寛政かんせいの改革を行った老中松平まつだいら定信さだのぶは、御三卿ごさんきょう田安たやす家に生まれた八代将軍徳川とくなが吉宗よしむねの孫である。同じ御三卿の一橋ひとつばし治済はるさだと老中田沼たぬま意次おきつぐによって白河しらかわ藩に養子に出され、将軍にはなれなかったが、老中首座兼将軍後見として、辣腕を振るった。定信は、家臣の水野みずの為長ためながに命じて幕政や幕府役人の噂を調査させ、人事考課などに使った。その記録が、『よしの冊子』である。文章の多くが、「……の由」と書かれていることから、そのように名付けられた。
 私がこの記録を読んで興味を持ったのは、池波いけなみ正太郎しょうたろう氏の小説『鬼平おにへい犯科帳』の主人公である長谷川はせがわ平蔵へいぞうについての記述が散見されたからである。長谷川は、火付盗賊あらために任じられた時は、「奸物かんぶつ」とされ、「どうしてあのような者を登用したのか」と非難され、同役の松平左金吾さきんごと比較されて、左金吾にかなうわけがないと散々な評判だった。
 ところが、長谷川が上州じょうしゅう真刀しんとう徳次郎とくじろうなど多くの大盗賊を召し捕らえ、しかも犯罪者や貧民にも慈悲の心をもって振る舞うことから次第に評判があがり、庶民は「平蔵様、平蔵様」と崇め、「是非町奉行になってもらいたい」とまで言うようになった。こうした記述が、テレビ時代劇の「鬼平犯科帳」にダブるところもあり、楽しんで読んだ。
 平蔵については、『鬼平と出世』で詳しく書いたが、この史料には、定信の同僚の老中をはじめ、若年寄、町奉行、勘定奉行など、幕府役人の評判や素行が詳しく書かれている。
 たとえば町奉行の初鹿野はじかの信興のぶおきについて。老中格本多ほんだ忠籌ただかずは、大判値段を引き下げる触れを出す前日、多くの大判を払い下げた。大損した商人の苦情を受けた初鹿野は、本多を難詰した。
「あなた様、よもや大判値段引き下げの事を知らなかったとは申されますまい。それを知らないふりで昨日払い下げなさったのは、御役柄に対しあまりに如何なものかと存じます」
 町人を子供のように思って保護する町奉行の面目躍如である。本多の行いは、今で言えばインサイダー取引以上に悪質である。その後、死去した初鹿野は、本多に睨まれ、切腹したという噂が立った。そのままテレビ時代劇になるような史実が書かれている。
 また、幕府役人の実態が書かれていることも興味深い。勘定奉行の柳生やぎゅう久通ひさみちは、城にいることが好きでなかなか帰宅しないから、部下も帰宅できず困っている。これなどは、現代でも見られることかもしれない。有能な勘定奉行久世くぜ広民ひろたみは、あまりの忙しさに、早く番頭になって楽をしたいとぼやいている。こういう気持ちもよくわかる。
 このほか、当時の大名の評判もおもしろい。仙台藩は藩主の伊達だて重村しげむらが中将に早く昇進したくて田沼に賄賂を使い、財政が苦しかった。家臣たちは、慈悲深く才略のある弟の伊達摂津せっつに、「あなたが藩主にならしゃったらいいのに」と言っていたが、彼は堀田ほった家に養子に行き、若年寄になり勝手掛(財政担当)に抜擢された。彼(堀田正敦まさあつ)が総裁となって編纂した『寛政重修ちょうしゅう諸家譜』は、大名・旗本の家譜を集成したもので、現在では信頼できる大名・幕臣事典としてすべての近世史研究者に恩恵を与えている。
 伊勢国薦野こもの藩主土方ひじかた雄年かつながは、青山辺に下屋敷を持っていたが、屋敷内の庭で牡丹ぼたんを栽培し、丁寧に花壇などをこしらえ、近所へチラシを配り、見物したい者はこのチラシを持参するようにと触れた。これがたいへんな評判となり、歴々の旗本の奥方なども見物に訪れ、屋敷内には茶屋が三軒、あめ売りが五軒出た。庭に座敷のような場所もあり、そこでは踊り浄瑠璃を上演させたという。これは、下屋敷を使った商売だった。
 この頃の庶民は、こうした場所には目がなかった。神社仏閣の門前には看板娘に給仕させる水茶屋が流行り、看板娘は錦絵にもなって評判を呼んだ。浅草観音門前の難波なにわ屋の娘は高慢になり、自分では茶を出さず手伝いの女に茶を出させたという。『よしの冊子』は、幕府役人の生態から江戸の世相まで窺い知ることができる希有の史料なのである。

>>山本博文『武士の人事』

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