「そうそう、うちもそうだよ! 分かるよ、兜!」
「あっ、だめだ兜! カモフラージュされてるけどそこは地雷だ! あーーーっ!!」
とりあえず妻に聞こえないように、思わずつぶやいてしまう。
こんなにも主人公に共感してしまう作品は初めてかもしれない。
愛する妻、一人息子の克己と暮らす文房具メーカーの営業員、兜のもう一つの顔は凄腕の殺し屋。
だが、最強の殺し屋の表の顔は、恐妻家だった。
大変失礼な話だが、私は伊坂氏の「殺し屋シリーズ」を読んだことがない。
この『AX アックス』がはじめてだ。
だから額面通り一流の殺し屋が活躍するハードなストーリーを勝手にイメージしていた。
しかし、読み始めてみると……、どうも様子がおかしい。
いや、確かに主人公の兜は殺し屋には違いないのだが……。
兜の行動原理の全ては「妻の機嫌を損ねないこと」である。これがまた徹底している。
仕事で夜遅く帰ったときは、妻を起こさないよう細心の注意を払う。
結果、魚肉ソーセージという究極の夜食に到達する。(理由はぜひ本編で確認してほしい。)
妻の愚痴には魔法の言葉「それは大変だね」一択で対処する。
「晩御飯なにがいい?」という問いかけには頭をフル回転させ、妻の負担にならないメニューを考える。残念ながら妻のお気に召さない回答をしてしまった場合は、つい今、口にしたばかりの自分の意見を覆すことに一瞬の躊躇もしない。
まさにプロの恐妻家だ。
兜に同情を寄せながらも一定のスタンスを保ち、深入りしようとしない息子の克己もなかなかリアルで味のある役どころだ。
ちなみに私の妻もさんざん愚痴ったあげくに「どうしたらいいと思う?」と聞いてくることがある。言葉をそのまま捉えれば何か気の利いたアドバイスでもしなければ、と焦ってしまう。だが騙されてはいけない。必要なのは「同意」と「共感」であって、間違っても「意見」や「アドバイス」ではない。兜はそれをよく知っている。
正解は魔法の言葉、「それは大変だね」なのだ。それも大げさなくらい共感するほうがいいと兜は言う。「いやいやそれじゃ会話が成立してないし」とか、そんなツッコミは何の意味もなさない。理屈や常識で測れないからこそ恐ろしいのだ。
作中で兜は、妻の機嫌を損なわないための様々なノウハウを惜しげもなく披露してくれる。
ベテラン恐妻家を自任する読み手は、兜の一挙手一投足に己を重ね、臨場感あふれるギリギリの攻防に、手に汗握るスリルを味わうことになるだろう。
そして恐妻家初心者には、兜が行う妻の思考分析や、それに基づく妻への対応が大いに参考になることは間違いない。そういった意味ではこの作品は「恐妻家マニュアル」と言っても良い。しかも読み手のレベルに応じてその楽しみ方は様々だ。
本作は5編からなる連作短編集だが、前半の3編はそんな兜の恐妻家ぶりを中心に描かれる。
執拗に、そして丁寧に描き出される兜の心の動き、迷い、そして決断。これらの濃密な描写は、そのほとんどを兜の「恐妻家ぶり」を表現するために費やされ、肝心の「殺し屋、兜」の部分は拍子抜けするほどあっけない。あるにはあるが、本当にあっけない。
そんなこんなで兜が殺し屋であることなどすっかり忘れて、その恐妻家ぶりを堪能していると、後半に入り物語は衝撃的な展開をみせる。
そしてその時はじめて読者は、兜がいかに妻を、そして息子を愛していたのかを知るのだ。
本作を読んで兜の恐妻家ぶりに呆れる人もいるだろうが、私はこう思う。
兜は妻にいつでも笑っていて欲しいだけなのだ。
自分のせいで一瞬たりとも不機嫌になってほしくない。
自分の努力のおかげで妻が笑顔で暮らせるのなら、それこそが兜の幸せなのだ。
幸せのカタチは人それぞれだから、他人にとやかく言われる筋合いはない。
自分の幸せのために努力することに躊躇う人はいないだろう。
だから兜は清々しいほどに妻の笑顔のために頑張るのだ。
なぜならそれが自分を救ってくれた妻への、兜のただひとつの「愛し方」なのだから。
物語終盤で妻が息子の克己に対して「お父さんが私に気を遣ってる? そんなはずないじゃん」と笑い飛ばすシーンがある。妻は兜の気遣いに全く気づいていない。
兜がかわいそう?
いや、きっと兜は本望だろう。それでこその「恐妻家」なのだ。
本作は、恐妻家諸氏はもちろんのこと、ぜひ女性の皆さんにも読んでいただきたい。
そして兜の恐妻家ぶりを散々笑い飛ばした後に、隣でオドオドしている夫に少しだけやさしくしてあげてほしい。
この可笑しくも愛おしい物語を読んだ後なら、きっとそんな気持ちになれるはずである。

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書籍

『AX アックス』

伊坂 幸太郎

定価 1620円(本体1500円+税)

発売日:2017年07月28日

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