【連載小説】この女は、僕のことを便利に利用するだけして、いらなくなったら捨てるのだ。 早見和真「八月の母」#3-7
早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。
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花火の終わりとともに一帯に静寂が降り注ぎ、康司からも全能感を剝ぎ取った。
康司はその場でがっくりとうなだれた。大声で何かを叫びたかったが、その力はもう残っていなかった。
気づいたときには、バイクを運転するエリカの腰にしっかりと腕を回し、骨張った背中に顔を埋めてずっと泣いていた。
次に意識がつながったのは、知らない部屋の中だった。ココナッツのような甘ったるい香りの中に、アルコールの匂いが混ざっている。曇りガラスにはカーテンがかかってなくて、外のネオンが目に入る。どこからともなくカラオケの音が聞こえてくる。能天気な歌声に不安と恐怖が増していく。
頭がガンガンと痛かった。規則的に痙攣している武智の姿が鮮明に残っている。体育座りした膝で顔を隠し、必死に打ち消そうとしたけれど、ダメだった。武智の姿を思い出すたびに胃から酸っぱいものが込み上げてくる。
「コウちゃん、大丈夫? ほら、これ飲んで」
エリカがどこからか冷たい水を持ってきて、康司のとなりに腰を下ろした。クーラーすらない部屋の中で、信じられないくらい汗をかいているのに、身体はずっと震えている。どうやらベッドの上にいるらしい。受け取ったペットボトルの水を一息に飲み干して、康司はエリカの胸に身を預けた。
エリカは何も言わずに頭を強く抱いてくれた。そして優しく髪の毛を撫でられていたら、再び涙があふれ出た。
「僕、さっきはごめん……。背中叩いて、ごめんなさい……」
不安が声となって口から漏れる。
「大丈夫。大丈夫やけん、コウちゃん。大丈夫よ」と、エリカは言い聞かすように繰り返した。セットの乱れたエリカの髪先が鼻をくすぐる。優しい香りがするたびに、
それなのに、次にエリカの口から出てきたのはまったく聞きたくない言葉だった。
「落ち着いたら一緒に警察に行こう。私もついてってあげるけん大丈夫。悪いのはコウちゃんだけじゃない。きっと大丈夫やけんね」
その瞬間、母の顔が脳裏を過ぎった。ハッと意識が覚醒する感じがし、康司は寄り添っていたエリカからあわてて身体を離した。
エリカは康司の異変に気づいていない。そもそも吹っかけてきたのはあいつの方なんだから……、ケンカに負けただけだから……と、悠長な話を一人でし続けている。
ようやくわかった。エリカといるとき、康司がずっと抱いていた孤独感の正体はこれだ。この女は自分の話したいことしか話していない。結局、康司の話なんて聞いていない。いつか武智も言っていた。便利に利用するだけして、いらなくなったら捨てるのだ。
炭酸が弾けるようなあの音が再び聞こえてきた。「ああ……」と声が口をつき、頭を抱えてなんとか抑え込もうとしたが、どんどん音が耳もとに迫ってくる。
いま聞きたいのはそんな言葉じゃない。僕の求めているものは全然違う。ずっと性器が膨張している。この部屋に来る前から、嵐のように武智を殴りつけていたときから、ずっと興奮し続けている。
どうして、この女はそれに気づかないのか。すぐにでも鎮めてほしかった。そのためにこの部屋に招いたのだろう。いますぐ
康司は唸るように息を吐きながら、もう一度エリカにしなだれかかった。エリカもすんなりと受け入れる。
しばらくは先ほどと同じように髪の毛を撫でられていた。いまにも爆発しそうだった。それなのにゆっくりと手を動かしながら、エリカは将来の話をし始めた。この街を離れて暮らす、暖かく広い家で、たくさんの子どもたちに囲まれている。そんなバカみたいな夢物語をのほほんと語っていた。
さすがに康司はしびれを切らした。エリカの胸の膨らみが顔に当たり、欲望は最高潮まで高まっていた。興奮を抑えきれず、顔を上げた。外のネオンが安っぽくエリカを照らしている。その姿がなぜか
やり方なんてわからなかったが、どうせエリカがリードする。この女はそういうことに慣れっこなはずだ。「大丈夫。大丈夫やけん、コウちゃん……」という先ほどのエリカの声が、延々と頭の中で聞こえていた。
それなのに、どういうわけかエリカは微笑んだままさっと顔を背けた。
「ダメよ。コウちゃん、それは違う」
一瞬、正気に戻りかけた。でも、エリカの続けた言葉は最悪だった。
「私、そんなつもりでつき合ってないけん。コウちゃんとはキスできんよ」
ふざけるな……と、声にならない声が瞬時に漏れた。エリカの眉が怪訝そうに歪む。あの音はもう聞こえない。でも、荒ぶる気持ちを止められない。
「ふざけるな! お前なんかにわざわざ勉強を教えてやってるんだ! これくらい黙って受け入れろよ!」
「はぁ? いや、ちょっと待ってや。何を──」
「っていうか、お前なんかと一緒にいてやってるんだ。みんなに反対されてるのに……。ありがたいって思えよ!」
どれだけ拭おうとしても、母の顔が目の前にちらついた。康司は大粒の涙を流しながら、力尽くで浴衣をはだけさせ、エリカの両手首を摑んでベッドの上に組み伏せた。
エリカは真下から康司を睨んでいた。恐怖に怯えるわけでも、傷ついた様子もなく、ギュッと唇を嚙みしめている。
「女をウリにしやがって……」という声が独りでに漏れた。
「そんなこと、絶対にしてない」
「ふざけるな! お前、誰とでも寝るんだろ! 村上先生とも関係を持ってたって、みんな知ってるんだ!」
「してない! そんなの絶対にしてないけん!」
思わずというふうに叫び、エリカも瞳を潤ませたが、康司とは違い涙はこぼさなかった。
「ウソ吐くな」
「ウソなんか吐いてない」
「僕を甘く見るな!」
「甘くなんか見てない! ずっと……、ずっと誰よりも信頼しとったのに」
「信頼?」
「ほうよ! 信じとったんよ! 絶対に男を信用するなって小さい頃から言われとって、でもコウちゃんだけは違うってはじめて話したときから思えて、実際に優しくしてくれて、ずっと信じとった」
「うるさい! うるさい、うるさい! 僕はお前の道具じゃない! どうして僕がお前に利用されなきゃいけないんだ!」
「利用……?」
「絶対にめちゃくちゃにされないからな。お前なんかに僕の人生を台無しにされてたまるか!」
エリカは康司を力なく見つめていた。そして、どこか懇願するような声でこう言った。
「私はあの女みたいになりたくないと思って生きてきたんよ。お願いやからそんなふうに私を否定せんといてよ、コウちゃん。お願いやから──」
エリカの言っている意味がわからなかった。「否定」の意味も、「あの女」が誰を指すのかもわからなかったが、そんなことはもうどうでも良かった。いまはもう興奮を収めてくれたらそれでいい。
何をどうすればいいかわからないまま、自分の性器をエリカにあてがった。一瞬、苦痛の表情を浮かべ、エリカはようやく康司から視線を逸らした。
「結局、お前もそうなんかよ」
エリカから「お前」と言われたのははじめてだ。その突き放すような一言に怯まないで済んだのは、再び康司を見上げたエリカが例の目をしていたからだ。
こちらを軽蔑するような、小さい頃から大嫌いだったあの目。小学生の頃からこわくて仕方のなかった冷たい視線を、康司は懸命にはね
「そんな目で僕を見るな」
エリカは康司の声など聞こえていないかのようだった。
「結局、あの女の言う通りやな。男なんて──」
もう何もかも煩わしかった。すべてぶち壊したい一心で無理やり刺した。そして康司はあっという間に絶頂を迎え、そのままエリカの上に覆いかぶさった。
体内で鳴っていた音が急速に消えていって、代わりに外の雑多な音が耳に入ってきた。ゆっくりと身体を起こし、あらためてエリカを見下ろす。髪の乱れたエリカは目を固く閉じ、唇を嚙みながら、肩で規則的な呼吸をしている。
ふと下腹部に違和感を覚えた。挿入したままその場所に触れてみると、さらりとした液体が手についた。
はじめは自分の体液かと思った。でも、ボンヤリと見つめた手のひらにはなぜか赤い汁がついていて、無意識のまま匂いを嗅ぐとハッキリと鉄の臭いがした。
エリカはゆっくりと目を開き、再び康司を睨みつけてきた。懸命に泣くのを堪えているその表情を見ていたら、いまさら身体がガタガタと震えだした。
「ウソだよね……? だって、ぼ、僕……、いろんな人から聞いたんだよ」
いつか彫刻刀で刺された脇腹が唐突に痛み始めた。鮮烈な血を見たからか、それとも心が痛むからだろうか。
「は、はじめてなわけじゃ、ないんだよね……?」
エリカはその質問に答えない。しばらくはひたすら冷たい目で康司を見つめていたが、ようやく小さな息を漏らし、骨の浮き出た背中をこちらに向けた。
そのちょうど真ん中あたりに、大きなアザができていた。もちろん、康司が傷つけたものである。
静寂を拒むように、階下からのんきな歌声が聞こえていた。
女の人の声だった。誰が歌っているのだろうか。
いつかエリカが歌い、康司が胸を熱くした『あなたに会えてよかった』が狭い部屋に響いていた。
▶#3-8へつづく
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