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レビュー

大沢エンタメの神髄! 脳移植により別人の体で生き返った熱血女性刑事が巨大麻薬組織の闇に迫る『天使の牙』

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

(解説:池澤 春菜 / 声優・エッセイスト)

 土下座から始めないといけない気がする。

 この作品を未チェックだったこと、大沢在昌さんと、読者の皆様と、そして何よりわたし自身に。なんで?! ばかばか、わたしのばか!!

 だってこれ、ものすごくSFじゃないですか! SFの定義はいろいろありますが、個人的指針は「IFがあること」。何か一つ、物語に飛躍があれば、それはもうかんぺきにSFです。そういう意味で、〝脳移植〟というIFがある『天使の牙』は、わたしにとっては確実にSFです。そしてSFであるということは、絶対わくわくして、面白くて、唯一無二の読書体験ができるということでもある。うう、ばかばか、わたしのばか。

 そしてこれは、ここしばらくわたしが考えていた〝強さ〟の物語でもありました。


上巻

天使の牙 上 新装版

 新興麻薬組織クラインのボスの情婦、かんざきはつみの護衛を任されたこう明日あす。だがふたりの隠れていたホテルが襲撃され、明日香もはつみも重傷を負う。残ったのは、明日香の脳と、はつみの体。

『とりかへばや物語』『ふたりのロッテ』、カフカの『変身』、古今東西、体と心は興味深い物語のテーマでした。心という見えない、でもわたしたちを作る一番大事なもの。それは、脳にあるのか、体に宿るのか。あらゆる文学ジャンルで描かれてきたその永遠の命題。正直言うと、もうそこに新しい要素はないんじゃないかと思っていました。でも、こんな形でさらに鮮やかに、もっと魅力的に描けてしまうなんて。

 やっぱり一番のポイントは、男性に負けないくらい、それどころかそこらへんの男の人なら裸足はだしで逃げ出すくらい、強くてかっこいい河野明日香が、非力でぜいじやくで、そしてめちゃくちゃ魅力的な神崎はつみの体に宿ってしまったこと。スーパーウーマンがクリプトナイトで一般人になっちゃったような。

 わたしは確実に神崎はつみ側。運動は不得意……ごめんなさい、ちょっと見栄をはりました。運動は、壊滅的に、苦手です。

 中学校の時に、テニス部に入部し、初日の陸トレで倒れて救急車で運ばれ、先輩が泣きながら「辞めて下さい」と言いに来たくらい、運動とは相性が悪いです。不整脈+過呼吸、子どもの頃はすぐ熱を出して寝込み、腕立ても逆上がりも二重跳びも人生で一回もできたためしがありません。100m走は、途中で「走るとは」と考え始めるので、20秒以上かかります。

 運動神経皆無、脆弱で、根性なし、ささみ以下の筋肉しかない、全く使い物にならないこの体。しかも別に見た目がいいわけでもなく……もし明日香がわたしに移植されていたら、多少死んでても良いから元の体に戻してくれ、って言うと思う。

 でも、ずっとこの体だから、そうでない体で生きるのがどういうものかわからないのです。風を切るそうかいかんも、高く飛び上がることも、思い通りに踊ることも、ボールをる喜びも、わたしにはわからない。

 だけど、同じように、運動ができる側も、できないってどういうことかわからなかったんですね。最初はいらち、はつみの体に入ってしまったことを不幸だと思っていた明日香は、だんだんとその事実を受け入れ、できることを探し始める。限界はある。同時に、明日香ではできなかったことが、はつみの体ならできるかもしれない。

 生前交わした言葉だけでは理解できなかったはつみの内面が、物言わぬ体を通じて明日香に語りかけてくるような。そしてそれは、言葉ではし得なかった深い理解。無意識のうちに、弱者が弱者なのは努力が足りないからだ、と思い込んでいた明日香の意識も少しずつ変わっていきます。そう生きざるを得ない人がいる、どうしても変えられない環境の中で、あきらめず、自分でできる方法を精一杯考え続ける。その人にしかできない戦い。わたし、本当の強さって、こういうことじゃないかと思いました。

 明日香は肉体的に強かった。でもだからこそ、もしはつみと同じ状況に置かれていたら、戦い方を間違っていたかもしれない。おうもとても強い。でも、仁王にもできない戦い方がある。

 わたしたちが生きている〝今〟はなかなか難しいです。求められる強さや正しさもいろいろで、傷ついたり、我慢することは日常茶飯事。少しずつ諦めることだけが上手くなっていく。かつてのはつみみたいに。それでも、心の一部が「救いを求めている。逃れでたいと叫んでいる」のなら、自分なりのやり方で戦いを始めることができるかもしれない。

 わたしはわたしの体が脆弱であることに、時に悔し涙を流し、時に諦めて放置していたけれど、でももう少しこの体とちゃんと向き合おう、と思いました。っていうか、ジム行きます……。


下巻

天使の牙 下 新装版

 大沢在昌さんの経歴は、今さら説明するまでもないけれど少しだけ。

 1956年愛知県生まれ。シャーロック・ホームズや名探偵カッレくんシリーズを愛読する幼少時。ハードボイルド作家を志したのはなんと中学二年生のとき!! 早くないですか?! ハードボイルドといえば酒と硝煙、タフでニヒルな男のダンディズム。それに中学二年生で目覚めちゃうなんて、大沢少年恐るべし。でもって、目覚めただけでなく中学二年生で処女作書いちゃったのですよ! もちろんハードボイルド。そこから大沢少年はひたすら読み、そして書きます。

 何回かの落選を経て、23歳の時に『感傷の街角』で第1回小説推理新人賞を受賞してデビュー。多作だけどなかなか重版につながらない11年を経て、1990年に出した『新宿鮫』で大ブレイク。以降、無類に面白くて、わくわくして、ページを繰る手が止まらない作品を生み出しているのは皆様ご存じの通り。とびきりのストーリーテリング、登場人物の重みと厚み、社会の裏に踏み込んでいくその筆致。わたしは読んでいる間中、めちゃくちゃ上手い人の運転するフルチューンナップした車に乗って、山道を爆走している気持ちになりました。

 台湾に鐵蛋テイエダンという、卵を真っ黒になるまで煮染めたおつまみがあります。煮込んでは乾かし、を1週間続ける。元の卵の三分の一まで煮染められた卵は、ギュムギュムした歯応え。味がしんまでみて、ほのかに台湾のスパイスが香って、滋味深くて、大変美味おいしい。大沢さんはハードボイルドの中でも、年季の入り方といい、味わいといい、この鐵蛋かも。

 さて、この『天使の牙』には続編があります。その名も『天使の爪』。

 クラインとの死闘から一年あまり。明日香は神崎アスカと改名し、麻薬取締部にいます。といっても、河野明日香としての経歴は明かせない上、肉体的には遥かに脆弱、そして目立ちまくるぼうに、いつ発作が起こるかわからない体質、現場には立たせてもらえません。一年間の渡米で英語力は身につけましたが、アスカがしたいのはあくまで前線に出ること。仁王との仲も改善はしていますが、お互い気を遣い合っていて踏み込めません(ここ、もどかしいのです! 中学生か!!)。

 そんなアスカの前に立ちはだかるのは、今度は世界です。もうひとりの脳移植者、アスカと同じ苦しみを知る世界で唯一の存在、そして最強の暗殺者〝狼〟。

 敵はさらに強く大きく、戦いはさらに激しくせいさんに、そして本はさらに厚く!! そう、『天使の爪』は上下巻合わせて牙の約四割増し。それでも一気読みしちゃうのは、相変わらず。

 アスカと仁王の新たな戦い、ぜひ『天使の爪』も続けてどうぞ。

 息苦しい、何と戦っているのかわからない、終わりの見えない我慢。そんな日々の中で、この快走するエンタテインメントがどれだけ救いになったことか。

 自分自身の強さと弱さを見失いそうになったら、わたしはまた明日香とはつみに会いに来よう。けして諦めなかったふたりに。



大沢在昌『天使の牙 上 新装版』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322004000189/

【電子書籍】
『天使の牙 新装版』上下合本
https://www.kadokawa.co.jp/product/322006000197/
『天使の牙/天使の爪 新装版』シリーズ完全版【全4冊合本版】
https://www.kadokawa.co.jp/product/322006000195/


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