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連載

早見和真「八月の母」 vol.27

【連載小説】エリカとの距離は一向に縮まらない。自分がエリカの何に惹かれるのか、それさえよくわからなかった。早見和真「八月の母」#4-3

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 車の中では店にいるときや、メールのやり取り以上に会話が弾んだ。エリカはかつて見たことがないほど楽しそうだったし、博人の口もよく回る。
 許可を得て博人がタバコをくわえると、エリカも「私も一本もらっていいですか?」と尋ねてきた。店では吸っていないし、タバコを吸う女性はあまり得意でなかったが、それを伝えて変な空気にはしたくない。
「タバコ吸うんだね」
「前に吸ってたんです」
「前?」
「はい。一時止めてたんですけど、また吸い始めてしまいました」と笑いながら、エリカは窓の外に向け器用に煙を吐き出した。
 北条の海沿いにある洋食店に入ってからも話題は尽きなかった。エリカは「私のんでもいいですか?」とカクテルを注文し、博人も「じゃあ、俺も一杯だけつき合おうか」と、恩を着せながらビールをオーダーする。
「ねぇ、変なこと聞いていい?」と、よく冷えたビールでのどを潤してから、博人は上目遣いにエリカを見つめた。
「はい。なんですか?」
「エリカちゃんのその香水ってニナリッチ?」
「え? あ、はい、そうですけど──」と、さすがに予想外の質問だったらしく、エリカは呆けたように口をすぼめた。
「やっぱり東京の人ってすごいんですね」
「どういう意味?」
「女がつける香水の匂いを嗅ぎわけるなんて。そんな人、私の周りにいないですよ」
「いやいや、たまたま知り合いがつけてただけだよ。他の香水の匂いなんてわからないし、東京とか関係ないし、もっと言えば俺は東京の人じゃない」
 エリカは楽しそうに声を上げて、気を取り直すようにうなずいた。
「私、この香りが昔から好きなんです。なんか気分が明るくなる気がして。夏っぽいからなんですかね。夏は嫌いなはずなのに」
 誕生日は八月十五日だという。「なんで? 誕生日にいい思い出とかないの?」と、博人が冗談めかして尋ねても、エリカはやりづらそうに肩をすくめる。
「そうですね。いい思い出はあまりないですし、そもそも八月が苦手です。なんか人間を狂わせるイヤな時季じゃないですか? なんとなくですけど、八月って変な事件が多いっていう気がするんです」
 食事を終えると酔い覚ましという口実でエリカを浜に誘った。梅雨明け直後の夜の風は気持ち良く、沖合には無数の漁船が浮かんでいる。周囲は想像していた以上に真っ暗で、おかげでエリカの手を自然とつかむことができた。かすかに汗で湿っているのに、それでも冷たいのが不思議だった。
 手をつないでビーチを歩きがながら、エリカは「空気が抜けてる」と、独り言のようにつぶやいた。
 思わず足を止めた博人に、エリカも我に返ったように言い直す。
「私の育った伊予市の海より、こっちの方が空気が軽く感じます」
「そう? そんな違いってあるのかな。風が吹いてるからじゃない?」
「そうなんですかね。なんか空気が籠もっていないっていうか、重くないっていうか。息が吸いやすい感じがします」
 そう言うと、エリカは本当に胸いっぱいに息を吸い込んだ。博人も伊予市の海に泳ぎにいったことがある。小さい頃の思い出は当然のように輝かしいもので、空気の重たさなんて感じなかった。
 このことに限らず、エリカはたまに意味不明なことを口走る。流行りの〝天然〟や〝不思議ちゃん〟というのとは少し違う。唐突に話題が変わることが多く、そういう言葉はたいてい博人の心に引っかかった。
 つないでいた手に思わず力が籠もる。思い切ってその身を引き寄せようとしたとき、博人は案外冷静だった。そんなつもりはありません……。まだつき合ってもいないのに……。きっとそんなありきたりな言葉を聞かされると思ったが、意外にもエリカは素直に身体を預けてきた。
 かすかな波音だけが聞こえる夜の浜辺で、博人はまずエリカの額に、頰に、そしてゆっくりと唇に口づけした。とても温かく、柔らかい唇だった。そのまま鼻先を伝わせていくと、首もとから例の香水の匂いがした。
 エリカの態度は変わらなかった。しばらくはされるがままだったが、自分から博人の胸に手を押し当て、そのままゆっくりと身体を離す。
 そして海に視線を戻しながら、直前の出来事などなかったかのように先ほどの続きを話し始めた。
「ずっと嫌いだったんです。私、あの海が。いまでも嫌い。いまでもあの街から逃げ出したいと思っています」
 例によってすでに何かを諦めているかのような口調だ。
「だったら、逃げればいいじゃん」
「だから、それはできないんです」
「なんで? じゃあ、俺と一緒に逃げようか?」
「ごめんなさい。そういう冗談は苦手です」
「べつにまるっきり冗談を言っているつもりはないんだけど。もし、これから俺たちがつき合ったりして、俺がまた東京で働くことを選ぶかもしれないわけだし。そうしたらエリカちゃんもついて来たらいいだけじゃん」
 べつにムキになったつもりはない。駆け引きとも思わなかった。仮定の話をしただけだ。地元の友人たちと話すときにもよく感じる。あまりに矮小な思考をどうしたら解きほぐせるのか、考えることが少なくない。
 狙った通り、ほんの一瞬、エリカの表情が綻んだ。しかし、それもまたあっという間に諦めの色に塗り替えられる。
「それでも、ダメなんですよ。私にはあそこを離れられない理由がある。もし東京に行くんだとしても自分の力で行かなきゃ意味がないし、それに──」
 そこで不意に言葉が途切れた。かすかにいらった博人に微笑みかけ、エリカは弱々しく首を振る。
「私、七森さんが思っているような女じゃありませんよ。どうせそのうち失望されるに決まっています」
 夏の気配を含んだ夜風が身体を横切った。その言葉にこそ博人は深く失望する。「自分を物語のヒロインのように悲劇的に語る女が大嫌い」と、昔つき合っていた女が言っていたのをいまでもよく覚えている。
 もとより期待なんてしていない。そもそもエリカを好きなのかさえ、自分でもまだよくわかっていないのだ。
 たいして人間性も知らないこの段階で、何かをひた隠しにされ、その上で「思っているような女じゃない」などと言われても感じることはない。どうせたいした秘密でもないくせに……。そう鼻白む程度だ。
 一方で、博人は自分がひそかに興奮していることにも気づいていた。失望、苛立ち、怒り、興ざめ……。そういったネガティブな感情が、ときとして激しい欲情に化けることを自分はよく知っている。
 そんなことを思ったときには、もう一度エリカの手をつかみ取り、博人は先ほどより激しく口づけしていた。
 エリカは目を開いたままだった。すごく退屈そうで、鼻息が荒いのは自分だけだ。それを認識するたびに博人は興奮していく。
 俺だってお前が思っているような男じゃない──。
 そう叫びたくなる衝動を、激しく舌を絡ませることで懸命に押し殺した。

 会社の後輩にはきちんと断った。だからといってエリカと正式につき合うことになったわけではなかったが、同じ職場で働く以上、中途半端な状態を続けるわけにはいかなかった。
 北条に出かけた日を皮切りに、エリカと二人で会う機会が少しずつ増えていった。そうしてエリカと言葉を交わすたびに、博人はのことを思い出した。
 東京に住んでいた最後の数年につき合っていた四つ年下の女だ。良く言えば主体性があり、悪く言えば我の強いこの恋人に、博人は翻弄され続けた。
 とにかく気分の浮き沈みが激しい女だった。自分の調子のいいときは「ヒロちゃん、ヒロちゃん」と、こちらが引いてしまうほどくっついてくるくせに、ひとたび落ち込むとちょっとしたことに難癖をつけてきて、激昂することもあれば、泣き叫ぶことも、「もう別れる!」と言って聞かなくなることも多々あった。
 中学、高校と男子校で、大学に入学してからも決して恋愛経験が豊富だったわけではない博人にとって、美恵は手に余る女だったし、一方で恋人というものの基準でもあった。
 あまりにも振り回されることに疲れ果て、美恵の「別れよう」を受け入れてしまったことも何度かある。
 そうして美恵と離れている間、他の女性と食事に行ったり、デートをしたり、身体の関係を持ったこともあったが、気分が高揚したことは一度もない。行間を一つ一つ説明しなければ話していることが伝わらなかったり、景色に感動するポイントがズレていたりするたびに、博人は美恵を特別な女と認識した。
 何よりも他の女と美恵はセックスが違った。すぐに気分が乱高下するのとは裏腹に、美恵はセックスにだけはのまれなかった。美恵以外の女たちが博人に一方的に身を任せ、ウソくさくあえいだり、激しく感じていたりするのを目にするたびに、博人は一人取り残された気持ちになり、孤独な思いを抱かされた。
 他の女と交わると、必ず美恵を思い出した。ほどけるように意地が消えて、久しぶりに連絡するのは決まってそんなあとだった。そして「うれしいなぁ。やっぱり私にはヒロちゃんしかいないから」と、博人を喜ばすようなことを口にしながら、いざ肌を合わせると美恵はやっぱり人形のような冷たい目をするのだった。
 その理由を、いつか彼女はこんなふうに言っていた。
「私は人間が人間じゃなくなるのが嫌いなの。他の動物になくて、人間にあるものの一つって理性でしょう。その理性を失って、自分の欲望におぼれてしまう人間を私はどうしても信頼することができない。男も、女も関係なくね。そんなことも制御できない人間に、自分の人生なんてコントロールできるわけないって思うから。だからヒロちゃんも、セックスなんかで絶対に自分を見失わないで」
「セックス以外ではすぐに理性を失うくせに?」と、あえて茶化して言った博人に、美恵は怒ることも、一緒に笑うこともなく、しみじみとうなずいた。
「そうだね。だからこそ、なのかもしれない。私はどうしても自分の女の部分を抑制することができないから、せめて欲望くらいは自分の手のひらの中に収めておきたいと思うのかも」
 そんな理屈っぽいことではなかったけれど、北条の海で、エリカも似たようなことを言っていた。
「私は、たぶん欲望がこわいんです。こわいし、憎いし、ずっと遠ざけたいと思ってました。とくに男の人が我を失う瞬間が本当にこわくて、だから、なるべく直視しないようにしてきたつもりです。それはこれからも変わらないと思います」
 はじめてエリカの背景を感じさせる言葉だった。街中で落ち合ってからすでに何時間も経っていたのに、そう口にするエリカからまだほのかにバニラの香りが漂っていた。
 それがニナリッチというブランドの香水の匂いだと博人に教えてくれたのは、他ならぬ美恵だった。
 いつかベッドの中で博人を胸に抱き、美恵はずっと頭を撫でてくれていた。バニラの香りが心をすうっと鎮めてくれ、だから直後につけられたパーラメントの煙がひどく鬱陶しく感じられたのを覚えている。
 女性のタバコが苦手になったのは、おそらくはあの夜からだった。美恵とエリカのタイプは違う。顔も、性格も、雰囲気も。しかし、共通点もいくつかある。つけている香水、雰囲気にのまれない特性、連絡をしてくるタイミングの良さも一つだろう。
 二人はまったく違う場所に立っている。でも、それぞれのロープを慎重に辿っていけば、同じゴールに辿り着く。そんな気がしてならなかった。
 そこにあるものは、おそらく「本質」のようなもの。
 美恵の本質ならば理解できる。では、エリカのそれは──?
 あの北条の夜以来、博人はエリカという人間のことが気になって仕方がない。

#4-4へつづく
◎第4回全文は「小説 野性時代」第208号 2021年3月号でお楽しみいただけます!


書影

小説 野性時代 第208号 2021年3月号


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