<原作:岩井俊二×脚本:大根仁×総監督:新房昭之>
超強力タッグが打ち上げた、今夏最大の話題作『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』が本日8月18日より全国劇場公開となります。
映画公開を記念して、原作小説の試し読みを「カドブン」にて公開いたします。
2017年10月17日(火)までの期間限定で、冒頭から20ページまでお読み頂けます。「繰り返す一日の果てに起こる、恋の奇跡の物語」をこの機会に是非お楽しみください。


 子どもの時は、水中で目が開けられた。
 水中メガネやゴーグルなんてなくても、何もかもがハッキリと見えたんだ。
 大小さまざまな水泡が、目の前を浮き沈みしながら小さく弾ける。
 それはまるで、音の無い花火みたいだった。
 このまま息が続けば、水の中を通ってどこか別の世界に行けるんじゃないかと思った。
 でも、苦しくなってプールから顔を出すと、真っ青な空と白い雲が。
 無音の世界から、学校のチャイムの音や、蟬がやかましく鳴く現実の世界へ。
 世界は一つしかない。
 当たり前のことだ。
 でも、あの夏。
 オレは確かに、もう一つの……いや、一つじゃない。
 アイツと一緒に、いくつもの〝もしもの世界〟を体験したんだ。
 風力発電のプロペラ、灯台の光、海沿いの線路、壁の塗装があちこち剝げ落ちたプール。
 錆びついた音をたてながら開く鉄扉、Y字路に立つ樹齢不明のブナの木、教室のガヤつき……。
 頭に浮かぶすべての景色に佇んでいるのは、アイツの姿だ。
 制服で海を見つめる後ろ姿、教室で振り返った時の顔、プールを泳ぐ見事なクロールのフォーム、夕陽を背に浴衣姿でオレを見つめる目……。
 そして、アイツの泣き叫ぶ声。
「典道君!!」
 あの時、確かに体験した〝いくつもの世界〟の中で、ゆがんだ景色が見える。ひずんだ音や声が聞こえる。
 アイツの名前は、なずな。
 もし……あの時……もし……あの時オレが……もし……あの時、なずなが……もしも……あの時に戻れたら……。





もしものない世界

 古い家のトイレってのは、なんだって朝からこんなに蒸し蒸ししているんだ?
 狭い階段の下に作られた我が家のトイレは、入るたびに壁に挟まっているような気分になる。一応、小さい窓はついてるけどあんまり換気の意味を果たしてはいない。
 そのせいで夏なのに、オレはまるで中華まんになったような気持ちで便座に座っていた。
 目の前に貼ってある、観光協会が作ったカレンダーの写真は、海水浴で賑わう茂下海岸の景色だ。だけど、こんなに人で溢れた茂下海岸は、少なくともオレが生まれてからは見たことがない。昭和とまでは言わないが、おそらく20世紀の時代に撮られたものなのだろう。
 小さく写る真っ赤なハイレグの水着を指で撫でながらオレはあくびをする。かつての美女たちの写真に思いを巡らせていると、ドアが激しく叩かれて
「典道!! 早く出なさい!! 登校日だからって気ぃ抜いてんじゃないわよ!!」
 と母親のヒステリックな叫び声が響き渡った。ただでさえ暑いトイレの温度がさらに3度ほど上がったような気持ちになる。
 ったく、母親っていう人種はなんで朝からこんなに大きな声が出せるんだ?
 オレは辟易しながら答える。
「うっせーな! まだ出ないんだよっ!!」
 答えを聞かずに母親はトイレの前から立ち去ったらしく、
「朝ごはん、ゆうべのカレーだからね!」
 という声が遠くから聞こえた。
 オレはお腹を抱えながら、小さく「……やめろよ……」と呟いた。
 居間にあるテレビから流れてくる全国の花火大会のレポート映像を見ながら、生卵を白身と黄身に慎重に分けて、黄身だけをカレーの上にのせた。
「ったく、白身も食べなさいよ! 栄養あるんだから!」
 チラシの束でオレの頭を引っ叩きながら、母親はガーガーと掃除機をかけている。
「飯食ってる時に掃除機かけんなよ……」
 大きな声で言えばその倍ぐらいの大きさで文句が返ってくるから、オレはブツブツと不満をこぼすしかない。せめてもの抵抗で母親の言葉を無視して、黄身をグチャグチャにして、カレーとよくかき混ぜる。
 黄身だけの卵があれば絶対に売れると思うんだけどな……。
 小学校低学年の頃から使っている、小さな傷だらけのスプーンでカレーをすくって食べる。
 ん~、美味い! 昨夜のカレーってのは、なんでこんなに美味いんだろう。一晩寝かせた鍋の中で、そして卵の黄身をカレーに混ぜることによって、ものすごい化学反応が起きているに違いない。
「今日も全国で花火大会が行われる予定です! さて気になるお天気ですが……」
 テレビから流れる映像は花火大会から切り替わっていて、お天気おねえさんが登場していた。画面に映った日本地図には、冗談みたいにお日様マークだけがニコニコしている。
 ふと、トイレのカレンダーの今日──8月1日の日付に「花火大会」と書かれていたことを思い出した。さすがに中学1年生にもなって、花火大会にテンションが上がることはないが、それでもちょっと特別な日のような気がする。
 ていうか、天気予報が流れはじめてるって、そろそろ時間やばくね?
 オレは慌てて残りのカレーを搔き込んだ。食べ終わったカレーの皿を食卓に残したまま、店の上がり口でスニーカーの紐を結ぶ。
「ったく、かったりいな……なんで登校日なんかあんだよ……」
 奥歯に挟まった鶏肉を舌先で突きながら呟いていると、
「お前はまだいいよ」
 店で釣竿の手入れをしていた父さんの声が返ってきた。ランニングシャツに短パンとサンダルという、およそ接客する姿とは思えないスタイリングだ。
 オレの家、島田釣具店は代々続く……って、お爺ちゃんが漁師を引退して気まぐれで始めた、創業20ン年の由緒正しくもなく、ついでに雑貨や乾物やペットの餌なんかも扱っているポリシーのない釣具屋だ。父さんはお爺ちゃんの跡を継いだけど、オレは特にこの家を継ぐつもりはない。
「あ? なんで?」
「だってお前……」
 言いかけた父さんの声をかき消すように、居間の奥から母さんの声が響いた。
「典道! 食べたら片しなさい! 母さんたち午後からいないから夕飯は冷蔵庫のものテキトーに食べて!」
 そんなに叫ばなくても聞こえてるっつーの!
 心の中でそう返しながら、声だけは従順な息子として「わかったー!」と返す。そして、釣竿の手入れを続けている父さんに尋ねた。
「なに? どっか行くの?」
「ガラクタ集めてフリーマーケットやるんだってよ、茂下神社で」
「お祭りで? 誰が来んだよ?」
「店閉めてまでやることかって……」
 言いかけた父さんが、素早い動きで竿の手入れに戻る。不思議に思って視線をあげると、いつの間にか母さんがオレの背後に立っていた。
 その顔は恐ろしいほどの無表情だ。
「……なんか言った?」
「行ってきまーす!!」
 トラブルの予感を察知したオレは、ダッシュで店を飛び出していく。
「何よガラクタって! 嫌だったら来なくていいわよ!」
 父さんがブルブルと首を振っている顔を想像しながら、オレは店先のオンボロ自転車に跨って、海へとつながる坂道を駆け下りた。
 すぐに汗ばんでくるんだろうけど、潮風を全身に浴びるこの瞬間だけは最高に心地良く、ほんの少しだけ、この町に生まれて良かったなと思う。
 茂下町は、古い漁港と小さな海岸、その先に太平洋が拡がる人口……確か二八〇〇人くらいの小さな町だ。住人のほとんどは、港から山に向かう斜面に、へばりつくように建っている家々に暮らしている。
「なんかショボい尾道ってカンジですね。寂れてていいカンジだけど」
 以前、東京から来た若い釣り客がそんなことを言っていた。
 尾道なんて知らないし、ずいぶん失礼なこと言うなと思ったけど、寂れていることは否定できない。
 かつては漁師町として、夏は県有数の海水浴場として賑わったこの町も、六年前の震災以降すっかり元気をなくしてしまった。東北に比べれば被害は小さかったし、幸いにして亡くなった人もいなかったけど、それでもほとんど壊滅してしまった漁港は、未だに半分も復興していないし、海水浴場は地元の住民しか来なくなった。
「いやでもすげえノスタルジー感じますよ」
 釣り客はそんなことも言っていた。なんだ? ノスタルジーって。バカにしている雰囲気じゃなかったけど、ここに住みたいとか何度も来たいと思っている感じじゃなかったのは確かだと思う。
 じゃあオレがこの町を気に入っているのかというと、正直わからない。もちろん東京かっこいいなーとかそういう気持ちはあるけど、住みたいかって言われると微妙だ。でも、生まれ育った茂下町にずっといたいのかって聞かれるとそれも悩む。
「典道!!」
 声の方を向くと坂道の途中の路地から、最新のマウンテンバイクに乗った安曇祐介が飛び出して来た。医者の息子の祐介とは幼なじみで、親を除けばおそらく人生でいちばん長い時間を一緒に過ごしてきた相手だ。
「よお!」
「おっす!」
 片手をあげて挨拶を返していると、さらに別の路地からスケボーの純一と、キックボードの稔が加わった。四人で坂道を駆け下りながら、いつものどうでもいい会話が始まる。
「今日はなに賭ける?」
 純一はオレたちのグループの中でもいちばん背が高く、もう声変わりもしている。だけど性格が大人っぽいわけではなくて、グループ内でくだらないことを言い出すのも大体こいつで、ムードメーカーでもありトラブルメーカーだ。いつも何かを賭けたがるのは正直ガキっぽいが、それに即乗っかるのは、小学生の時からのオレたちグループのお約束だ。
「負けたヤツが三浦先生にセクハラ!」
 小学4年以来、成長が止まっていて、まだ〝毛〟すら生えていない稔は、マセ度でいえばグループの得点王だ。純一の子分みたいなところもあり、いつも二人でふざけてる。
「なあ、三浦先生またオッパイ大きくなったと思わねえ?」
「知ってるか? オッパイは誰かに揉んでもらうと、どんどん膨らむらしいぜ」
「マジかよ!?」
「誰に揉まれてんだよ!」
「俺も揉みてえ!!」
 なんの生産性もない、いつもの会話を海風が打ち消し、オレたちは下りきった坂道から海沿いの道を走る。
 振り返ると、山々の稜線に大きな白い風車が立ち並んでいて、プロペラが時計回りにゆっくり回っている。
 一昨年から実験的に始まった風力発電だ。なんでも茂下町の海風は常に安定していて、風力発電にはもってこいの立地らしい。
 子どもの頃から見慣れた景色に、いきなりあんなにデカい風車が建って気持ち悪かったけど、今ではすっかり見慣れてしまった。
「近道ー!」
 祐介のマウンテンバイクが、海沿いの道から小さな石階段をそのまま降りて、ボードウォークを走る。
「ずりぃぞ!」
「てめえ、ざけんな!」
 タイヤのクッション性で劣るオレたちは、自転車やスケボーやキックボードを手で持ちながらボードウォークに降りて、祐介の後を追いかけていく。
 ペダルに足をかけて体重を乗せようとした瞬間、強い海風が吹いた。風に誘われるように海の方を見ると、波打ち際にボンヤリとした人影が浮かんでいる。
 こんな朝から観光客かなと思って、見つめていると少しずつ人影がクリアになっていく。
 白いセーラー服、膝上のスカート、三つ編みの髪。
 クラスメートの及川なずなだ。
 遠目でかつ後ろ姿だが、ハッキリとなずなであることがわかった。
 なずなはまるで海の上を歩いているように、ふわふわとした足取りでテトラポッドを渡っていく。逆光でキラキラと輝く波打ち際の間を進んでいくその姿は、まるで映画やドラマのヒロインのようだった。
 なずなの周りだけ時間がゆっくり動いているみたいで、そこから視線を動かせない。
 こっち向いてくれないかな……。
 心の中でひっそりと願うけど、「典道! 遅刻すんぞ!!」という純一の声に我に返って、ペダルを踏み込んだ。
「わかってるよ!」
 立ち漕ぎをしながらもう一度見ると、なずなは波打ち際にしゃがんで何かを拾い上げていた。太陽に向かって右手に持っているものをかざしている。さすがに距離があるから、それがなんなのかはわからなかった。
 遠ざかるなずなが手にしたものが、波の煌めきとは違う種類の光を放っているように見えたが……気のせいか……。
(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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【試し読み】岩井俊二『少年たちは花火を横から見たかった』収録「短い小説のための長いあとがき」"

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【試し読み】岩井俊二『少年たちは花火を横から見たかった』収録「短い小説のための長いあとがき」

書籍

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』

大根 仁 原作:岩井 俊二

定価 605円(本体560円+税)

発売日:2017年06月17日

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    書籍

    『少年たちは花火を横から見たかった』

    岩井 俊二

    定価 518円(本体480円+税)

    発売日:2017年06月17日

    ネット書店で購入する