「小説 野性時代」で好評を博した連載小説を、 11月の刊行に先駆けて限定公開! ある愛のため、命がけで新選組を脱した男のロード・ノベル――切なくて狂おしい「東山版」新選組小説をひと足先にどうぞ。
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尊王攘夷の嵐吹き荒れる幕末は江戸。亀吉が開いた内緒のはずの花会に、チンピラたちが金を目がけて躍り込み……。
 
 

 1

 どこのどいつにそそのかされたのか、手拭(てぬぐい(でほっかむりをした散切り頭の餓鬼どもが、品川の長屋でひっそり開帳していた花会にドドッと押し寄せて、テラ銭とアガリを合わせてざっと五百両、まるで竜巻みたいにそっくりかっさらっていった。
 御殿山(ごてんやま(の英国公使館が、長州藩士によって燃やされたのがほんのひと月ほどまえのこと。志士と称する放浪無頼の徒に対する幕府の締め付けが厳しい折、その裏をかくようにして開かれた花会である。
 そのため客たちは、いっそう慌てふためいて逃げ惑った。風雲急を告げるこの時節柄、下手にお縄を頂戴しようものなら、どんな災難が降りかかるか知れたものではない。一緒に盆を囲んでいた連中のなかに、尊王攘夷のお尋ね者がいないともかぎらない。
 賭場(とば(荒らしのなかには青洟(あおばな(を垂らしたのもいて、キンキンやかましい声でわめきながら匕首(あいくち(をふりまわした。
そいつが火鉢を蹴り倒し、盆を囲んでいた客たちを刃物で脅しあげている隙に、年嵩(としかさ(の餓鬼どもが雪崩(なだ(れこむ。
 おゥおゥおゥ、顔を隠したってバレてら! 着流しの用心棒たちが諸肌(もろはだ(を脱ぎ、立派な紋々を怒らせて出張(でば(る。隠すんならその散切りを隠しやがれ、このヤドナシどもが!
 蹴飛ばされた行灯(あんどん(の火が障子に燃え移り、火消しと出入りで、長屋はたちまち蜂の巣をつついたような大騒ぎ。
 餓鬼といえど、十五も過ぎれば体躯は大人並み。やたらとはしこいのもいる。しかも、肝が据わっている。刃物を怖がらない。突き出される匕首をひょいひょいとかわし、山猿のように奥の間へ躍りこむ。
 夜四つをとうにまわっているとあって、奥の間では胴元が、賭け疲れて一服している上客たちに酒などをふるまっていた。イタチの亀吉(かめきち(、年の頃は二十をいくつも出ていない。どこからどう見ても胴元というよりは三下(さんした(の使い走りだが、そこにはそれなりの事情がある。その証しに、餓鬼どもは酒肴(しゅこう(の盆を蹴散らし、ほかの者は容赦なく痛めつけても、この亀吉にだけは指一本触れぬ。
 ともあれ、短筒(たんづつ(を持ったのまで出てきた日には、さすがの用心棒たちも腰が逃げる。命のいらねェ奴はかかってこい! 黒光りする短筒をふりまわしながら、餓鬼が(おら(ぶ。さあ、どうした!
 いくら命知らずのやくざ者でも、短銃をまえにすれば、最前まで丁だ半だと(つばき(を飛ばしていただけに、誰もが二の足を踏む。しかも、賊は十人からいる。ざっと勘定しただけでも、用心棒の数に引けを取らない。
 歯ぎしりするやくざ者たちを後目(しりめ(に、餓鬼どもはまるでしめし合わせたかのように千両箱の仕舞われた長持を抱え上げ、(ふすま(を蹴破り、そのまま長屋奥の勝手口から裏路地へと抜けた。
 イタチの亀吉は賊を止めるどころか、表口に殺到する客たちの波にちゃっかり乗っかって、長屋をあとにする。
 勝手口を守っていた用心棒は、すでに背中に匕首が突き立てられ、暗がりに倒れている。立ちはだかる者のいなくなった餓鬼どもは、長持を抱えなおし、声をそろえて、えっさ、おいさ、えっさ、おいさ、とトンズラの仕儀と相成る。
 短筒を持ったしんがりが、動くんじゃねェ! うわずった声で追っ手を(おど(しつける。ちょっとでも動きやがったらこいつをぶっぱなすぞ!
 これがあながちはったりとも思えない。少なくとも、切った張ったの渡世人稼業なら、餓鬼の目に宿った狂気を見逃すはずがない。
 ようやく用心棒頭、赤面(あかづら(久兵衛(きゅうべえ(が我にかえって捨て身で立ち向かっていくも、案の定、顔面にズドンと一発食らってその場で成仏。
 立ちこめる火薬の煙にむせる者もいたが、殺気立った博徒たちは、それ、今だ! と勇ましく餓鬼に飛びかかっていく。往生しやがれ!
 玉の尽きた鉄砲などただの鉄屑である。
 餓鬼は迫り来る破滅に奇声をあげて反撃したが、袋叩きにされたあげく、匕首で腹をえぐられ、短く哀れな生涯を閉じる。
 用心棒たちは押っ取り刀で賭場荒らしを追ったが、どうにか持ち帰ることができたのは、暗い路地の先で見つけた空っぽの長持だけであった。
 手つかずの惨状。荒れた賭場にころがる三つの死体をじっと見下ろす。
顔を撃ちぬかれた久兵衛は目をひん剥き、恨めしげに天井を見上げている。刺し殺された餓鬼は年端もいかない。どう見ても、まだ十四、五である。
 文久(ぶんきゅう(三年、一月も終わりかけの椿事(ちんじ(である。
寒風吹きすさぶなか、立ちすくむ用心棒たちの背中を冷たい汗が流れ落ちる。なかには我が身の行く末をはかなんで、早くも目を潤ませている者もいる。この内緒の花会が蕎麦屋の曲三(きょくぞう(親分に知れたら、みんな仲良く袖ケ浦(そでがうら(の魚の餌だ。
 誰かが亀吉はどこだと尋ねたが、答える者はいない。

 2

 四日後、高輪大木戸(たかなわおおきど(にある蕎麦屋の二階で、曲三は手下の(しら(せに耳を傾けている。
 一の子分は左のこめかみに刀傷のある男で、まるで見てきたかのように語る襲撃の顛末(てんまつ(は、微に入り細を穿(うが(った。
「裏口を見張ってたのは弥助(やすけ(の奴でした。背中を刺されてくたばってましたよ。他の用心棒も身内です。金で買われたんでしょう。赤面の久兵衛を憶えてやすかい? いつだったか、酔っぱらって堅気(かたぎ(衆に狼藉を働いて親分に折檻(せっかん(された野郎ですよ。撃ち殺されてたのがそいつです」
 それから居ずまいを正し、遠い目をして煙草をくゆらせている曲三親分の言葉を待った。
 いまだ春遠しといった潮風が、閉めきった障子窓をかたかたと鳴らしていく。その風に乗って、東海道を((き交う人たちの喧騒がかすかにとどいてくる。
「ということは」煙管(キセル(をポンッと打って灰を火鉢に落とすと、どてらをもっこり着込んだ曲三が言った。「賭場荒らしは、亀吉が俺に隠れて花会を開くことを知ってたんだな?」
「あの餓鬼どもは亀吉の賭場を襲っても、奴がおおっぴらにはなにもできねェって知ってたんですよ」手下が答えた。「亀吉の野郎は親分の縄張りを荒らしたわけですから。しかし、どうにも腑に落ちねェのは……」
「亀吉にそんなだいそれたことができるとは思えねェ、だろ?」
「野郎のふたつ名は、イタチの最後っ屁からきてんですよ。一度、出入りのときに糞を漏らしやがって」
 曲三は腕組みをしてうなった。「どこの餓鬼だ?」
「刺し殺された奴はテッポウの松太郎(まつたろう(ってヤドナシでした」
 ふたつ名のある奴は悪党ばかりだな、と曲三は思った。近頃はヤドナシのゴロツキでさえ鉄砲を持ってやがる。煙管に煙草葉を詰め、火箸で炭をつまんで火をつける。煙を吐き出しながら、おもむろに尋ねた。
溜預(ためあず((幕府が十五歳以下の犯罪人にとった囚禁措置。成長を待って刑を執行した)か?」
深川(ふかがわ(の人別帳に松太郎の名前がありやした」
「人のことは言えねェが、あの辺のヤドナシにゃろくなのがいねェな」
「あんなところで生きてりゃ、いずれ親分みてえに伸るか反るかの勝負に出なきゃ一生浮かばれませんからね」
「俺は運がよかっただけさ。先代の藤吉(とうきち(親分に跡目を譲ってもらっただけだからよ。じゃなきゃ、今ごろどっかで野垂れ死んでるぜ」
「藤吉親分に見こまれたんですよ」
「金儲けの才をな。だから、今でも切った張ったは好かねェ。この稼業をやってりゃ、そうも言ってられねェがな。けどな、これからますます金がものを言う世の中になってくぞ。異人どもを見ろ。あいつらがあんなに威張り散らしてんのは、とどのつまり金をたんまり持ってるからさ」
 曲三は煙草を吸った。ヤドナシどもの気持ちはよく分かる。曲三自身、無宿人長屋で育った。餓鬼の時分は、あの散切り頭がいやでしようがなかった。大岡越前(おおかえちぜん(が定めた断髪令のせいで、男は散切り頭、女は歯を染めてはならぬ、眉も剃らせなかった。そう、ひと目で無宿人だと分かるように。昔はそのへんを歩いてるだけで石を投げつけられたものだ。しかし、まあ、それも一長一短だな。ヤドナシ同士はひと目でお互いが分かって、悪さをするにも話が早かったっけ。それが、今やどうだ。異人どもはみんな散切り頭ときやがる。
「賭けてもいいがな」と、出し抜けに言った。「そのうちヤドナシでもねェのに(まげ(を払って散切りにする奴が出てくるぜ」
 話についていけず、子分が目を泳がせた。
「で、これからどうするつもりだ?」
「餓鬼どもですかい?」子分は話の筋道にあたりをつけ、「近頃派手に遊んでる奴をとっ捕まえさせておりやす」
「可哀想にな……後先考える頭もねェ。見たこともねェ大金が手に入って舞い上がっちまってんだな」曲三はひとつ頷き、「殺すな。(きゅう(を据えるくらいにしとけ」
「いいんですかい?」
「不幸な餓鬼どもさ。誰の盆を襲ったのかも分かっちゃいねェんだ」
「知らねェこととはいえ、蕎麦屋の曲三に弓を引いたんですぜ」
「だがな、亀吉についた奴等は殺せ」
 手下の目が鈍く光った。
「俺のシマであんなことされちゃ、きっちり落とし前だけはつけとかねェとな」
 表がどよめき、曲三は障子窓を開けて街道を見下ろした。
武装した供回りを引き連れた異人たちが、道行く人々を割るようにして南へと歩いていく。建設中だった英国公使館が燃やされたばかりのことで、異人たちもさすがに用心してるのだろう。
 文久二年十二月十二日の深夜、高杉晋作ら長州藩士が焼玉(やきだま(を使って英国公使館に火をかけた。腰の引けた幕府を追い詰め、攘夷断行を画策したのである。しかし、そんな志士たちの思惑を見透かしたのか、はたまた運よく死人が出なかったためか、けっきょく幕府は攘夷どころか、火付け犯捜しもうやむやにしてしまったのだった。
 しかし、まあ、時間の問題だろうな、と曲三は思った。誰かが本気で何かをやろうと(はら(をくくりゃ、遅かれ早かれそれはまことになる。今回はしくじったが、いずれ長州の奴等はやらかすだろうよ。
 そんな曲三の心中を察したのか、手下が尋ねた。「親分は尊王攘夷ってのをどう思いやす?」
「俺か?」驚きを隠しながら、曲三は静かに障子を閉めた。「町人からも年貢を取るなんて言い出さねェかぎり、誰が上に立とうと同じことよ。俺らは俺らの道を行くだけさ」
「じゃあ、異人になめられてもいいってんですかい?」
「侍になめられるより異人になめられるのが我慢ならねェか? 異人は少なくとも俺らを無礼討ちになんかしねェぞ」
「そりゃそうですが……」
「人間なんざ、犬みてえなもんよ」と、因果を含めた。「けっきょく餌をくれる奴、力の強い奴になびく。ご主人様のケツを蹴り上げる奴がいたら、犬どもはそいつに咬みつくしかねェ。ご主人様のケツが何度も蹴り上げられりゃ、さすがに犬でも首をかしげる。あれ? こいつってこんなに弱かったっけ? そこんとこは侍だって変わりゃしねェ。やれ尊王攘夷だのなんだのって大騒ぎしてんのは、いちばん強いと思ってた将軍様がじつは自分たちと同じ犬っころだって気づいちまったからさ」
「なるほどねェ」
「飼い犬でいるかぎり、蹴飛ばされるのは宿命ってもんよ。そりゃ野良だって蹴飛ばされるけどよ、少なくとも俺らは尻を蹴飛ばされたあとに有難き仕合わせ! なんて頭を下げなくていいんだ」曲三は言葉を切り、一服した。「それはそうと、賭場荒らしを手引きした奴だがな」
 手下が居ずまいを正す。
「餓鬼どもを焚きつけた奴が間違いなくいる。そうだろ?」
「奴等、テラ銭の仕舞い場所をちゃんと知ってやした。そもそもあの日に亀吉が花会を開くことなんざ、誰かに教えてもらわなきゃ知るはずがありやせん」
「俺らだって知らなかったわけだしな」
 曲三にじろりと睨まれ、手下は恐縮して頭を下げる。
「俺は情けねェよ。てめえんちの玄関先で誰かが糞を垂れてんのに、てめえはその糞を踏んづけるまで気がつかなかったんだからな」
「面目ありやせん」
「この不始末、どう落とし前をつけるつもりなんだ?」
 手下は膝の上で握りしめた拳を睨みつけ、やにわに懐から匕首を取り出して畳の上におく。
 曲三は、まあ、話が済んでからにするか、と制した。「亀吉は臆病な野郎だ。花会の開帳日も直前になって上客に知らせてきたんだろ?」
「へい」
「てことは、その裏切者は亀吉に近い奴ってことになるな。じゃなきゃ、ヤドナシの餓鬼どもと段取りをつけられねェ」
「亀吉の片棒を担いでた奴等の話じゃ、賭場が襲われた日に姿をくらました野郎がひとりいて、まわりからは蓮八(れんぱち(と呼ばれてたそうですが、それがどうも祐天仙之助(ゆうてんせんのすけ(のとこの若ェもんじゃねェかと」
「甲州の祐天か」曲三は眉間にしわを寄せ、煙管を火鉢に近づけてゆっくりと一服した。「その話、本当なんだろうな?」
「あっしにはなんとも」手下が頭を掻いた。「ですが、もしそいつが祐天の息のかかった奴なら、下手に手出しは――」
「そうかと言って、野放しにもできねェ」
「へえ、曲りなりにも亀吉はうちの身内ですからね。その亀吉を始末するんなら、亀吉を出し抜いた野郎も始末しねェと世間様にかっこがつかねェ。親分に内緒の花会なんて、その野郎が亀吉に入れ知恵したのかもしれやせんし」
 曲三は黙って話を聞いた。
 それに言うまでもねェことですが、と前置きをしてから、左のこめかみに刀傷のある手下は言葉を継いだ。「そいつは餓鬼どもに盆を襲わせて、その上前(うわまえ(をはねようとしたわけですよね。自分の手を汚さずに美味い汁だけを吸おうとしたってことじゃねェですか」
「そうだな」
「あっしはそういう手合いは虫が好かねェ」
 曲三は煙管を吸い、煙を薄く長く吹き流した。「おめえがそう言うなら、この件は夜汐(よしお(にまかせるか」
「あっしもそれがいいと思いやす」手下がずいっと膝を進めた。「あっしらがやったんじゃ、祐天と事を構えることになりかねやせん」
「よし、決まりだ」火鉢に灰を落とすと、曲三は気持ちを切り替えて手下に半眼を据えた。「さてと、あとはおめえだな」
 心得た手下は頷き、匕首を持ち上げ、(さや(を払う。
「座敷を汚すんじゃねェぞ」
「へい」
 手下は板の間に降り、匕首の切先を床に立てた。ごくりと固唾を呑み、左手の小指を刃にかませ、これから血を見る自分を切り離そうとでもするかのように、もしくはもうひとりの自分に体を明け渡そうとするかのように、何度も荒い呼吸を繰り返した。
 曲三は蕎麦屋の二階から、寒々とした東海道をぼんやりと眺め渡した。

 3

 料理屋や見世物小屋が軒を連ねる両国広小路は、もとは明暦の大火の後に設けられた、ただの火除ひよけ地である。
 だが、空っぽの土地を遊ばせておくほど、江戸っ子はのんびりしちゃいない。たちまち葦簀よしず張りの小屋ひらきが立ち、大道芸人が流れつき、茶屋が出来、野天の寄席や飯屋がわんさか湧き、いつしか江戸一番の盛り場にまで大きくなったのだった。
 小雪のちらつく寒い宵であった。
 あわせに綿を入れた着物を着ていてさえ、凍てつくような川風が爪先からじわりと体に流れこむ。
 酔客ひしめく両国橋を渡って蓮八に連れて行かれたのは、当節流行りのももんじ屋(獣肉を食べさせる店のこと)であった。どうやら祐天仙之助は新しもの好きらしい。仲居に案内されて二階へとおされると、すでに男たちが湯気の立つ鍋を囲んで酒を飲んでいた。
 ぴたりと笑声がやみ、亀吉はうろたえた。上座に陣取ったでっぷり太った男が、上気した恵比須顔をほころばせて手招きをしている。蓮八が顔を寄せてきて、ささやいた。あれが祐天親分よ。
 声を発する者はいない。鍋のなかで、牛肉がぐつぐつ煮える音だけがいやに大きく聞こえた。
 亀吉は腰をぐっと落とし、たなごころを上にむけて右腕を突き出した。大きく息を吸い、肚をくくる。居合わせたやくざ者たちの冷たい視線を一身に浴びながら、眼前の祐天仙之助をぐっとめ上げた。
 し、失礼さんでござんすが御免なすって。む、向かいましたる親分さんと今回初めての御目通りでござんす。手前は品川の曲三一家、イ、イタチの亀吉と発し、ご賢察のとおりしがなき者にて――と、しどろもどろの仁義だが、座敷にどっと轟きわたった哄笑こうしょうで亀吉はいっぺんに度を失った。
「亀なのにイタチか!」祐天仙之助が膝をぴしゃりと打った。「そりゃすばしっこいんだかノロいんだか分かんねェ奴だな!」
 やくざたちが笑った。亀吉があたふたと目をめぐらせると、蓮八まで笑っていた。
「堅ェ挨拶はいい」祐天が手招きをした。「まあ、こっちに来て一杯やれ」
 亀吉はぺこぺこと頭を下げ、促されるがままに膝を進めた。祐天が差し出した徳利を、恐縮しながら猪口ちょこで受ける。
「上手くやってくれたな、亀吉」祐天はすでに一杯機嫌であった。「まあ、グッといけ」
 すすめられるがまま、酒に口をつける。
「昔っからここ一番の糞度胸はあるんですよ、亀吉の奴は」蓮八が言った。「曲三のシマで花会を開きゃ、必ず客が集まる。それをヤドナシの餓鬼どもに襲わせる。そうすりゃ亀吉もただの運の悪ィ男、とんだ災難だ。まさか裏で絵を描いてる奴がいるとは思うめェ。たとえバレたところで、あっしらが曲三の懐を痛めたわけじゃねェし」
「てめえの盆が荒らされたんなら、曲三もこんなにのんびりしちゃいられめェ。この御時世だ、俺らだって誰かと事を構えてる暇はねェしな」祐天は徳利を掲げ、「まったくたいした知恵者だぜ、おめえはよ」
「恐れ入りやす」蓮八が、へへ、と笑って酒を受ける。「とにかく尊王だろうが攘夷だろうが、先立つものは銭ですからね。しかも、うちはこの大所帯だ。これで懐をあったかくして江戸を発てるってもんだぜ」
 やくざたちが一様に頷いた。
 昨年末から幕府が浪士の募集をかけているのは、蓮八に聞いて知っていた。名目は将軍様御上洛の警護。浪士募集を幕府に献策したのは松平上総介まつだいらかずさのすけだが、裏で糸を引いているのは庄内出身の清河八郎きよかわはちろうという男であるとの噂であった。京を中心に江戸でも攘夷浪士が暴れてんのは知ってるな、亀吉? 蓮八は言った。今は攘夷なんか考えてねェ奴等も、いつ何時なんどき攘夷にころぶか知れたもんじゃねェ。なかにゃただひと暴れしてェってだけの野郎もいるだろう。まあ、幕府としてはそういう奴等をひとからげに京へ送りこんで、厄介払いしてェんだろうよ。
 祐天一家がこの募集に応じ、しかもほどなく京へ上ると知ったとき、亀吉は矢も楯もたまらず蓮八を訪ねていった。どうにか蓮八を説き伏せて、翻意を促すつもりだった。姉ちゃんのことはどうすんだよ、蓮八? しかし、説き伏せられたのは亀吉のほうだった。そのことで相談なんだがよ、と蓮八は声を落とした。八穂を身請けしてもお釣りがくる絵を描いたんだが、亀吉、一か八か命を懸けてみる気はあるかい?
「あのォ……」亀吉は猪口を置き、おずおずと口を開く。「それで、あっしのほうのお約束は……」
「心配するな」蓮八が亀吉の肩を掴んだ。「親分は約束は守るお方だ。八穂はきっちり吉原から身請けしてやる」
「よ、よろしくお願い申し上げやす!」亀吉が平伏した。「たったひとりの……たったひとりの姉ちゃんなんです」

 祐天仙之助の座が引けたあと、亀吉と蓮八は浅草は柳橋やなぎばしにある居酒屋へ河岸かしを変えた。
 川べりに軒を連ねる船宿の灯りが、水面でゆらめく。店は立てこんでいて、酔客たちが大声で笑いさざめいていた。その片隅で、亀吉の猪口に酒をしながら蓮八が言った。
「吉原通いはこっから猪牙ちょき船で、というのが風流なんだぜ」
「べつに遊びに行くわけじゃねェよ」亀吉はむっつりと酒杯を干す。「俺は早く姉ちゃんをくるわから出してやりてェだけだ」
「まあ、そう急くな。祐天の親分がもう楼主ろうしゅとは話をつけてくれてる。それに八穂にゃ女衒ぜげんがついてねェんだろ? だったら、なんも心配することはねェよ。あとはおまえが耳をそろえて銭を払うだけさ」
 懐に収めた二百両を、亀吉は着物の上から握りしめた。それから自分の猪口に酒を注し、蓮八のも満たしてやった。
「しかし、長かったな」蓮八は酒をあおり、御新香を口に放りこんでパリパリと小気味のいい音を立てた。「売られたとき、八穂はいくつだった?」
「十三、かな」
「じゃあ、かれこれ十年にもなるのか」
「親父は飲んだくれの博打狂い……べつに珍しい話でもねェや」
「てことは、あのときおまえは十かそこらだったのか」
 亀吉は不味そうに酒を舐めた。
「人買いに連れていかれるとき、八穂は俺に言ったんだ。蓮八、亀吉を頼むわよ、あんたはあの子のお兄さんがわりなんだから面倒を見てやるんだよって。親に捨てられた餓鬼なんざ、村じゃただの爪弾つまはじき者よ。おまえら姉弟だけだったな、俺みてェなもんと遊んでくれたのは」
 ふたりはしばらく、やるせない心を酒で紛らわせた。
「あんたのほうはどうなんだ?」蓮八に酒を注ぎ足しながら、亀吉が訊いた。「本当に京くんだりまで将軍様の警護に出かけるのか?」
「そうらしいな」
「けどよ、こんな時期に将軍様はいったいなにしに?」
「親分の話じゃ、今の天皇様ってのが極端な攘夷論者なんだと。けどよ、幕府はもう開国しちまった。異国のやつらとの取り決めもある。下手に攘夷なんかやったら即いくさよ。だから大樹たいじゅ公は攘夷なんかやっちゃいけねェって天皇様を説得しに行くんだとよ」
「なんかおかしいとは思わねェのか?」亀吉は意気込んだ。「たしかに京の都は今、尊王攘夷の連中が騒いでる。なにが起こったっておかしくねェ。けど、家来衆を大勢引き連れて上洛するのに、なんでわざわざ江戸で浪士風情を募ってまで、将軍様をお守りしなきゃならねェんだ? なんか裏があるぜ、きっと」
「さあな。けど、あっちで浪士を募ったら、将軍様に一太刀浴びせてやろうって奴が紛れこむかもしれねェだろ?」
勤王きんのう派の物騒な連中か? だったら、こっちで浪士を集めても同じことだろ」
「むずかしいことは分からねェよ」カラリとそう言い放って、蓮八は酒をすすった。「親分が決めたことにゃつべこべ言わねェ、それがさかずきをもらうってこったろ」
「けどよ……」
「御家大事が分かるようなおつむがありゃ、そもそもやくざなんかやってねェよ」
「まあ、それもそうだな」
 短い沈黙のあとで、蓮八が話を変えた。「八穂を身請けしたあとは、故郷くにへ帰るのかい?」
「まあ、そうだな」亀吉は言葉を濁した。「俺はさ、のんびり百姓をやってんのが性に合ってるよ。尻のでかい女房でももらって、餓鬼でもこさえてさ。良い縁がありゃ姉ちゃんを嫁がせてやりてェし……うん、そうなんだ、俺たちは故郷へ帰るよ」
「おまえが命を懸けてぶんってきた銭だ」亀吉の懐を蓮八が顎で指す。「八穂を身請けしてもまだ細々とやってくぶんは残るだろ」
 亀吉が頷く。
「こちとらその日食ってくのが精一杯よ」蓮八が笑った。「尊王だの攘夷だのと浮かれてもいられねェや」
 口を開くまえに、亀吉は酒杯をじっと見つめた。「ひとつ訊いてもいいかい?」
 蓮八の片眉がぴくりと跳ね上がった。
「姉ちゃんのことをどう思ってんのかなと思ってさ」
 蓮八の顔つきから、亀吉は相手の触れてほしくないところに触れてしまったと分かった。
「悪ィ、へんなことを訊いちまって」慌てて取り繕った。「でも、あんたなら……あんたなら姉ちゃんと――」
「村にいたとき」蓮八はかぶせた。「俺は墓掘人だった」
「あんたは桶屋だったよ」亀吉がむきになる。「墓掘りもやってたのは知ってるけど、あんたの家は桶屋だったじゃねェか」
「俺は墓掘人で、十かそこらの餓鬼だった。そんな俺ごときがどうあがいたって、八穂は救えなかった」
「それはあんたのせいじゃねェ」
 蓮八は口を開きかけたが、けっきょく舌先まで出かかった言葉を酒とともに呑み下しただけだった。
「聞いてくれ、蓮八」亀吉が思い詰めたように切り出す。「じつは……じつは俺と姉ちゃんは故郷には――」
「よせ、亀吉」さえぎる。「おまえと八穂は故郷に帰って百姓をやる。それ以外に俺はなにも知りたくねェ」
「なんで……なんで姉ちゃんを抱きに行かなかった? 金がなかったなんて言うなよ。姉ちゃんが汚れちまったと思ったのか?」
「そんなんじゃねェ」
「じゃあ、なんでだよ?」
「もうやめろ、亀吉」
「姉ちゃん、あんたのことをずっと待ってたんだぜ。俺には分かるんだ。姉ちゃんは――」
「やめろってんだ」
 蓮八の怒気に、亀吉は言葉を呑んだ。
 そばにいた仲居が足を止めて、ふたりのやりとりに目を丸くしている。蓮八がじろりと睨みつけると、あたふたと店の奥へ逃げていった。
「俺は八穂を救えなかった」蓮八は一転、穏やかに酒杯を掲げた。「あいつを救ったのは、亀吉、おめえなんだよ。それを忘れんじゃねェ」
 亀吉は蓮八を見つめ、溜息をつき、それからカチリと猪口を合わせた。

書籍

「小説 野性時代」 第169号 2017年12月号

小説 野性時代編集部

定価 860円(本体796円+税)

発売日:2017年11月13日

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