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連載

早見和真「八月の母」 vol.31

【連載小説】仕事も、人間関係も、すべて東京に置いてきたつもりだった。でも彼女の最後の言葉が忘れられなかった。 早見和真「八月の母」#4-7

早見和真「八月の母」

※本記事は連載小説です。

前回までのあらすじ

東京で挫折を味わい、三十一歳で地元の松山に戻ってきた博人は、誘われて行ったラウンジでエリカと出会う。彼女に興味を抱き何度か店に通ううちに、ふたりは次第に親しくなっていく。しかし、エリカは頑なに心を開こうとしなかった。なんとかドライブデートに連れ出した博人は、告白してなかば強引に付き合うことになるが、肌を合わせても、ふたりの距離感に変化はなかった。そして、エリカは決まって零時までには家に帰っていくのだった……。

2000年8月(後編)

 あの夜の激しさが幻のように、翌日からエリカはまた元のエリカに戻った。メールをすれば返信が来るし、〈都〉に行けば席につく。週に一度は食事をし、ホテルにも行った。そして、必ず零時までには送っていった。
 しかし、あきらかに歯車は狂っていた。二人で笑うことが格段に減り、季節が冬に突入した頃にはエリカの心は完全に硬直しきっていた。それを突きつけられたのは、例によって「家族と過ごすことになっている」という理由で、クリスマスや大晦日を一緒に過ごせないと伝えられたときだった。
 そう口にしたとき、エリカにはどこか開き直ったような気配があった。それで嫌いになるならかまわない。そんなふうに突き放す雰囲気に、ひろは腹を立てるわけでなく、ただひたすら胸を痛めた。
「そうか。それなら仕方ないね」
 苦い笑みを浮かべるしかなかった博人を、エリカは無表情で見つめていた。博人は何も言わずにエリカの次の言葉を待った。
 もう別れましょうか、ななもりさん──。そう切り出される絵がハッキリとイメージできたし、心の準備もできていた。エリカはきっと嘲笑うかのような顔をする。あなたのせいだと瞳の中ににじませる。
 しかし次の瞬間、ほだされるように微笑んだかと思うと、エリカが口にしたのはあまりにも想定外の一言だった。
「近く、うちに来ていただけますか?」
「え、うち?」
「はい、市の自宅に。私の家族に会ってもらいたいんです。このまま終わらせるのはズルいと思うので。私という人間をまず知ってもらって、七森さんが判断してください」
 エリカのことをもっと知りたいというのは、かねて博人が望んでいたことだ。ずっと思い描こうとしていた母親の姿。どんな生活をしているのか、何歳なのか、どういう人なのか。結局、エリカの口から聞いたことは一度もない。
 どうしてこのタイミングなのかわからなかった。「まず」という言葉の意味もさっぱりだ。それでも博人はうなずいた。「わかった。ありがとう」と言うことしかできなかった。
 エリカはもう笑わなかった。表情を引き締め直し、覚悟を決めたように目を伏せると、「そうですね。では、そうしましょう」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 結局、クリスマスイブは無理やり仕事を作って会社で過ごし、大晦日は迷惑かと思ったが誘われるままゆうすけの家に邪魔させてもらった。
 博人が一人で住むワンルームとそう広さの変わらない2LDK。家族六人で暮らす家は、手狭だからこそとても明るく、博人はあらためて祐介をうらやましく感じた。
 早い時間は小さい子どもたちと一緒に遊び、妻のひとは子どもを寝かしつけに行ったまま眠ってしまったらしく、結局、年越しは祐介と二人ですることになった。
「ほんで、最近はどうなん、エリカちゃんとは。うまくいきよん?」
 二人でどれくらいの酒を空けただろう。祐介は顔を真っ赤に染めて、気持ち良さそうに身体を揺すっている。
 博人もすっかり酔っていた。近況はあまり伝えていなかったが、いまは何をどう話せばいいのかわからない。エリカの自宅を訪ねるのは年が明けてすぐ、一月三日と決まっている。
「まぁ、いろいろあるよ」
「なんよ、いろいろって」
「祐介に言いたいことはたくさんあるけど、とりあえずノストラダムスは大外れだったってことだな」
「はぁ?」
「俺、結構あのときの言葉に背中を押されたんだぜ」
「あのときって?」
「どうせあと半年で世界は終わるんだから、思い切って行けばいいってやつ」
「ああ、言うたかもしれんな、そんなこと。で、実際どうやったん? うかつな人間にうかつに背中を押されてみた結果は」
「思いっきり傷ついたよ」
「ハハハ。そりゃええわい。まぁ、ええんよ。博ちゃんも少しは痛い目を見た方がええ。あまりにも人生うまくいきすぎやけん。ざまぁみろや」
 例によって過大評価もはなはだしい祐介に、何か否定しようという気は起きなかった。二人でバカ話をして盛り上がっている間に、つけっぱなしにしていたテレビが新しい年を迎えたことを伝えてくる。
 祐介とグラスを合わせると、博人はすぐにエリカに『あけましておめでとう』のメールを送った。三日後に会うことを楽しみにしているという文言を打ち、最後に『今年もよろしく』とつけ加えた。
 ものの数十秒で返信がやって来た。
「エリカちゃん? なんや、ラブラブやん。しょうもな」とつまらなそうにする祐介に微笑みかけ、携帯を手に取り、博人は「え……?」と声を漏らした。目を大きく見開き、気づいたときには手を口にあてがっていた。
「は? 何なん、その顔。エリカちゃんやないん?」
「えっ? あ、ううん、大丈夫。なんでもない」
「いやいや、なんでもないって。その反応もおかしいやん!」
 祐介の言葉はほとんど耳に届かなかった。博人はあらためて携帯を凝視する。登録にない番号からのショートメール。画面から飛び出してきそうなはつらつとした文言に、胸が温かくなる「ヒロちゃん」という呼び名。会わなかった年月を一足で飛び越える。
 季節外れのバニラの香りが鼻先をくすぐった。そんな気がした。
『ヒロちゃん、あけましておめでとう! 二〇〇〇年になっちゃったねー。年が明けたら連絡しようとずっと思ってた。賭けは私の負けみたい。笑 元気にしてますかー? ざき
 あきらかに言葉足らずの文面だったが、博人には美恵が言いたいことがすぐにわかった。祐介と同じく、いつか「絶対」と言っていたノストラダムスの大予言が外れたことだ。「負けた方が言うことをなんでも聞く」という賭けが成立したとき、美恵は「でも、これって私が勝ったときには世界は終わってるってことじゃん!」と目に涙を浮かべて笑っていた。
 もう一つ、メールから伝わってきたことがある。あまりも文面が明るすぎる。
「ごめん、祐介。ちょっと外でタバコ吸ってくる」
 祐介は「はぁ? べつにここで吸えばええやん」と不満そうに口にしたが、やっぱり博人の耳には入らない。
 別れを告げられた日も、美恵は異様に明るかった。三年前の冬のことだ。明るさは、ときとして人を突き放す。海沿いのラブホテルでエリカが延々と笑っているのを見たとき、何よりも先に別れの予感が過ぎったのは、美恵とのことをすでに経験していたからだ。
 三年前のあの日、卑下したように笑い続ける美恵から伝えられたのは、すでに堕胎しているという胸を衝く告白だった。
 博人は美恵が妊娠していることさえ聞かされていなかった。最初にぼうぜんとし、すぐに怒りで全身が震え出し、話の内容とあまりにも雰囲気のかけ離れた浮かれたはら宿じゆくのカフェで、博人は美恵に詰め寄った。
 美恵は開き直ったような態度を最後まで消そうとしなかった。
「だって、伝えたらヒロちゃん責任取ろうとかするでしょう? いまの私には責任取られることの方が重荷だから。いま私はようやく自分の人生をつかみかけているときだから、勝手に盛り上がられると迷惑なの」
 もちろん、美恵の毎日が充実しているのは知っていた。一方の博人は連日の激務に追われ、日常の生活さえ疎かになり、恋人の活躍を当てられるのもキツいという時期だった。帰りが遅いと不満を漏らすこともあったし、連絡くらいできるだろうと小言を伝えたこともある。
 心配するフリをして、フラストレーションをぶつけているだけだった。そのことを自分でもわかっていたし、自分の足で立とうとしている美恵のかせになっているのではないかと不安に感じたこともある。
 でも、それとこれとは話がべつだ。美恵だけの問題であるはずがない。子どものことは、二人の人生の問題だ。
 美恵はその不満に対する答えも用意していた。あいかわらず楽しそうに目を細めながら、「ごめんね、ヒロちゃん」と言い聞かせるように口にして、しかし最後まで博人の顔を見ようとはしなかった。
「家族を知らない人間が家族なんて作れないよ。ヒロちゃんのことは好きだったけど、結婚しようと思ったことは一度もない。一緒に生きていこうとは思えなかった。私はあなたと家族にはなれないの」
 それが、博人が目にした最後の美恵の姿だった。美恵はその日を最後に姿を消した。連絡先を変え、家はもぬけの殻になっていて、共通の友人たちにも行き先を告げず、驚いたことにあれほど固執していたはずの仕事までやめていた。
 ドラマのようなことが目の前で起きて、博人の頭は真っ白になった。それから一年近くはふぬけのように生きながら美恵の消息を探っていたが、最後は何もかもがイヤになって、培ったすべてのものをかなぐり捨てて愛媛へと戻ってきた。
 仕事も、人間関係も、キャリアも、すべて東京に置いてきたつもりだった。もし一つだけ持ち帰ってきたものがあるとしたら、それは携帯の番号だけだ。
 最後の最後まで悩み抜き、それでも番号を変えられなかったのは、いつかこんな日が来ると思っていたからに他ならない。二度と連絡が取れない状況にして、なんとか美恵とのことに決着をつけたいと思っていた。それができなかったのは、最後の言葉がどうしても釈然としなかったからだ。
 ショートメールの番号に電話をかける。不思議と緊張はしなかった。美恵はなかなか応答しない。大晦日の深夜。それでも切ろうとは思わなかった。何度か留守番電話に切り替わったが、通話ボタンをプッシュし続ける。
 ようやく電話がつながった。かすかな泣き声が耳を打つ。冷たい笑い声じゃないことに、博人は深く安堵する。
 三年前のあの日、美恵は最後にこう言ったのだ。
「家族を知らない人間が家族なんて作れない」
 そのことがどうしてもしっくりと来なかった。どうして「母親を知らない人間が母になんてなれない」ではなかったのだろう。どうして「家族」だったのだろう。その気づきは、博人にある仮説をもたらした。しかし翌日、すがる思いでかけた電話はすでに不通になっていた。
 美恵はようやく震える声をしぼり出した。
『最低だよね、最低だ。わかってる。本当にごめんね、ヒロちゃん。あなたに何かしてほしいわけじゃない。ヒロちゃんに期待しているわけじゃない──』
 美恵はきちんと泣いていた。そのことにやっぱり安心し、いまにも凍えそうな手で強く携帯を握りしめた。
「あのさ、美恵。もしかして──」と言ったところで、博人の声は途切れた。すべての疑問の答えが携帯を伝ってきたからだ。
 美恵はずっと泣いていた。
 そんなの異変に気づいたように、美恵の背後から男の子の大きな泣き声が聞こえてきた。

#4-8へつづく
◎第4回〈後編〉全文は「小説 野性時代」第209号 2021年4月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第209号 2021年4月号


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