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連載

早見和真「八月の母」 vol.4

【連載小説】母と分かり合えることなんてない、ずっとそう思っていた。 早見和真「八月の母」#1-4

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

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 いずれにしても美智子にとって家は深く息を吸える場所ではなかったし、口さえほとんど開かなかった。朝が来るのが待ち遠しかったし、仮病で学校をずる休みしたことなど一度もない。典型的な外弁慶。
 そうした美智子の外向きの性格が少しずつ内に向かっていったのには、きっといくつかの理由がある。
 一つは四年生の冬休み明けに父の肺がんが見つかったこと。二つ目はその父が宇和島市内の総合病院に入院した頃と前後して、母に不貞のウワサが立ったこと。三つ目は美智子自身が想像していたよりずっと早く初潮を迎えたことだった。クラスにはおそらくまだ誰もいなかった、小五の夏休み中の出来事だ。
 もちろん情報として月経については知っていたが、直前まで身体的な異変はなく、まさかこんなに早く訪れるとは夢にも思っていなかった。
 最初は尿漏れと思ったくらいだ。父は入院中で、家には昼食の準備で台所に立つ母と、庭いじりをする祖母がいた。普段なら二人で病院に行っていても良さそうな時間だったのに、この日は運が悪かった。
 そう、美智子にとって二人がいたことは不運以外の何ものでもなかった。あわててトイレに駆け込み、下着を見た。あんなに鮮やかな赤を見たことがあっただろうか。すぐにでも着替え、風呂に駆け込みたいと思ったけれど、そんな行動をとれば二人に怪しまれるのは火を見るよりあきらかだ。
 まるで悪事を隠しているかのようだった。事実、美智子の胸には罪悪感のような焦りが渦巻いていた。
 食卓に会話はなかった。二人とも野球になど興味ないくせに、ラジオからは父の好きな甲子園中継が流れている。愛媛県の代表校の試合でさえないらしい。あるじの帰りをひたすら待つ忠犬のような二人の態度が不気味に思え、美智子はさらに急いで昼食の冷や麦をかき込んだ。
 ちょうど昼から友人の家に遊びにいくことになっていた。逃げるように家を出て、かつこうに下半身に力を込めながら、雨のように降り注ぐセミの鳴き声の中を小走りで行った。
 約束した時間より一時間近く早かった。友人はまだお遣いから戻っていなかったが、ちょうど良かった。美智子に「ごめんね。きようまだ帰ってきてないの」と伝えてきた友人の姉、カリンにこそ用があった。
 ほとんど泣きべそをかいていた美智子の異変に、カリンはすぐに気づいてくれた。「とりあえず中で待ってな」と、何も聞かず家に上げてくれる。
 美智子の三つ年上で中学二年生のカリンは、まだ小学校にいたときからかわいがってくれていた。
 二年前に東京から一家が引っ越してきたときの衝撃は忘れられない。家族四人の洗練された服装に、それまでラジオやテレビでしか聞いたことのなかったキレイな標準語、若いお母さんのどこかだるそうな雰囲気も印象的だったし、部屋のインテリアも、そもそも姉妹一人一人に自分の部屋があてがわれていることにも美智子はショックを受けた。
 何より憧れてやまなかったのは、姉妹の名前だ。杏子という名前もそれまで見たことがなかったし、かわいらしくてうらやましいと感じたが、それよりはるかに鮮烈だったのは姉のカリンの方だった。
 実際は「とう花梨」という名前だ。それでも女優のような華やかさだが、なぜか本人は「カリン」という表記を好み、美智子もそれがしっくり来た。
 一度、杏子が姉を真似て「キョウコ」とノートに書いてきたことがある。目ざとく見つけた数人の男子たちからひどくバカにされていたし、美智子もむしろ野暮ったい印象を受けた。
 何事においても、姉妹は洗練の度合いが違った。杏子が二言目には「東京」を鼻にかけるのに対し、カリンの方は「東京って言ってもだしね。美智子の思うのとは違うよ」と、あくまでも自然体だった。
 そう、カリンの醸し出す憧れの雰囲気の正体は自然であることだ。一度、同じように東京について話をしているとき、カリンはこんなことを口にした。
「それに、私たちは結局あそこから逃げてきたわけだから」
 そのときも杏子は不在で、カリンと二人きりという状況だった。言っている意味がよくわからず、首をひねった美智子の目を見つめ、カリンは何かを諦めたように目を伏せた。
「夜逃げしてきたんだよね、私たち。パパの事業が失敗して。だから受け入れてくれたこの街の人たちに対して、私は変に都会ぶるつもりはない」
 なぜか懺悔するようにつぶやいたあと、カリンは「あ、でもこのことは杏子には内緒にしといてあげて。あの子は東京から来たということがちょっと自慢みたいだから」と、いつものようにからりと笑った。
 この日、二人きりの秘密ができた。美智子のカリンに対する憧れはますます強くなり、困ったことがあればなんでも相談するようになった。

「アメリカには専用のパッドがあるっていう話だし、日本でも発売されるっていうウワサが結構前からあるんだけどね」
 独り言のように言いながら、カリンは何重にもした脱脂綿をくれた。
「本当は中に詰められたらいいんだけど、まだこわいと思うからあてがうだけでいいよ。ついでに下着も洗っておいで。これ、私の小学校の頃のやつだけどちゃんと洗ってあるから」
 そう言ってカリンはキレイに折りたたまれたブルマも一緒に手渡してくれた。言われるまま処置を施し、下着を念入りに洗って部屋に戻ると、イスに腰かけたカリンがあごをしゃくって窓の方を指示する。ベランダで干してこいということらしい。
 セミの鳴き声がますます激しさを増していた。陽にさらされた下着にうっすらと血の跡は残っていたが、家で抱いたうしろめたさは感じない。
「あの、このことは杏子ちゃんには……」
 部屋に戻って真っ先に言うと、カリンは当然だというふうに首をすくめた。
「それ、とりあえずの応急処置だから。帰ったらちゃんとお母さんに言うんだよ」
「お母さんには言いとうない」
「ダメ。どうせ隠し通せるもんじゃないんだから」
「でも、言いとうない」
「なんで? お父さんならともかく、お母さんはイヤな顔しないでしょう?」
 カリンの目もとは優しくほころんだままだったが、視線は刺すように鋭かった。
 美智子は何も言えなかった。どうして自分はこのことを母に知られたくないのか。考えても言葉が出てこない。
 扇風機の羽根の音だけが耳を打っていた。沈黙の時間がしばらく続き、先にあきらめたように身体を揺らしたのはカリンの方だ。
「ねぇ、美智子さ。前から聞きたかったことあるんだけど、聞いていい? かなり聞きにくいことなんだけど」
 質問の内容はなんとなく想像できた。そのときは杏子の邪魔が入ったけれど、前にも似たような雰囲気になったことがあったからだ。直接何かを聞かされるとしたらカリンからだという予感もあった。
 こくりとうなずいた美智子を見つめたまま、カリンの方も小さく一度だけうなずいた。
「美智子、お母さんのウワサって聞いたことある?」
「うん、あるよ」
「役場の人とっていう話?」
「うん」
「あれって本当なの?」
「そんなのわからないよ。わからないけど、私はウソだと思ってる」
「どうして?」
「だって、お母さんいつも家におるし、そういうタイプの人やない。すごい静かで、ずっとお父さんの言いなりやけん。おばあちゃんに対しても──」と口にしたところで、美智子はハッと息をのんだ。
 ああ、だからなのか……と、妙に冷静に思ったのだ。そんな大人しい人、面白おかしくウワサが広がってしまうのだ。いや、そうじゃない。そんなふうに家で虐げられている人、外で発散しているということなのだろうか。
 まばたきすることも忘れていた。そんな美智子の様子に、カリンはくすりと声を出して笑った。
「実は私もかなり早かったんだよね、生理」
「え、何?」
「私は小四のときだった。あんたと違って、これがなんなのかもわかってなくて。早く止まることを祈って無理やりティッシュを詰めていた。やっぱりママに相談できなかったし、その意味では美智子の気持ちもよくわかる」
 カリンが母親を「お母さん」ではなく「ママ」と呼んでいるのをはじめて聞いた。そのことにかすかな違和感を覚えながらも、「だったら──」と口を開こうとした美智子を、カリンはさっと手で制した。
「私はそのことを後悔してる」
「後悔? なんで?」
「私のママはいまのお母さんと違う人。杏子はお母さんの方の連れ子。私のママは知らない男と駆け落ちしたの。私の初潮からまだ二週間くらいしか経っていない頃にね。親が実際にどういう人かなんて、たぶん子どもにはわからないようにできてるんだよ。パパの借金なんて、想像したこともなかったもの」
 決して恨みがましい口調ではなかったと思う。むしろ、カリンの表情はかつてないほどすがすがしく見えた。
 美智子はとつにどう応じればいいのかわからなかった。五年生には荷の重い告白だったし、雑誌でも読んでいるかのように現実味のない話にも思えた。
 それでも、わかったことが一つだけあった。カリンがこんなにも親切にしてくれる理由だ。美智子のことをきっと当時の自分と重ねている。そんなふうに考えれば、これまでのことに納得がいく。
 美智子が何かを悟ったことに、きっとカリンも気づいていた。
「あのときちゃんと生理のことを相談できていたら、ママは駆け落ちなんてしなかったんじゃないかって思うことがあるんだよね」
「そんなん関係ないやん」
 そう言うのがやっとだった。語気を強めた美智子に優しく微笑みかけながら、カリンは「ありがとうね」とささやいた。
「私もそんなことはわかってる。ずっと前からママは私を裏切ってたんだろうし、やむを得ない事情があったのかもしれない。パパだってすぐに再婚したわけだし、そもそもどっちが先に裏切ってたかなんてわからないしね。でもさ──」
 そこまでよどみなく口にして、カリンは何かを断ち切るように顔を上げた。
「もしあのとき私が不安をきちんと伝えることができていたら、それがあと一つ、ママが家出を留まる理由になったんじゃないかっていう気持ちは消えないんだ」
「あと一つ?」
「そう、あと一つ。ひょっとしたらあのとき家を出ていくことができないいくつかの理由が積み重なっていたのかもしれないなって。あと一つ……、本当にもう一つだけ何かがあれば、ママは私を捨てなかったんじゃないのかなって。そんな疑問がどうしても消えないんだ。だから、私はしんどいと感じることをきちんと相手に伝えたいと思っている。たとえワガママだと思われたとしても、自分が信頼できる人には絶対に甘えようって」
 カリンの告白はそこで終わった。
「でも、やっぱり納得いかん。それじゃまるでカリンちゃんのせいでお母さんが出ていっちゃったみたいやんか」
 精一杯の美智子の慰めの言葉だった。カリンはうれしそうに目を細め「あ、でも勘違いしないでね。私はいまの生活を悪くないと思ってる。お母さんとも杏子とも仲いいし。それとこれとはまたべつの話ね」と受け流して、最後に一言だけつけ足した。
「また二人の秘密ができちゃったね」
 カリンと固い約束を結んだその日の夜、祖母が寝しずまったのを確認して、美智子は覚悟を決めて母に伝えた。
 さすがの母もげんそうに眉をひそめたが、すぐにふぅっと息を吐き、しばらくすると美智子の髪の毛をゆっくりと撫でた。
「そうしたら明日黒いショーツを買ってこなきゃね」
 こんな優しい言葉をかけられたのは、いつ以来のことだろう。
 自分が何を不安に思っていたのかさえ、美智子は一瞬わからなくなった。

 そんな出来事があったからといって、母との関係に変化はなかった。入退院を繰り返す父の面倒を文句一つ言わずに見て、祖母の機嫌を損ねないよう完璧に家事をこなす。母は変わらずそんな人だったし、美智子も必要最低限のことしか話さなかった。
 でも、美智子の母を見る目は少し変わった。カリンから話を聞いた時点で、少なくとも美智子の中では母の不貞は確定していた。そうでなければ、あのカリンがわざわざ美智子に伝えてくるわけがない。何か決定的な場面を目撃した上で、しんどいことがあれば自分に相談してこいと言ってくれていたに違いない。
 だから心の準備はできていたつもりだったし、そもそも母が誰に心を寄せていてもかまわないと思っていた。
 しかし、そのことが露呈したのはこれ以上ないほど最悪のタイミングだった。

▶#1-5へつづく
◎第1回全文は「小説 野性時代」第205号 2020年12月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第205号 2020年12月号


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