客もまばらな潰れかけた場末の寿司屋で、中治勝は一人奮闘、空回りをしていた。
そんな折、妻がガンに倒れ、余命宣告を受ける。勝がすべての我欲を捨てた時、奇跡が始まった……
NHK総合「逆転人生」での放映を記念して、第1章の特別試し読みを実施する。
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客足もまばらで、つぶれかけていた
場末の鮨屋すしや蒲田かまた 初音鮨はつねずし」。
それが突然、“世界中から予約が入る名店”として
名を馳せるようになった背景には何があったのか?
「5年後の生存率は、10%以下」
――当初は「銀座の名店に負けたくない」とばかり、
競争・闘争の世界にいた鮨屋のオヤジが、
妻の余命宣告と闘病をきっかけに、
店を大きくする野望を捨て、
利益もこだわりもすべて捨てて、
ただ妻とお客のためだけに
鮨を握りはじめた時――
これはある鮨屋夫婦に起きた
小さな奇跡の物語。


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 第一章 どこか捨て身な市井の鮨屋


「ではみなさま。ご来店ありがとうございます」

 そう親方のかつが挨拶すると、その妻で女将おかみのみえ子が、さらしをしいた上にまだ湯気が見える炊きたての銀シャリ(白飯)を盛ったざるを持って、ツケ場(鮨屋のカウンターの内部)へと入ってくる。

 勝は、待ってましたとばかりに「いま、ちょうど炊きたてのご飯を酢飯にして参りましたので、みなさんにシャリの出来を、まだ赤ん坊の状態から見ていただこうと思っております。お懐石では一文字いちもんじごはん”なんて言ったりしますが、あなたのためにこの炊きたてをご用意いたしました」と語りかける。
 “何よりもシャリが大切”。そう言う鮨屋のオヤジは多いが、本当に羽釜はがまで炊いたばかり、酢を落としたばかりの酢飯を持ってくる鮨屋はまず無い。炊きたての飯に大量の酢を投入した直後は、揮発する酢が鼻を刺激しすぎるからだ。
 しかしこの店の親方は、まったくそんなことを気にする素振りも見せない。
「先ほど、赤ん坊なんて言いましたが、このあと温度が下がるにつれてシャリの粒が立ってしっかりとしてきます。そこからさらに温度が下がり、徐々に枯かれていくさまを楽しんでいただきたいのですが、ちょうどその中間、働き盛りの頃に、中トロを合わせていきます。この時のシャリは、もう少しバラけが良くなって、酢もしっかりとした味わいです。最後の枯れる直前には、鉄火とかんぴょうをパリッとした海苔と合わせて、召し上がっていただきます」
 温かく、酢を振ったばかりのシャリ。生まれたての赤子のように温かく柔らかいその触感が変化していくさまをお客たちの脳裏に浮かばせながら、そこにどんなネタを合わせていくのか、想像をかき立てる。
「では本日、およそ2時間半のおつきあい。精一杯、つとめさせていただきます。よろしくお願いいたします」
 勝が前口上を語り終えると、そこからは師匠が愛弟子に教えるように、おいしさの秘訣,をひとつひとつ、お客にやさしく語りかけながら蒲田初音鮨の舞台の幕が開く。その先は、他のどんな鮨とも似ていない、親方・中治勝だけの鮨劇場、初音ワールドが怒濤のごとく続いていく。
 ある日の最初のネタは、その日に久里浜くりはまで揚がった3・5キロの地ダコの雌。
「しっかりしたアンヨ。茹で上がった足を見るだけで、それが雌だってわかる。なにしろこのライン、“セクスィ~”でしょ。おっ?わかります?お客さん、セクスィ~担当ですね。このタコ、なにより香りを楽しんでください。“タコの香り”。みなさん、あまり意識したことがないでしょう?香りを楽しむには熱すぎてもダメだし、冷たすぎるともっとダメ」
 そう話しながら、あっという間にネタに包丁を入れ、整えていく。
「みなさん、このタコ、夏が旬だってご存じです?砂地でハナジャコとか甲殻類を好んで食べて、初夏になるとワタリガニが渡ってきますから、これを地ダコが食べると、タコが最高にうまくなる。ところが近年は冬でも黒潮が蛇行して、江戸前の水温が上がってくる。ほら、エルニーニョだかラニーニャだか、突破力のあるサッカー選手みたいな名前のヤツのおかげでね、真冬だってのに3・5キロの質の高いタコが揚がってくる」
 整えたネタを並べたお皿を手に持ち、勝は続ける。
「ほら、お皿の底を触ってください。気持ち良くなるぐらいの温かさ。その温もりを、炊いたばかりのシャリの温度と合わせて、召し上がっていただきます」
「しかし、その前に。うちのお店、ちょっと変わったところがありまして、みなさんもうお気付きかと思いますが、まずは“オヤジがよく喋る”。だいたいのお客さん、これ言わなくても、1分30秒ぐらいで気付く。タクシーの運転手さんにもいるでしょう?やたら喋るオヤジ、本当に前見て運転してるのかな?と心配になる人もいるぐらい。そうかと思えば、何を話してもウンともスンとも言いやしない。『聞こえてますか!?』『聞こえてますよ!』と返事するような人もいる。なかなかちょうどいいって塩梅の人には当たらないもんで」
 笑いの沸点が低い客だと、なおさらに勝の舌は回り始めるが、すべては最高の食事でもてなす脚本の中に組み込まれた流れ。その日の客の構成、雰囲気を読み取り、カウンターに並ぶ8人の興味を惹きながら、最後は食の話題へと引き込んで、一体感をもたらす。
 お客たちから笑顔を引き出し、息つく暇もなく新たなる興味を惹くその話術。初めて勝の喋りに接したお客は、その滑らかな舌から生まれる言葉を心地よく感じつつも、その言葉の深さを少しずつ感じ始め、そして圧倒されていく。
「さて、もうひとつ変わったところ。みなさん、手のひらを上に向けて、人差し指と中指を伸ばしていただき、その上にワタクシが鮨を乗せる。それが初音の手乗り鮨。親指を添えてちょこんとかわいく乗ったお鮨を、そのままひっくり返しながら、天井を見上げて“あ~ん”と口に入れ、舌の上にネタが乗るように。すると、まずはタコの温度感がわかりますね。“なるほど、このオヤジはこのぐらいの温度感がいい塩梅だって考えているんだ”と感じることができる。鮨を握るオヤジと、食べる客。そのコンセンサス、意思の疎通が図れるわけでございます」
 そう話しながら一貫目を握り、そこに酢橘すだちを搾って落とす。
「そして、そのまま舌の上で3秒、気の長い人で5秒。すると酢飯と反応して、口の中に“ジュワッ”と唾液が出てきます。みなさん、ここで唾液の酵素、酢飯、そして鮨ネタを噛んで一体にすることで旨味を引き出し、口の中で料理として完成させてもらいます。“半完成品”を手渡しますので、最後の調理はぜひご自分のお口の中で完成させて、楽しんでください」
 そう話し、いつもカウンターにひとりはいる常連さんに、最初の“お手本”を見せてもらうのが、毎晩くり返される初音の恒例行事。ここ蒲田初音鮨は、お客たちにエンターテインメントを提供するとともに、鮨職人としての勝が持つ、あらゆる知識、握る鮨に込められた創意工夫をあからさまに伝える場でもある。それは勝にとって極めて大切な儀式なのだ。

書籍

『蒲田 初音鮨物語』

本田 雅一

定価 1620円(本体1500円+税)

発売日:2019年01月25日

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