menu
menu

連載

早見和真「八月の母」 vol.32

【連載小説】仕事も、人間関係も、すべて東京に置いてきたつもりだった。でも彼女の最後の言葉が忘れられなかった。 早見和真「八月の母」#4-8

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 一月三日の空は皮肉なほど晴れ渡っていた。酒をのむことになるかもしれないと電車で伊予市に向かったが、正月気分の多くの家族連れの姿を目の当たりにすることになり、博人はその選択を後悔する。
 それでも、久しぶりに乗った電車の窓から見える景色は悪くなかった。二年前に愛媛に戻ってきて以来、電車に乗るのははじめてだ。電車に限らず、バスも、市電も、そういえば公共の交通機関を利用したことは一度もない。東京に住んでいた頃は来る日も来る日も地下鉄に揺られていたことを思えば、隔世の感さえ抱かされる。
 指定されたのはいつもの伊予市駅ではなく、違う路線のしんかわという駅だった。エリカは先に来て待っていた。いつも通りのダウンコートに、いつも通りのジーンズ。頭にだけ見慣れないニットキャップ。
「おはよう」
 博人の方から声をかけると、エリカは少しかしこまったように「あけましておめでとうございます、七森さん」と笑みを浮かべた。
「あ、そうか。あけましておめでとう」と言い直して、博人は自然と手を握ろうとしたが、エリカは優しくそれを拒んだ。
「さすがに地元すぎるので」
 今日のことを憂鬱には思っていたが、緊張はあまりしなかった。しかし肩を並べて歩いているうちに、博人の胸は少しずつたかぶっていった。まだ何も決めていないし、考えてもいない。この三日間はあえて考えまいとしていた。
 エリカが見せようとしているものについては想像がついている。西にしやまが、都ママがつき合うのを止めようとする理由だ。美恵との電話を終え、寒さに震えながら戻った部屋で、祐介が「実はさ、博ちゃん──」と教えてくれた。もちろん衝撃的ではあったけれど、そんな予感も心のどこかにはあった。美恵からの電話の方が驚きはずっと大きかった。
 十分ほど歩いたところで、エリカは足を止めた。「ここです」という声は、緊張からか、不安からか震えている。
 博人も深々と息を吐いた。自分はエリカの住む場所にどんな想像を抱いていたのだろう。実家というイメージは早々になくなっていたし、まさか高級マンションで暮らしているとも思っていなかった。
 友だちとのルームシェアや、古ぼけたアパートなど、これまで様々な思いを巡らしてきたはずだが、こぢんまりした市営住宅を思い描いたことは一度もなかったはずだ。集合住宅の入り口には『新川南団地』という案内板が置かれている。
「あ、ここ?」
 なんとか平静を保とうとしたが、博人の声も上ずった。五階建ての建物が二棟、狭い敷地の中で向かい合っている。その間に申し訳程度の広さの公園があって、老人が一人ベンチに腰かけてタバコを吹かしている。
 決して古いわけでも、汚いわけでもない。むしろこざっぱりした印象で、博人の自宅近くにある老朽化した団地などよりずっと気持ちがいい。
 でも、エリカとは雰囲気がそぐわなかった。というより、二十二歳の独身女性と市営住宅とに親和性を感じないのだ。
 ふさわしいのはまさにベンチに座っている老人世代か、あるいは……と思ったところで、数日前の祐介の言葉が唐突によみがえった。自分の目で見るまでは信じない、予断は持たないと思いながら聞いていたあの日の言葉が、みるみる真実味を帯びていく。
 祐介はこんなことを言っていた。
「エリカちゃんって子どもがおるんやろ? それも二人。女の子と、男の子。父親が違うらしいって、俺のツレが言いよった。そのうちの一人はいまヤクザやって。博ちゃん、それ知っとった? エリカちゃんって背中にすごいもんもんが入っとんやろ? 龍と虎やって本当なん? それ、子どもを産むたびに入れよるっていうウワサやで」
 何が本当で、何がウソか、まるでわからない話だった。少なくとも博人が証明できるのは、エリカの背中に入っているのが「龍と虎の立派なもんもん」などではなく、小さい花のかわいらしいタトゥーであることだけだ。自分の目で見たもの以外は信じない。同じ理由から、子どもがいることをウソと断じることもできなかった。
 エリカは無言で階段を上っていった。自宅は二号棟の三階だという。住人全員が出払っているかのような静けさの中、二人の足音だけが響いている。階段の踊り場に光は差さず、そこから仰ぎ見た空は妙にくっきりと澄んでいた。自分がいまどこにいるのか、一瞬わからなくなるような感覚を抱く。
 三階の階段そばの戸にカギを挿したとき、エリカは一度だけ博人の方を向いた。何かを懇願するような憂いを帯びた瞳に、博人の覚悟は揺らぎそうになる。本音を言えば、いますぐここから逃げ出したかった。
 もちろんそんなことができるはずもなく、博人はうすく微笑んだ。それを確認してからエリカはカギを抜き、ドアを開いた。真っ先にバニラの匂いが鼻孔をくすぐる。狭い玄関にはたくさんの靴が散らばっていて、直後に女の子の泣き声が聞こえてくる。
 エリカはいつかと同じように開き直っていた。何も隠し立てしない、これが私だとでもいうふうに胸を張り、二人の子どもを叱りつける。
「おい、! お前、またれいを泣かしたんか! いじめるなって言いよるやろ!」
 かつて博人が聞いたことのない、でも、男の子にとってはきっといつも通りの金切り声。思わずといったふうに叫んだ直後、エリカはウンザリしたように天井を仰いだ。

#4-9へつづく
◎第4回〈後編〉全文は「小説 野性時代」第209号 2021年4月号でお楽しみいただけます!


書影

小説 野性時代 第209号 2021年4月号


紹介した書籍

関連書籍

MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2021年4月号

3月13日 発売

怪と幽

最新号
Vol.006

12月22日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP