男子校に通っていた為、高校時代に良い思い出はほとんどない。通学途中、上野駅の地下道にはホームレスのおじさんが等間隔に寝そべっていて、そこで嗅ぐ鼻をつんざく刺激臭は眠気覚ましには十分だった。駅から高校までの道のりには、男子ばかりがぞろぞろと列を作っている。高校に着いて自分のクラスのドアを開ければ、教室内にも男、男、男、ひとつ飛ばして男。あの頃、いつも女子に飢えていた。だから、この物語を読んでいると悔しくてしょうがなかった。あの頃の自分にとって、教室に男女が混在していること自体が奇跡だからだ。ささいなことで言い合いをしたり、面倒な仕事を押し付けたり、押し付けられたり、憧れの先輩の一挙手一投足に気を揉んだり。そのどれもが輝いて見える。ギラギラのストロボにポケモンショックを起こさぬよう、目をつぶってやり過ごした。たとえ自分ひとりが違う世界に飛ばされてしまったとしても、元に戻る為に必死になるような思い出がない。そんな自分にも、もう一度戻ってやり直したい過去がある。あれは中学二年生の夏。密かに想いを寄せていた女子が自分のことを好きだという噂を聞いた。もう嬉し過ぎて嬉し過ぎて、しばらくそのまま放っておいた。昔から、極端に嬉しいことがあると、しばらく寝かせる癖がある。例えば、大切な人からの嬉しい連絡があった時に限って、しばらく喜びをかみしめたいが為に、つい返信が遅れてしまう。この時も、すっかり噂に舞い上がって具体的な行動に移すのが遅れた。ある日、重い腰を上げて塾の帰りに公衆電話から彼女に電話をかけた。当時流行っていたPHSを彼女も持っていて、その番号を友達から聞いていたのだ。予め用意しておいた十円玉を電話機の上に積み上げて、受話器をあげた。メモを見ながら番号を押して、受話器を握りしめて待つ。彼女を動物園に誘うつもりだった。喜んで弾んだ彼女の声を思い浮かべた途端、無機質で機械的な音声が流れた。
「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません」
 目の前が真っ暗になった。大量の十円玉に、返ってきた一枚も付け足して、ポケットをじゃらじゃら鳴らしながら肩を落として帰った。数日後、彼女はまた新しい男子を好きになったという噂を聞いて後悔した。強いて挙げるなら、あのことをやり直したい。なぜか、いまだにあのことを引きずっている。あの時、もし電源が入っていたら、後に男子校に通うことを知っていれば、もっと必死になって積極的な動きをしていたはずだ。いい年をした今でも、時々そんなことを考えてしまう。だから、もう一度チャンスが欲しい。
 この物語の中で印象的なのは、面倒なことに巻き込まれているのに悲愴感がない所だ。キョンは次々と降りかかる問題に振り回されているのにどこか嬉しそうで、読んでいて悔しくなってきた。お前、楽しそうじゃないか、代わってくれ、と思った。
 この物語は、どこを探しても悪人が居ないし、出てくる武器さえも可愛らしい物だ。ただ、そのことを怖く感じる瞬間があった。他人に責任を押し付けて、怒りを燃料に前に進んでしまうのが一番手っ取り早い。それなのに悪人が居なければ元居た場所に戻ってくることは大切であり、また大変であることに改めて気づかされた。ずっと同じ場所に居続けることが一番難しい。進化とか退化とか、そんなことはいつだって出来るし、ただの結果に過ぎない。そして、そのままでいることや、ズレたものを元に戻すことにはある程度の覚悟が要る。その中でも特に、時間というものは厄介だ。止めることも戻すことも、極端に進めることだって許されない。だからこそ、時間軸を超えた過去や未来への興味は尽きない。それでも結局は、現在に帰ってくる為の過去であり未来であるはずだ。少し退屈に思える現在を肯定する為の、過去や未来だ。
 でも散々やった挙げ句、結局また振り出しで、一体何の意味があったんだろう。そんなつまらないことは言いたくない。当たり前のことを見失ってしまうバカだから、過去や未来へ行くことが許されるんだろう。
 やり直したい過去があればあるだけ、生活は豊かになる。この本を読んで、あの日ポケットを膨らませていた大量の十円玉の音が、懐かしくて愛おしくなった。


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※この記事は、6/3(金)までの期間限定公開です。

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書籍

『涼宮ハルヒの消失』

谷川 流

定価 648円(本体600円+税)

発売日:2019年02月23日

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