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連載

早見和真「八月の母」 vol.16

【連載小説】もう二度と私の前には姿を現さないと言ってたくせに……。 早見和真「八月の母」#2-8

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

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    ※

「ママの田舎って愛媛っていうところなんだよね?」
 まるで大昔の子どものようだ。白いランニングシャツに、短い半ズボンという恰好で水筒の水を直接飲んで、かずが真夏の太陽を全身に浴びながら尋ねてくる。
「んー、そうだよ」と、私は木陰で読んでいた本からゆっくりと視線を移した。直前まで没入していた物語の世界から、濃い緑の光景に切り替わる。
 幼稚園が夏休みに入り、毎日のように一翔とどこかに出かけている。昨日は市営のプールにつき添い、その前の日は電車で鉄道博物館に連れて行った。出産を来月に控え、さすがに連日の遠出は身体に応え、今日こそはエアコンの効いた家で安眠をむさぼろうと心に決めていたのだが、結局体力を持てあました一翔の強い押しに負けてしまった。
 自宅から歩いて十五分ほどのところにあるかしら公園は、同じような母子の姿が目立った。母親たちの表情はおおむね柔らかい。この炎天下、彼女たちもここに来るまではきっと憂鬱だったに違いないが、木漏れ日のあふれる園内には気持ちのいい風が吹いていた。
「どうしたの、急に」
 私は本をゆっくりと閉じて、一翔に微笑みかける。今月までは一人っ子の恩恵を目いっぱい受けるのだと息巻く五歳児は、なぜか深刻そうな表情で首をひねり、となりのベンチにちょこんと座った。
「こないだ、よこはまのおばあちゃんがそう言ってたから。僕には幼稚園のみんなみたいに夏に行く田舎がなくてつまらないって言ったら、ママの田舎はここからずっと遠い愛媛ってところだよって」
「ああ、そうなんだ」
「ねぇ、どうして僕たちは愛媛に行かないの?」
 決して動揺はしなかったし、義母に他意がないのもわかっている。ただ、簡単に帰れる故郷でないことを一翔に対して少しだけ申し訳なく思う。
「ママにはもう愛媛に会う人がいないんだ」
「きょうだいは?」
「ママは一人っ子」
「じゃあ、お父さん」
「ママが生まれたときにはいなかった」
「そうなんだ。じゃあ、ママのお母さんは? 僕のおばあちゃん」
「おばあちゃんは、そうだね。一翔のおばあちゃんは──」と口にしたところで、言葉に詰まった。
 セミの鳴き声が少しずつ小さくなっていく。記憶が一瞬、あまりに湿った風が身体にまとわりついていたあの年の夏につながった。
 笑みは自然に浮かべられていたはずだ。いつかこんなことを聞かれる日が来るのもわかっていた。それなのに、私は質問にうまく答えることができなかった。
「一翔のおばあちゃんは亡くなったの。お母さんがまだ中学生だったとき。だから、もうこの世にはいないんだ」
 ゆっくりとセミの声が戻ってくる。できればウソは吐きたくないと思っていた。そのための答えもいくつか用意していたつもりだったのに、いざそのときを迎えると無駄だった。
 一翔の眉が八の字に歪む。好奇心の旺盛な子だ。どうして亡くなったの? それからお母さんはどうしてたの? と、畳みかけるように質問が続くのだろうと身構えたが、一翔の興味は他に向かった。
 きっと同情してくれたのだろう。泥だらけの手を私の手の甲にそっと置いて、一翔は思ってもみないことを言ってくる。
「そしたら友だちに会いにいこうか」
「うん?」
「愛媛に友だちはいるでしょう? その人たちに会いに行けばいいんだよ」
 世紀の大発見をしたというふうに瞳を輝かせる一翔を見つめ、私は思わず苦笑した。
「ああ、そうか。友だちに会いに行けばいいんだね。なるほど。一翔、賢い」と、その頭を撫でながら、私は再びウソを吐いた。
 故郷に友だちなんていなかった。小学生の頃はみんなが自分を遠巻きに見ているのはわかっていたし、たまに私と遊んでくれる子がいたとしても、その子のお母さんたちが喜んでいないのは雰囲気で伝わった。学校の先生だって何かと目をかけようとはしてくれたけれど、信頼を置くまでには至らなかった。
 まだ愛媛にいた頃、私が本当の意味で心を許せた人は一人だけだ。でも、中学時代に深くつながることのできた彼とも、結局あの事件によって分断された。私は彼を裏切ったのだろう。あの日以来、彼とも一度も連絡を取っていない。彼はまだ愛媛にいるのだろうか。彼は幸せに暮らしているのだろうか。
「ねぇ、一翔はいま幸せ?」
 私はなんの気なしに質問した。一翔はなぜかふくれっ面になった。
「勝手に話を変えないでよ。いまは愛媛の話でしょう」
「一翔こそ何よ。なんでそんなに愛媛のことが気になるのよ」
「いやぁ、それがさぁ。カオリ先生が夏休みに旅行するって言ってたんだよねぇ」と、よく聞いてくれたというふうに一翔は胸を張る。
「はぁ?」
「僕なんかうれしくなっちゃって。今度どんなところか教えてあげるって言っちゃったんだ。だからママに教えてほしいんだ」
 なんていうことはない、カオリ先生とは一翔の幼稚園の先生であり、初恋の人だ。その女の先生が母親の故郷に旅行に行くと聞いたものだから、途端に気持ちが大きくなったということらしい。
「何よ、その理由。呆れた」
 そう笑いながら、私は一翔に愛媛の話を聞かせてあげた。でも、それは自分の見てきた街の景色とは全然違う。山の上にお城があって、おいしい団子があって、文学の気配があって、日本で一番古い温泉があってという、ガイドブックを開けば出てきそうなことばかりだ。
 それを一翔はうれしそうに聞いていた。「へぇ、いいねえ。ねぇ、ホントに夏休みの間に僕たちも遊びに行こうよ」と、懇願するように口にし、心から満足したような表情を浮かべながら再び遊具へと駆けていった。
 そのうしろ姿を見送り、私は再び本を開いた。しかし、再び物語に集中することはできなかった。
 胸の奥にかすかなざらつきを感じていた。自分の目で見てきた本当の愛媛とはどんな姿だったろうと思いを巡らす。少なくとも松山ではなく、伊予市の景色だったのは間違いない。
 真っ先に脳裏を過ぎったのは〝夜市〟と呼ばれるにぎやかなお祭りの風景だ。港から上がる花火も本当に美しく、見事だった。しかし、そういった心弾ませたはずの記憶にさえ、とっくに黒いベールが被さってしまっている。
 私にとっての伊予市の象徴はやっぱりあの海だ。東京に出てきて、けんと出会い、はじめてしようなんの海に連れて行ってもらったとき、何よりも驚いたのは外海特有の波の高さではなく、どこまでも広がっているような大きさだった。
 故郷の海が狭かったのだと、このときはじめて知らされた。湾状になった土地の作りもさることながら、沖合の島々がそう見せていたのだろう。
 家の中に居場所がなく、街の中でも息苦しさを感じたとき、私はよく一人で海に行った。そうして深く息を吸い込もうとしてみるのだが、どうしても「閉じ込められている」という気持ちを拭うことはできなかった。
 あの海でいつも感じていたのは果てしない絶望だ。この街から逃れることができない、あまりに非力な自分を象徴するような場所だった。右手に見える空港から飛び立っていく飛行機にどれだけ憧れを募らせたかわからない。
 セミの鳴き声はますます激しさを増していたが、周囲は少しだけ夕方の気配を漂わせ始めていた。
 ゆっくりと腰を上げ、伸びをする。本当に久しぶりに故郷に対して思いを馳せた。一翔には申し訳ないけれど、二度と足を踏み入れることはないだろう。
 そんなことを最後に思いながら、飽きもせずブランコをいでいる一翔のもとに向かおうとした。しかし、私は一歩を踏み出すことができなかった。背後に刺すような視線をハッキリと感じた。
 本能的に振り向いちゃいけないという思いが湧いた。幼かった頃に日常的にさらされていたのと同じ種類の視線だとすぐにわかった。
 久しぶりに故郷を思い出したりしたからだろうか。まるで私自身が何かを引き寄せたかのように、背後の視線はじりじりとプレッシャーをかけてくる。
「ママ、どうかしたの?」と、私の異変に気づいた一翔が駆け寄ってきてくれたが、私はもう微笑むことができなかった。
 一翔の肩を力いっぱい抱きながら、おそるおそる振り返った。幸せにあふれた公園の中で、一人だけ温度の違う男がいる。
 なんとなく、そんな予感があった。だからそれほどの衝撃は受けなかったが、悪い予感は膨らむ一方だ。
 男はまるでざんするかのように深く頭を下げてきた。私はその姿から目を逸らせなかった。顔を上げた男としっかりと視線が絡み合う。いったい何年ぶりだろう。
 間違いない。すっかり年老いた風貌ではあるが、愛媛の地元新聞社で記者をしていた上原浩介という男だ。
 もう二度と私の前には姿を現さないと言っていたくせに……。いったいどういうつもりなのか。
 毛穴という毛穴から汗が噴き出す感覚があった。
 私の怒りに気づいているのか。上原はこちらに近づいてくることもなく、同じ場所からもう一度頭を下げてきた。

#3-1へつづく
◎第2回全文は「小説 野性時代」第206号 2021年1月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第206号 2021年1月号


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