menu
menu

連載

早見和真「八月の母」 vol.2

【連載小説】瀬戸内の海辺の町で、狂おしいほどの欲望と嫉妬が絡みあう。 早見和真「八月の母」#1-2

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 父親と遊べたことによほど興奮したらしく、一翔はなかなか寝つかなかった。家にいるときはたいてい健次が寝かしつけてくれるが、今日はめずらしく早くからお酒をのんでいたこともあり、私が受け持つことにした。
 結局、一翔を寝かしつけるのに一時間近くかかり、リビングに戻ると、健次はワイングラスをかたむけながら夕飯時と同じニュースを眺めていた。
「おつかれさま。なんかずいぶん熱心に見てるね」
「ああ、ううん。べつに熱心なんてことはないけど」
 健次はぴくりと身体を震わせ、ママものむ? と尋ねてきて、いや、ごめん。いまはダメだもんね……と、私のお腹に目を向けながらあたふたして、最後は何かを諦めたように肩をすくめた。
「なんでかな。このニュースってどうしても気になっちゃうんだよね」
「どうして? 同い年の人だから? ひょっとして昔の知り合いだったり?」
「いやいや、まさか」
「じゃあ、どうしてよ」
「うーん、そうなんだよね。さっきから僕もそれを考えていた。なんでこのニュースがこんなに気になるんだろうって、自分でもよくわからなくて」
 健次は弱々しく首をひねった。その答えにさらに興味が湧いて、私も冷蔵庫から冷えた炭酸水を取り出した。
 二人目を妊娠した直後から、なぜか好んで飲むようになった。はじめはドラッグストアで一本六十数円のペットボトルを購入していたが、いつだったか健次が東北地方の天然炭酸水を注文してくれた。味の違いはあまりわからなかったが、以来、なんとなく気に入って続けている。
 健次はわざわざ新しいワイングラスを持ってきてくれた。久しぶりに二人きりでグラスを合わせる。小気味いい音が耳を打った。
 私は炭酸水を少しだけ口に含んで、見せつけるようにグラスを置いた。健次が発する次の言葉に、慎重に耳をかたむける。
 スーパーの安いワインを一息にのみ干して、健次もグラスをゆっくりと置いた。
「この事件って自分に対するナイフみたいなものだと思うんだよね──」
 視線をテレビに戻しながら、健次は覚悟を決めたようにつぶやいた。私は何も答えられなかったし、健次もそれを求めない。
「実際に事件があった七年前のこと、僕はすごくよく覚えてる。当時住んでたよこはまで起きた事件だったし、しかも同い年の人間が起こした凶悪犯罪だったから、報道だけじゃなくネットでも情報をあさっていた。あること、ないこと、いろんなことが書かれてたよ」
 七年前ということは、私はまだ二十歳になったか、ならないかという頃だ。地をうように生きていた地元の愛媛から東京に出てきて間もなかった時期。自分の人生を軌道に乗せることに精一杯で、ほとんどテレビも観ていなかった。
 そもそも私はマメにニュースを追いかけるタイプじゃない。むしろ、意識して視界に入れまいとしてきた。
 さすがに去年のえん罪証明のニュースはあまりにもセンセーショナルだったし、七年前とは違い健次という話し相手がいたから、情報は自然と入ってきた。それでも、実際の事件がどういうものだったかということはいまだによく知らないくらいだ。
 健次は私をいちべつもしなかった。酔いが回っているのか、ざんするような語り口調で静かに言葉を紡いでいく。
「さすがにネットの書き込みがすべて事実だなんて思わなかったけど、当然真実は交ざっているんだろうと思っていた。少なくとも、彼女が〝凶悪である〟という前提が揺らいだことなんてなかったし、その上で僕は怒ってたんだ」
「怒ってた? 何に対して?」
「そんなの、もちろんな人間の命を奪い取った犯人の身勝手さに対してだよ。正義の立場から怒っていた」
 健次はか細い息を一つ漏らした。知り合った頃からナイーブなところのある人だった。専門学校時代の友人から紹介されるというありふれた出会いにおいて、異性に限らず、他人に対して徹底して心を閉ざしていた当時の私がすんなりと彼を受け入れることができたのは、この繊細さを信頼できたからに他ならない。
 健次がテレビを消した瞬間、部屋に沈黙が降りた。直前の「無垢な人間の命」という言葉に、胸が音を立てている。
 それをひた隠そうとした私の動揺を、健次は悟らずにいてくれた。
「だけど、彼女は罪なんて犯してなかったんだよね。僕はそんなこと想像もしなかった。会ったこともない人のことを、会ったこともない人たちの言葉に踊らされて、勝手に黒だと信じ込んでただけなんだ。よく言われるように、彼女を殺したのはマスコミかもしれないし、警察かもしれないし、司法制度かもしれないし、彼女の周りの人たちかもしれないし、彼女自身だったのかもしれない。それはよくわからないけど、そういう全部をひっくるめて社会全体があの人を追い詰めたんだとしたら、彼女を殺したのは僕でもあると思うんだ。僕だって間違いなく社会を構成する一要素であるわけで──」
 健次はそこで微笑んだ。私を勇気づけるいつもの快活なものではなく、見たこともない力のない笑い顔。
 さすがにナイーブが過ぎると思った。なぜか大切なモノが汚されたという感覚を抱いて、私は思わずムキになった。
「でも、それは考え過ぎだと思う。そんなことを言い出したら、ニュースなんて何も信じられなくなる。家族との会話も、友だちとの話も成立しなくなる。勉強だって、読書だって意味のないものになっちゃうじゃない。何もかも自分の目で見てからじゃなきゃ判断しちゃいけないなんておかしいよ」
 健次は乾いた笑みを浮かべたまま、延々と首を振っていた。
「それでも、やっぱりダメなんだ。せめて誰かを断罪しようと思うなら、自分の目で見たものでしか判断しちゃいけないんだ。あの殺しに、僕だけは加担しちゃいけなかったんだ」
 そこまで言われて、ようやく私は腑に落ちた。小学校四年生のときに横浜から引っ越した北陸地方のある街で、健次の家族はいわれのない中傷を受けた。曰く、関東で大きな罪を犯したから一家で逃げてきたのだと。
 もちろん根も葉もない話だったし、最初は〝よそ者〟にありがちなことなのだろうと取り合おうとしなかった。しかし、ウワサはあっという間に尾ひれがついた。少しずつリアリティが増していって、一向に終息しなかった。
 同級生たちの遠巻きの視線は、健次が六年生に上がった頃にイジメに変わった。「自分がいじめられるだけなら耐えられた」と彼自身が言う通り、本当に苦しかったのは母親までもが陰口に留まらない陰湿なイジメを受けていると知ったときだ。
 地方移住は両親のかねての夢だった。横浜の自宅を売却し、縁もゆかりもない土地に新しく家を建て、「どうか仲良くしてください」と、近所にお菓子を持って挨拶に回った。「最初に下手に出たのがそもそもの間違いだった」と、いつか健次は苦虫をかみつぶしたような表情で言っていた。結局、健次の中学卒業を待たずに一家は逃げるように街を離れた。
 周囲に対する思いやりや、繊細な人柄に加え、私が健次に心を許せた理由がもう一つある。多感な時期を過ごした街を、二人とも心の底から恨んでいたことだ。
 健次から北陸での出来事を聞いたとき、私もつい愛媛のことを話してしまった。具体的なことは何も語っていない。母について口にした記憶もない。ただ、瀬戸内海に沈む夕日の湿っぽさを伝えただけだ。
 たったそれだけのことだとしても、東京に出てきて、私はほとんどはじめて地元のことを誰かに明かした。そのとき健次は「わかるよ。僕にはわかる」と言ってくれた。
 故郷の海に沈む夕日を眺める人たちは、そろって優しい笑みを浮かべていた。
 その穏やかな光景を目にしたときの強烈な孤独がよみがえり、そして私は人生ではじめて理解者を得たという気持ちになったのだ。
 きっと健次は覚えてさえいない。でも、あのとき彼が言ってくれた「わかるよ。僕にはわかる」に、私はいまでもしっかりと支えられている。

 前夜のお酒のせいだろう。翌朝、健次はいつもより起きてくるのが遅かった。一翔の方が先にご飯を済ませ、早速テレビにかじりついている。
 健次はどこか不機嫌そうにカウンターの卓上カレンダーに目を向け、少し考える仕草を見せてから、表の紙を一枚めくった。
 レンジで温めたご飯に箸をつけ、ぼそりとつぶやく。
「昨日はごめん」
「ううん。ずいぶん熱くなってたね」
「やっぱりそうだよね。なんかあんまり記憶にないや」
 そう照れくさそうに微笑んだかと思うと、健次は再び真顔を取り戻し、思ってもみないことを言ってきた。
「実は転勤が決まったんだ。九月下旬、シンガポール」
 あつにとられる間もなかった。「え……?」とこぼした次の瞬間には、全身の細胞が幸福感で充たされそうになっていた。
 健次は申し訳なさそうにこうべを垂れる。
「本当は昨日伝えようと思っていた。会社にはせめて出産まで待ってほしいと言ってたんだけど、ごめん、受け入れてもらえなかった。申し訳ない」
「そんなの、べつに……」
「本音をいえば、一緒についてきてほしいと思ってる。でも、ママにはママの人生があるのもわかってる。出産のことや、一翔の幼稚園のことはこれから一緒に考えていくとして、仕事のことはママ自身が決めたらいい」
 一瞬、私はカッとなった。仕事なんていますぐにでもやめればいい──。その言葉がのど元まで出かかったが、かろうじて押し留めた。
 健次に失望されるという気持ちもあった。でも、それ以上に強かったのは、たとえ安月給だとしても、他の誰かに替えの利く職業だと思われていたとしても、人生を誰にも委ねず、私自身が必死につかみ取ってきた仕事であるという思いだ。
 私だけはこの仕事を選んだ自分自身を軽んじるわけにはいかなかった。それなのに、そんな覚悟をはるかに上回って、この国を離れるということに、あの街からさらに離れられることに、甘美な気持ちを抱いてしまう。
「まだ時間はある。よく考えてみて」
 食器を重ね、キッチンに運ぼうとするとき、健次は不意に足を止め、先ほどめくった卓上カレンダーに目を落とした。
「今日から八月か。もうすぐ君たち二人の誕生日だね」
 一緒に出かけていった健次と一翔の背中を見送り、玄関先で、私はお腹をさすりながら空を見上げた。
 太陽はすでに高く昇っている。いつか故郷の海岸を真っ赤に染めたのと同じものであるのを不思議に思う。
 びた鉄の匂いが鼻をくすぐった。
 いまから二十七年前の八月、私はどんなふうにこの世に生を受けたのだろう?
 あの母は、やっぱり不器用な愛を私にも注いでくれたのか?
 これまで振り返るまいとしてきたことが、なぜか次々と脳裏をぎった。

▶#1-3へつづく
◎第1回全文は「小説 野性時代」第205号 2020年12月号でお楽しみいただけます!


書影

小説 野性時代 第205号 2020年12月号


紹介した書籍

MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2021年3月号

2月13日 発売

怪と幽

最新号
Vol.006

12月22日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP