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連載

早見和真「八月の母」 vol.14

【連載小説】あの子、男を惑わすような変な魅力があるよな。お前がのぼせ上がるのはわかる気がする。 早見和真「八月の母」#2-6

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

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「え、何?」
『虐待の話を聞いたって。お母さん、仕事に行っとったし、私、家に一人で……。どうしていいかわからんくて……』
 心臓が大きく拍動する。そこから吐き出された血が全身を激しく巡る。
「そ、それで? その記者の人に何かされたんか?」
 何を懇願するのかわからないまま、和幸はすがるように尋ねていた。エリカの泣き声がさらに不安を駆り立てる。
『それがよくわからなくて。なんでか知らんけど、記者の人、私の書いた作文の内容をよく知っとって、いろいろ聞かれました』
「何を聞かれた?」
『なんで街を出ていきたいのかとか。お母さんをどう思っとるんかとか。そんなことを聞いてきて、最後に決めつけるように言われたんです。お母さんに何かイヤなことをされよるんだよねって』
 当然、作文の内容を上原に明かしたのは和幸だ。そのことをふと忘れ、不安や恐怖や心配などがすべて吹き飛び、身体のど真ん中を怒りの感情が貫いた。
 エリカも和幸を疑いもせず、昨日起きたことをとつとつと説明した。こわくて何も答えずにドアを閉めたこと、記者がその足で一階の店舗に向かったこと、母が怒って記者を追い出し、何本ものの空き瓶を投げつけたこと、ただ事じゃないと思った近所の人が警察に通報したこと……。
 後半の話はほとんど耳に入らなかった。最後に何を伝えたのか、その記憶もあやふやなまま受話器を置くと、タイミングを見計らっていたかのように再び電話が鳴った。
 不思議とエリカがかけ直してきたとは思わなかった。相手が誰かすぐにわかった。慎重に呼吸を整えながら応答する。そうしなければ、すぐにでもせいを浴びせかけそうだった。
『ああ、おつかれさん。和幸か?』
 上原の人を食ったような声が和幸の神経を逆なでする。
「何したんぞ?」
『おいおい、なんだよ。やぶから棒に』
「いいから言えや! お前、エリカに何をしたんぞ!」
 沈黙が二人をハッキリと分断する。公衆電話からかけているようだ。車が往来する音が受話器を通じて聞こえてくる。
 上原は小さなため息を一つこぼした。
『いまからお前の家に行っていいか?』
「は? なんで?」
『なんでって、話をするために決まってるだろ? 俺、いまちょうど伊予市にいる。郡北小近くだ。お前の家、近くなんだよな?』
「うちはダメだよ」
『なんでだよ? お前、一度も俺を家に呼んでくれたことないよな。いつもうちに来るばっかりで』
「それはお前が強引に呼びつけるからやろ」
『いい機会だ。いまから行くよ』
「ほやけん、うちはダメって言いよるやろが!」
 和幸は思わず叫んでいた。直後に受話器からしらじらとした空気が伝ってくる。小馬鹿にするような上原の顔が目に浮かんだ。
『なんだよ、お前。ちょっとおかしいぞ。じゃあ、まぁいいや。いま話す。俺は愛媛県内の児童虐待について特集で取り上げられないかと考えてる』
「はぁ?」
『あれからいろいろと越智家について調べてみたけど、あの母親なかなかのタマだな。ただのネグレクトじゃ済まないかもしれない。もちろんあの家のことだけじゃなく、県内のいくつかのケースを取り上げて──』
 頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を覚えた。
「いや、ちょっと待ってくれや。児童虐待やなんて……。頼むよ、上原。あの子を傷つけることはせんといてくれや」
『ああ、その点は大丈夫だよ。安心しろ。もちろん身元がわからないように慎重に書くつもりだから。俺もお前と気持ちは同じだ』
「同じ気持ち?」
『救ってやりたいんだろ? わかるよ。あのエリカって女の子、特別美人っていうわけじゃないけど、男を惑わすような変な魅力があるよな。それをあの母親の遺伝子のせいにするつもりはないし、育った環境のせいにしたくもないけど、いずれにしてもお前がのぼせ上がるのはわかる気がする』
 言葉をしやくするのに数秒の時間を要した。ようやく意味をきちんと理解したとき、全身があわつような感覚に陥った。
「お前、本当に怒るぞ」
『とっくに怒ってるじゃん』
「大概にせぇよ。お前──」と叫びかけて、しかし和幸は声を荒らげはしなかった。上原が一転して周囲をうかがうような小さな声で、続けたからだ。
『だけど、気をつけろ。あの母親、何か感づいてるぞ。お前のこと「あの変態教師」って言ってたよ。その上で「エリカは絶対に誰にも渡さない」「あの子は私のものだ」って大荒れだった。俺はお前が間違ったことをしているとは思ってない。アメリカでもむしろそうやって積極的に家庭の問題に首を突っ込んでいく教師はたくさんいたよ。でも、だからこそ慎重にやらなきゃいけないんだ。正しいと思うことこそ慎重にな』
 気づけば和幸は受話器を耳に当てたまま、ぼうぜんと立ちすくんでいた。カーテンの開け放たれた窓に自分が映っている。小さい頃、周囲の人たちから「お父さんによく似ている」と言われ続けた自分の姿だ。
 その背後には壁一面をつぶした本棚が映っていた。大切にコレクションしてきた本やビデオが几帳面に並んでいる。
 そのことにはたと気づいたとき、和幸はようやく我に返る思いがして、慎重にカーテンを閉めた。

 翌日から和幸は自宅にかかってくる電話を取ることができなくなった。当然エリカであるのはわかっていたが、一階の店舗で美智子が盗み聞きしているかもしれないという恐怖が現実味を帯びたのだ。
 はじめのうちは一日に数度鳴っていた電話が、二日に一度に、そして数日に一度というふうに減っていった。当然さびしさと申し訳なさは覚えたものの、和幸はこれでいいのだとなんとか自分に言い聞かせた。
 それでもお盆の帰省を例年より数日遅らせたのは、十五日に電話がないことを確認したかったからだ。
 八月十五日はエリカの誕生日だ。彼女が十一歳になるこの日、月曜日ではあるが世間はお盆休みの真っ只中だ。せめて美智子が店を閉めてくれることを期待していたが、あの母親にそんな気持ちはないらしい。
 数日かかってこなかった電話が鳴ったのは、まだ十七時前だった。覚悟を決めて受話器を取ると、エリカは『良かった。やっとつながった』と独り言のようにつぶやき、すぐに涙で声を詰まらせた。
 和幸はなかなか言葉を発せなかった。しばらくしてようやく出てきたのは「エリカ、誕生日おめでとう」という祝いの言葉、そして「今日、お母さんは?」という質問だった。
 和幸の望んだ通り、美智子は前日から店を閉めているとのことだった。しかし、その理由は期待したものとはまったく違った。呆れたことに、美智子は最近できた恋人と旅行に出かけていったというのである。
『もう何年も誕生日なんて祝ってもらってない。お母さんはたぶん私の誕生日なんて覚えていない』
 美智子は食事代さえ置き忘れていったという。直前にかかってきた電話で、どういうつもりか「村上先生を頼りなさい」と言ったそうだ。
 そのことに怒りは芽生えなかった。ただ、心が冷たくなっただけだ。そんな女に「エリカは誰にも渡さない」「あの子は私のもの」などと口にする資格はない。
「これから準備して、二時間くらいで迎えに行く。待てるか?」
 とにかくご飯だけでも食べさせてやらねばならなかった。あんしたようなエリカの返事を聞いて、和幸は身支度を整えた。
 そして家を出る直前、なぜかうしろ髪を引かれるような錯覚を抱いた。玄関から室内を振り返る。何が気になったのか自分でもわからない。
 しばらく部屋を眺め続け、和幸はなんとなく本棚に布を被せた。

 母が一人で暮らしている実家は歩いて二十分ほどのところにある。何度となく実家に住むことは考えたし、母からも懇願され続けてきたが、社会人になってからは一度も一緒に暮らしていなかった。
 それでも、事あるごとに帰省するようにはしている。つい先週も顔を合わせたばかりだというのに、母はずいぶんうれしそうだ。
「ああ、良かった。もう今年のお盆は帰ってこんのやろかと思ってた」
 そうポツリと言ったあと、母は表情をさっと曇らせた。
「カズくん、出かけるん?」
「なんで?」
「なんかオシャレしとるから」
「ああ、いや。べつにオシャレなんてしとらんよ。でも、ちょっと出かけてこうわい。今日中には帰るけん」
「ご飯は?」
「ううん、ごめん。ご飯はいいわい。明日の夜は二人で食べようや」
「そう。ねぇ、そんなことよりあなたまた少しパパに似てきたんやない?」と、母は前触れもなく話題を変えた。「そう?」と尋ね返した和幸に微笑みかけることもせず、不気味なものを見るような目で見つめてくる。
「そうやって身ぎれいにしとるとうり二つ。すごいね、やっぱり血は争えんね」
「いやいや、そんなことないけん。僕はママ似やと思っとるよ」
「ウソばっかり」
「ホントやって。もう出かけようわい。車借りていくけんね」と曖昧に笑いながら、和幸は自分が動揺しているのに気づいていた。
 意味なく開けた冷蔵庫の奥の方に、缶ビールが入っていた。一瞬、父が遺したものかとも思ったが、そんなはずがない。昨年発売されたばかりのスーパードライだ。母がのんでいるのだろうか。そんな場面、和幸は一度も見たことがない。
 喉がごくりと音を立てた。身にまとわりつくような八月の暑さのせいか、母に余計なことを指摘されたからか。気づいたときには缶を手に取り、プルタブを開け、よく冷えたそれを一気にのみ干していた。
「もう、カズくん。これから運転するんやろ? ビールなんていけんやないの」というごとのような母の声が聞こえてくる。
 時計の針はちょうど十九時を指していた。
「大丈夫よ、一本くらい」と、和幸はいつもの笑みを母に向け、新しいビールをバッグに忍ばせながら、「それじゃ、ちょっと行ってこうわい」と、逃げるように家をあとにした。

#2-7へつづく
◎第2回全文は「小説 野性時代」第206号 2021年1月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第206号 2021年1月号


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