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連載

早見和真「八月の母」 vol.35

【連載小説】エリカは何もわかっていない。なぜうれしそうにできるのか、その神経を疑いたくなる。 早見和真「八月の母」#4-11

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

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「二人きりで話がしたい」と、まつやま市内の喫茶店にエリカを呼び出したのは、二月下旬のことだった。
 寒さの厳しい夕方、エリカは額にうっすらと汗を浮かべてやって来た。いつも通りのダウンコート、いつも通りのジーンズ。男に媚びていないことをアピールするかのような、いつも通りの服装。
「ごめん、急に呼び出して」
 吸っていたタバコをあわててみ消し、博人はエリカのコートを受け取った。「ううん、それはいいんだけど。どうしたの、急に。話したいことって?」と、早速用件を尋ねてくるエリカの瞳には、ある種の覚悟が潜んでいる。
 胃が握りつぶされるように重くなった。口臭がするのが自分でもわかる。十月のあの夜を忘れたことは一度もない。うしろめたさはとっくに罪悪感に姿を変え、エリカの背中の二つの模様が夜ごと博人を苦しめる。
 それでも伝えないわけにはいかなかった。いや、本音を言えば自信はなかった。これほどの罪の意識を背負って今後も生きていける自信はない。
 しかし、それ以上にあの者たちと家族になる自信がない。せめてエリカと二人の間の子どもだけなら……。何度もそんなことを考えた。そもそもつき合い始める前も、つき合ってからも、子どものことを打ち明けられていなかったのだ。母親のことも隠されていた。一家の人生をまとめて引き受ける、それを拒絶することはそんなに罪なことなのか。
 頭の中で延々と言い訳を繰り返し、博人は気持ちを奮わせた。そうしなければ不安げなエリカの瞳に、いまにもほだされそうでこわかった。
 博人は小さく息をのむ。そして、ようやく「あのさ、エリカ──」と拳を握りしめたときだった。そのタイミングを見計らっていたかのように、二人に声が降り注いだ。
「お取り込み中のところ申し訳ない」
 おずおずと顔を上げると、知らない男が立っていた。背はそう高くない。四十歳くらいだろう。トレンチコートの襟を立て、顔中にヒゲを蓄えた大昔の探偵のような風貌の男が、博人を無視してエリカに手を振った。
 エリカの表情が弾けるように明るくなる。
「わぁ、うえはらさん! お久しぶりです。どうしたんですか、こんなところで」
 上原と呼ばれた男は照れくさそうに微笑んだ。〈都〉の常連客だろうか。妙に親しげな雰囲気の二人を、博人はあつに取られながら見つめていた。
 そんな博人に向け、男は堂々と疑いの目をぶつけてくる。さんくさい人間の空気を感じる。
 男は何かを誇示するように博人を凝視し、少しするとエリカに視線を戻した。
「何か問題? ずいぶん深刻そうな顔をして話してるから。失礼を承知で声をかけさせてもらったんだ」
「いやいや、問題なんてないですよ。あ、七森博人さんです。私の恋人で、いま──」
 そう言ってエリカはお腹をさする仕草を見せる。上原は驚いたとも、感心したともつかない様子で口をすぼめ、博人に無礼をびてきた。
「それは失礼。エリカちゃんとは古くからの知り合いで、何か変なことにでも巻き込まれているのかと早とちりをしたようです。申し訳ない」
 男の差し出してきた名刺には「上原こうすけ」という名前とともに、地元新聞社のロゴマークが印刷されていた。
 前回の失敗から、博人は名刺を渡そうとしなかった。上原も博人になど用はないとでもいうふうに、早々にエリカとの話に戻る。
「その後、お母さんは。変わりない?」
「はい。いまは少し落ち着いてくれています」
「それは良かった。子どもたちは? みんな元気?」
「はい、おかげさまで。すっかり生意気ですけど」
「困ったことがあったらなんでも相談するんだよ。連絡先は変わってないから」
 男はそう言うとあらためて博人に顔を向け、再び頭を下げてきた。
「エリカちゃんのこと、よろしくお願いします。いろいろとつらい思いをしてきた子だから。幸せになってほしいんだ」
 博人は自嘲するように微笑んだ。そんなこと、あんたに言われる筋合いはない──。その言葉を必死に止める。
 上原は最後にエリカに挨拶して、静かに店を去っていった。その瞬間まで、博人は二人のやり取りを正視することができなかった。
 このとき胸に抱いていたのは、おそらくは嫉妬心だったと思う。子どもを堕ろさせ、関係を清算するつもりでいる。その覚悟を持ってやって来た自分が、いままさに傷つけようとしている相手が他の男と親しげに話していることに、上原が博人の知らないエリカの過去を知っている様子に、猛烈な嫉妬を感じていた。
 身体の奥底から笑いが込み上げてくる。嫉妬と同時に自分が抱いているのは、これまでに感じたことのないような激しい欲情だ。そのことに気づいたとき、博人はついにこらえきれなくなって噴き出した。
「ちょっと、博人さん?」
 エリカがげんそうな目で博人を見つめる。憂いを帯びた瞳に、艶っぽい唇。魔性の女といったものじゃない。ただ、女であるだけだ。本人がどれだけそれを覆い隠したいと思っていても、男はエリカに女を感じる。女であることに欲情する。
 とっくに冷たくなったコーヒーに口をつけ、博人は目をつぶる。男に人生を狂わされてきたとエリカは言う。暴力でねじ伏せられてきたと振り返る。
 でも、違う。逆なのだ。そんな仮説がせんこうのように瞬いた。男たちがエリカにねじ伏せられてきた。彼らの方がエリカに人生を狂わされてきた。そう、まさしくいまの自分のように、自分が下そうとしている決断のように──。
 地を這うような息を漏らし、博人はゆっくりと目を開けた。
陽向ひなたって、どう思う?」
「え、何……?」と、話についていけない様子のエリカに、博人は優しく微笑みかける。
「子どもの名前に決まってるだろ。あの高知の旅行のとき、あの海で考えた。もしエリカとの間に子どもができたら、今日のこの太陽のように明るい名前をつけたいって。誰にも依存せず、自分の足で立っていられる人間になってほしいって。なんとなく女の子というイメージしか湧かなかった。〝麗〟の字はつかないけど。麗華と麗央は怒るかな」
「でも、あのときはまだ──」
 エリカはそこで息をのみ、無意識というふうにお腹を撫でた。うれしそうにするわけでも、泣き出すわけでもない。ただ呆然と博人を見つめ、しばらくするとわずかに笑みを浮かべはしたものの、やはり涙はこぼさなかった。
「それは私も同じです。なんとなく女の子という気しかしていません。あの高知の海で、私も博人さんとの将来を想像しました。なぜかはわからないけど、いつかできる私たちの子どもが、女の子が、私を幸せにしてくれると思ったんです。それこそ、麗央と麗華には絶対に言えないことですけど」
 エリカはニコリと微笑み、それからとうとうと二人の未来について話し始めた。いつもの受け身の姿がウソのように、想像の中のエリカには主体性があり、家族の中にしっかりとした居場所があって、博人に愛され、子どもたちを愛しているようだ。
 そのとき家族はどこそこに住んでいる、そのときも家族はみんな笑っていると、いつかどこかで聞いたことがあるような、ひどく退屈な話だった。
 エリカは何もわかっていない。なぜうれしそうにできるのか、その神経を疑いたくなる。いま自分のしようとしていることは、明るい未来になどつながっていない。子どもを堕ろさせることよりもはるかに卑劣で、残酷なことなのだ。
 都合良く、いつかの祐介の言葉が脳裏をかすめる。
「絶対に逃げんとダメやからね、博ちゃん」
 それを打ち消そうとするかのように、エリカは話題を引き戻した。
「とてもいい名前だと思います。陽向ちゃん」
 博人もいつもの自分を取り繕う。
「でも、まだわからないよ。男の子かもしれないんだし、もう少し考えようよ」
 エリカは邪気のない笑みを滲ませた。
「男の子でもいいんです。男の子だとしても陽向です。でも、違う。なんとなくだけど私にはわかる──」
 そう言って再びお腹に手を乗せ、エリカは何かを確認するようにうなずいた。
「この子はきっと女の子。そして私を幸せにしてくれる。自信があります」
 もうつき合っていられなかった。博人は軽く肩をすくめてみせ、いそいそと伝票を手に取り立ち上がった。
「そろそろ行こうか」
 エリカは口を小さく開いて「行くって、どこに?」と尋ねてくる。そんなもの決まっているだろうと、博人はせせら笑う。
「せっかく二人で会えたんだ。ホテル行こうよ」
 博人の想像する家族の中に、博人の姿はどこにもない。麗華がいて、麗央がいる。エリカの胸の中で、小さな女の子が穏やかに眠っている。その様子を、あの美智子まで微笑ましく見守っている。でも、自分の姿だけはそこにない。どうしても家族の絵の中に溶け込まない。
 だとすれば、自分の居場所はどこなのだろう──? そんな疑問が脳裏をかすめたとき、ポケットの中の携帯が震えた。
 吸い寄せられるように画面に目を落とす。昔からタイミングのいい女だった。
『ヒロちゃん、いまさらこんなことを言うのはあり得ないってわかってるんだけど、顔を見て話したいことがあります。近く、愛媛に行かせてもらうことはできませんか? 私たちの人生の話です』
 文面を見つめながら、もう一つの未来に思いをせた。こちらの方はすんなりと自分の姿が収まった。
『ノストラダムスの賭けってまだ生きてるんだよね? ヒロ』という返信を送ったところで、エリカが背後から声をかけてきた。
「お待たせしました」
 博人は笑顔で携帯電話を折りたたみ、その白い手をつかみ取った。久しぶりにバニラの匂いを感じ取り。
「行こうか」
 自分の方が狂わされているのだから。
 陽向がエリカを幸せにしてくれるのだから。
 二つの思いはこれ以上ない言い訳となって、博人の心を軽くした。

#4-12へつづく
◎第4回〈後編〉全文は「小説 野性時代」第209号 2021年4月号でお楽しみいただけます!


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