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連載

早見和真「八月の母」 vol.15

【連載小説】もう二度と私の前には姿を現さないと言ってたくせに……。 早見和真「八月の母」#2-7

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

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 どうやって呼びだそうかと悩んでいたが、クラクションを鳴らすまでもなく、店の前に車を停めるとエリカはすぐに外に出てきた。
 和幸がなんとなくよそ行きの服を選んだように、エリカもまた学校では見たことのないロング丈の黒いワンピースを着ていた。
 とてもよく似合っている。素直な気持ちでそう思ったが、教え子に対してどう褒めてあげたらいいのかよくわからなかった。
「久しぶりやな」
 エリカはうなずくだけだった。会うのは一学期の終業式の日以来だ。もう二週間、まともに話もしていない。
 エリカが緊張しているのはよくわかった。和幸も同じだ。カーステレオをつけておかなかったのを後悔する。こちらの緊張を悟られてしまいそうで、いまさらつけるタイミングも見つからない。
「お腹、空いとるよな?」
「はい」
「とはいえ、店も入れんし。弁当でかまんか?」
 エリカがうなずいたのを確認して、車を国道56号線沿いの「ナイトショップ」というコンビニに停める。
「ちょっと待っとけ。カギは閉めとけよ」と言い残して入店し、自分の分も含めて二つ弁当を買い求めた。
 車に戻ってもエリカは身を硬くしたままだった。さすがに和幸の方は緊張がほぐれ、「こわいんか? エリカがこわいと思うんやったら今日はそれを持ってもう帰れや。送っていくけん」と語りかけた。エリカはぶんぶんぶんと、音が鳴るほど強く首を横に振った。
 狭くて古い軽自動車の中に、十一歳になったばかりの少女の髪の毛の香りが漂った。和幸は小さく息をこぼし、自然な流れでラジオをオンにする。子どもたちの間でっている光GENJIでもかかっていれば良かったのだが、流れてきたのは発売されたばかりのテレサ・テンの『別れの予感』という曲だった。
 小学生と一緒に聴く歌じゃないなと思いながらも、つい口ずさんでしまった和幸に、エリカも安堵したように微笑んだ。
 それでも会話は生まれない。人目につかず、車を停めても怪しまれない場所が思いつかず、仕方なく車を海に走らせた。
「さぁ、温かいうちに食べよか。エンジンは切るぞ。暑くなったら言えよ」
 海岸沿いに車を停めると、和幸は目立たないようにエンジンを落とした。それでも窓を開ければ気持ちのいい風が入ってくる。
 エリカは目を見開いて弁当のふたを開けた。揚げ物のいい香りが立ち上る。いまにもツバを飲み込む音が聞こえてきそうだった。よほど腹が減っていたのだろう。「いただきます」と言うこともなく、エリカはガツガツと唐揚げを平らげていく。
 一心不乱に……といえばまだ聞こえはいいくらいだ。その姿はまるで死骸にありつく獣のようだった。
 身体の膨らみを感じさせるタイトなワンピースに、ふんわりとした髪の毛。そこだけ切り取ればしっかりと大人びて見えるのに、順手でナイフをつかむかのような箸の持ち方も、ボロボロとおかずをこぼす様子も、それをまったく気にしないことも、そのどれもが子どもそのもので、あまりにも無防備だ。
 そう、エリカの本質は無防備であることだった。それはそうだ、まだ十一歳なのだから。それなのに十一歳であることをつい忘れさせる大人びた仕草と、ふと垣間見せる包容力がエリカをエリカたらしめる要因であり、和幸が最初に警戒心を抱いた最大の理由だった。
 身体の芯から男としての本能的なうずきを感じた。密室にいるのは危険と判断して、和幸は何も告げずに外へ出た。
 当然、エリカもあとをついてくる。和幸は必死に意識を切り替えようとした。
「実は先生もこの街を出ていきたいと思いよったんよ」
「え……?」
「やっぱり小学生の頃にな。生きることがなんだかいつも息苦しくて。出ていく手段はこんなにたくさんあるのに、常に何かに縛りつけられとるような感じがあった。あり地獄の中におるみたいにいつも一人でもがきよった。エリカにならわかるんやないか?」
 沖合に無数の漁船が見えている。右手の陸には松山空港のネオンが揺れている。どこに向かうのか、上空にはライトを点滅させた飛行機が飛んでいる。街を二つにわけるように国道56号が南北に走っていて、電車なんてJRと伊予鉄の二つの線が通っている。
 昔と何も変わらない景色。変わらない風、音、匂い。出ていく手段はたくさんあった。望めばすぐにでも逃げられるものと信じていた。しかし三十歳を迎えようとして尚、自分はこの場所にいる。それがすべてだ。あの小五の夏の夜と変わらず、自分はここに立っている。
 あの頃の自分と同じ夢を持つ、あの頃の自分と同じ年齢の少女に、街を出ていく話をひたすらした。勉強することの意味を説いてみせた。この子の目にこの街はどう映っているのだろう。自分の話は届くのか。
 和幸は祈らずにはいられなかった。しかし、すべての話を聞き終えたエリカの口から出てきたのは、願ったものとはまったく違う。正反対といっていいような、絶望的なものだった。
「でも、お母さんは女の子は勉強なんてせんでいいって。素敵な男の人をつかまえて、その人に愛され続けることが幸せなんやって……」
 エリカの声は尻すぼみに小さくなっていく。ため息が自然と漏れた。エリカ本人だけでなく、母親の美智子だけでもない。その先の、さらに先から続く女たちの長い負の物語を感じずにはいられなかった。
「お前はお母さんの生き方を認めとるんか?」
 エリカは何も答えない。鼓動がどんどん速まっていく。
「お前の頭で考えろよ。お前は何を信じとるん?」
「で、でも、お母さんはお母さんやから──」
「そのお母さんはお前を幸せにしてくれとるんか? お母さんみたいに生きたいってお前は思っとるんか? エリカ、いつか先生に言いよったな。私には子どもが欲しいと思うものがわかるんやって。それって、つまりお母さんからお前が与えてもらえなかったってことなんやろ? だったらお前はあの母をしっかり否定せんといかん。そうやないと……、そうやないとお前はこの街から──」と言いかけたとき、不意に鉄っぽい臭いが鼻に触れた。
 新鮮な血の香り。
 古い記憶の奥底に眠る匂い。
 和幸が最初にそれを嗅いだのは十五歳のときだった。
 その匂いの出所をゆっくりと目で追いかける。その先でエリカがおびえたような目で見上げている。
 和幸は思いきり噴き出した。当然、笑うタイミングじゃない。エリカはますます不安そうに顔をゆがめた。おかしいのは自分とわかっていた。顔を見られるのを拒みたくて、必死に肩で口もとを覆ったが、笑いがあとからあとから込み上げてくる。
 どの口が言うのだろうと心の底から辟易する。父という人間を否定しきれず、結局この街から逃げられず、この街で生きることを選択している自分に何が伝えられるというのか。教えられることなんて一つもない。そう開き直ってしまえば、いっそ心は軽くなる。
 もう十五年以上も前のことだ。父が松山市内で家出中の中学生に声をかけ、金で関係を持とうとした。酒に酔っての行為ということで、相手の保護者は警察沙汰にはしないでくれたが、すぐにウワサは広まった。結局、父は追われるように役場の仕事を辞した。
 その事実を知らされたとき、母はその場で泣き崩れたが、和幸はショックを受けなかった。むしろ許されたような気持ちになった。頭では父を否定しなければいけないとわかっていたが、どうしても心が許されたがった。自分の正体をやっと見つけた気がした。
 中一で精通を迎えた頃から、悪夢の中を生きているようだった。一人でもがき続けていた。自分は狂人なのかと何度自問したかわからない。中三の夏に街で知らない少女に声をかけ、その尊い身体にはじめて触れたとき、どうしようもない罪悪感と一緒に襲ってきたのは正体不明の孤独感だった。
 少女たちの前でこうべを垂れて、和幸はいつも泣いていた。弱々しく涙をこぼしながら、必ず同じ言葉を繰り返した。
 少女たちはたいてい不気味そうな顔をしていたが、和幸が泣いて、泣いて、そしてしつこく同じ言葉を繰り返せば、彼女たちは必ず許してくれた。その小さな胸で和幸を強く抱きしめ、頭を撫でてくれたのだ。
 父を否定はできなかった。それどころか自分だけが理解できた。遺書は判読できなかったとしても、本当は父が死んだ理由も想像がついていた。少なくともあの『ごめんなさい』が誰に宛てられたものかは知っていた。和幸自身が少女たちにかけていたのとまったく同じ言葉だったからだ。
 父の書斎を整理したのも和幸だ。母には手を出させなかった。そして押し入れの奥深くに大量のVHSテープを見つけたとき、やはり笑いが込み上げて仕方がなかった。その瞬間、この街を離れるという意味も意欲も消え失せた。
 父もまた何年も、何十年も悪夢を生きていたに違いない。自分は一人じゃなかったのだ。自分がどこから来たのかを確信した。
 そうして孤独が消えていくのと引き替えに訪れたのは、結局自分に逃げ場などないのだという強烈な諦めだった。
「ごめんな、エリカ。それと誕生日おめでとう──」
 気づけば、和幸は涙をこぼしていた。怪訝そうに首をひねったエリカの背中に手を置いて、懸命にいつもの笑顔を取り繕おうとしたが、ダメだった。
 ぴくりと肩を震わせ、身体を硬直させはしたものの、案の定、エリカは和幸の腕を払いのけようとしなかった。
 わかっている。彼女たちは絶対に僕を拒絶しない。母性は、母親になってはじめて得るものではないからだ。女という生き物が生まれながらにして身につけている。十歳も、二十歳も、三十歳も、四十歳も関係なく、すべての女は男を許す。彼女たちは僕を許す──。
 そもそも僕を誘惑してきたのはこの子たちの方ではないか。エリカだって同じだ。せっかく教師になってからは性的な衝動とうまく折り合いをつけてこられたのに、あけすけに心を開き、無防備に笑って、僕の警戒心を無理やり解いた。勝手にこちらの領域に踏み込んできたのはエリカの方だ。
 それを咎められる筋合いはない。僕は無理やり何かをしたことなんてない。エリカをはじめ、すべての少女たちが手を差し伸べて欲しいと叫んでいた。僕にとって彼女たちが間違いなく神であったように、彼女たちにとって僕も神であったはずなのだ。
 僕は何も悪くない。僕は悪くない。だって僕は……。これは言い訳なんかじゃない。ただの事実だ。絶対に僕が悪いわけじゃない!
「だって──!」と心の叫びがついに口に出たところで、和幸はようやく自分の呼吸がひどく荒くなっていることに気がついた。
 全身に汗がまとわりついている。
 喉がひどく渇いている。
 不意に我に返ることができたのは、おそらくは最終の飛行機が空港から飛び立っていくのが見えたからだ。
 子どもの頃、あれに乗ってこの街を出ていきたいと願っていた。来る日も、来る日も、この場所で、一人で飛行機を見上げていた。
「先生……?」
 ゆっくりと視線を落とすと、瞳に艶を宿した少女が上目遣いに自分を見ていた。
 いや、不安に駆られた教え子か。
 ごくりと喉が音を立てる。一九八八年八月──。今年の夏は例年よりもずっと暑い。きっと僕だけじゃないはずだ。人間がおかしくなるのに充分すぎる暑さだった。
 ポケットに忍ばせていたビールはすっかりぬるくなっていた。それを取り出し、一気に身体に流し込んだ。
「とりあえずの家に帰ろうか」と、エリカの冷たい手を握りしめながら、それでもいまならまだ引き戻せるのではないだろうかと、和幸は自分に問いかけた。

#2-8へつづく
◎第2回全文は「小説 野性時代」第206号 2021年1月号でお楽しみいただけます!


書影

小説 野性時代 第206号 2021年1月号


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