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連載

早見和真「八月の母」 vol.13

【連載小説】あの子、男を惑わすような変な魅力があるよな。お前がのぼせ上がるのはわかる気がする。 早見和真「八月の母」#2-5

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

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 エリカから電話がかかってきたのは、六月最後の日。手紙を入れた日からちょうど一週間後のことだった。
 なかなか電話できなかったことを謝罪してくるエリカに、和幸は自分の方こそ余計なことをして申し訳なかったと謝った。
 エリカはそれを声高に否定した。
『余計なことなんかじゃないです。私は先生に助けられてます。先生がいるから我慢することができています』
 エリカは「何を」とは言わなかったし、和幸からも尋ねなかった。ただこの日、和幸ははじめて世界の広さについて話をした。
 この世界は母親と二人きりではないということ。あの一階の店舗と二階の住居だけがエリカの居場所ではないということ。
「現にお前は学校に通うようになって、少し見える景色が変わったんやないか? 呼吸がしやすくなったはずよ。その景色を少しずつ、これからは自分の力で広げていかないかん。いま苦しいと思うことからただ逃げとればいい。逃げ続けていればいつか必ずここだという場所に辿たどり着くはずやけん」
『はい』
「いいか、エリカ。いまのお前にはまだ難しいかもしれんけど、忘れずに胸に刻んでおいてほしいんや。いまのお前の人生はまだ逃げることだけが目的でかまん。いまお前を苦しめてとるすべてのことから目を背けろ」
『はい』
「その上で心から信頼できるものを一つでいいから持つんよ。本でも、音楽でも、好きな芸能人でも、ゲームでもいいけん。そこにいれば安心できるものを一つでいいから持ってみろ。わかるよな、エリカ」と尋ねながら、和幸はハッキリと一つの答えを期待していた。
 話している途中から、かつての自分に語りかけているかのような錯覚を抱いていた。あの頃の自分が欲したであろう言葉だ。それがいまのエリカに刺さらないはずがない。
 それまで返事しかしていなかったエリカが「ふぅ」と息を漏らすのがわかった。受話器を握る手に力が籠もる。
 ひたすら長く感じた数秒の沈黙のあと、エリカはようやく切り出した。
『私、ずっと妹が欲しいと思っとった』
「エリカ?」
『そうしたら私が守ってあげるのにって。私は子どもが欲しがるものを全部知っとるから、私が与えてあげるのにって、ずっと思っとったんです。守ってあげられるのにって。私がお母さんの代わりをしてあげられるって』
 エリカは和幸に口を挟ませようとしなかった。
『いまの私が信頼できるのは村上先生だけです』
「え?」
『私はいまが人生で一番幸せです』
 それに自分がどう応えたのか、和幸はよく覚えていない。ただ、下腹部のあたりがじんわりと熱くなるのを感じていた。

 そんなひそやかな交流の中で、エリカは少しずつ自分の生活を語り始めた。やはり物心ついた頃から母親の目は行き届いていなかった。部屋が荒れていれば自分で片づけるしかなかったし、お腹が空けば食べ物を探してなんでも口に入れるしかなかった。仕事終わりの美智子が真冬の道ばたで寝てしまい、交番に助けを呼びにいったのは四歳のときだったという。
『いろんな男の人が家に来た』と、もちろん自分が悪いわけではないのに、そう言うときだけエリカはひどく歯切れが悪かった。
 そいつらに何かされたのかと、何度も声に出そうになった。でも、和幸の方からは突っ込んで聞けなかったし、エリカも肝心なところはいつもはぐらかした。
 それでも、少なくとも母親の色恋の場面に立ち会っているのはあきらかだ。そんなところもエリカが大人びて見える理由なのだろう。越智エリカという少女を一言で表すなら、和幸は「大人にならざるを得なかった子」と表現する。
 数日に一回程度だった電話は、次第に二日に一回というペースになり、夏休みを目前に控えた頃には〈ミチコ〉が休みの日曜日以外、毎晩かかってくるようになった。
 時間は決まって二十一時頃だ。気づけばその前に食事も風呂も済ますようになっていたし、おかげで生活のリズムもずいぶんと安定した。
 和幸は毎日の電話を心待ちにするようになっていた。二十一時を過ぎても電話がないときは不安を感じたし、何度かこちらからかけようとして思い留まったこともある。一階の店舗と、二階の住居が同じ電話回線であるとエリカから聞いていたからだ。
 学校ではお互いそれまで以上によそよそしく振る舞った。それさえも二人きりの秘密を共有しているようで、優越感に似た感覚があった。
 罪悪感なんて芽生えない。自分が間違ったことをしているという気持ちは皆無だった。たとえ他の教員に咎められることがあったとしても、聖職者としての仕事を忠実にこなしているのは自分の方だという信念がすでにあった。そこに困っている子どもがいて、手を差し伸べてやれなくて何が教師だという思いさえ感じている。
 むろん、だからといってエリカを贔屓するつもりはない。通知表の評価は正当に下したし、指摘するべき箇所は指摘した。
 とはいえ、伝えるべきことは一つだけだ。一学期の通信欄は以下の言葉で締めくくった。
『勉強のやり方さえ覚えたら越智さんは必ずもっとできるようになります。二学期以降も期待しています。また学校で会えるのを楽しみにしています』

 そんな和幸の思いが伝わったのか、夏休みに入る頃から、少しずつエリカの言葉が変わっていった。
『先生に褒められるために、もっと勉強ができるようになりたいです。何から始めたらいいのか教えてください』
 本当はすぐにでも自宅に呼んで、家庭教師時代のように個別に勉強を教えてやりたかった。いや、そもそもなんのために勉強をするのかという意味を説いてやりたいと思ったのだ。当然、教師に褒められるためじゃない。それがエリカの夢だという「この街を出ていく」ための最善の手段であるからだ。
 だからといって、さすがにこの家にエリカを呼び出すことは気が引ける。あの母親の目がある以上、彼女の自宅を訪ねるわけにもいかない。でも、ちゃんと目を見て伝えてやりたかった。だから今度会うとき、必ず勉強することの意味を教えてやろうと思いながら緩やかに時間だけが過ぎていった。
 夏休みに入ってからも、七月中は淡々としたやり取りが続いていた。このまま静かにときが流れるのも悪くないと思い始めた。五年生が終わるその日まで、エリカの成長を誰よりも近くで見ていられるならそれでいいという考えが過ぎったりもしたが、嵐は前触れもなくやって来た。
 八月に入って最初の夜、電話が鳴ったのはいつもより三十分も早かった。不審に思いながら取った受話器から、ただならぬ緊張感が伝わってくる。
 普段、エリカの第一声は決まって『先生?』や『こんばんは』といったものなのに、この夜は『どうしよう、私……』というものだった。
 手にじっとりとした汗が滲んだ。この瞬間になって、いまさら自分がとんでもない過ちを犯したのではないという恐怖が過ぎった。
 美智子に知られたか、あるいは他の生徒に気づかれでもしたのだろうか。そんなふうに思う時点で、自分がやましいことをしていたのではないかという気持ちになる。
「どうしたんぞ、エリカ。落ち着いて話せ」
 エリカの気持ちを鎮めようとする言葉が、そのまま自分に返ってくる。電話の向こうでエリカが必死にうなずく絵がイメージできた。
 深呼吸するような音が聞こえたあと、エリカは思ってもみないことを言ってきた。
『昨日の夜、先生との電話を切ったあと、新聞記者の人がうちに来ました』

#2-6へつづく
◎第2回全文は「小説 野性時代」第206号 2021年1月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第206号 2021年1月号


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