『パリ妄想食堂』。なんとも心躍るタイトルではないか。とはいえ生涯一度もパリに住んだことがない私に、本書の解説など書けるのか。しかし気がつけばいつしか私は、渡航先の書かれていないキャビンに乗り込み、機上の人となった。NAGASAKA TRAVEL主催(勝手に名づけてゴメンナサイ)、時空を超えた「食と記憶を巡る旅」の始まりである。
 ごはんカンタータ、その一、『魔法使いのバゲット』では、パリ生活一年目に風邪をこじらせた著者に、下宿先のマダムが食べ物を差し入れてくれるくだりがある。それはバゲットとポットに入ったティザーヌ(ハーブティ)。そこにフランス人の大好きなハーブ、ヴェルヴェンヌの記述を見つけるやいなや、レモンに似た柑橘系の香りと、薄甘いメロンのような曖昧な味が舌の奥に甦り、私の記憶は二か月前のマラケシュに飛んだ。
 そこはモロッコ発オーガニックコスメブランド創設者、フェイルーズ博士の秘密の花園。庭のタイルに無造作に置かれた大量のルウィザの葉、葉、葉。ルウィザとはアラビア語でヴェルヴェンヌのことである。ちなみに英語ではレモンヴァーベナという。私たちは博士お手製のブリオシュや、私が作ったヴェルガモットのコンフィチュール、フランス製バター、コーヒーにティザーヌで朝ご飯を食べながら、庭のアランビック(芳香蒸留水を採る蒸留器)に火をつけ、約七キロのヴェルヴェンヌの葉を詰め込む。モロッコではヴェルヴェンヌをハーブティとして飲むだけではなく、化粧品や香水の原料としても使用する。約一時間もすると辺りはヴェルヴェンヌの香りに包まれ、頭がすっきりと覚醒すると同時に、心が穏やかに鎮まった。
 ルウィザの香りを初めて嗅いだのは、前世紀の終わり頃、今から二十年ほど昔に遡る。サハラ砂漠で出会ったいかにも〝ワル〟を絵に描いたようなラスタヘアーのノルディンと、マラケシュの新市街のカフェで再会。「風邪気味だから」と彼がギャルソンに注文していたのが、ルウィザ・ビル・ハリーブ(ミルクでヴェルヴェンヌを煮出したもの)だった。麻薬密売人然とした風貌に最も似合わない組み合わせ。一口飲むとそれは甘やかで温かく、なぜか絶対的な母性を感じさせる味だった。
 その後、ノルディンは二十八歳で五十二歳の英国人女性にもらわれて行き、数年後に離婚した。その結婚は私の予想をはるかに裏切るもので、国外脱出を夢見るモロッコ人がヨーロッパの資産家女性をたぶらかすパターンかと思いきや、見かけとは裏腹に、実は下僕体質の彼のほうが、どうやら被害者だった。稼ぎのほとんどを英国女に搾取されて、ほうほうの体で恐妻の住むやかたから逃げ出し、彼は小さな部屋を借りた(イギリスおばさん、やるわ~、脱帽)。
 確か二〇〇五年ごろにロンドンからブライトンに近い港町に住む彼に会いに行った。悪い魔女に幽閉されるラスタヘアーのラプンツェルを救い出さなくっちゃ。そんな気分だったのかもしれない。小さな一軒家の共同キッチンから、あのスパイスの匂いが漂っていた。本書の『王様のクスクス』に出てくるアラブのスパイス、ラス・エル・ハヌート(アラビア語はRの発音を思いっきり巻き舌にする)である。
 その日はイスラム教の安息日、金曜日で、ノルディンは働いているオーガニック農園から野菜を持ち帰り、最高に美味しいクスクスを作ってくれた。あのクスクスはそう、自由の味がした。ちなみにモロッコのクスクスにはトマトは入れないのが流儀である。
 美味しくて、がしかし物悲しいバゲットの思い出は、八十年代のパリ。安宿を探してサン・ミッシェル駅近くのホテルに迷い込むと、ロビーにはモノクロのポートレート写真がさりげなく飾られていた。ビートジェネレーションを代表する作家ウィリアム・バロウズと、画家ブライオン・ガイシンのツーショットだった。屋根裏に部屋を取り、初めてのパリを満喫した。星付きのレストランなどにいくお金はなく、もっぱら近所のトレトュール(お惣菜屋)でバゲットにバター、サラダ、パテのたぐいを買い、ホテルの部屋で食べた。後になって知ったが、このホテルは通称「ビートホテル」と呼ばれ、六十年代くらいまでは、若き芸術家や作家たちの溜まり場だった。自分がこの先、何者になるかもわからなかった時代。どこにも属する場所がなく、不安で寄る辺なく、そのくせ妙に確信に満ちていて、微熱を帯びたように高揚していた。

書籍

『パリ妄想食堂』

長坂 道子

定価 734円(本体680円+税)

発売日:2019年02月23日

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    書籍

    『旅に出たナツメヤシ』

    長坂 道子

    定価 1728円(本体1600円+税)

    発売日:2017年04月27日

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