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連載

早見和真「八月の母」 vol.12

【連載小説】いますぐ彼女をここから連れ出してやりたいという衝動的な気持ちが湧いた。 早見和真「八月の母」#2-4

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

「ネグレクトだな、典型的な」
 大学時代の数少ない友人の一人、うえはらこうすけが和幸の知らない単語を口にした。
 首をひねった和幸にニンマリと微笑みかけ、上原は「ネグレクト」と、わざわざネイティブな発音で言い直した。
 上原は和幸と同じく愛媛大学の教育学部の出身だ。一、二回生の頃は上原も教師を目指していて、和幸なんかよりもずっと熱く教育論について語っていたが、三回生になって一年間アメリカで教育について学んできて進路を変えた。ジャーナリストになって、日本の教育制度を抜本的に変えると息巻くようになったのだ。
 目標の全国紙からの内定は出なかったが、愛媛の地元新聞社に就職した。それから七年、社会部記者としてエース級の活躍をしていると同級生から聞いているが、本人が不満を抱えているのはその様子を見ればあきらかだった。たった一年の留学ですっかりアメリカナイズされた人間性も、「もっと大きいものを書きたい」と平然と口にする可愛げのなさも、上司の不興を買っているに違いない。
 六畳一間の和幸の安アパートとは違い、リビングの他に二部屋もある上原のマンションは快適そのものだ。
 ビールを缶のままあおり、切れ間なくタバコの煙を吹かしながら、上原は一人でファミコンに夢中になっている。
「ほやけん、何なんよ。そのネグレクトって」
 酒もタバコもゲームもやらない和幸は苛立ちを募らせた。上原はなんてことないというふうに肩をすくめる。
「だから親が子どもの成長に関心を示さなかったり、食事を与えなかったりっていう、まぁ虐待の一種だな」
「虐待って、そんな……。大げさやん」
「向こうでは一八〇〇年代にはもう社会問題になってたことだよ。直接的な暴力や、性的暴行と同じように、育児放棄も虐待の一つときちんとカテゴライズされている。いずれにせよ後れてるんだよ、この国は。子どもの問題をすべて家庭や学校に押しつけようだなんて行政の怠慢だ。もっと積極的に国や自治体が家の中に入っていかなきゃいけないんだよ」
 上原はようやくコントローラーを床に置き、新しいタバコに火をつけた。神奈川出身と知っているが、標準語がいつも以上に鼻につく。聞きたいのはそんな大上段な話ではない。担任の教師としてどう接するべきかという身の丈に合ったことだった。
 先日の越智家の家庭訪問のとき、誰にも見られたくないと思っていた場面を、ある意味では一番見られたくない人間に見られていた。
『おいおい、お前ずいぶんなところに行ったものだな。スナックのママとはいい趣味だ。和幸はてっきり童貞かと思ってたよ』
 その日の夜に電話を寄越してきた上原に、何か弁明しようという気は起きなかった。それでも夕方の憂鬱がぶり返し、口ごもってしまった和幸に上原は何かを感じ取ったらしい。『黙っててほしかったら久しぶりにのみにこい』と有無を言わさぬ口調で松山の自宅に和幸を呼びつけ、強引にエリカのことを聞いてきた。
 いや、強引にというのはフェアではないだろう。和幸もまた心のどこかで誰かに話を聞いてほしいと思っていたのだ。同僚の先生たちに言えるはずはないし、他の友人も頼れない。すぐに天下国家に結びつけて語りがちの上原だが、だからこそ問題をわいしようしないでくれるかつこうの相談相手とも言えた。
 冷蔵庫の前に立った上原が「本当にいらないか?」と聞いてくる。大学時代はたまに一緒にのんだが、それも一、二回生の頃までだ。上原以外とは誰かとのんだ記憶はないし、教師になってからはいっさい酒に口をつけていない。
「うん。僕はコーラでええ」
「すごいよな。俺はもうこれがなきゃやってられないよ。ホントに偉いよ」
「偉いとか、そんなんやないよ」
「やっぱり親父さんのことが原因か?」
 上原は床に腰を下ろしながら、和幸の目も見ずに尋ねてくる。和幸の父親に対する憤りを唯一知っているのが上原だ。大学時代にへべれけに酔っ払い、言わなくてもいいことをペラペラとしゃべってしまったらしい。その記憶がまったくないことも、和幸が酒を嫌悪する理由の一つだ。
「まぁ、あの人のことも多少は関係しとるんやろうね」
「でも、べつにお前が酒で失敗したわけでもないし、そんなにストイックになる必要もないんじゃない?」
「でも、身体が拒むんよ。いまはもう酒の臭いがするだけであの人の遺書の汚い文字がよみがえって、吐き気がする」
「それは大変だ」
「あのな、上原。一つ変なこと聞いてかまん?」
「何?」
「人間の人格って、生まれたときには決定づけられているものやと思う? それとも育った環境の方が重要なんやと思う?」
 思ってもみない質問だったのだろう。上原はタバコを持った手をぴたりと止め、まばたきもせずに和幸の目を見つめてきた。
 和幸も視線を逸らさない。不意に立ち込めた緊張感は、上原が質問の意図を正しく理解してくれたからだろう。
 上原はタバコをみ消し、小さく数度うなずいた。本人は気づいていないかもしれないが、何か大切な話を切り出すときの前振りだ。
「お前の考えていることはわかるよ。親父さんのDNAを意識したくないっていう話だろ? そうだな、もちろん育つ環境は重要だろうし、親以外のすべての関わる人間にも人格は左右されるんだと思う。その意味では、俺の考えは後者だ。環境もさることながら、人格は自分自身の力でつかみ取っていくものなんだと思っている。世の中の凶悪犯罪者が生まれながらにそうなることが運命だったとか考えたら、ちょっとゾッとしちゃうじゃん」
 上原と十年以上つき合ってこられた一番の理由はこれだろう。すべてを口にしなくても言葉の真意をきちんと理解してくれるし、和幸の欲する答えをいつも的確に与えてくれる。
 胸がじんわりと熱くなった。大げさかもしれないが、自分の人生そのものを肯定された気分だった。
 いや、自分のことに限らない。エリカもまたあの母親の影響から逃れ、彼女自身の人生をつかみ取っていけることの証明のように思えたのだ。
 そんな和幸の心の内すら上原は見透かしていたらしい。
「なんでそんなにその女の子のことを意識する?」
「え?」
「家庭環境の良くない子なんて前の学校にだっていただろう。いまのクラスにもいるはずだ。そのエリカっていう子をどうしてそんなに特別視するんだ?」
「いや、べつに。そんなつもりはまったくないよ。ただ、そうやな。たしかにずっと気にはしとったのかも」
「なんで?」
「ほやけん、それはさっきも言ったけど──」と口にして、和幸は先ほどよりもくわしくエリカについて説明した。
 自分が早口になっていることに気づいていた。何かやましいことがあるとき、あるいは隠したいことがあるときの自分のクセだ。
 上原はそれを知っているのだろうか。呆れたように息を吐いたり、げんそうに眉をひそめたりしながら、静かに話を聞いていた。
 とくに上原が興味を示したのはエリカの作文だった。「この街を出ていきたいか。なんとなくわかるよな。伊予市っていうところは独特の空気の重さがある」などと独り言を口にしながら、何やらメモに書き留める。
 少し話しすぎただろうか。ふっと現実に引き戻される感覚を抱いて、和幸はあわてて話題を変えた。
「それ、そんなにおもしろいん?」
「うん?」
「ファミコン」
「ああ、ドラクエな。おもしろいよ。よく出来てる。これだけはアメリカよりずっと優れてると思う。っていうか、ファミコンっていう言い方が教師っぽくていいな」と、イヤミっぽく笑いながら、上原はようやくペンをコントローラーに持ち替えた。
 もちろん『ドラゴンクエストⅢ』というタイトルは知っている。三ヶ月くらい前に発売されて大変な社会現象になったゲームソフトだ。前にいた小学校でも授業をサボって買いに走った児童がいたし、いまだに入手困難と聞いている。
 子どもたちにとってはきっとお宝なのだろう。が、それを大の大人がこうして夢中になるということには理解が及ばない。
 そんなことを考えながら、あの子はゲームなんてしているのだろうかと、和幸は再びエリカに思いをせた。

 上原に洗いざらい話したことで、和幸の心は軽くなった。しかし、自分の心が軽くなった分のひずみがしっかりと生じていた。
 六月も半ばに差し掛かり、伊予市でも連日雨が降り続いていた。例年のこの時期よりさらに空気がよどんで感じるのは、上原が言っていた「独特の空気の重さ」という言葉が胸に残っているからかもしれない。
 家庭訪問の翌日、和幸が教室で一人になった一瞬の時間を狙って、エリカがやって来た。「昨日はすみませんでした」と、親のために頭を下げるエリカにかつての自分の姿が重なって、びんに思えてならなかった。
 それ以来、他の児童の目を盗むようにしてエリカに話しかけるようにした。和幸の下駄箱にエリカがこっそりと手紙を入れることも黙認した。
 やり取りする内容は他愛もないことばかりだ。家庭の話題はほとんどない。エリカが話してくるのは好きな食べ物や好きな科目、好きな音楽についてばかりで、和幸の方からはオススメの本などを教えてやったが、エリカは「本なんて最後まで読みきれたことないです」と弱ったように笑っていた。それでも、和幸は「お前なら絶対に読める。諦めるな」と言い聞かせるように伝え続けた。
 ピグマリオン効果について教えてくれたのも、アメリカから帰ってきたばかりの上原だ。ギリシア神話に登場する彫刻家・ピグマリオンが、自ら彫った像に恋をし、毎日話しかける姿を見た神が彫像に命を吹き込んだという神話から命名された教育心理学の心理的行動の一つである。
 教師が教え子に期待をかければかけるほど、教え子の学力が向上するという実験データがあるそうだ。一部には実証されていないとの批判があり、上原から聞いた当時は和幸もそれほどピンと来なかったが、エリカと親しくなった頃からどういうわけかよく思い出すようになった。
 ネグレクトとセットという予感があったのだろう。エリカが本当に母親から育児放棄されているのだとすれば、和幸がすべきことは積極的に関わり、声をかけ、そして期待し続けることだと思ったのだ。
 とはいえ、学校内でやり取りするのには限界があった。エリカの手紙にも『もっと村上先生に話を聞いてもらいたいです』と綴られていて、和幸もその気持ちになんとか応えてやりたかったが、少しでも目立てば他の教師たちからはとがめられ、子どもたちからは「ひい」の声が上がるのは明白だ。
 しばらくはジリジリするやり取りが続いていた。しかしあるとき、和幸は抜け道があることに気がついた。幸いなことに……と言うわけにいかないが、ほとんどの夜、エリカは家で一人で過ごしている。
 ある日、子どもたちが音楽室に出払っていた隙を狙って、和幸ははじめてエリカのランドセルに手紙を忍ばせた。
 書いたことはやはりたいしたことではない。エリカから和幸に似ている教師役の俳優がいると教えられたドラマの感想に、新しく薦めたい本、前回の手紙にあった『普段は何を食べていますか』という質問の答えと、エリカと同じ一人っ子であることなどを記し、最後に『お守りだと思っていればいい』と、自宅の電話番号をしたためた。
 手紙をランドセルに入れる際、守ってやらなきゃ……、僕が守ってやらなきゃ……と、心の中で繰り返し唱えたのは、上原の言う通り、エリカだけを特別視しているといううしろめたさがあったからかもしれない。

#2-5へつづく
◎第2回全文は「小説 野性時代」第206号 2021年1月号でお楽しみいただけます!


書影

小説 野性時代 第206号 2021年1月号


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