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連載

早見和真「八月の母」 vol.33

【連載小説】あれほど知りたかったはずのエリカの背景を、いまはこんなに拒みたい。早見和真「八月の母」#4-9

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

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 きっと脱色しているのだろう。髪が茶色く、襟足の長い麗央と呼ばれた男の子が、反抗的な目をエリカに向ける。「だって麗華が──!」という言い訳の弁は、しかし博人の姿を確認した瞬間に引っ込んだ。
 麗華という女の子も博人を見た途端に泣き止んだ。博人をにらみつけてくる麗央と、恥ずかしそうにエリカの背後に回った麗華。「あ、あの、はじめまして。七森博人です」と名乗ったときに見せた二人の反応はまちまちだった。
 祐介の言っていたように、父親が異なるのかはわからない。でも、そうだと言われても驚きはない。その程度には二人の個性は違った。エリカとよく似て雪のように白い肌の麗華と、地黒の麗央。歯並びは麗央の方がずっと良く、麗華の方は直視するのが憚られるほどガタガタだ。
 何よりも違ったのは二人の体つきだった。麗央は大柄で、肉付きも良く、麗華の方は栄養が行き届いているのか不安になるほど線が細い。麗央が麗華を泣かせていたのを見たこともあり、当然麗央が兄なのだと思っていたが、そうではなかった。
麗央、四歳です」とふて腐れたように麗央が言うと、麗華の方はうつむいたまま「越智麗華、五歳です」とか細く言った。
 それぞれエリカが十七歳、十八歳のときの子ということになる。テーブルの上は妙にすっきりしているのに、部屋にはおもちゃが溢れている。キッチン周りには大量の調味料、ふりかけ、酒瓶、レトルトフード、お菓子の袋……。ゴミ箱にはジュースのペットボトルがそのまま放り込まれている。
 一瞬、袋小路のようだと感じた。二十二年間生きてきた越智エリカという人間の、ひとまずはここが到達点。そんなことを思えば、あんたんたる気持ちが胸に巣くう。
 子どもたちの態度を見て、エリカは呆れたような息を吐いた。お茶の一杯も出てくる気配はない。でも、それでいい。この家で何が出されても口をつけられる自信がない。
 保育園は楽しいか、普段は何して遊んでいるのか、お母さんは優しいか、好きな食べ物は何か……。どんな質問も彼女たちの興味を惹かなかった。それでも口をつぐめばたちまち冷たい沈黙が立ち込めるのがわかっていて、それを拒むためだけに博人は一人しゃべり続けた。
 しかし、それもあっという間に手詰まりになった。十分も経たないうちに子どもたちは退屈し始める。
 そんな博人を助太刀するような出来事が直後に起きた。チャイムも鳴らず、ノックの音も聞こえないまま、背後のドアが開いたのだ。
 エアコンで暖まりきった室内に、冷たい風が吹き込んでくる。ふわっと身体が軽くなるのを感じた次の瞬間、母娘の表情が何かを悟ったように曇り、麗央は一人目を輝かせて、飛び跳ねるようにイスから降りた。
「ばあちゃん!」
 博人はゆっくりと振り返った。団地の部屋に似つかわしくない真っ赤なコートを着た女が、狭い玄関でロングブーツを脱いでいる。
「おお、麗央。何? お客さん来とんか?」
「うん、知らんおじさん」
「へぇ、そうか。ほしたら、ばあちゃん迷惑やな」などと言いながらも、女はずかずかと室内に上がってきた。
 博人はあわてて立ち上がる。女は持ってきた荷物を床に置き、慣れた様子でコートをハンガーにかけながら「ああ、もう座っといてくださいや。すんませんね、むさ苦しいところで」と、強い南予訛りで言ってきた。
 その行動も、麗央の「ばあちゃん」という呼び方も、当然、女が子どもたちの祖母、つまりエリカの母親であることを指し示している。
 それなのに、すぐにはその考えに至らなかった。年齢すらよくわからない。身体のラインが浮き出たワンピースタイプのニットに、窓から差し込む光に馴染まない巻き髪、コートと同じ色をしたルージュ。
 女はあまりにも〝女〟であることを漂わせていた。それは、普段のエリカの服装が地味であることの理由のように思えた。
「お母さん、いいけん座って」というエリカの声を無視して、女は舐め回すように博人を見つめてくる。
「あ、あの──」と言った博人を手で制し、女は何かを悟ったように微笑んだ。エリカとよく似た黒目がちの瞳に、たけだけしい色が浮かんだ気がした。
「お世話になっております。母親のです。いつもエリカがお世話になっとるみたいで」
 女は声まで艶っぽかった。博人は身動きが取れなくなる。こんな経験はじめてだ。逃げ出したくて仕方がないのに、足が泥沼にはまりこんでしまったように雁字搦めになっている。
 美智子のいんぎんな挨拶は、むしろ自分の非を突きつけてくるかのようだった。
 記憶にあるのは強烈なプレッシャーと孤独感が胸に渦巻いたことだけで、博人はそれにどう返事をしたか覚えていない。

 それからは美智子の独壇場だった。すでに酒をのんでいたらしく、話題はエリカの幼少期のことから、自分が経営している店について、孫の面倒を押しつけられているという不満に、自分がどれほど苦労して生きてきたかという昔話まで、行ったり来たりを繰り返す。
 そうした話に麗央だけが「ばあちゃん、スゲー!」と、手を叩いて喜んでいた。エリカは最初のうちは止めようとしていたものの、途中からは何かを諦めたように目を伏せていた。
 一人身を硬くしている麗華の頭をでながら、美智子は続ける。
「この子らが恥ずかしくない生活を送れるんやったらと、エリカに夜の仕事を認めとったんです。当然、一生懸命働いとるものやと思っとったから孫の面倒を引き受けとったのに、まさかこんな素敵な男性とおつき合いしよったなんて。私は知らんかったんですよ」
 口調は丁寧だったが、博人の胸は痛んだ。エリカはそれでも母を止めようとしなかった。ありのままの姿を博人に見せつけているようだ。
 三十分ほどして麗央にしつこくせがまれ、美智子は二人を買い物にでも連れていくと席を立った。
「それでは博人さん、どうぞごゆっくりしていってください。良ければ今度お店の方にも来てくださいや。一度二人で話しましょう」
 もちろん、そんな気持ちは微塵もなかったものの、「ええ、是非」と、博人は笑顔で美智子から名刺を受け取り、自分の名刺を手渡した。
 三人が去っていくと、部屋の密度が一気に薄くなり、博人は深く息を吸い込めた。
「ごめん、エアコン切っていいかな」
 博人の声に応じず、エリカは自分の手を見つめている。「エリカ……?」という声にようやく肩を震わせたが、エリカが微笑むことはなかった。
 沈黙の度合いが一段増した。
「あの人こそ、私がこの街を離れたかった一番の理由です」
 そんなエリカの告白に、どういう意味……? と尋ねようとは思わなかった。ほんの一時間前までは通じなかったはずの言葉の意味が、いまの博人にはよくわかる。
「そして、私がここから離れられなかった理由でもありました」
 その意味もなんとなくだが理解できた。博人は小さくうなずくだけで、ずっと我慢していたタバコに火をつけた。
 煙を深く吸い込み、エリカがそっと差し出してきた灰皿にタバコを置く。紫煙が糸を引くように立ち上る。
 聞きたいことは山ほどあった。反面、何も知りたくないという気持ちも強かった。尋ねた瞬間に何かを背負わされそうな気がしたからだ。あれほど知りたかったはずのエリカの背景を、いまはこんなにも拒みたい。ようやく二人きりになれたというのに、博人はそれでも尚ここから出ていきたいと思っていた。
 エリカはそれを許さなかった。
「いつか博人さんが言ってくれた話、私すごくうれしかったんです」
「話?」
「東京に一緒に逃げようって言ってくれましたよね。俺と一緒に逃げればいいって。現実的じゃないのはわかってたけど、あの言葉だけで救われた。この人のことを信頼したいって思えたんです。そんなこと私は人生で一度もなかったから」
 博人は何も言えなかったし、エリカも返事を求めてこない。そして、再び口をつぐむ。今度は沈黙の意味がわからなかった。

#4-10へつづく
◎第4回〈後編〉全文は「小説 野性時代」第209号 2021年4月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第209号 2021年4月号


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