menu
menu

連載

早見和真「八月の母」 vol.3

【連載小説】母と分かり合えることなんてない、ずっとそう思っていた。 早見和真「八月の母」#1-3

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

第一部 市にて

1977年8月

 子どもなんていらなかった。
 自分の血をわけた人間を産むわけにいかないと思っていた。
 街で見かける母子の姿が疎ましかった。
 それなのに、何度も子どもの夢を見た。
 いつも同じ女の子だ。
 先を歩く自分のうしろを、小さな女の子がついてくる。自分はゆっくりと振り返り、その子の名前を優しく呼ぶ。
 おいで、エリカ──。
 そこに伴侶の姿はなかったし、他に子どももいなかった。
 いつも二人だ。自分と、エリカ。
 どうして娘にそんな名前をつけたのか、夢の中の自分はいつもあと少しのところで思い出せない。
 それでも、エリカはその名の通りれんだった。はかなげで、とてもたくましく、そして自分を愛してくれる心の優しい女の子だった。

 は、自分の名前が大嫌いだった。
 小学一年生の頃からクラスに必ずもう一人いた名前。「美知子」という名の子と知り合ったときは、「智」と「知」の字が違うだけで身もだえするほどうらやましかった。
 しようさんとあきひと親王が結婚したのは、美智子が生まれた八年後、一九五九年のことだった。
 八歳のときにテレビで観たご成婚パレードはいまでもよく覚えている。そのとき胸にあった誇らしさもうっすらと記憶に残っているが、前後してクラスメイトの男子たちに「ミッチー」や「美智子さま」、ひどいときには「シンデレラ」などと茶化されることが増えていって、名前そのものを恨めしく感じるようになった。
 何より苦痛だったのは、ニュースで伝えられる「美智子さま」の放つ華々しい雰囲気と、自分の生活とのかいがあまりにも激しいことだった。
 美智子が生まれ育ったのは、愛媛県じま市の中心地から北へ十キロほど行ったところにあるよし町。人口二万人ほどの小さな街だ。
 海があって、山があって、川があって、広場があって、遊び場所に困ったことはない。友だちも多い方だったし、周りはみな美智子を明るい子と認識していたことだろう。
 事実、学校での美智子は快活だった。通っていたとうなん小学校は吉田湾の最奥部という場所にあり、大地震が来たときの津波の危険性はよく耳にしていたが、普段は瀬戸内海特有のなぎのおかげもあって、穏やかな雰囲気をたたえている。
 そんな静かな小学校に、いつも美智子の笑い声が響いていた。とくに低学年の頃は男子顔負けのわんぱくさで、名前をからかわれたときも内心悲しいと思いながら、面と向かって言い返していた。
 同級生の女の子たちがたいてい男子を「○○くん」と名字で呼ぶ中、美智子はどんな子に対しても下の名前でしか呼ばなかった。それが自分にとっては自然だったし、イヤがる男子もいなかった。そんな美智子に「カッコいい」と憧れてくれる女の子もいた。いつもまわりに友だちがいて、その中心で美智子は笑っていた。
 でも、それは学校にいるときだけだ。家での美智子の様子を学校の友人たちは想像できなかったはずだし、学校にいる美智子の姿もまた家族にとっては意外なものだったに違いない。
 夕方になると街に流れる「夕焼け小焼け」のメロディが苦手だった。口では「もう帰らんといかんのか」と言う友人たちの表情は決まって柔らかくほころんだ。きっと家には温かい食事が待っていて、家族のだんらんがあるのだろう。
 同じように温かいご飯は用意されていたとしても、美智子の家にだんらんはなかった。居間の上座に父があぐらをかいて座り、母と自分、そして同居する祖母が正座させられる時間が美智子は本当に苦痛だった。
 食事のときは基本的に中学教師をしていた父だけがしゃべっていたし、機嫌のいいときは自分の話ばかりしていた。学生の頃の自分がどれほど勉強してきたか、学校の教師というのがいかに尊い仕事か、お金を稼ぐということがどれだけ大変か、いまの幸せな生活は誰のおかげで享受できていると思っているのか……。
 そんな自分の話があらかた終わると、これもまた決まって同じ話が延々と続く。これから日本がどんな国になっていくか、世界はどういうふうに変わっていくか、そして「これからは女ということに甘えて生きていい時代ではない」という話。
 もう何度も耳にしていることを、父はいつも得意満面で口にする。その一つ一つの言葉に祖母は大げさに感心してみせ、母は自分の意思など存在しないとでもいうふうに相づちも打たずに聞いている。
 美智子はどう反応すればいいかわからなかった。祖母のように褒めそやすことも、母のように聞こえないフリを決め込むこともできず、その結果「ああ」とか「うん」とか父が喜ばないとわかっている返事をするしかなくて、食卓の空気を冷たくさせた。
 そもそも父が話しているのはいかなる場合でも美智子に対してのみだった。その美智子の反応をおもしろくないと感じたとき、父は決まって仏頂面になる。
「おい、ちゃん聞いとるんか。お前は」
「うん。聞いとるよ」
「うん、やないやろが」
「はい。聞いています」
 とくに酒を口にしたとき、父は美智子にさらに厳しい。戦争中じゃあるまいし……という不満を口にできるはずもなく、美智子は足のしびれをひた隠しながら、早く終われと心の中で念じ続ける。
 祖母は必ず父に加勢した。
「ほうよ、みっちゃん。お父さんの言うことはちゃんと聞かないけんわい。ばあちゃんらの時代なんてもっと厳しかったんやけん。お父さんとご飯なんて食べさせてもろうたこともないし、風呂も最後やったけんな。ちょっとでも姿勢が悪かったら、容赦なしに定規で背中をしばかれたもんよ。本当に厳しい時代じゃったよ」
 母はそんな祖母の言葉も取り合おうとしなかった。家族の中で一人だけ体温が低く、感情をむき出しにしたことがない。美智子を注意するのは父に「お前がちゃんと言うとけ!」と命じられたときだけで、そんなときも「お父さまもああやって言いよるでしょう?」と、父の言っていたことを単純になぞるだけだ。
 父や、祖母に怒られないことだけが自分の存在意義とでもいうように、母には主体性というものがまるでなかった。
 その意味では、どれだけ理不尽だと思わされても、どれだけ時代おくれと感じさせられても、まだ自分の意思で言葉を発している父や祖母の方が好きだった。
 母には怒られたことがない。
 そもそも会話したという記憶がない。
 もちろん、日常生活の中でたくさん言葉を交わしているが、母から気持ちを伝えられたという覚えがないし、美智子も母に何かを訴えたいと思ったことが一度もない。
 あれは、たしか三年生の頃だった。学校で「普段、照れくさくてお母さんに聞けないことや伝えたいことを作文にしましょう。そして、せっかくだからそれを授業参観で発表しましょう」と先生に言われたとき、美智子は文字どおり言葉に詰まった。クラスメイトたちが声高に不満を叫ぶ中、動転して声なんて出せなかった。
 それから数日間、母について考えた。伝えたいことなんて何もないことは最初からわかっている。それならば……と悩み抜いて、ようやく「普段、聞けないこと」の方をひねり出した。
「お母さんってなんのために生きとるん?」
 そして、もう一つ。
「お母さんにとって私って何なん?」
 実際、母は自分を愛しているのかと疑問に思ったことがある。その「?」は美智子にとって当たり前のものすぎて、ことさら思い悩むものでもない。不満に感じたこともなかった。
 でも、こうしてあらためて自分に問うてみると、足もとが揺らぐような不思議な感覚に襲われた。あの父にとって、自分は間違いなく娘である。ならばあの母にとって、私はいったいどういう存在なのだろう?
 もちろん、そんなことを作文に書けるはずもなく、結局、当たり障りのないことをつづるしかできなかった。
 そんなときに限って、参観日ではしっかりと指名される。仮に辞書に「授業参観で読むべき母への作文」という項目があったら一言一句違わず出てきそうな作文を読み上げ、緊張したまま振り返ると、背後にいた母の方もまた「授業参観で母親が作るべき表情」といった笑みを浮かべていた。
 背筋に冷たいものが走った。
 この人はいったい誰なのだろう──?
 いつもの疑問が少しだけニュアンスを変えて、美智子の脳裏を駆け巡った。

▶#1-4へつづく
◎第1回全文は「小説 野性時代」第205号 2020年12月号でお楽しみいただけます!


書影

小説 野性時代 第205号 2020年12月号


紹介した書籍

MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2021年2月号

1月12日 発売

怪と幽

最新号
Vol.006

12月22日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP