佐藤正午さんが『月の満ち欠け』で第157回直木賞を受賞されました。
直木賞受賞を記念しまして、カドブンでは佐藤正午さんの角川文庫作品の試し読みを3週連続で公開いたします。
本日9月5日(火)は『取り扱い注意』を公開いたします。
この機会に長年の正午ファンからの評価も高い、「唯一無二の恋愛小説」をぜひお楽しみください。

   1996 夏

「ご静粛に」
「ねえ、鮎川さんはお母さんと二人暮らしなんですって?」
「会場のみなさま、お静かに願います」
「誰に聞いた?」
「社内の噂」
「みなさまステージに御注目ください、ただいまよりアトラクションがはじまります」
「噂の鮮度は長持ちしないね、我が社の缶詰と違って」
「あら、どういう意味かしら」
「テーブルの上には七種類の缶詰が並んでおります、ご覧になれますでしょうか。みなさまもっとお近くへ、ご覧になれる位置にお立ちになりましたら、どうかしばらくの間お静かに願います、これより……」
「お母さんが家出?」
「家出じゃない、母は家を出たと言ったんだよ」
「お母さんが家を出た」
「そう」
「どう違うの?」
 質問と同時に彼女は心もち首をかしげた。
 ステージではテーブルの上に七種類の缶詰を並べてアトラクションが開始された模様だった。
 給仕係がそばを通りかかったので二杯目のシャンパンをもらって二口で飲んだ。それから茹で卵のスライスの上にキャビアを添えたカナッペを一つつまんだ。その間、彼女は心もち首をかしげたまま答を待っていた。
「家出なら捜索願いを出す必要がある、家を出たといった場合にはその必要がない」
「それくらいわかってる、あたしが聞いてるのはね」
「家出の原因は謎につつまれたままかもしれない、家を出る場合には理由は比較的明らかにされる、というのはどうだろう」
「その理由の話よ」と彼女は続けた。「あなたのお母さんて、いったいお幾つ?」
「二人いるんだ、足すとおよそ百になる」
「もう酔ったの? それともあたしをからかってるの?」
「今日は大いに飲んで食べて、我が社の発展を祝ってくれと社長は言ったぜ」
「からかってるのね」
「これは我が社がより発展するために輸入している缶詰のキャビアだ、そっちのイクラも、試してみろよ」
「あたしは茹ですぎた茹で卵は嫌いなの、匂いがね」
「確かに茹ですぎだな、黄身が灰色がかってる」
「お代わりはいかがですか?」と若い女の声が言った。
「ありがとう、でもこの人はもう十分飲んでるし、あたしもあんまりいただけないの」
「いただくよ」僕は空のグラスを盆に戻し、三杯目を取り上げて口をつけた。「創立五十周年だからね」
「おめでとうございます」愛嬌たっぷりのパーティ・コンパニオンが芝居がかったお辞儀をしてみせた。白いシャツに黒の蝶ネクタイ、光沢のあるグレイのカマーバンドに黒のミニスカート。
「アトラクションといえば、社長の趣味の民謡が聞けると思って楽しみにしてたんだけどね、ビデオカメラとおひねりまで用意してたのに、あの振り袖の歌手はどこに消えたんだろうね」
「気にしないで、この人は冗談を言ってるだけだから」
「振り袖の女のかたならあそこに」
「ああ、このあとで歌うつもりなんだな。そばに寄り添ってる二枚目は我が社の専務だよ、でもあれは彼女の電話番号を聞き出してるんじゃない、専務はああ見えてもホモセクシュアルだからね」
「ちょっと、よしなさいよ」
「社内の噂だろ?」
「気が変わったわ、やっぱりあたしにも一杯ちょうだい」
「今度まわって来るときにはウィスキーの水割りを頼むよ、濃いめにね」
「ハーフ・ロックでいいですか?」
「ハーフ……何?」
「ハーフ・ロック」
「うん、それでいい」
「すぐにお持ちします」
 脇のあたりがくすぐったくなるような愛くるしい笑みを残して黒いミニスカートの女が去った。襟ぐりがバケツの形に大きく開いた空色のミニのワンピースを着た同僚がシャンパンを一口すすってから小声で話を戻した。
「お母さんが家を出られたということは、鮎川さんはいま持ち家に一人住まい?」
「もちいえ?」
「違うの?」
「父ともう一人の母が一緒だよ、他に姉が一人、妹も三人いる。きみはハーフ・ロックって何のことだか知ってるか?」
「知らないわ。お父さんは早くに亡くなったんでしょう、ずっとお母さんと二人暮らしだったはずよ」
「変だな」
「変、何が?」
「入社してもうじき半年になるけど、親身に話相手になってくれる同僚は一人もいなかった、それがとつぜん母のことを聞きたがったり、どうして急に僕に関心を持つんだ?」
「急に、というわけじゃないけれど」
 彼女はパーティ会場をざっと見渡して、遠くにいる誰かに焦点をしぼるように目を狭めた。それから向き直ると、ひょいと顎をしゃくり、人のいない隅のほうへ僕をいざなった。
「会社の男の人たちが、あなたのことをどんな目で見てるか知ってる?」
「どんな目でだろうと、僕のことを気にかける社員がいたとは光栄だね」
「あたしは親身に話してるのよ」
「教えてくれよ」
「専務のペット」
「なるほどね」
「専務のペットよ、侮辱的でしょ? 悔しくないの?」
「僕は専務のひきで入社したんだ」
「それは知ってるわ、でもあたしは他の社員が知らないことも幾つか知ってる、だから、専務のペットなんて陰口がぜんぜん的外れだということも分かってる」
 ステージのまわりで拍手が起こった。感度の悪いマイクロフォンを通して文字どおり雨あられのように音が鳴り響いた。どうやら七種類の缶詰を使ったアトラクションは好評のうちに終了した模様だった。
「たとえば」と僕は尋ねた。
「鮎川さんの亡くなったお父さんはプロ野球の選手だった、西武ライオンズでピッチャーをやってた、そうでしょ?」
「それで?」
「体格も野球の才能も遺伝しなかったかわりに、お父さんのある一部分だけは完璧にコピイされた。だからあなたはベッドの上での試合には負けたことがない。飴細工の飴みたいに女のからだをぐにゃぐにゃに蕩かしてしまう」
「その比喩はきみが考えたのか?」
「聞いた通りに喋ってるの。おたくの会社が作ってる缶詰に譬えれば、サバの水煮みたいに骨まで柔らかくしてくれる、とも言ってた」
「誰が」
「さあ、誰でしょうね」
「お代わりはいかがですか?」
 と若い女の声が言った。白いシャツに黒の蝶ネクタイ、グレイのカマーバンドに黒のパンツ。差し出された盆の上にシャンパンのグラスが一つだけ載っていたので、空のグラスと取り替えて一息に飲んだ。
「今度まわって来るときにはウィスキーを頼むよ、ハーフ・ロックで」
「ハーフ……何ですか?」
「いや、いいんだ、水割りでいい、濃いめにね」
「すぐにお持ちします」
「誰だか知りたい? 知りたければ今夜あたしと」
「よく分からないな、きみは僕に何が言いたいんだ?」
「わからない? あなたを口説いてるんじゃない」
「僕を、口説いてる」
「われわれ女子社員はね、本当はみんな新し物好きなの、鮎川さんのことも入社した日から気になって気になって仕方がなかったの、でも噂が噂でしょ? さっき言った専務のペット説が一つの大きな壁になってたわけ、その壁に最初にひび割れを見つけたのがあたしね、早い者勝ち、新しい噂が広がらないうちに、今夜、あたしを飴みたいに蕩かしてみて」
「からかってるんだろ?」
「本気よ、先に帰っちゃだめよ、二次会が終わったあとで」
「二次会にまで出るつもりはないよ」
「そんなこと、専務が許してくれないわよ」
「水割りをどうぞ」
 とまた新しい声が言った。振り向くと白っぽいグレイのスーツ姿の女が立っている。髪をきっちり後ろで結って、こぢんまりした顔には縁なしの眼鏡。紙ナプキンで底を包んだグラスを手渡しされたので一口すすった。酔いざましのおひやと言っても通るほどのごく淡い水割りだった。
「今度まわってくるときにはウィスキーのボトルも一緒に頼むよ」
「はい?」
「冗談なんです、さっきからこの人あんなことばっかり言ってるの」
「いったい民謡はいつになったら始まるんだろうね」
「もうじきだと思いますけど」
「聴くつもりもないくせに」
「専務が、営業部の二次会にぜひ出席なさるようにとのことです」
「僕にですか」
「他に誰がいるのよ」
「ええ、何か御都合が悪ければそうお伝えしますが」
「いえ、別に何も」
「よかった、終わったら飴よ」
「はい?」
「ううん、何でもないの、気にしないで」
 ただの一度も笑顔を見せずに縁なし眼鏡の女が歩き去った。その後姿をじゅうぶんに見送ってから同僚が──バケツ型に大きく開いた襟ぐりの、胸のふくらみとふくらみの隙間に銀の十字架のペンダントの先がいまにも滑りこみそうだ──耳元で言った。
「専務の新しい秘書」
「知ってる」
「カムフラージュだって説があるのは知ってる? 鮎川ペット説と組になってるの。前の秘書なんて地味なおばさんだったのに、春からいきなりあれでしょ、あなたが入社して二カ月もしないうちに、これみよがしに秘書を取っかえるんだもの、噂が立って当然といえば当然よね」
「彼女だってかなり地味に見える」と僕は言った。「あのスカートにカーディガンでもはおれば図書館のレファレンス係に推薦できる」
「でも若いのよ、あたしより二つも」
「パンティストッキングを冷蔵庫で冷やせば伝線しないというのは本当かな」
「何よそれ」
「新聞で読んだんだ」
「地味なわりにきれいな脚をしてるって、思ったのなら正直にそう言いなさいよ。ほら、お待ちかねの民謡が始まるみたいよ」
「終わるまで外でタバコでも喫ってこよう」
「ふたりでトイレにでも隠れる?」
「ふたりでトイレに隠れてどうするんだい」
「わかってるくせに。ねえ、こうしましょう、あたしは貿易と経理の合同二次会にちょっとだけ顔を出して、それからあなたのところへ飛んで戻って来るから、待ってて、絶対にすっぽかしちゃいやよ」
「ところで、きみの名前を教えてくれないかな」
「洗礼名はテレジア」彼女は十字架のペンダントの先っぽをいじってみせた。「堅信名はアンナ、戸籍名はあとで、これをはずしてから教えてあげる」
「みなさま、再びステージに御注目ください」
「いま気づいたけど、きみもきれいな脚をしてるね」
「見ないで。見られただけで濡れちゃいそう」
「ハーフ・ロックをお持ちしました」
「ありがとう」
「テレビの民謡番組でもすでにおなじみ、民謡界の次代をになう若きスター」
「見ないでって言ってるのに、いじわる」
「いまさらそう言われてもね」
「御紹介します、みなさま盛大な拍手でお迎えください」
「お待たせいたしました、濃いめの水割りです」
「ありがとう」
「それでは歌っていただきましょう、一曲目はみなさま御存知」
「ああ、あたし、サバの水煮になっちゃうわ、今夜」
 そして物語りはその夜、八月の終わりにしては奇妙に肌寒い夜、ほの白いポールの先端がぐにゃりと前のめりに垂れた形の街灯の(曲り角ごとに)設置された住宅街を、右へ左へとまるで迷路の出口を求めて試行錯誤するように走り続ける中型タクシーの車中から始まる。
 乗客は僕をふくめて四人いた。
 左のドア側に貿易業務課の男性社員、運転手の真後ろに僕、間にはさまれて経理課の洗礼名テレジア、後部座席にすわっていたのはその三人で、前の助手席にもう一人、所属不明の髪の長い女の頭だけ見えた。
 正直にいうと僕は若干、酔っていた。若干酔っていたので、どういった経緯でその四人が一台のタクシーに乗り合わせたのか、そのときにはぜんぜん気にもしなかったし、いま説明しろと言われてもよく思い出せない。
 たぶん二次会もしくは三次会がひけたあとで、誰かが、一緒に南のほうへ帰る人は? と尋ねたとき、他の三人がタイミングを逃さず手を挙げたんじゃないかと思う。JRの駅を境界線にして市を南北に区切ると、南のはずれ、正式名称『フルールの丘ニュータウン』という土地に僕の家はある。
 ちなみに貿易業務課の男は僕を敵視していた。
 それは薄暗いタクシーの後部座席で、これみよがしに隣のテレジアに誘いをかける声のトーンからも推察できた。いつだったか創価学会に入会している別の女子社員から、昼休みの社員食堂の片隅で聖教新聞の購読を勧められたとき、話のついでに、
「そういえば、貿易の男の人たちが鮎川さんのことをほめてました、お尻の形が自分たちとは違って男らしいって。鮎川さんは何かスポーツをやってるの?」
 と実直な質問を受けたことがあるけれど、そのことからも十分に推測はついていた。
 事実その晩、男は最初から最後まで僕と一言も口をきこうとしなかった。タクシーに乗り込むやいなや隣のテレジアの手を握り、まるで車内にふたりきりでいるかのように、僕にはわからない仕事上のつきあいの話をして、その合間に彼女に誘いをかけた。
 時刻はすでに十二時をまわっていた。彼が運転手に言いつけた目印の幼稚園を通り過ぎたのでタクシーが速度をゆるめた。
「このへんじゃなかった?」と経理課のテレジアが言った。
「行き過ぎた」と男が舌打ちをした。「いまの街灯のところを右だ」
 タクシーがおもむろに停車した。
「ここでいいじゃない、ここで降りて酔いざましにすこし歩いたら? 今夜は涼しいし」
「一緒に歩こう」
「ごめんなさい」
 とテレジアは謝った。それから彼の手を自分の手から引きはがすようにして、言い訳をした。
「今夜はうちにいとこが泊まりに来てるの、帰って夜食をつくってあげないと」
 ほんの一秒ほど車内が静まりかえった。前で運転手が身じろぎをした。見るからに居心地が悪そうだった。
「夜食って?」往生際の悪い男が尋ねた。「そのいとこは受験生なの?」
「そうよ」
「ふうん。でもいまは夏休みだろ」
「夏休みだから泊まりに来てるんじゃない」
「どんないとこ?」
「いとこはいとこよ、何を言ってるの」彼女は堂々と、正統的な言い訳をつらぬいた。
「運転手さん、ドアを開けてあげて」
 タクシーの後部座席の左側のドアが開いた。貿易業務課の男はすなおに降りかけて、とつぜん僕に対する敵意をよみがえらせたようだった。
「おい、気をつけろよ」男は車内に顔をさしいれて運転席に怒鳴った。「油断してると真後ろからオカマほられるぞ、車だけじゃなくて夜道はいろいろと物騒だからな」
 男が顔を引っこめるとじきにドアが閉まった。テレジアと僕はすわる位置を少しずつ左へ移動した。ルームミラーでちらりと真後ろの席を気にしてから運転手は再びタクシーを走らせた。
「あんな男、気にしないで」テレジアが運転手へとも僕へともつかず呟いた。そして僕の手を握った。「脳みそにカビがはえてるのよ」
「次はどこへ」と運転手が聞いた。
「まっすぐにお願いします」助手席の女が初めて口をきいた。「次の信号を左へ」
「どっち?」テレジアが僕にもたれかかって囁いた。「あたしのマンションに来る? それとも」
「いとこに紹介してくれるのかい」
「いじわる、もうはんぶん蕩けてるのよ」
「うちは遠いからな」
「じゃああたしの部屋に来て」テレジアの爪が僕のてのひらを引っ搔いた。「建ったばかりのマンションで隣はまだ空き部屋なの、いまならうんと声をあげられるわ、……ああ、ほんとにもう蕩けるチーズみたいに蕩けてきてる、この手で触れてみて」
「その比喩はきみのアドリブだね?」
「そんなこと、いいから……」
「この信号を左?」と運転手が聞き返した。
「ええ、その先でもういちど左折してください、コンビニの向かいに新しい大きなマンションが」
「あら」テレジアがいきなり身体を起こした。「三ッ森さん、先にあなたを送るつもりだったのに」
「いいんです、先に送っていただくと遠回りになりますから」
「でも、それじゃ気の毒だわ、このタクシーの料金はどうすればいいのかしら、確かいちばん遠いのは鮎川さんよね?」
「御心配なく」三ッ森さんと呼ばれた女が答えた。「タクシー券をあずかってますから、これを鮎川さんに」
 三ッ森さんの手からテレジアの手に、テレジアの手から僕の上着のポケットに、タクシー券がリレーされた。テレジアが座席に身体を沈みこませて僕の耳に息を吹きかけた。
「ねえ、この融通のきかない女を送り届けたら戻ってきて」
「簡単にそう言われてもね、部屋が何階にあるのかも知らない」
「表札が出てるわ、下の郵便受けに」
「洗礼名で?」
 タクシーが再び停車した。
 テレジアがあわててバッグの中を探り、親指でボールペンの頭を押して手帳にメモを書きつけると、ページを一枚破り取ってふたつ折りにして僕の上着のポケットに押しこんだ。
「かならず来てね、あたし今夜あなたにすっぽかされたりしたら、あの脳みそにカビのはえた男だって呼びつけちゃうかもよ」
 テレジアが僕の耳たぶを一咬みして離れた。運転手が間合いをはかってドアを開け閉めした。僕たちは窓越しにてのひらを向けあって短い別れの挨拶をかわした。
 そしてタクシーが三たび走りだした。
 曲り角ごとに、先端がぐにゃりとお辞儀をした街灯の立ちならぶ寝静まった住宅街を、右へ左へまた右へと、まるで迷路にチャレンジするかのように運転手は何度もハンドルを切り続けた。
 後部座席の左のドア側に僕は位置を移していた。窓に鼻先をくっつけて様子をうかがっても、目に止まるのは同じ形の街灯ばかりでいったいどこをどう走っているのか見当もつかなかった。『フルールの丘ニュータウン』の登り口まで一本道のはずの大通りを、かなり逸れて遠回りしていることだけは事実のようだった。
 やがてタクシーはなだらかな坂道を上りはじめた。このなだらかに右へカーブしている坂道をどこまでもどこまでも延々と上りつめれば、ひとつ山を越えて夜明け頃にはわが家が見えてくるかもしれない、と僕は気長なことを思った。そう思いたくなるくらいなだらかな坂道だった。タクシーはその坂道の途中で最終的に停車した。
 左手に勾配のゆるやかな幅の広い石段が見えた。さらに窓越しに首を捩って眺めると、石段の上のほうに白っぽい建物の側面を視界に入れることができた。ちょっと先に空地があるのでそこでUターンできる、と助手席の女が説明した。
 僕は彼女が「さよなら」または「おやすみなさい」と挨拶してタクシーを降りるのを待った。そのあとで、もう一回(もし道を憶えていれば)とにかくさっきの女の新築マンションまで戻ってくれ、と運転手に言ってみるつもりだった。あるいは、ひょっとしたら運転手は僕が何も言わなくても、事情を察してまた迷路のような道をたどり直してくれるかもしれない、とも期待をかけていた。
「鮎川さん」
 と助手席から女の声が言った。僕は窓際に寄りかかった姿勢のまま、腕組をほどいて、右手のてのひらを相手に向ける挨拶の準備をした。彼女の声が続けた。
「よかったらこれから一緒にコーヒーを飲みませんか」
 しばし空白があって、僕は身体をまっすぐに起こした。車のエンジンのアイドリングの音を意識できたほどだったので、その空白はしばしではなくしばらくだったのかもしれない。
「もしよかったら、あたしの部屋に寄ってコーヒーを飲んでゆきませんか」
「どうして?」と間のぬけた返事をしたあとで、ルームミラーでこちらを見つめている運転手の目に気づいた。
「すこしお話がしたいんです」
「それは……」と僕は口ごもった。
「ほんの三十分でもいいんです」
「それは、そんなことは、ぜんぜんかまわないけど、でも、やっぱり今夜はまずい」
 これを聞いて運転手は運転席側の窓へ顔をそむけた。僕はポケットのタバコをさぐりながらなんとか口実を考えた。
「初めて会った人の部屋にいきなり上がりこむのもね、どうかと思うし、それに実は、母が風邪を、……夏風邪をひいて寝込んでるものだから、早く帰って夜食を作ってやらないと、明日の晩じゃだめかな?」
「でもチャンスは今夜しかないんです」
「チャンス、何の?」
「よく知り合うチャンスです。きっと明日の晩じゃ手遅れだわ」
 この奇妙な言葉にどう答えるべきか僕が迷っている間に、彼女は一か八かの賭けに出る決心を固めたようだった。助手席側のドアが控えめな音とともに開き、しかるのちに控えめな音とともに閉じた。
 彼女は(あきらかに意識的に)振り返らずに石段を上りはじめた。タクシーの窓から見守っていると、途中でふいに上るのをやめて、幅の広い石段の中央にたたずみ、手提げ鞄を足元に置いた。それからこちらに背中を向けたまま、両手を使って長い髪をまとめるとうなじのあたりに重ねた。その後姿は追ってくる男の気配に耳をすましているようにも、早くタクシーを降りて追ってこいと念じているようにも見える。ふくらはぎのほっそりとした、脚のきれいな女だった。
「次は?」と事務的な口調で運転手が行先を確認した。
「どうしよう」
「えっ?」
「運転手さんならどうする?」
「おれ?」運転手はルームミラーの中で僕の視線を捕らえた。「別にどうだっていいけど、おれなら、そのタバコはコーヒーを飲みながら喫うかな」
 僕は片手に持っていた一本のタバコを箱に戻し、上着のポケットにしまって、代わりに折りたたんだ紙切れとタクシー券を取り出した。ふたつ折りのメモを開くと横書きにTheresaというアルファベットと電話番号が走り書きしてあった。もう三十分だけ、あのテレジアは半分とろけたチーズの処置のために他の男を呼びつけるのを我慢できるだろうか。
「ここで降ります」
「お疲れ」と運転手が言って後部座席のドアが開いた。
 石段の途中にたたずんでいた彼女は足音に気づいて振り返り、そう、それでいいのと言いたそうに一度うなずいてみせた。僕がひとつ下の段に立つと、彼女のうなじのあたりでパチッと小気味いい音が響いて髪が結い上がった。次に足元に置いた鞄を拾いあげて中から眼鏡をつまみ出した。その縁なし眼鏡を彼女がかけおわると、ようやく『あかつき缶詰株式会社』(略称・ABC)の専務秘書の顔が完成した。
「決して、あたしたちは初めて会ったわけじゃないわ」
 と彼女が口元をほころばせて念を押した。
 専務の秘書の笑った顔を間近に見るのは初めてだった。
「三ッ森さん?」と僕は言った。
「はい」
「下の名前は?」
(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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