6 月 10 日(月)発売の「文芸カドカワ 2019年7月号」では、渡辺優さんの連載がスタート!
カドブンではこの新連載の試し読みを公開します。
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澄んだ瞳、芸術的な曲線を描く横顔。
そのすべてを守れるのなら、俺はなんだってしてみせますよ――。
憧れと狂気が交錯する、青春物語!


       一

 美しい彼女を前にして、俺から差し出せるものなどなにひとつありませんでした。
 せめて贈る言葉だけはその奇跡に相応しいものにしたいと望んでいたのですが、ごちゃごちゃと飾りたてた言葉など、彼女の繊細な瞬きの前にはまったくの無価値だと知りました。そこで俺は、ただ、今この瞬間、誠実であろうと決めました。正直であろう。率直であろう、と。比喩でなく、俺は神を前にした無力な人間でした。胸の奥からわき上がる想いを、ただ、真っ直ぐに伝えることしかできない。
「あなたのことが好きです」
 なんとか絞り出した声に、伏せられていた彼女の睫毛が、音もなく持ち上がりました。澄んだ双眸そうぼうが俺を捉えます。その眼差しに導かれるように、俺は言葉を続けました。
「すごく好きです」
 なんて愚鈍な、と思います。
 でも、仕方がないのです。彼女を前にすると、俺は。
 彼女と俺の間を、一陣の風が通り抜けました。両足に力をいれ続けていなければ、自転する大地に置き去りにされてしまう。そんなイメージが一瞬浮かび、消えました。
 彼女を前にするとどうしようもなくなる。ただでさえ俺は、自分が豚野郎であることを自覚しています。取り柄といえば、愛くるしい笑顔くらいでしょうか。イエー。あと、豚だけあって多少寒さには強いです。それから、気性の穏やかさだけは人からもほめられたりします。あとは、課題の提出の早さなんかは教授たちの間で定評がありますね。ああ、でも、そんな些末なこと、彼女の前では。
 愚かな豚の言葉を、しかし彼女はわらったりしませんでした。
 彼女は、たっぷり五秒ほど俺を見つめた後(永遠に最も近い五秒でした)、森の奥に隠れる湖面のような静かな声で、言いました。
「それで?」
 それで、と。
「え……っと、いや、あの」
 彼女が俺に、更なる発言を求めている。
 その奇跡に胸が震え、頭には熱い血が上りました。視野は縮小され、俺の目にはもう、彼女しか映らない。
 大学の図書館奥、キャンパスの敷地端に位置する、何かの記念に設置されたらしい小さな噴水と、数脚のベンチだけが置かれた空間。彼女への想いを告げる場に、俺はこの建物と木の陰に隠れた、密やかな場所を選びました。冬の間は乾いた底石を晒していた水場は、新たな年度の始まりとともに今、豊かな水を湛えています。
 熱に浮かされた頭にも、涼やかな音が聞こえました。浮き世にあって、穢れのない静謐せいひつさに満ちた場所。彼女にはこんな世界が相応しいと、思ったのです。
 俺は腕を持ち上げ、小さくいびつに膨らんだ、左の胸ポケットに手を触れました。その中には俺の彼女に対する想いの証明が収められています。その確かな存在が、背中を押しました。
「俺と、付き合ってもらえないでしょうか」
 意外にも、喉から溢れ出たその声は、震えたり、掠れたりはしていませんでした。身体の底から流れ出た、飾りのない、ただの言葉。
 彼女の顔が、静かに横を向きました。肩より少し伸びた髪が、つられて鎖骨の上に落ちました。芸術的な曲線を描く横顔、その視線は、遠く続くグラウンドの芝生の方へと向けられています。
 俺はこみ上げるこの気持ちが、好きな女の子を見つめる感動なのか、あるいはなにか、神秘的な生き物を見つめるときのそれなのか、わからなくなっていました。ただ、ずっと気がかりに思っているのは、彼女の視線の中にある、かげり。悲しみのような、寂しさのような。それは俺たちが初めて出会った一年前から、彼女の瞳に絶えず宿っていたものでした。俺はもう一年もの間、彼女を見つめると同時に、その影を、為すすべもなく見守り続けてきたのです。
 あなたを幸せにしたい。
 俺にもっと勇気があれば、そして、俺がもっと恥知らずでいられたなら、きっとそう告げていたでしょう。俺が本当に望んでいることはそれなのです。彼女にはどうか、曇りなく、翳りなく、心の底から笑っていて欲しい。
「ごめんなさい」
 とても静かな呼吸で、彼女はそう言いました。
 悲しい言葉、しかしその言葉を、俺はもちろん予想していました。だから、絶望はない。ただ、言葉の意味する悲しみだけが、鋭く胸に染みました。
「そう……ですか」
「はい」
「それは……」
「ていうかあの、二度目ですよね」
「え?」
「去年? も言ってきましたよね、なんか」
「え、あ、はい」
 一年前、大学に入学し、そこで出会った彼女にひと目で心奪われた俺は、それからひと月も経たないうちに今と同じように想いを告げました。そのときの回答も、今と同じように「ごめんなさい」という、悲しいものだったのですが。
「あ、覚えていてくれたんですね」
「はあ……。あの、もういいんで」
「え?」
「もうこういうの、いいんで。こういう呼び出されたりとかで時間食うのも、ちょっとあれなんで。これきりで」
「あ……そうですか」
「はい」
「そうですか……すみません」
 お時間を取らせて、と言い切る前に、彼女は二センチほど頭を下げ、俺の横を颯爽と通り過ぎていきました。風に乗って、何か花のような、果物のような甘い香りが届きました。振り返ると、彼女はもうポケットからスマホを取り出すところで、そのまま一度もこちらを振り向くことなく、講義棟への渡り廊下を歩いて行きました。歩きスマホは危ないぜ……という言葉が、頭の中に木霊こだましました。
 水音と、風、微かな香りだけが、俺と共に残されていました。見上げれば、高くそびえる赤煉瓦れんがの図書館と、澄んだ空。胸の中には、なお変わることのない彼女への、想い。
 そして、俺は決めました。俺は彼女と共にはいられない。それは彼女の望みではない。それでも構わない。俺は、遠く、彼女を見守り続けよう。彼女の幸福を願い続けよう。
 彼女がいつか、どこかで心の底から笑ってくれるなら、俺はなんだってしてみせる。

      ***
 入学式から数日が経った午後。
 使い方を覚えたばかりの食堂で、俺はヤマグッチと一緒にいました。ヤマグッチは高校からの同級生で、本名は山口やまぐち
 俺たちは焦っていました。そろそろ入るサークルを決めなければと思っていたのです。地元で仲の良かった友人が同じ大学、同じ学科にいたことはとても嬉しい、心強いことでしたが、それにしたっていつまでも男二人、すでに見慣れた互いの顔だけを見て新たな大学生活を浪費するのは絶対に嫌でした。そんな状況が長く続けばいずれ互いを憎み合い殺し合う未来が見えるってものです。俺たちはなにか新しい、フレッシュで刺激ある大学生的な出会いを求めていました。
 うちの大学は、公式に二日間の新歓期間を設けています。期間中、サークル棟周りでは大々的にビラ配りやブース展開等の、新入生の勧誘が行われています。今日がその最終日となる土曜日だというのに、俺たちはまだなんの心も決められず、雑多な人ごみの中、差し出されるチラシをひたすら受け取るだけで、どこのサークルのブースにも積極的に声をかけられずにいました。
 このままではサークル難民になる。サークルに入らない大学生は友達もできず、恋人もできず、美味しい情報を持つ先輩とのコネもできず、退屈で刺激のない大学生活を送ったのちに就職にも失敗して死ぬ。そんな怪談を信じて怯えるくらいに、ヤマグッチも俺もピュアでした。金がないため無料のウーロン茶だけを手に、俺たちは一面ガラス張りの食堂、東端の席に座っていました。テーブルの上には、ここ二日で互いが入手したサークルのビラ。あらゆる可能性へとつながるそれらの紙切れを、ヤマグッチは真剣な目で睨んでいました。
「運動系は止めよう」
 かしこまった声でそう決断を下したヤマグッチは、熱いお茶を音を立てて一口、飲みました。
「ナイス」
 俺は答えました。もし彼が運動系のサークルに入ると言い出したら、結んだばかりの「とりあえずまあ同じサークルに入っとこう協定」をさっそく破棄する心持ちでしたから。俺は一年生で必修となっている体育の授業を最後に、運動とは縁を切るつもりでした。人間には向き不向きというものがあります。俺ってどうも、生まれつき運動向きのフィジカルじゃあないっぽいんですよね。
「だよな。怠いよな」
「ああ、怠い」
「ガチすぎるのも嫌だしチャラすぎるのも嫌だし。俺、付き合うなら文系の女子がいいし」
 進学と共に同級生の彼女と別れたヤマグッチは、サークルにしろバイトにしろ第二外国語にしろ、なにかを選ぶ基準の柱が女子との出会いとなっていました。軽薄じゃないのヤマグッチ、と思わなくもないですが、かくいう俺も、まあそれに類する期待が皆無ではない。全くやぶさかではない。
 俺たちは工学部情報工学科の学生らしく、テーブルの上のチラシをフラットな目線で、ゼロと一に仕分けることにしました。主な活動内容が運動系のものはゼロ、それ以外は一、です。まだなんの授業も受けていないので詳しいことはアレですが、情報工学的にはそういう分け方になる感じがします。一に分類されたチラシを、更に女子との出会い率など複数の因子を加え選別します。二進法はすべてを解き明かすのです。情報工学的に。
「おまえ情報工学的って言いたいだけやろ」
「オーケー、それは認める。でも東北出身で東京在住のヤマグッチが関西弁を使うのはどうかと思う」
「別にええやん」
「駄目やん。あかんやん」
「方言女子っていいよな。京都とか。沖縄とか」
 ヤマグッチはもはやなんの話をしていても女子の話題に着地する、高性能の渡り鳥的回路が組み込まれたドローンのようです。情報工学的に。彼は染めたばかりの茶色い髪を指先でいじりながらチラシの一枚を手に、「ボランティア系は軽めの美人が多そう」と偏見と願望にまみれた見解を示しました。
「あの」
 ゼロと一に分けられた紙束の上に、突如影が落ちました。顔を上げると、男がふたり、立っていました。声をかけてきたのは、おそらく手前に立つ、中肉中背のオールバックの男。オールバックを迷彩柄のヘアバンド的なもので留めているその頭を、俺はつい注視してしまいました。一糸乱れぬ、完璧なオールバック。
「一年生? だよね」
 俺とヤマグッチの顔を交互に見比べながら、オールバックは言いました。「はい」、と俺が答えると、彼はフレンドリーとも尊大ともとれる笑顔を見せました。
「サークル決まってない? ならさ、見学だけでも来てくれない?」
 ヤマグッチが、こちらに目配せを寄越しました。彼の瞳は、「微妙」という気持ちを如実に物語っていました。ヤマグッチが乗り気になれない理由は、こちらのオールバック先輩からも、その後ろで絶えず鼻を触っている小柄で寡黙な雰囲気の先輩からも、女子との交流が盛んな気配が全く感じられないからでしょう。俺は、「まあまあそう言わず話だけでも聞きましょうよ」という視線を返しました。このふたりが運動系のサークル所属でないことは、その体格から明らかでした。そして俺は何となく、彼らの醸し出す空気に親しみを感じていました。オタク・フィーリングを感じる。
「なんのサークルですか? アメフトとかはちょっと苦手なんですけど」
 俺の、よく考えるとわりと失礼だしまあ面白くもない咄嗟の冗談に、オールバック先輩は一拍空けた後、親切に笑ってくれました。
「大丈夫、俺ら見ての通り、筋トレとかしなくて良い系だから。サバゲーサークルだよ」
 サバゲー。サバイバル・ゲーム。俺はオールバック先輩のヘアバンドの迷彩柄に再び目をやりました。キャンパスの中ではどこにもカムフラージュできそうにない、グリーン迷彩です。
「あ、マジっすか」
 意外にも、ヤマグッチが食いつきました。
「俺モデルガン何個か持ってます。あ、でもぜんぶ実家だな」
「マジで? 経験者?」
「いや、ちゃんとはやったことないですね。的に撃つくらいで」
「いや、やっぱ銃は人間撃たなきゃ」
 先輩は超怖いことを言いました。そこで、彼の後ろに控えていた小柄な先輩が、初めて口を開きました。
「これ……チラシなんで」
 三日ぶりに喋ったかのような掠れた声で差し出されたそれを、ヤマグッチが受け取りました。ちらりと見えた紙面には、中央に大きな手書きの文字で、「銃」とありました。うわあ! ダサいなー! と俺は心の中で叫びましたが、そのダサさもなんだか俺向きな気がして悪くないように思えます。むしろ良い。
「今日は終日、このC401ってとこで新入生向けの説明会やってるから。ていうかホントは別にいつでもやってるんだけど」
 よろしく、頼むよ、来てね、きっと来てよね、と何度か念を押して、先輩たちは去っていきました。ヤマグッチは残されたチラシを真剣な目で見つめ、「女子はいなそうだよなあ」と眉根を寄せました。
「サバゲー女子とか流行ってるって、なんかで見たけど」
 俺はぼんやり呼び起こされた記憶を伝えました。
「マジで?」
「いや、でも、数年前の情報かな」
「うーん……あ、でもあれだ。自由参加で、掛け持ちオッケーだって」
 ヤマグッチが指し示した箇所には、『完全自由参加! 辛い練習一切必要なし! 掛け持ちオッケー! 他サークルの息抜き、暇つぶし感覚で大丈夫です!』と、卑屈ともいえるアピールポイントが記載されていました。「サバゲーちょっとやってみたかったんだよな」と、目を細めるヤマグッチ。高校時代、俺モデルガン持ってるぜ、と彼がなにかのときに自慢してきたのを思い出しました。マジかよめっちゃ羨ましい、と感じたのを覚えています。俺はモデルガンに手を出したことはありませんが、撃鉄が起きて引き金が引ける、リアルなリボルバーの形をした真鍮しんちゅうのキーホルダーをとても大事にしていたことを、思い出しました。
「どう思う?」
 俺はピュアな少年の心がくすぐられるのを感じ、ヤマグッチがまだ女子との出会い以外にも興味を持てたことに純粋に安堵し、サバゲーサークル『クライス』説明会への参加に賛同したのでした。


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書籍

「文芸カドカワ 2019年7月号」

角川書店

定価 486円(本体450円+税)

発売日:2019年06月10日

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    書籍

    『行きたくない』

    定価 648円(本体600円+税)

    発売日:2019年06月14日

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