合った上原浩介は、湯気の立つコーヒーを飲んでいる。
 日曜日の昼間だというのに、かしら公園のそばにある古い喫茶店は、不思議なほど他の客がいなかった。
 まるで私たちの再会を演出するかのような静けさだ。一瞬、上原がそう仕込んだのではないかと勘ぐったほどだった。
「上原さんのおかげです」
 私はアイスティーでのどを潤し、小さく言った。お世辞を口にしたつもりはない。もし上原の言うように、いまの私が本当に「立派になった」のだとすれば、その理由は上原以外にあり得ない。
 本人にもずっと伝えてきたことだ。振り返れば、上原も顔を合わせるたびに同じことを言っている。元気そうだね、立派になった、変わりはないか、困ったことがあったらなんでも連絡してきなさい……。
 そういった一つ一つの言葉に救われていた時期がたしかにあった。上原だけが私の心の拠り所だったし、理解者であり、親代わりでもあった。あの蒸し暑い夏に足場が崩れ、突き落とされた真っ暗闇の中で、かすかな光を放つたった一本のロープが上原だった。
 私は無我夢中でそのロープにしがみついた。もしそれがちぎれでもしていたら、あるいは途中で振り落とされていたら、ロープのフリをした違う何かであったりしていたら、私は間違いなくここにいない。
 上原はあらゆる保証人になってくれたし、働き口を紹介してくれた。歯科衛生士という仕事の存在を教えてくれたのも上原だったし、学校を見つけてきてくれた。何より私を愛媛から逃がそうとしてくれた。生きる道を示してくれた。いつでも手を差し伸べてくれた。あの母親から引き離そうとしてくれた。
 何も見返りを求めない大人など、ましてや男なんているわけがないと思っていた。もし上原に何かを求められる日が来たのなら、自分が逃げ延びるすべとして、私はなんでも差し出してやるつもりだった。
 でも、いつまで経っても上原は何も要求してこなかった。いや、一つだけ強く求められたことがある。それは、私が人生を懸けて幸せになるということだ。
 上原だけが支えだった。
 ずっとそばにいてくれるものと信じていた。
 けれど、それは私が愛媛に住んでいた頃までだった。この身体をずっと支えてくれていた屈強なロープを手放したのは、私の方からだ。ついに辿り着いた東京という街全体に、うっすらと光が差していたからだ。
 光の差す場所でロープは不要だった。何よりも私は自分の過去を知るすべての人間を拒んでいた。上原を除くというエクスキューズは、生まれてはじめて東京の地を踏んだその日にシャボン玉のように弾け飛んだ。
 ひどく恩知らずで、恥ずべきことだという自覚はあったが、いまから八年前、十八歳で上京した日、私は上原からも逃げたくなった。
 その頃、上原は折を見ては上京し、私の様子を見に来てくれた。その都度、私は安心するフリをしていたが、本音ではもう放っておいてほしかった。
 上原の優しさが東京に出てきてからは束縛にしか感じられなかった。大丈夫か、困ったことはないか、お金は足りているのか、つらかったら帰ってこい……。まるで本物の父親のように繰り出されるその一言一言が、ひどく煩わしかった。
 親離れするときが来たのだと思う。私が勇気を振り絞って伝えたのは、就職を間近に控えた二十歳の頃だ。かねて念願だった歯科衛生士の仕事が決まり、東京での生活がいよいよ軌道に乗ろうとしていた時期。落ち合ったしん宿じゆく三丁目の喫茶店で、私はほとんど上原の目を見ることもできなかった。
 上原はか細い息をこぼした。そして「いつかこんな日が来ればいいと思っとった」と、優しくつぶやいた。
 その日、私たちはたくさんの話をした。すべてを覚えている。つらかった過去の話も、提示された未来の話も、一言一句忘れていない。
 むろん、最後の言葉も鮮烈に胸に焼きついている。上原は私の肩にそっと手を置き、すり込むようにこう言った。
「絶対に幸せになること。君がいまそれを約束するなら、僕はもう君の前には姿を見せない。それが僕の約束だ」
 私は強くうなずいた。涙を堪えて約束した。上原は何かをたしかめるように私の目を見つめ続け、最後は観念したように肩から手を離した。
「わかった、約束だ。絶対に幸せになるんだよ」
 そう口にした上原の方が大粒の涙をこぼしていた。

 あの日からもう六年だ。その間に私はけんと結婚して、新居を構え、かずを授かり、仕事に復帰し、そして新しい命を、今度は女の子を身籠もった。
 その都度、上原に手紙だけはしたためた。返信が来たことは一度もない。上原はかたくなに約束を守ろうとしてくれ、その優しさが身に染みた。
「幸せそうだね」
 上原にそう言ってもらうのは、たぶんこれがはじめてだ。元気そうだ、順調そうだ。そうした言葉とは似ているようで意味合いがまるで違う。私たちの間にある「幸せ」は、もっと大きな意味を含んでいる。
 私は思わず微笑んだ。そうした瞬間、身構えた。これは上原の悪いクセだ。言いにくい本題を切り出すのは、いつも空気が緩んだ直後と決まっている。
 案の定、上原は目頭に力を込めた。小言を口にするとき、あるいは良くないことを伝えてくるときに必ず見せる仕草である。
「公園で見た君たちの姿があまりに様になっていて、本当に幸せそうに見えたから、正直、声をかけるのを躊躇ためらった。いまでもこれが正しいことなのか自信がない。先に謝罪しておく。申し訳ない」
 胸がとくんと音を立てる。本音を言えば、聞きたくなかった。そう願っても、上原は容赦してくれない。
「まだお母さんを許すことはできないかな」
 店にはあいかわらず客がいない。一翔は健次に預けてきた。一翔がまだ小さかった頃は二人きりにされることを健次は本気でイヤがっていたが、分別がつくようになってからは快く引き受けてくれている。
 いま二人は何をしているのだろう? 早く家に帰りたい。
 そんなことを思いながら、私は小さく首をひねった。
「許すとか、許さないとかじゃありません。私はもうあの人と違う人生を生きています。私には関係がない。母親だとさえ思っていません」
 そう、私はいまとても幸せだ。この幸せは絶対に手放さない。もちろん母親にも、上原にだって触れさせてなるものか。私は愛媛から離れられた。いま、自分の足で東京に立っている。この国を離れることもできるのだ。
 上原はかすかに眉をひそめた。私が生まれた頃はまだ四十代だったという。それから二十六年という月日が過ぎた。上原はもう六十七歳。長く勤めた新聞社をすでに定年退職し、いまは松山で隠居生活を送っている。
 上原は迷いを断ち切るように声を張った。
「お母さん、来週出所してくるんだよ」
 そんな予感はずっとあった。私は何も応えない。
 上原はかまわずまくし立てる。
「ずっと君に伝えるべきかどうか悩んでいた。でも、僕が判断するのは違うと思った。僕の役割はありのままを伝えること。その上で、お母さんは君に会いたがっている。君にだけ会いたがってるんだ」
 私は耳をふさぎたくなる衝動を懸命に抑え込む。聞きたくなかった。どうして上原が判断してくれなかったのだろう。私は拒むに決まっている。それくらいわかるはずだ。
 血の巡りがどんどん速くなっていく。いまにもえつが漏れそうだ。胸に痛みを感じ、細かい呼吸を繰り返す。とっくに氷の溶けているアイスティーを一息に飲み干した。
 そんな私の様子を、上原はれんびんの目で見つめている。
「君が望まないのなら面会すべきとは思わなかった。母娘の関係修復はこれから時間をかけてしていけばいいと思っていた。でも、君がもうこの国を離れるというのなら、いま伝えなきゃならないんだ。お母さん、ガンなんだ」
「え……」と、我慢していた声がついに漏れる。「ガン?」と繰り返した私に、上原は口惜しそうに顔をしかめた。
「獄中で手術も受けている。一度だけでいい。あの子に会ってやってくれないか。お母さんにはもう君しか頼れる身内はいないんだ。頼む、この通りだ」
 上原はテーブルに額がつきそうなほど深く頭を下げた。その姿はもう老人だ。事件当時はまだまだ若々しかったのに、時の流れを痛切に感じる。
 一翔を置いてきて本当に良かった。こんな場面を見せたくない。でも、仮に……、もしもあの子がここにいたら、いったいなんと言っただろう。
 お母さん、会ってあげようよ。このおじいちゃんがかわいそうだ。その意味もわからず、そんなことを言ったに違いない。
 上原がゆっくりと頭を上げる。
「お母さん、刑務所でよく君のことを話していた。考えてみてくれないか。なんとか会ってやってほしいんだ。あの子も……、君のお母さんも本当に苦しい人生を送ってきた人だから」
「そんなこと知りませんよ」
「頼む……。お願いだ、陽向ちゃん。本当に一度だけでいい。お願いだからエリカちゃんに会ってやってくれ」
 ずっと日陰を歩かされてきた。東京に出てきた十八歳まで……、いや、二十六歳となったいまに至っても尚、私は陽向という名前を心の底から憎んでいる。
 上原の視線から逃れるように、天井の小窓に目を向けた。
 夏の太陽が光の束となって店の中に降り注いでいる。
 母のことが過ぎるたびに、あの夏のことがよみがえる。
 八月は母の匂いがする。
 それは、ひいては血の匂いだ。
 逃げ切ることができなかった。
 井の頭公園の入り口で久しぶりに上原の姿を見かけたとき、真っ先に私の胸を貫いたのは、そんな絶望的な思いだった。

第一部 伊予市にて(完)

(このつづきは「小説 野性時代」第210号 2021年5月号でお楽しみください)
◎第4回〈後編〉全文は「小説 野性時代」第209号 2021年4月号でお楽しみいただけます!


書影

小説 野性時代 第209号 2021年4月号


紹介した書籍

関連書籍

MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2021年5月号

4月25日 発売

怪と幽

最新号
Vol.007

4月27日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP