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連載

早見和真「八月の母」 vol.24

【連載小説】この女は、僕のことを便利に利用するだけして、いらなくなったら捨てるのだ。 早見和真「八月の母」#3-8

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

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    ※

 私の背中には生まれつき大きなアザがある。まだ幼かった頃、母はよくそれを撫でながら「ごめんね」と謝ってくれていた。
 そうやって母が優しくしてくれるのがうれしくて、アザを呪ったことは一度もない。いまでは一緒にお風呂に入ると、息子のかずが「ママ、これ痛い? あとで湿布を貼ってあげるよ」などと言って笑わせてくれる。そう言えばつき合い始めてすぐの頃、夫のけんも「これって君のチャームポイントの一つだよね」などと言っていた。そのとき私は「デリカシーがない」と怒ったものだ。
 夕方、四方からセミの声が降り注ぐかしら公園で、久しぶりの顔を見つけた。あの頃、愛媛の地元新聞社で記者をしていたうえはらこうすけという男だ。
 上原は遠くから私たち母子の様子を見守っていた。それはまるで伊予市に住んでいた頃の構図そのもので、頭にカッと血がのぼった、
 一度は無視して帰宅しようかと考えた。それをギリギリのところで踏み留まったのは、上原の顔が当時は見たことがないほど切羽詰まっていたからだ。母の身に何か起きたのだとすぐにわかった。
 一翔とつないだ手に力が籠もっていた。「痛いよ、ママ」という不安そうな声を聞いて、私はようやく緊張で全身が硬直していることに気がついた。
 上原は何度も申し訳なさそうに頭を下げた。それがあまりにもしつこくて、私の緊張は少しだけ解けた。
「ごぶさたしています、上原さん。お変わりありませんね」
 それでも、声はしっかりと上ずっていたと思う。頭にうっすらと白髪を生やした上原はどこかやりづらそうに微笑んだ。
「よく言うよ。老けただろう」
「全然です。あの頃と何も変わりません」
 実際、私はそう感じた。まだ伊予市に住んでいたとき、上原は母のことを取材していた。その頃、私は大人の疑いの眼差しをはじめて間近で見た。当時と何も変わらない眼光の鋭さに、懐かしさとともに不安な気持ちが胸に芽生えた。
 上原は「このあと時間を取れないか」と尋ねてきた。もう夕飯の準備をせねばならず、そうでなくても一翔を立ち会わせたくなかった。
 上原は申し訳なさそうな表情を浮かべた。そして「実は──」と何か言いかけたが、一翔の顔をちらりと見やり、諦めたように肩をすくめた。
「いや、やっぱり今日はやめておこう。来週、どこかで時間をくれるか」
 携帯の番号を伝え、後日、あらためて会う約束をした。

 そんな出来事があったからだろう。やけに愛媛に住んでいた頃を思い出す。背中のアザに思いを馳せるなんていつ以来のことだろう。
 のどの渇きを感じ、お気に入りの炭酸水に口をつけようとしたとき、健次がとなりの寝室から戻ってきた。
「ああ、やっと寝てくれた。あいつ最近全然寝つかないよね。『ねぇ、パパ。愛媛に行こう、愛媛に行こう』って、そればっかり。何なの、あれ」
 健次が自分の肩を揉みほぐす様子を見て、思わず笑ってしまった。「おつかれさま。ありがとうね」とねぎらい、私は一翔が幼稚園の先生に入れ込んでいる話を聞かせる。
「そんな理由? なんだよ、それ」と、健次は目を丸くした。
「まぁ、あの子にとっては初恋だから。いい恰好したいんでしょ」
「それはちょっとわかるけど。そういえば僕も初恋の相手は幼稚園の先生だった」
「そうなの?」
「うん。卒園式の日、悲しすぎてワンワン泣いた。『先生も一緒に小学校に入ろうよ』ってむちゃくちゃ言ったのを覚えている」
 私はたまらず噴き出した。健次は冷蔵庫からビールを持ってきて、「それにしても一翔のやつしつこかったな。完全に愛媛に取りかれてたよ」とつぶやいた。
 五歳にして一翔は「言霊」という言葉を知っている。もともとはよこはまの義父の口グセで、その意味を教えてやったようなのだが、どうやら息子には「ワガママを言い続ければいつか必ず叶うもの」と間違ってインプットされたらしい。
「私も今日ひどい目に遭ったよ」
「一翔?」
「うん」
「愛媛病?」
「そうだね。あれはたしかに愛媛病だ」
 健次は楽しそうに身体を揺らしながらビールに口をつける。いつもならあっという間にうつらうつらし始めるが、今夜は調子がいいようだ。
「ママの初恋の人って誰なの?」
「は? なに急に」
「僕も一翔も幼稚園の先生だって明かしたんだ」
「二人とも勝手に話してきたんでしょ」
「ええ、誰なの? 教えてよ」と、健次がふざけて猫なで声を上げたとき、ほんの一瞬、胸に淡い思い出が芽生えそうになった。
 中学生のときのことだ。恋人とも言い切れない人がはじめてできたとき、母にひどく茶化されたのを覚えている。もうとっくに色せた、私の人生の輝ける一時だ。
「ねぇ、パパさ。向こうに行ったらまたちゃんと名前で呼び合おうか」
 はぐらかされたと憤るわけでもなく、健次は再び目を丸くする。もともと夫婦間の「ママ」と「パパ」という呼び方が好きじゃなかった。独身時代に二人でそんな話をし、結婚しても絶対に名前で呼び合おうと決めていた。
 もちろん、健次を責めているわけではない。一翔が生まれて、先に健次を「パパ」と呼び始めたのは私の方だ。ずっとなんとかしたいと思っていたけれど、いまさら何もないのに元に戻すのは照れくさい。
 健次は尚も口をすぼめている。私は夫が何を不思議がるのかわからなかった。おずおずと首をかしげ、健次はぽつりと切り出した。
「え、一緒についてきてくれるの?」
「どこに?」
「だから、シンガポール」
「そんなの当たり前じゃん。考えるまでもなかったよ。パパっていつも家族思いっていう顔をしてるけど、意外と一人で突っ走っちゃうからね」
「そんな言い方はないだろ。一人で突っ走らないために、君が判断すべきと思ったんだ。みんなの人生のことを考えたら──」
「みんなの人生のことを考えるから、迷うことなんてないんだよ」
 私は笑みを浮かべたまま健次の言葉を遮った。もう家族がバラバラになるのはイヤなんだ。その言葉はすんでのところで押し殺した。
 私は小さく一度首を振った。
「私、ずっと海外に住みたいって思ってた」
「そうなの? そんな話はじめて聞くよ」
「本当は自分の力で行きたいと思ってたんだけどさ。でも、すごくうれしいよ。パパのおかげで夢が叶う」
「パパ?」
「あ、そうか、じゃあ、健次のおかげ」
 健次はいたずらっぽく微笑んだ。
「いやいや、みんなのおかげだよ。これまで本当にありがとうね、ママ」
「あ、ずるい」
「ハハハ。こういうのは男の方が恥ずかしいもんなんだって。でも、大丈夫。向こうに言ったらちゃんと名前で呼ぶようにする。約束する」
 健次は大笑いしながら子どものように小指を突き出してきた。その指に自分の指をからめながら、私は心から幸せを嚙みしめる。
 しかし健次が何気なく口にした一言に、その気持ちは呆気なく打ち砕かれた。
「でもさ、だとしたら今度こそおさんに報告した方がいいんじゃない?」
 リビングに一気に緊張が立ち込めた。「何それ、急に。やめてよ」とおどけてみせたが、顔が引きつるのが自分でもわかる。
 健次は不意に真顔になった。ヘラヘラとやり過ごさないという意志を表明するように、無言で私を見つめてくる。
「だから、私はあの家族とは縁を切ったの」
 結婚前も、結婚してからも散々話し合ってきたことだ。私は母に何一つ伝えていない。結婚したことも、子どもが生まれたことも、どこで暮らしているかも、いま幸せだということも、そもそも生きているのかも……。あの人は知らないはずなのだ。
 健次は小さなため息を吐いた。
「もちろん、そんなことわかっている。でも、君たちの間に何があったかは知らないけど、ママらしくないと思うんだ。これだけ家族を大切にする君がどうして実家をそんなに避けるのか。もう僕に会わせてくれとは頼まない。でも、君自身は会いに行くべきなんじゃないかと思う。一度向こうに行ったらもう五年は帰ってこられないと思うんだ。どんな理由があるにせよ、ケジメはつけるべきなんじゃないのかな」
 どうしてこうも矢印が一つの方向を指すのだろう。八月という特別な時期に生まれてくるお腹の女の子に、急に愛媛に行きたいと言い出した一翔、連絡もなく姿を現した上原と、健次までもが私に母を思い起こさせようとする。でも……。
 私は小刻みに首を横に振った。愛媛に帰ることは絶対にない。現に健次の話を聞いているとき、私が胸に抱いていたのは「五年もこの国から離れられる」という猛烈に甘美なイメージだった。
 健次に申し訳ないという思いはたしかにあった。それでも、私にはあの街から少しでも遠くへ逃げたいという気持ちがいまもある。
 無意識にお腹をさすっていた。上原に会ったら何を伝えられるのだろう。
 あの蒸し暑かった夏からいったい何年が過ぎたのだろうか。
 私は頭の中でボンヤリと指を折っていた。

#4-1へつづく
◎第3回全文は「小説 野性時代」第207号 2021年2月号でお楽しみいただけます!


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