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連載

早見和真「八月の母」 vol.1

【連載小説】瀬戸内の海辺の町で、狂おしいほどの欲望と嫉妬が絡みあう。 早見和真「八月の母」#1-1

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

プロローグ

 八月は、母の匂いがする。
 何年もそのことに気づかないフリをしていた。自分が気づかないフリをしていたのだということを、ある日、私は不意に知らされた。
 その正確な日づけも覚えている。いまから五年前、八月十四日──。
 三十時間を超える難産の末に赤ちゃんが私たちのもとに来てくれた日、手早く身体の羊水を拭き取って、助産師がそっと胸に置いてくれた赤ちゃんの匂いを、私は思いきり吸い込んだ。
 柔らかく、優しくて、砂糖を水で溶かしたような甘い香りがした。「ああ、赤ちゃんの匂いがする」と、誰にともなくつぶやき、まだ濡れた髪の毛にゆっくりと手を伸ばしかけたとき、甘さの奥に、私はかすかな血の匂いを見つけた。
 胸を駆け巡ったのは、猛烈な嫌悪感だった。血が苦手というタイプではなく、直前までこれ以上ない幸せに包まれていたはずなのに、私は言いようのない不快さを感じずにはいられなかった。
「どうかした?」
 立ち会っていた夫の目は潤んでいた。その顔を見て、私ははじめて自分の腕が止まっていることに気がついた。
「ううん。幸せだなって。この子に、私たちのところに生まれてきてくれてありがとうって」
 私はあわてて赤ちゃんの髪をでた。カンガルーケアとして、おっぱいを口にふくんだ男の子の様子を見ていたら、感動で私の頰にも涙が伝った。
 それでも、心は晴れなかった。焼きつけなきゃ、焼きつけなきゃ。この子のこの姿をしっかりと目に焼きつけなきゃいけないんだ。心の中で、何度も、何度も唱えていた。そうしていなければ、弾かれたように湧き上がった拒絶感に意識が持っていかれそうでこわかった。
 産後の処置のために赤ちゃんが連れていかれ、静けさを取り戻した分娩室の窓から、真夏の陽が差していた。
 私の人生から母がこつぜんと消えた日のことがよみがえった。
 ずっと記憶から消そうと思っていたし、感情を自制してきたつもりだった。それなのに、あの出産の日以来、ムンとした夏の熱気を感じるたびに私はあの人のことを思い出す。
 八月は母の匂いがする。
 八月は、血の匂いがする。
 これ以上ない喜びに充ちていた五年前の朝、生まれてきたばかりの赤ちゃんの匂いの中に、封印していた自分の過去を見つけてしまった。
 後悔に似た負の感情が一気にあふれ出した。
 私はそれを誰にも見つからないよう、幸せの中に必死に閉じ込めようとした。

 母から連なる物語が、自分という人間を経由し、赤ちゃんを通じて未来へつながってしまったことへの恐怖があった。
 憧れてやまなかった家族をようやく手に入れたというのに、先立つのは不安ばかりだった。そのことが、五つ年上の夫のけんに対して、そしてかずと名づけた生まれたばかりの赤ちゃんに対して、ひどくうしろめたかった。
 一翔の出産からしばらくの間は二人目を考えることなどできなかった。それどころか一翔を産んだ日の濁った感情がよみがえり、健次と関係を持つことはおろか、身体に触れられることにも抵抗があった。
 健次は辛抱強く私の気持ちを待ち続けてくれた。ふて腐れるような子どもじみた態度を取ることもなく、暴言をぶつけてくることもない。その優しさがうしろめたさとなって、私の方が理不尽に八つ当たりすることもあったけれど、そんなときも弱ったように微笑ほほえみながら受け入れてくれた。
 私は何度も泣いて謝った。自分の不安定さを呪っていた。こんなに幸せなのにいったい何が不満なのか? 心の中の誰かが尋ねてくる。不満なんてあるはずない。だけど、自分が幸せであるという事実に私は言いしれぬ恐れを抱いてしまう。
 一翔が二歳になった頃、ようやく健次に身を預けることができた。最後まで身体は硬直したままだったし、やはり嫌悪感を拭うことができず、これでまたしばらく何もないのだろうと気がふさいだ。
 しかし事を終えたあと、健次は「ああ、良かった。本当はもうこのまま一生ないんじゃないかってビビってたんだ」と、かすれる声を上げた。
 私が落ち込んでいることを悟り、わざとおどけてくれたのだろう。あるいは何事においても涙もろい彼のことだ。本当に泣いていたのかもしれないけれど。
「何それ、大げさ」と一緒になって笑って、あらためて「でも、本当にありがとう。これまでごめんね、パパ」と口にできたとき、ふっと心が軽くなるのを感じた。以来、自分から積極的に彼の手をつかめるようになったし、身体にも自然と触れられた。
 一翔もすくすくと成長してくれている。あっという間に四歳になった彼との関係も良好だと言えそうだ。
 去年の秋、念願の二人目の妊娠がわかったときは、飛び跳ねて喜んでいた。「今度は女の子みたいだよ」と伝えると、一翔は瞳を潤ませてまでこう叫んだ。
「じゃあ、僕が守ってあげなくちゃね!」
 優しくて、家族思いで、涙もろい。一翔が健次に似ているのだとしたら、お腹の女の子はどちらに似るのだろう。
 そんな一抹の不安はあったけれど、育児と、仕事と、家事に忙殺されていれば、神経をすり減らさずに済んだ。
 この一年くらいは、だから母のことをあまり思い出さなかった。それなのに、いつもより長かった梅雨がようやく明けたせいか、それともこのタイミングで産休に入ったからだろうか。この数日間は妙に胸がざらついた。
 ふとカレンダーに目を向ける。
 明日から八月だ。
 太陽の熱をいっぱい吸収した洗濯物を畳み、この夏は一翔をどこに連れていってあげようかと思いながら、私はため息を止めることができなかった。

 七月最後の夜、健次がいつもより早く帰宅してきた。一翔が「おおっ、パパじゃん!」などと大喜びで足もとにまとわりついて、健次の顔をこれ以上なく緩ませる。
「お鍋、できてる?」と、健次はネクタイをほどきながら尋ねてきた。
 常に目線は対等だし、家事は女の仕事などと口が裂けても言わない人だ。こんなふうに食べたいものをリクエストしてくるというのも、いつ以来のことだろう。
「うん、もうすぐできるよ。例によって味の保証はしないけど」
 私は料理に自信がない。ネットで拾ったレシピを忠実に再現するだけの料理を、健次はいつも褒めてくれる。
「大丈夫。ママの料理はたいていおいしい。な、一翔」
「うん。辛いのと緑の豆以外はね」
「緑の豆はパパも嫌いだ。あんなもんは食べなくていい」
「豆なんて納豆だけあれば充分だよね」
「ああ、充分だな」
 まるで前々から約束していたとでもいうように一緒に風呂場へ消えていって、あっという間に戻ってきた二人とともに、久しぶりに家族で食卓を囲んだ。
 東京、たかの2LDKの賃貸マンション。七十㎡という広さも魅力だったが、かしら公園まで歩いて十五分という立地がこの家に決めた一番の理由だ。飲料メーカー勤めの健次と、歯科衛生士をしている私の収入では少し背伸びした物件だったが、一翔が生まれてから引っ越してきたこの家はいつも笑いにあふれている。
「いただきまーす!」と大声で叫んですぐ、一翔がテレビのリモコンを手に取った。二人で食事をするときはテレビをることを許しているが、健次がいるときはつけないように普段から約束させている。
「一翔、今日はパパいるでしょ」
 私は一翔からリモコンを奪い取った。ちょうど十九時のニュースをやっていた。その内容も食卓にふさわしいものとは思えず、消そうとしたが、健次が画面に視線を向けながら「ああ、ごめん。ちょっとだけ見せて」と手で制してきた。
 去年、日本中が大騒ぎになったニュースの続報だ。死刑執行後にえん罪だったことが判明した元女性死刑囚の控訴審が今日から始まったというのである。
 私にはその意味がわからなかった。痛ましい出来事だったのは間違いないし、事実が明るみに出たときには警察のさんな捜査にも、国のチェック体制の甘さにもしっかりと腹を立てていた。でも、世論のうねりが引いていくのと見事に比例して、私の憤りも消えていた。
 事件の詳細が明らかになるにつれて、むしろ不可解さが募っていった。その元死刑囚は生前一度も再審請求をしていなかったというのだ。それを理由に「国の金を使った壮大な自殺」などという批判をネットで目にしたこともある。さすがにその意見には同調できなかったが、彼女が死にたがっていたのはきっと間違いないのだろう。
 その女性の控訴審というニュースには、どういう意味があるのだろうか。誰が、誰を訴えているのだろう。亡くなった元死刑囚はそれを望んでいるのか。部外者の私には何も判断できなかったし、健次がなぜこのニュースに興味を抱くのかもわからない。
 私の視線に応じるように、健次はポツリとつぶやいた。
「彼女、同い年なんだよね。僕と」
 そうか、生きていればまだ三十一歳なのか……と思う程度で、その言葉の本当の意味はやっぱりわからない。
「ニュース、つまらないよ。替えるよ」と、一翔が再びリモコンを手に取った。画面が原色のうるさいバラエティ番組に切り替わる。
 いつもなら怒ってテレビを消すところだが、空気がたしかに弛緩したのを感じ、私は救われた気持ちになった。

▶#1-2へつづく
◎第1回全文は「小説 野性時代」第205号 2020年12月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第205号 2020年12月号


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